2024年2月26日月曜日

20240225 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.171-174より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.171-174より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

日本のテロリズムを追求する場合、神風連とならんで、どうしても見のがすことができないのが、二・二六の思想である。

われわれは、そこに、日本テロリズムのメタフィジクともいうべきものを明瞭に見ることができる。そして、とくに、あらゆるメタフィジクにともなう究極的な二律背反、逆説の凄まじい肉体化をそこに見ることができるであろう。

二・二六の青年将校の思想ないし信仰は、とくに磯部浅一、栗原安秀、村中孝次らの獄中遺書に鬼気をはらんだ姿で示されている。

例えば磯部の遺書はあたかも大魔王ルチフェルのごとき呪詛と反逆のパトスにあふれ、村中のそれは冷徹な異端神学者の弁証によってつらぬかれている。そして、彼らの灼熱した頭脳から奔流する思想は、いずれもある絶対的な二律背反に激突して黒い焔の中に挫折している。

 彼らの厖大な遺書が多少とも北一輝の「日本改造法案大綱」によって打ち出された国家批判の方法につらぬかれていることはいうまでもないが、全体として、その観点にもとづく熱烈な護教論的調子のものである。

それは行動の弁明や弁解を全く意図しておらず、むしろ激しい攻撃的批判の趣きをそなえている。たとえば「世紀の遺書」などと全く異質のものであり、日本人の遺書としてはほとんど稀有のものとさえいえよう。かれらの己の刑死を陰謀による虐殺として、絶対に容認していないのであり、何らの意味でも容認しようとはしていない。かれらの遺書にあふれる阿修羅のような気魄は主としてそれにもとづいている。

 問題は彼らのテロリズムの正当性の根拠である。その点について、磯部は書いているー

「死刑判決主文中の〈絶対に我が国体に容れざる〉云々は、如何に考えてみても承服出来ぬ、天皇大権は干犯せる国賊を討つことがなぜ国体に容れぬのだ、剣を以てしたのが国体に容れずと言うのか、兵力を以てしたのが然りと言うのか

 天皇の玉体に危害を加えんとした者に対しては忠誠なる日本人は直ちに剣をもって立つ、この場合剣をもって賊を斬ることは赤子の道である、天皇大権は玉体と不二一体のものである。(略)忠誠心の徹底せる戦士は簡短に剣をもって斬奸するのだ。〈略〉天皇を侵す賊を斬ることが国体であるのだ。国体を徹底すると国体を侵すものを斬らねばおれなくなる、而してこれを斬ることが国体であるのだ、云々」(傍点引用者)

遺書全体をとおして、国体擁護の求道的行動が、なぜテロリズムを正当化するかという点については、ほとんど論証されていない。

わずかに磯部がここに記したていどの暗示しか見られないのであり、むしろ「斬奸」は自明のものとして考えられていたようである。同じ磯部の手記の中に、同志の河野寿が語った思い出が記されているが、それは少年の頃、天皇の行幸を迎えた時、もし天皇に危害を加えようとする人間が飛び出したら、お前たちはどうするか、という河野の父の問いに対して河野もその兄も答えなかったところ、その時は飛びついていって殺せ、という教訓が与えられたという話である。

なぜその場合個人的テロリズムが許されるかについて、河野は「私は理窟は知りません。しいて私の理窟を言えば、父が子供の時教えて呉れた、賊にとびついて殺せと言う、たった一つがあるだけです」と語ったといわれている。磯部はこの話を録したのち「其の信念のとう徹せる其の心境の澄み切ったる余は強く肺肝をさされた様に感じた」と述べている。

 磯部自身のテロリズムの考え方もそれと同じ起源をもっている。しかし、前掲の文章の中に含まれる一種の逆説は、何人にも明らかであろう。

つまり、彼は一面では自然人としての天皇(=玉体〉の擁護を理由とするテロリズムの積極的容認と、理念としての「国体」擁護の現実的多様性との間にある亀裂を感じとらねばならなかったはずであり、それ故にこそ、天皇大権=国体という客観的理念と「斬ることが国体」という強烈な主観性との矛盾をそこにあらわすことになっている。

いわば、自然人としての天皇擁護が、かえって恣意的な国体にもとづく一切の行動(テロリズム)の容認として理念化されるという矛盾がそこにある。

 ここに孕まれた悲劇的矛盾は、二・二六の行動に対する権力的処置の明確化の後に、もっとも激烈・凄惨な姿であらわれている。

つまり、ほとんど宗教的情熱にもとづく求道として追求されたまさにそのもの(天皇)の名によって、かれらの行動全体の絶対的拒否が表明せられたとき、そこにいかなるドラマが生じうるかということである。そこにはほとんど神学的な問題が含まれる。たとえば、一生を賭して善行を追求した人間が、ある絶対者によって徹底的に拒絶されるというカルヴァン的な問題にそれは似ている。磯部の獄中の手記が、ほとんど「ヨブ記」を思わせるような凄まじい呪いを奔騰させており、悪鬼羅刹の面影をあらわしているのは理由なしとしない。それは日本の国体論者が、その限界状況において、かえって致命的な国体否定論者に転化する劇的な瞬間を記録している。