2021年5月20日木曜日

20210519 株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

株式会社平凡社刊 平凡社ライブラリー 白川静+梅原猛著「呪の思想」pp.131‐134より抜粋

ISBN-10 : 4582767338
ISBN-13 : 978-4582767339


梅原(猛)それから先生、孔子と孟子とは人間も思想も大分違うんでしょうか。

白川(静)うん、大分違う。これは時代環境が違うんですね。僕はやはり「思想」というものはね、社会的なものであって、それぞれの社会の中で理想を求めていく訳ですね。だから同じ「国家」というものを考えても、ギリシャの都市国家で考える「国家」と、中国のような広大な地域で、多民族でしかも分割されずに一緒くたに、ごった煮ですわな、そういう状態になっている、その中で「国家」を考えると、一品料理で考えるのと、料理の仕方が違うんですな。だから孔子なんかの場合、そういう歴史的伝統の中で考えている。しかし戦国期の思想家は、「天下」という。彼等は「国家」という言い方をしないんです。複数の国家を含んだ天下なんです。そういう中での秩序を考える訳ですから、全然基盤が違うんです。

梅原 私は孟子が「後車数十乗」を連ねて諸国を廻ったと、先生の本で初めて知りましたが、孔子みたいに失敗したのと大分違いますね。

白川 あれは一種の政治運動なんです。もし適当な待遇をしなければ、別の国へ行ってこっちの国の不利なところをみんなばらすとか何とか言ってね、策動するんです。だから一種の政治集団みたいなものですよ。そして諸国を巡遊するんです。戦国時代ですから。

梅原 あの時代はそういうのが多かった訳ですね。

白川 あの時代はまた国家にしてもね、すぐれた思想家を集めて文化力でやろうとか。例えば斉の国は都を臨淄(りんし)というんですが、鄒衍(すうえん)とか、荀子、韓非子など、当時の思想家は斉の都へ集まったんです。都城の西方に稷門という門があって、斉の学堂があった。その付近に高級な住宅を与えて、学問研究をさせるため良い待遇をした。そこで、この稷門に栄えた学問を「稷下学」という。その時代が、斉の国が文化的に天下を支配する力を持った時代なんです。だから当時の学者というのは、単なる研究者じゃない、学問は同時に政治力であり、文化力であった。そういう形で学者も研究するし、政治家も利用する、そういう時代であった。

孔子と墨子ー職能集団、葬送と技術

白川 ところが孔子の時代は思想はまだ萌芽的な状態でね、教団としての組織を持ったものは孔子がかろうじて作った儒教と、墨子集団と、この二つしかない。両方とも一種の社会階級的な性格を持った集団です。儒家というのは、葬式からお祭までを含めた、宗教的な行事を担当する伝統を持った階層であった。墨子の方は、「墨」というのは入れ墨という意味ですがね、入れ墨を入れた受刑者がね、当時は罪というのは神に対する穢れであるという考え方であって、受刑者は神の徒隷として、神をお祀りする場所に奉仕させた。そこで色んな仕事をさせる訳ですね。だから墨子というのはね、あなたの言う、「ものつくり」として、兵器も造るし、城壁も造る。中国の城は大きな城壁を持っていますから、城を攻撃する雲梯という何段階にもなる梯子が要る。今の起重機みたいに、するすると伸びて城壁を越したり潰したりする機械を造る。

梅原 技術屋ですね。

白川 技術集団です。それが周王朝が滅びると雇ってくれる人がいませんから、独立して諸国を廻る訳です。「我々はこの城を潰すことが出来ますよ」とやる訳やね。だから彼等は初めから結束していなければ、力を発揮出来ない。儒家のようにね、個人の人格形成が基本であるというのとは、全然違う。