2026年4月22日水曜日

20260422 東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」 pp.350‐355より抜粋

東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」
pp.350‐355より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4492444564
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492444566

 中東はなぜ、地政学的な認識において重視され、それに基づく戦略論・外交政策論の対象となってきたのだろうか。ここでは本書の編者が示している「相対的な位置」、「資源・エネルギー」、「歴史とアイデンティティ」の三つの方面から見ていこう。

相対的に重要視されてきた中東

 第一に、中東の置かれた相対的な位置が持つ国際政治上の重要性は特筆される。中東はヨーロッパとアジアとアフリカの結節点に位置し、交通の要衝であることから、グローバルな大国が覇権的な地位を確立・維持するために、中東を掌握することが不可欠となる場面が、歴史上、恒常的に存在してきた。これは必ずしも中東そのものに希少な価値が内在的にあることを意味せず、むしろ相対的な位置関係によって生じた重要性である。大国あるいは帝国が、ヨーロッパとアジア・アフリカを横断する広範な領域に政治的・軍事的に勢力を展開するためには、その中間に位置する中東に安定的にアクセスし、自由に通行することが不可欠であると歴史上多くの場面で認識されてきたことから、中東に政治的な影響力を行使する手段を有し、場合によっては軍事的な手段を用いて支配することの価値が存在してきた。また、グローバルな通商貿易の存立に、中東地域の安定と、そこへの自由・安定的なアクセスの確保が不可欠なことから、世界的な帝国は中東の統制の必要性を感じ、中東に進出した。  ヨーロッパ・アジア・アフリカにまたがる地域という特性そのものは、歴史を通じて変わることのない地理的な要因に多くを由来しており、近代に限らず、古代から、中東(と近代に呼ばれるようになった地域)の戦略的な重要性をもたらしてきた。たとえば、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが記録に残した「ペルシア戦争」は、アケメネス朝ペルシアが拡張しアナトリア半島とバルカン半島南部にかけての、現在のトルコを中心とする地域を制圧したのに対して、アテネが中心になって立ち向かったという構図である。また、共和制ローマの三頭政治の崩壊後の内戦で、カエサルはポンペイウスを追い落とし、紀元前48年、逃亡するポンペイウスを追ってエジプトのアレクサンドリアに上陸した。カエサルはプトレマイオス朝の内紛にクレオパトラ7世の側に立って介入し、翌年の「ナイルの戦い」に勝利し、共にエジプトを掌握した。カエサルはこの年に現在のシリアからトルコ黒海沿岸にかけての地域に遠征を行って勝利し、翌年に現在のチュニジアで政敵に勝利してローマに凱旋した。  
 エジプト・チュニジアやシリア・トルコといった現在の中東・北アフリカに戦略的な足場を築いたことで、カエサルはローマの内紛において優位に立ち、紀元前44年に終身独裁官に就任し、後の帝政ローマの成立への礎を築いた。カエサル暗殺後の第二次三頭政治では、イタリア以西を支配地域としたオクタウィアヌスが、北アフリカを支配地域とするレピドゥス、そしてギリシア、トルコ、シリア北西部、リビア東部を支配地域とするアントニウスと覇を競った。オクタウィアヌスはまずレピドゥスを降伏させて北アフリカを掌握し、アントニウスと対峙した。アントニウスはクレオパトラと結婚し、プトレマイオス朝にローマの東方領土を分割しようとしていた。オクタウィアヌスはアントニウスを紀元前31年にアクティウム(現在のギリシア)の海戦で破り、ローマに凱旋して、ローマ皇帝の前身となる「プリンケプス(第一人者)」に就任した。このように、中東を掌握することが、古代ローマで最高権力者の地位を獲得する際に不可欠の要件であったと見ることができる。
 ローマ帝国が衰退・不安定化し分裂傾向を抱える過程で、中東の重要性は増し、帝国の重心は中東に向けて移動していった。324年に皇帝となったコンスタンティヌス帝はサーサーン朝ペルシアの脅威に備えるために、330年にビュザンティオンを開いて遷都した。これが皇帝の死後はコンスタンティノポリスと呼ばれ、395年のローマ帝国東西分裂以降は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、コンスタンティノープルと呼ばれた。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを征服して首都とし、イスタンブルと呼ぶようになった。ローマ帝国・東ローマ帝国と、それを継承したオスマン帝国が、ボスポラス海峡に跨り、黒海と地中海の結節点を扼するビュザンティオン=コンスタンティノポリス=コンスタンティノープル=イスタンブルを首都とし続けたことは、この地点を掌握することの地政学的な重要性が、継続して認識されてきたことを意味するだろう。地中海世界から西アジアにかけての領域を支配する帝国にとって、中東に直接あるいは間接的なプレゼンスを持つことは政治・外交・安全保障政策上、極めて重要であり、不可欠であった。

 近代における帝国主義の時代に、西洋「列強」がグローバルに勢力を伸長させ、世界各地で植民地獲得競争を行った時、やはり中東は争われる対象となった。これは英仏の東地中海からインドへの展開、ロシアの南下政策、ドイツの遅れた台頭が、衰退・崩壊過程のオスマン帝国の領域で摩擦を繰り広げた「東方問題」として現れた。

 中東の特性は、近代の地政学、特に海洋権力論に依拠した議論においては「チョークポイント」の議論によって論じられた。軍事や国際政治経済における「チョークポイント」の多くが中東に位置する。マハンは1890年の『海上権力史論』において七つのチョークポイントを指摘した。チョークポイントは、それを設定する主体や目的や政治的・軍事的環境条件の変化によって様々に定義されうるが、冷戦後のグローバル・エコノミーにおける資源や食糧の輸送経路の保全という観点からは、代表的なチョークポイントは次のものである。

ボスフォラス海峡*

ドーバー海峡

ジブラルタル海峡*

マラッカ海峡

ホルムズ海峡*

バーブルマンデブ海峡*

パナマ運運河


スエズ運河*

 このうち*を付した五つが広い意味での中東に含まれる(さらにマラッカ海峡は「イスラーム圏」に含まれる)。
 海洋国家としての英国の発展と覇権の維持に不可欠なチョークポイントを多く抱える場所として、近代における中東の地政学的な重要性は定義された。英国から米国に覇権が遷移した際にも、中東の地政学的な重要性への認識は受け継がれ、現在に至る。英国と米国によって推進されたグローバルな通商貿易体制に裨益する日本なども、この中東の地政学的重要性への認識を共有するようになった。  同時に、中東は大陸権力(ランド・パワー)を重視するドイツを発信源とする地政学においても重要である。それは中東の拡大・延伸領域と認識される「イスラーム世界」を重要な対象とする地政学と言える。この大陸型地政学の観点から、トルコやイランと歴史・文化的に連続性が強い中央アジアが、英・露を中心とした西欧列強の間で争われる「グレート・ゲーム」の対象となった。

豊富な資源による重要性
 
 第二に、この相対的な地理的条件において重要な中東に偏在して石油・天然ガスが産出されるという点が、近現代において中東の地政学的な重要性を飛躍的に高めている。現代の国際政治において、中東に関する地政学的な関心の原因となる要素の筆頭が、資源エネルギーであることは言を俟たない。中東に遍在する石油・天然ガスの支配や管理は、それを消費国まで運ぶシーレーンやパイプラインの維持を含めて、中東をめぐる国際政治の焦点となっている。特に第二次世界大戦以後においてこれは顕著である。中東の原油を消費国に運ぶシーレーンの途中に、ホルムズ海峡やスエズ運河、バーブルマンデブ海峡といった「チョークポイント」が点在していることにより、中東の安全保障はグローバルな課題となる。

2026年4月21日火曜日

20260420 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」 pp.312-317より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」
pp.312-317より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4101065012
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4101065014


 我々が移転した時は、三中隊まで炊事場完成、中隊本部の棟上げがすんだだけであった。我々はまず図の中庭に当るところにテントを建てて住み、逐次周囲に我々の住居たるべきニッパ小屋を建造して行った。
「うら枯れしニッパアをもて葺くなればニッパア・・ハウスと申すやうなり」俘虜の中の歌人が歌った。ニッパとは幹を持たない椰子の一種で、その柔軟な葉を二三尺に綴ったものを単位にして屋根を葺く。別に枯れたのを集めたわけではなく、最初は随分緑したたるようでもあるが、やがては枯れて褐色を呈して来る。ニッパ椰子の葉で葺くから、ニッパ・ハウスと呼ぶことには間違いない。
 収容所の我々の住居は、最初は米軍規格のテントであったが、戦争の終焉の見通しのつかないままに、便所を除き半永久的のニッパ・ハウスを俘虜自身に建造させるのが、米軍の方針となったらしい。
 建物は全部所謂切妻形である。これは周知のように左右二面の屋根のみを持つ簡単な造りで、別に米軍の指定によるものではなく、俘虜の中の大工が勝手に設計したものである(因みに比島人のニッパ・ハウスは多く四面の屋根を持っている)。
 まず椰子の幹を一丈ばかりの長さに切った丸柱を、二間おきに二列に建て並べ、「三角」と呼ばれる竹を鈍角の頂点を持った等辺三角形に組んだものを、各々相対した柱に渡す。その頂点を貫いて竹の梁を通し、それから左右にやはり竹の垂木を並べ、同じく竹の母屋で繋げば、この建物の骨格は出来上るのである。あとは屋根と、建物の前後に露出した「三角」をニッパで葺き、廂を出し、各「三角」の底辺を二本の竹の柱で支え、周囲に割竹で腰張をほどこせばよい。通路は「三角」を支えた中柱の間で建物を置く。
 これが中隊本部及び各小隊小屋の基本形であるが、炊事場のみ稍々異る。「三角」を支える中柱を欠き、入口は裏一方のみ、前面は全部腰張にして、食糧を分配する台を設えるのである。
 資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上り、歌いながら竹材を釘でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に各小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は戦ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
 資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。一二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上がり、歌いながら竹材を針金でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は暇取ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
 この間収容所の外でする米軍のための作業、つまり外業は中止されていた。もっとも作業は名目的なもので、どう考えても我々の享受していた衣食住プラス三弗の俸給、さらに一日八仙の作業手当に値するものではなかった。外業では我々は過分に支払われていた。しかし自分達の住居を建造するという労働では、我々は立派に一つの仕事をした。つまり自分のものであるから、毎日みな力の極限まで働いたのである。
 こうして自分達のものを自分で建てるという仕事の性質から、我々旧日本軍人の間に初めてデモクラシーが生れた。つまり各小隊共、多忙の口実で中隊本部、炊事場の建造に使役を出すことを拒み、各自その構成員が働くほかなかった。前述のように一二中隊は棟上げがしてあり、内部の盛土と周囲の腰張りを作ればよかったが、あとの三個中隊は全然手をつけてなかったから、これは特権に馴れた幹部達にとって打撃であった。
 殊に悲惨であったのは、大隊本部であった。旧収容所では日本人代表者イマモロは米軍との折衝を専断して、擬専制的権力を享受していたが、新収容所に移るのを機に、所内が中隊組織に改組され、各中隊に米軍下士官が配属されることになって以来、権力は分割され減少した。今や彼は大隊長となり、象徴になった。
 かつて現在の中隊長、小隊長等の幹部を一棟に集めていた大隊本部は、七人の直属スタッフを持つにすぎなくなった。つまり副長オラと書記中川、通訳の桜井、給仕二名である。これだけの人数で宿舎を建造するのは、事実上不可能であったから、彼等は結局テントの周囲に垣を繞らすに止った。イマモロが怒りながら二人の給仕を指揮して、割竹を地にさしている光景は、彼の権力失墜の最初の表現であった。
 彼の没落の原因であった中隊付けサージァントは我々が各々ニッパ・ハウスを建造し終った頃到着した。彼等は一個中隊に一人ずつ配属され、毎日昼間を中隊本部に詰めて米収容所長の諸指令を伝達し、遵守を監督した。彼等はまた朝夕中隊毎に点呼を取った。これも従来イマモロの重要な補佐的役目の一つで、彼の勢威の有力な源だったものである。
 私が通訳として属した第二中隊のサージァントはウェンドルフというドイツ系米人であった。金髪碧眼、丈は低く、むしろフランス人を思わせた。私は彼が南部ドイツの農民の出であろうと空想した(Wendorf の dorf は村である)。「ドイツ人たる君がドイツと戦うのは変な気がしないか」という私の問いに対して「私達がアメリカへ来たのは随分昔だ」と彼は答えた。
 彼の職業はデトロイトの自動車工場の事務員で、召集されて既に三年だそうであるが、一般にあまり兵隊臭くない米兵の中でも、特に兵隊臭くなかった。高射砲隊員としてギスカ、マーシャルと転戦した後、この閑職について、召集解除を待っているだけだったらしい。
 彼は大隊本部と我々の関係をすぐ理解し、我々と一緒にイマモロを無視するのを面白がっていた。例えば我々が毎朝米軍倉庫から受けて夕刻返す要具(鶴嘴、シャベル、蛮刀等。これ等は凶器であるから収容所内に止めることは許されない)の割当も、従来はイマモロが宰領していたが、これもサージァントの手に移った。毎朝我々は彼にメモを貰って門外の倉庫へ受領に行ったが、これは各中隊勝手に要求したため、すぐ数が足りなくなった。大隊本部は別に直属の米兵を持たないため、却って不利になった。
 大隊本部の前を要具を担いで通る俘虜を、ヒステリーを起したイマモロが強襲して、要具を道路上に散乱させた事件を機に、イマモロの収容所長への懇願が効を奏し、要具だけはイマモロが一括受領して各中隊に分配するよう、収容所長から中隊付サージァントに指令が出た。イマモロはまた威張り出したが、我々も負けていなかった。サージァントにエキストラ要求書を発行して貰ってイマモロを悩ました。イマモロが米軍の倉庫主任を後楯に頑張ると、ウェンドルフが直接米軍の倉庫主任にかけ合いに行って、無理矢理に要求数を取って来た。彼等の間にも、我々とイマモロの間に似た関係があったのかも知れない。
 我々のイマモロに対する鬱憤はかなり晴らされた。彼は永らく抵抗していたが、やがて諦めて我々を「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。棒給生活者上りで元来殷勤なオラは「あなた方」といった。
 中隊別に食糧を分けることだけは依然イマモロの手中にあったが、これは彼が従来のように古い俘虜の多い一二中隊に偏愛する理由がなくなったという事実によって、却って公平に行われた。こうして旧収容所における日本的専制は各中隊にサージァントの配属されたことによって消滅したが、中隊内部では必ずしもそうは行かなかった。中隊長はじめ各小隊長、炊事長などが依然としてボスであった。しかしその権力は旧収容所でイマモロが雲の上の収容所長の威を藉りて振っていた権力ほどには到らなかった。サージァントが常駐して直接指令し監督していたからである。彼等の勢力の源はむしろ、いかにその指令を俘虜の利益のために誤魔化すかを誇示し、俘虜の怠惰に媚びて人気を博することにあった。そして憎まれ役はサージァントの代弁者たる通訳の方に廻って来た。

2026年4月20日月曜日

20260419 我が国の「失われた30年」の基層にあるものについて

 「失われた30年」と呼ばれる、1990年代以降の長期にわたる我が国の低迷は、しばしば経済政策や制度設計の不備に帰されがちではありますが、その深層には、我が国社会全般において、人びとが書籍を読まなくなり、それに基づいて考えなくなったという、知的基盤そのものの変容があると考えます。また、こうした変化は、一見しただけでは看取し難いものではありますが、徐々にあらゆる営為を空疎なものに変え、最終的には形式だけが残る状態、すなわち「形骸化」をもたらすと考えます。本来、あらゆる人的営為は、それだけで成立するものではなく、方法や規則、あるいはそれを支える組織の仕組みがあり、それらに関与する人びとが、その意味や背景にある文脈を理解し、状況に応じて解釈し運用することにより、はじめて成立するものです。換言すれば、我々の営為とは、それに関与する人びとの思考によって支えられているのだと云えます。しかし、その前提となる思考が形骸化し、実質的に失われてしまうと、営為は、もはや内実を伴わず、単なる作業手順や工程へと変質します。このことを踏まえますと、文章や書籍を読むという行為は、単に知識を得るためのものではないと云えます。すなわち我々は、読むことを通じて、他者の経験や思考を追体験し、複数の視座を往還しつつ、抽象と具象とを機に応じて往復する力を獲得するのだと考えます。そして、この過程を経ることにより、我々は、接する事物の背景や構造を推量、理解し、それらを相対的に認識する力を身につけることが出来るのだと云えます。したがって、文章や書籍が読まれなくなるということは、単に社会における情報量が減少することを意味するのではなく、思考の形式そのものが単純化、浅薄化していくことを意味するのだと考えます。このような状況においては、営為の背景や意味、目的を考える力が減衰し、代わりに形式や手順といった、いわば即物的な要素に依拠する傾向が強まります。何故ならば、背景や意味を読み解くことが出来ない場合、人びとは、容易に看取可能な要素に拠るほかなくなるからです。その結果、営為の柔軟な運用は困難となり、現実の複雑さに対応出来なくなります。それにもかかわらず、形式や手順は厳守されるため、外見上は秩序が維持されているように見えます。そして、この外見と内実との乖離こそが、形骸化した社会の特徴であると考えます。その意味において、我が国は、こうした傾向が比較的顕著な社会であると考えます。太平洋戦争の敗戦後、米国を主とする占領軍のもとで様々な制度が導入され、民主化が急速に進み、社会に定着したように見えました。しかし、その多くは背景や意味、目的への十分な理解を伴わないまま受容されたものであり、そのため時間の経過とともに、徐々に忘却され、綻びが生じていきました。その結果、営為の正当性は、形式や手順、あるいは前例や空気に委ねられるようになったのだと考ます。このような状況においては、形式を逸脱することは過度に忌諱される一方で、形式に従ってさえいれば、実質が伴わなくとも問題視されないという逆転現象が生じます。さらに、昨今においては、情報環境の変化がこうした傾向に拍車を掛けているように見受けられます。すなわち、短文的で断片的な情報が主流となる中で、ある程度の長文を読み、論理を積み上げていく経験は希薄になりつつあります。その結果、複雑な問題を過度に単純化されたフレーズや印象によって捉える傾向が強化されて深い理解に基づく判断が困難になります。このような状況では、営為を支える思考の内実はさらに失われ、形式化は不可避の帰結となります。すなわち、どれほど精緻な制度設計を行ったとしても、それを運用する我々に、読むこと、そして考えることの習慣が乏しい限り、あらゆる営為は必ず形骸化していくと云えるのではないでしょうか。制度改革が為されても、状況が大きく改善しない一つの要因は、ここにあると考えます。つまり、問題の本質は外部にあるのではなく、我々を支える内的な知的基盤の側にあるのです。したがって、社会の再生や再活性化を考える際には、制度の改変以前に、人びとが再び読むこと、そして考えることを取り戻すことが不可欠であると考えます。これは即効性のある対応策ではありませんが、唯一、持続的に社会の質を高める方法であると考えます。つまり、読書という営為を通じて獲得される各自の内発的な知性こそが、諸営為に意味と内実を与え、形式を超えて現実に対応する力を社会にもたらすことが出来るのではないでしょうか。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2026年4月17日金曜日

20260416 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.152-154より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.152-154より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 文明は官僚制と神話の結合から誕生する。コンピューターベースのネットワークは新しい種類の官僚制であり、これまで私たちが目にしてきた人間ベースのどんな官僚制よりもはるかに強力で執拗だ。このネットワークはまたコンピューター間神話を創作する可能性が高く、そのような神話は人間が生みだしたどんな神話よりも格段に複雑で、人間には思いもよらない異質のものになるだろう。このネットワークの潜在的な利点は途方もなく大きい。逆に、潜在的な欠点は人間の文明を破壊しかねないことだ。

 一部の人にとって、文明の崩壊についての警告は悲観の極みのように思えるだろう。強力なテクノロジーが新たに現われるたびに、それがこの世の終わりを招くかもしれないという不安が湧き起こったが、私たちは依然としてここにいる。産業革命が進んでも、ラッダイト(機械化反対派)の描き出した破滅の筋書きは現実にはならなかったし、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクが作品に書いた「暗い悪魔の工場」は、けっきょく史上最も裕福な社会を生みだした。今日、ほとんどの人は一八世紀の先祖よりも桁違いに優れた生活条件を享受している。インテリジェント・マシンは、これまでのどんな機会よりもなお有益になるだろうと、マーク・アンドリーセンやレイ・カーツワイルのような熱狂的なAI支持者は請け合う。人間は、以前よりも段違いに優れた医療や教育、その他のサービスを享受し、AIは生態系を崩壊から救い出しさえするというのだ。

 残念ながら、歴史を詳しく見てみると、機械化反対派は完全には間違っておらず、強力な新テクノロジーを恐れるのはしごくもっともであることがわかる。仮に最後にはそうしたテクノロジーの利点が欠点を補って余りあるとしても、幸福な結末に至るまでには、たいてい多くの試練や苦難が待ち構えている。斬新なテクノロジーが歴史的惨事につながることが多いのは、テクノロジーが本質的に悪いからではなく、人間がそのテクノロジーを賢く使う方法を学ぶのに時間がかかるからだ。

 産業革命は、その最たる例だ。一九世紀に世界中に広まり始めた工業技術は、伝統的な経済や社会や政治の構造を根本から覆し、まったく新しい社会を創設する道を拓いた。その社会は、より豊かで平和になる可能性を秘めていた。ところが、良好な工業社会を築く方法を学ぶのは簡単には程遠く、大きな代償を伴う実験が繰りかえされ、その過程で何億もの犠牲者が出た。

 代償の大きい実験の一つが、近代の帝国主義だった。産業革命は一八世紀後半にイギリスで始まった。一九世紀の間に工業の技術と生産方法が、ベルギーからロシアまでの他のヨーロッパ諸国と、アメリカや日本でも採用された。こうした工業の中心地では、帝国主義の思想家や政治家や政党が、工業社会として唯一成りたつのは帝国だと主張した。おおむね自給自足の農業社会とは違い、新しい工業社会は外国の市場と原材料への依存率がはるかに高く、そのような前例のない要求を満たすことができるのは帝国だけであるという理屈だ。帝国主義者たちは、自国が工業化はしたものの植民地を征服するのに失敗したら、より冷酷な競争相手によって、不可欠の原材料の供給網と製品販売のための市場から締め出されるのではないかと恐れた。植民地の獲得は、自国の存続に欠かせないばかりか、自国外の人類全体にとっても有益だと言い切る帝国主義者もいた。新しいテクノロジーの恩恵を、いわゆる未開発国に広めることができるのは帝国だけだと彼らは主張した。

 その結果、すでに帝国だったイギリスやロシアのような工業国が大幅に国土を拡張する一方、アメリカや日本、イタリア、ベルギーといった国々は帝国の建設に乗り出した。工業国の軍隊は、大量生産されたライフル銃と大砲を装備し、蒸気の力で運ばれ、電信によって命令を受け、ニュージーランドから朝鮮半島、ソマリアからトルクメニスタンまで。世界中を席捲した。無数の先住民が、こうした工業国の軍隊によって伝統的な生活様式を目の前で踏みにじられた。工業帝国というのはお粗末な発想であり、工業社会を築いて必要な原材料と市場を確保するにはもっと良い方法があることにほとんどの人が気づくまでには、一世紀以上に及ぶみじめな経験が必要だった。

 スターリン主義もナチズムの、工業社会の建設方法を突き止めるための、はなはだしい代償を伴う実験だった。スターリンやヒトラーのような指導者は、産業革命が解き放った巨大な力を制御して最大限に活用できるのは全体主義だけだと主張した。彼らは、工業世界で生き延びるには政治と社会と経済のあらゆる面で全体主義的支配が求められる証拠として、史上初の「総力戦」である第一次世界大戦を上げた。一方、望ましい面としては、産業革命はそれまでの社会構造をその人間的な不完全さや欠点もろともすべて溶解し、純粋な超人が暮らす完璧な社会を鋳造する機会を与えてくれる炉のようなものだとも、彼らは主張した。

2026年4月15日水曜日

20260415 日経BP社刊 黒川 清著「大学病院革命」 pp.179‐181より抜粋

日経BP社刊 黒川 清著「大学病院革命」
pp.179‐181より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 482224556X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4822245566

 現在の医療不信のベースにあるのは医療と患者の間のコミュニケーション不全にある、と申し上げました。そこから考えると、改革すべき重要な病院の機能があります。それは病院の広報システムです。
 現在、日本の病院の広報システムもあまりにお粗末です。医療事故がおき、テレビで記者会見が報道されますが、病院側は事実を隠蔽しようとするクセが抜けず、切羽詰まると今度は土下座。広報戦略としては、最悪のやり方をどこの病院もとっている、としかいえません。どんな情報をどう開示するのか、どうすれば病院のブランドを落とさず、患者や世間の信頼をかちとれるのか、それを考え、情報発信を実行できる広報専門の担当者が必要です。もちろん、最終的にはこうした広報戦略を束ねるのは病院の経営者である院長や理事長です。
 企業の場合、広報は社長直属になっており、先進的な企業の社長は自ら広報マンであることを自覚しています。それと同じような病院経営者の自覚とシステム作りが病院においても急務です。
 アメリカでは、医療事故があると、すぐに弁護士が飛んできます。夜中であろうが、経営者や関係スタッフが集まり、それぞれがやるべき仕事を分担します。取材を受ける人間を決めます。「対外的にどこまで話すべきか」「どういう観点で話すか」も議論します。同時に、院内委員会を調べ、事故について調査し、報告書をすぐにまとめます。それをもとに外部評価委員を集めて会議を開き、質問を受けます。
 東海大学で医療事故が起きたとき、私はアメリカの大学病院で学んだ広報体制をとってみました。でもこのような方法は日本の病院のあいだになかなか広まっていません。
 人の失敗から学ぶというのはとても大切です。ゆえに医療の安全についての講座や講義を医者や大学医学部の学生たちに対して行う必要があります。医療というのは100%確実ということがありません。だから「事故はある」という前提で、ふだんから備えておくべきなのです。病院でおきた過去のヒヤリハット事例を集めるとか、専門家を読んで話を聞く。無論、普段はもちろんいざというときの患者さんの家族との対応も欠かせません。患者さんの信頼を得るためには、何かあったときではなく、ふだんから情報発信をすることが大切です。
 医療事故は、いつだって起こりえる。ゼロにする努力を怠ってはいけませんが、ゼロになることはありえない、と考えるべきです。そういう教育をしながら、制度的なミスがどこにあるかという話を考え、分析し、改善し、透明性を保つ、広報する。病院側が意識と体制を変え、こうした対応がとれるようになれば、医療と社会の関係も改善し、医療不信を解消する方向に持っていくことは可能なはずです。

20260414 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」 pp.4-6より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」
pp.4-6より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

 政治は国民大衆の鏡であるという。敗戦の廃墟の中から立ち上がり、未曾有の経済復興を遂げ、わずか30年足らずで世界のトップクラスの経済大国になった国民のエネルギーとは、経済万能主義、金権絶対主義のエネルギーであった。当然のこととしてエントロピーを増し、それが社会構造の末端にまで及んだ。そして日本を破局に向けて邁進させるようなメカニズムが生れたのである。問題の政界を取り巻く腐敗も、官僚と財界と自民党のどろどろした癒着も、さらに視点をかえていえば、公害によってすっかり変色した自然も、アラブの資源ナショナリズムによって起こった石油危機も、現在の社会構造とそれによって生じるメカニズムの「ひこばえ」である。一本の糸をたぐっていけば、行き着くところは同じ根である。

 では、一体、このメカニズムとは何か、この解明が本書の主要なテーマであるが、要約して結論をいえば次のようになる。すなわち、高度経済成長にもとづく「最も空想的な人間の夢想すら上回る」社会変動にもかかわらず、日本人の行動様式は、構造的には戦前におけるそれとは変わっていない。つまり、structurally isomorohic である、ということだ。そのためにこれらの間の矛盾から生じる構造的アノミー(アノミーは「無規範」もしくは「無規制」と訳される。詳しくは後出第五章参照)によってこのような致命的なメカニズムが生じると考えられる。

 さらにここで十分に認識しておくべきことは、社会的現実を科学的に分析し、この分析にもとづいてこれを合目的的に制御するという社会科学的な態度と能力とが日本人には決定的に欠如していることである。この「精神」の欠如は、現在にだけ特有のものではない。戦前も戦後も、あるいはいかなる社会変動を経験しても全く変わっていないのである。このような態度を続ける限り、いかなる危機も救い難いものであるといわざるをえない。この点を克服してこそ、政治的、経済的、社会的危機は外部のものではなく内部のものとなり、所与のものとして位置づけられる性質のものではなく、われわれの克服可能な課題となる。この課題を制御対象とみなし、社会科学的に分析し、有効な制御を施すとき、いかなる危機もその超克の下に解決されるであろう。「危機」とは、有機状態のするどい亀裂である。それは極限にまで狂暴性を発揮する恐怖の状態、少なくともそこまでにいたる予兆である。原始時代の人間が天災にうろたえたように、われわれがいま、この「危機」の野放し状態を許すとしたら、われわれ日本人は滅亡するしかあるまい。だが、われわれは、実はこの恐ろしさに少しも気づいていない。あの第二次世界大戦においてわれわれを襲ったそれと同じタイプの大破局が再び襲ってくる可能性がないと、だれが断言できるだろう。世の中が一見太平安泰、物資的多さのムードに満ちているとき、このことに気づくのは容易ではない。精神の弛緩は、満たされたままの現状を所与のごとき感で蔽い続ける。

2026年4月13日月曜日

20260413 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」 pp.54-57より抜粋

 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」 
pp.54-57より抜粋
ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

 いったいどうして茶がヨーロッパのなかでも、とくにイギリス人の間でひどく愛好され、国民的飲料として急速に普及するようになるのであろうか。日本人なら誰でも不思議に思って一度は話題にするテーマであろう。しかしこの問題はそう簡単に答えの出る問題ではない。社会的・経済的・文化的要因が複雑に絡んでいて、短絡的なアプローチではとても解答が見出せそうにない。たとえば茶がポピュラーな飲料になる以前のイギリスでは、人びとはいったい何を飲んでいたのか。それにしてもイギリスに茶が受け入れられた文化的基盤はいったい何であったのか。またほんとうに茶は何の抵抗もなくスムーズに受け入れられたのかどうか。また何らかの文化的摩擦があったとすれば、そうした摩擦や抵抗を排除して、国民的飲料として定着せしめたものは何であるのか。茶には、非アルコール的競合飲料としてコーヒー、チョコレートであったが、どうして茶がイギリスでは他を抑えて優位を占めるにいたるのであろうかなど、少なくともこうした問題を考慮にいれておく必要があるだろう。

 ではまず、茶が入ってくるまえに、イギリス人は日常の飲み物として何を飲んでいたのであろうか。常民生活の記録が乏しいのでよくわからないが、主として水および自家製のエールを飲んでいたのではないかと思われる。イギリスの水は軟水で、大陸の水とちがって飲料に適していた。試みに、いまでも大陸の水でティを飲んでもティの味も香りもない。やはりティはイギリスで飲むのがいちばんおいしい。またエールというのは麦芽とイーストと水だけで醸造したもので、ビールの一種といってよいが、ビールとちがうのはホップを使っていないことである。イギリスへビールが入ってきたのは十五世紀のことで、フランダースから導入された。しかし十七世紀末までは、上流階級でも日常の飲み物といえばビールよりかエールであった。農民のあいだでは自家製のエールが飲まれていたが、農村共同体の祭りや結婚式のときに出るのもエールと決まっていた。ワインはまったくなかったわけではないが、フランスなどからの輸入ものが主であったし、またリンゴからつくるサイダーもあったが、いずれもイギリスでは上流階級や特別の行事のときの飲料で、庶民の日常の飲料ではなかった。もっとも十八世紀になると、ジンや安ものの輸入ワインが庶民のあいだで広く飲まれるようになるが、ともかくイギリスはフランスや他のヨーロッパ諸国と比べると、水は別として、もっとも飲み物の貧弱な国であったといってよい。だからフランス、イタリア、スペインといった地中海のワイン文化圏では、茶はほとんど割り込む余地がなかったのに、伝統的飲料がもっとも貧弱であったイギリスに茶が入りやすかったということができる。

 なお、イギリスに茶が受け入れられた背景として、水が適していたことのほかに、土着の「代用茶」があったことは注意してよい。古くから知られる煎汁plant infusionがそれで、現在でも農村で用いられている。現在これをティとよんでいるが、これは本来のティではない。十六世紀にイギリスから大西洋を越えてアメリカにもたらされた薬用茶もセイジ・ティ(サルビアの葉を煎じたもの)があるが、それが伝統的な煎汁の一例である。その他ハートニーの「イギリスの食べ物」(1951年)があげているイギリス古来の代用茶には、Catnip tea(いぬはっか茶。これは風に効く)、Hyssop tea(ヒソップ茶。ヒソップはッ香りのよい刺激性の植物で、むかしその枝を清めの儀式に用いた。花も葉もティに使用され、熱湯を注いで二十分程浸し、蜂蜜を入れて飲むと、咳によく効くといわれる)、Raspberryleaf tea (木いちごの葉の茶。これを煎じてミルクと砂糖で飲む。またレモンと砂糖で飲んでもよい。妊娠の末期にとくに良いといわれる)、Black-currant tea(黒すぐりの茶。蜂蜜で飲めばのどや咳によい)などがあった。もちろんここに記した飲み方は現在のそれであって、茶が入ってくる前には砂糖の代りに蜂蜜が用いられたであろうし、飲み方がちがっていたであろう。こうした代用茶の基盤の上に、中国茶が入ってきたのであった。

 代用茶がどの程度広く普及していたかどうかは疑問があるにしても、東洋的な茶の出し方を知らず、ただ煎じたらよいと思っていたものも多かった。

 たとえば茶がアメリカ植民地に導入された十七世紀末から十八世紀はじめにおいてニューイングランドでは茶の葉を長い時間かけて苦い煎汁になるまで煮つめ、その煎汁をミルクも砂糖も入れないで飲んでいたのである。このような茶の飲み方はイギリスからもちこまれたもので、イギリス人のあいだでは茶も煎じて飲むくすりであると考えられていた。しかし奇妙なことには、その煎汁の出がらしの葉に塩をまぶし、バターをつけて食べていたことである。もっと傑作なのは、ニューイングランドの数都市では、煎汁を捨てて、出がらしの葉だけを食べていた。

20260412 中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく」 pp.212-215より抜粋

中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく
pp.212-215より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121028759
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121028754

 一般的に磨崖仏とは石仏の一種であり、自然の懸崖に露出した岩や岩壁に仏像を彫刻したものをいうが、仏像に限らず、梵字などが刻まれた「種子磨崖」、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれた「名号磨崖」、五輪塔などが刻まれた磨崖や石窟内の壁に刻まれた石窟仏などを含めた総称として用いられている。

 磨崖仏は、東北地方の福島県や近畿地方の滋賀県・奈良県・京都府、九州地方、特に大分県に偏在する。大分県は「磨崖仏の宝庫」といわれる磨崖仏密集地域であり、現在もその所在が知られるものだけでも八三ヵ所、総数約四〇〇体にのぼる尊像が確認され、一説に全国総数の八割を占めているといわれている。

 筆者が調査した大分県における磨崖仏分布を図8-27に示す、未調査の磨崖仏がまだ相当数あるものの、そのほとんどに湧水が存在する。湧水の存在する割合は、調査済みのものだけを対象とすると、九四%にも達する。

磨崖仏と阿蘇溶結凝灰岩
 磨崖仏が彫られている溶結凝灰岩は、水によって風化されやすい特徴を持っているので、文化財保護の観点から見ると湧水の存在は好ましくないという。にもかかわらず大分県の大野川流域湧水近くに多数の磨崖仏が見られるのはなぜだろう。

 磨崖仏は自然の岩石を素材としているため、その造形は石材からくる材質的制約を受ける。特に岩質の硬さやきめの細かさによって、彫られる仏像も異なってくる。大分県中南部に所在する磨崖仏の多くは、阿蘇火山灰の堆積層である溶結凝灰岩の緻密で軟らかい岩肌に刻まれており、もろく割れやすいという欠点がある。溶結凝灰岩はカルデラ式火山に特有の地質に見られ、九州では阿蘇火山や桜島火山が有名である。

 大分県、特に大野川流域には九万年前に噴火した阿蘇山の噴出物である溶結凝灰岩が堆積している。一般的に溶結凝灰岩は岩石内の空隙が大きく、水が浸潤しやすいために、非常によい帯水層(水が貯えられる地層のこと)となって豊富な地下水を供給する。したがって、溶結凝灰岩のある地域には地下水や湧水が豊富に存在するのは自明のことであり、事実、大分県の竹田湧水群はよく知られた湧水地帯である。また、凝灰岩は岩石の中では非常に柔らかい岩石に分類され、かつては建築石や石橋・石仏などに盛んに用いられた。磨崖仏を造立するにはとても都合のよい岩石であったのである。

 また、大分県の磨崖仏は、仁聞、日羅、蓮城法師の三人が彫像したと伝えられているが、実際には無名の石工たちが長い年月をかけて彫ったのであろう。その過程で、石工たちは作業の合間に水分を補給しなければならなかった。ただでさえ、岩石を穿つ重労働である。作業の合間にとる水のことを硯水というが、この水が近くにあることが磨崖仏造立の第一条件だった。

 また、磨崖仏は仏様であるから、毎日水をお供えしなければならない。この水のことを閼伽水という。第七章で述べたように、閼伽水は見た目の透明度が高く硫酸イオンが多量に含まれている。おそらく先人たちは閼伽水に適した水質を持っている湧水を経験的に知り、彫りやすいその場所に磨崖仏を造立したと考えられる。

2026年4月12日日曜日

20260411 2440記事に到達して思ったこと:文章作成と記憶の励起

 直近の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2440に到達しました。この数字からは、達成感よりも、これまでの継続期間をあらためて感じさせられます。また、これにより当記事を含め、残り60記事の更新により、現在目標としている2500記事に到達することが出来ます。60記事の更新は、毎日1記事の投稿であれば約2カ月間を要します。そして、2日に1記事の投稿であれば、約4カ月もの期間を要し、現在から起算しますと、夏真っ盛りの頃での到達となることが見込まれます。その頃、未だにブログ記事作成をしているのかと考えますと、正直なところ、少々滅入ってくるような感覚もありますが、元来、私にとってブログ記事の作成は、滅入るような性質のものではありませんでした。それにもかかわらず、ここに来て、そうした感覚があるということには、やはり10年以上にわたり、2400記事以上作成してきたことによる疲労のようなものが出てきているのだと思われます。そして、そうであるのならば、どこかで一度、当ブログのことを忘れるほどに休止することも、一つの選択肢であると考えられます。もっとも、そのためにも、現在掲げている2500記事という目標に、まずは速やかに到達しておくことが望ましいようにも思われます。そこから、本日も、先ほどより文章の作成を始めた次第ですが、先述の2440記事到達ということもあってか、ここまでは比較的速やかに書き進めることが出来ました。そういえば、今月に入ってからの投稿2記事「20260402 先日の久しぶりの紀伊田辺訪問から思ったこと」「20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて」の投稿数日前に、2017年より毎年、些少ながらも支援させて頂いている医療系シンクタンクさまより、お礼と共に新年度分の支援額の領収書PDFファイルが添付されたメールを頂き、これに対する返信として、了解と領収書へのお礼を述べる文面に続き、前述の投稿2記事にて述べたように、書籍を複数分野のアカデミアの先生方にお送りし、その反応について簡潔にお伝えして結びました。これに対する返信はすぐにはありませんでしたが、その後、「20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて」の投稿翌日にお返事があり、書籍送付および反応についての情報を組織にて共有されたとのことでした。そこから「こちらのシンクタンクさまに当ブログを読まれている方がいらっしゃるのではないか?」と考え、勝手ながら少し緊張してしまいました(苦笑)。しかしながら、考えてみますと、これは特に驚くべきことでもなく、現時点での当ブログの閲覧者総数は115万人を超えていることから、そのようなことがあっても決して不思議ではないとも思われるのです。そうしますと、やはり今しばらくは、コンスタントなブログ更新を継続し、わずかではあれ、興味深く、我が国の社会に何かしら貢献し得る情報を発信していくことが良いのではないかとも思われるのです…。また、そのように考えますと、面白いことに、未だ文章化・発信出来ていない事が、まだまだ多くあるように思われてきます。あるいは、こうしてキーボードで文章を作成するという行為そのものが、過去の記憶を励起させ、それが最近での出来事や読書の記憶と化合することで、新たな文章の作成を可能にしているのかもしれません。換言しますと、文章作成という行為は、単に記録ではなく、記憶と経験を再編成する結節点として機能しているのだとも考えられます。今回、当初は2440記事到達の勢いで始めましたが、結果として、比較的自然に文章作成の流れに入ることが出来たように思われます。そして、おそらくは、この状態に入ることが、継続において、とても重要なことなのであるとあらためて思われました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年4月9日木曜日

20260408 春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」 pp.205-207より抜粋

春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」
pp.205-207より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861100585
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861100581 

 ところで、住吉の弟日娘と同一の名をもつ女性が「肥前国風土記」逸文に見える。その名を、乙等比売(おとひめ)と言うとあり、異本には弟日姫子(おとひめこ)とある。大伴狭手彦と相愛の関係になったが、狭手彦が新羅を征討に出陣するとき、山にのぼって領巾(細長い薄布)を振り、その船を見送ったという。この話は有名で、「万葉集」の巻五にはこの悲哀をうたった一連の歌がある。領巾を振った山は唐津市の鏡山だという。そして見送った女は松浦佐用姫(まつらさよひめ)となっている。

 さきに見たように、大宰府の付近には児島と呼ばれる遊行女婦のいたことは明らかであるから、大陸との交流のふかい唐津付近に遊び女がいたとしてもおかしくない。住吉の弟日娘が遊行女婦であったように、大伴狭手彦と別れを惜しんだ弟日姫子もそうしたたぐいの女であったかもしれない。室町後期の「閑吟集」に、

 つれなき人を 松浦の奥に 唐土船の 浮寝よなう(一三八)

とある。唐土船というのは唐船ともいい、中世に中国との貿易にあたった日本船を指す。「自分につれない人を待ちかねて、唐津湾の沖に停泊する唐船ではないけれど、浮寝をする」という意。浮寝というからには、船中で独り女が寝ているであろう。『梁塵秘抄』巻二にも、「遊女の好むもの」として、雑芸や鼓などがあげられているほかに、「小端舟」となる。遊女たちは小舟をあやつって旅客を迎えた。遊女の中の年老いた者は大傘をさしかけて、舟の棹を取ったのである。

 そうしてみると、さきの「閑吟集」の歌も、船中で客を迎える松浦地方の遊女を指しているにちがいない。弟日娘と同一と思われる松浦佐用姫も「松浦地方のサヨという女」ということで松浦佐用姫と呼ばれたように思われるが、松浦というのを肥前の地名と固定してよいのかということになると、必ずしも断定できない。松浦佐用姫の伝説は日本各地に伝わり、奥羽地方にも分布しているからである。

 柳田国男によると、「佐用姫のサヨは塞の神を意味し、松浦のマツは神あるいは貴人に対する奉仕を意味する言葉である。したがって松浦佐用姫は固有名詞ではなく、本来は遠く遊行して諸国の神の祭に参与した一群の女性を指す言葉であった」と言う。柳田はさらに、「村の祭に化粧して現わ来たり、神の故事を演ずる者は、昔も今も一階級しかない」(「民俗学辞典」)と付け加えている。

 柳田はまた、小松という名は小野小町の小町と根源を同じくすると述べ、「陸前栗原の小松の虚空蔵堂などで、小野小町が佐用媛の任務に代わって居るのも、自分にとっては些かも偶然では無い」(「人柱と松浦佐用媛」)と言っている。

 こうしてみるときに、松浦佐用姫の松は特別の意味をもつことになる。神をマツルとか貴人にマツラフという語と同種類の語が、マツである。神をマツリ、神にマツラフ女性が神聖な祝宴にはべるのはとうぜんとしても、それがやがて男たちの酒盛りをとりもつ巫娼の役割を果し、あげくのはてには枕席も共にすることになれば、マツという語も男が女をマツ、女がはやくから男をマツという風に転用されてくる。

 住吉の浜の松がはやくから有名であったことは、すでに万葉の歌から明らかであるが、その松に殊更なる寓意を託された遊行女婦の群を私は想像してみるのである。

2026年4月6日月曜日

20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて

 相変わらず現在も数冊の書籍を読み続けていますが、そのうちの一冊である人類学を題する著作は、難解と思われるところが少なからずありますが、興味の方が強いことから、比較的好調に読み進み、半分以上にまで至りました。年齢を重ねますと、読むことが出来る書籍が以前よりも少なくなっているように感じられ、あるいは、読書以前の興味や好奇心と云ったモチベーションが、以前よりも減衰したように感じられます。それでも、ある程度興味を持ちつつ読み進めることが出来る書籍があることには安心させられます。そして、そうした興味・好奇心は、書店での立ち読みと云う、身体性を伴う行為により、更新・昂進される性質があると考えます。このことは、2020年から1~2年間続いたコロナ禍の際に痛感しました。しかし、その一方で、同年1月から開始したエックス(旧ツイッター)で得られる新刊をはじめとする書籍の情報もまた、興味深く有益であり、私の場合、2020年以降の状況(コロナ禍・エックスの開始)により、書籍選択の様相が変化したと云い得ます。また、エックスでのポストをしばらくの期間、読み続けていますと「こちらの方は、この本を読まれると面白いのでは…?」と考えることが度々生じるようになり、また同様に、対面での会話においても、そのように考えることが増えるようになりました。そうしたことから、一月ほど前、ある歯学分野の先生に「おそらく、先生はこちらの本を興味深くお読み頂けると思います。」と申し添えて、ある著作をお渡ししたところ、つい先日「おお、あの本良かったぞ、良いことが書いてあった。」とのご感想を頂きました。こちらの先生は、人を褒めることは多くないことから「あるいは、私の読みが当たったのでは…?」と思われました。また、直近投稿の「先日の久しぶりの紀伊田辺訪問から思ったこと」内で述べました「(和歌山での勉強会を)主催されている先生が、今春より、同じ和歌山市内に立地する四年制大学看護学部の教養科目を担当(兼任)されるとのご報告を頂き」の先生より「何か事前の参考になりそうな書籍があれば教えて欲しい」とのご要望を受け、手持ちで参考になりそうな書籍を数冊まとめて、つい先日、レターパックにて投函したことも思い出され、そこから、いくつかの異なる分野のアカデミアの方々から、書籍選択についての評価を頂けたことは、我がことながら印象深かったです…。また、そこから、鹿児島での歯科理工学の師匠が退職された後、戻られた師匠のご自宅に度々、書籍などをお送りしていたことが思い出されました。当時の私は現在よりも、かなり多く書籍を読んでいました。しかし一方で、こうした文章を作成することは出来なかったとも思われます。あるいは、既にそうした資質はあったのかもしれませんが、実際にそうした内容を文章として表して(著して)公表するという、継続を要する身体性の獲得が為されていなかったため、やはり、作成することは出来なかったと云えます。その意味で、その十数年後に、書籍の選択について、複数分野の先生方から評価されたことは、その十数年のうちの多くの期間、当ブログを継続してきたことが、何かしら効いているのではないかとも思われるのです…。そしてまた、多少不遜ながらも、こうしたことは、金銭的価値は乏しいのかもしれませんが、他方で、そこまで簡単なことでもなく、また、誰にでも出来るわけではないようにも思われるのですが、実際のところはどうなのでしょうか?ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2026年4月2日木曜日

20260402 先日の久しぶりの紀伊田辺訪問から思ったこと

  先週は3/28㈯午前に家を発ち、関空に午後2時頃到着し、そこから日根野駅で特急くろしお号に乗り換えて、紀伊田辺まで行きました。到着は16:30過ぎであり、そこから徒歩で闘鶏神社に向い、当初の予定通りに参拝や所用を行い、安心した心地で紀伊田辺駅まで徒歩で戻ることにしました。さて、以前から当ブログで述べたように、私は今世紀初年から3年間、紀伊田辺の南に隣接する西牟婁郡白浜町に在住しており、そこでの休日は、度々、自動車や自転車で、ここ紀伊田辺を訪れていたことから、その街並みは、鮮明に記憶に残っていますが、かなり久しぶりに訪問した紀伊田辺の駅前の街並みは、和歌山市のぶらくり丁のようにシャッター街化が進み、私が知る往時の「活気があるコンパクトな地方都市」といった趣は、かなり減衰していました。他方、南紀白浜在住当時から知っている、古くからのお店で、現在も元気に営業されているところも点々とありました。その一つが地域を代表する銘菓と云える「辨慶の釜」や「デラックスケーキ」で知られる「鈴屋」さまであり、駅への帰路の途中に立ち寄らせて頂き、翌日の和歌山市での勉強会の際に、出席される方々に供するお菓子として適切であると考え、こちらの店舗のみでしか購入出来ない、さきのデラックスケーキの切れ端を商品化した「はしっ子」を一人で購入可能なだけ購入させて頂きました。そして、翌日の勉強会の際に出しましたところ、好評であったことから、今回の足を延ばしての紀伊田辺訪問はわずか2時間ほどでしたが、充実したものになったと云い得ます。また、勉強会では、出席された、かつて院生であった先生方や、当時からの先生の研究の現況や課題などを共有させて頂き、こちらも充実したものになりました。この勉強会は、知る限り、2012年から毎年、半年毎に開催されており、私は概ね参加させて頂いていますが、その規模は大きくもならず、小さくもならずに継続しています。また、2015年に開始した当ブログにおいても、当勉強会について度々言及しており、私見としては、博士課程修了後の私の知的好奇心や自意識が干上がらず、あるいは破綻せずに、これまで、どうにか生き永らえることが出来た一つの要因であると考えています。そして、今回の勉強会においては、主催されている先生が、今春より、同じ和歌山市内に立地する四年制大学看護学部の教養科目を担当(兼任)されるとのご報告を頂き、それが、当ブログと連携しているエックス(旧ツイッター)での、つい数週間前(3/16)の私の投稿内容とも被るものであったことから、何とも不思議な感じを受けました。また、我田引水ながら、それとも関連して、和歌山市は、大都市である大阪府と隣接して、人口流出が続きながらも、独自の歴史的背景や文化を持つ地方都市であり、現代の都市的な悪影響が相対的に乏しい環境であり、それこそ、医療系の新大学・学部などの立地には適しているのではないかと思われるのです。このことは、ここ十年ほど、和歌山市での新大学・学部の設置の様子を観察して、あらためて理解出来たことであり、あるいはこの先も、こうした流れがしばらく続き、そしてその先には、現今、人文系主体である当地の国立大学法人運営の大学の学部構成にも変化が生じるのこともあると思われるのです。具体的には、口腔保健学科や管理栄養学科を擁する医療系の新学部の新設であったり、あるいは、他の老舗医療系大学との共同出資・運営にて、和歌山市内あるいは、それこそ、さきの田辺市内(臨床実習先となる医療機関は地域内に複数あります)に医療系の専門職大学が新設されると良いのではないかと思われるのです。そして、そうしたスタイル、つまり、欧米文化の真似ではない、我が国なりのSTEM教育を行い、そこにArtの要素を加えた、総合的なSTEAM教育が、今後の我が国に再び、盛運をもたらすのではないかとも思われるのですが、さて、実際のところはどうなるのでしょうか…。ともあれ、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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