ISBN-10 : 412160153X
ISBN-13 : 978-4121601537
後藤伯
土佐の藩士後藤象二郎が、征夷大将軍徳川慶喜を勧誘して、その二百五十年来占有の政権を京都の朝廷に上らしめんとしたるは、昨日のことと思いいしに、今は早や三十年前の昔日談となり、その事蹟の主人公たる後藤伯も六十年の星霜に打たれ、新聞紙は往々その余命いくばくもなからんとするを報ず。それ西郷は城山の露と消え、大久保は空しく墓標を清水谷に止め、木戸の名また語るものなく、維新の風雲を鼓舞したる者、多くは頽敗老衰、僅かに三、四を止むるにあたりて、この報に接す。嗚呼、耆旧風塵に老い、喬木みな秋色あり。思うに伊達自得翁にあらざるも、この時世の変を見て、「何ゆゑにものはかなしと眺むれば萩の葉向に秋風ぞ吹く」と歌わざる者、それ幾人ぞ。
知名の士が末路はなはだ振わざるを見聞するは人情忍びざるところなり。いわんやその一生の行路、ことごとくこれ失敗にして、雄図壮心、ついに一も酬ゆるところなきものにおいてをや。我輩は後藤伯の伝記を回顧して、ために黯然たらざるを得ざるなり。けだしその末路蕭条たるがため、世論多く事後成敗の見をもってこれを評すといえども、もしその天分の高下を論ぜんか、その開朗の気、包闊の大、薩長元老と相駆逐して、別に自ら天地を立つるに足るものあるなり。もし彼の企画をして偶然の勢いのために敗れざらしめしならば、彼の盛徳大業、或は老西郷、大久保の上に出て、歴史家、政論家等は斉しくその人物を賛美せしやも知るべからず。
けだし日本近世の大事業は維新の革命にほかならずして、維新革命の中心問題は幕府が占有したる政権をいかに処分すべきかにありき。会津、桑名の二藩および各藩中の世家、有司は、多く幕府をして主権を握ること従前のごとくならしめ、而して京都の朝廷を尊敬すること王朝時代のごとくならしめ、かくのごとくして公家と武家とを調和せしめんと欲する温和なる意見を有したりき。時人これを名づけて公武合併説という。薩摩の国主のごときは初めよりこの意見を賛成したるものなりき。しかるに尊王党なるものありて、王家にあらざる幕府が国家の主権を取るをもって、半上落下、国体に合せざるものとなし、皇家をして直ちに国政に当たること、元弘、建武の故事のごとくならしめんと欲したり。この種の意見は、京都公卿の大半、長州藩士等、首としてこれを唱え、各藩中、世家にあらず、職司を有せず、現在の秩序に満足せざる急進派の和同するところなりき。而して公武合体党の中、また硬軟の二派ありしといえども、要するにこの党派は佐幕の精神を有すること多きものにして、尊王党は概して討幕の精神に富みたりしが、この二大党派は全国を二分するがごとく、各藩の中またこの二党のために勢力を分かちたりき。ゆえに後藤伯の故郷、土佐においても、武市半平太、坂本竜馬、平井収二郎の徒、しきりに尊王討幕の急進論を唱道し、内は有司、世家が時勢を観望するを攻め、外に長州の浪士と相交通し、隠然、公武合体党と相対峙したりといえども、当時の土佐藩主山内容堂公は、慧敏、自ら用うるの士にして、けっして武市らの急進論を賛同せざりしかば、公武合体論は自ら土佐の国論なるがごとく見えにき。容堂公の下に参政吉田元吉(東洋と号す)なる者あり、才学ありて事を用い、土佐藩士にしてその門下たる者少なからず。後藤伯は実にその戚姻にしてまた門下生なりしかば、これらの因縁によりて、後藤伯は出身の初めより容堂公の寵親するところとなり、その政治意見もまた自ら容堂公の公武合体論を信ずるに至りき。すでにして尊王党等、公武合体党の勢力に圧迫せらるるに堪えず、その末流等、一夜ひそかに、吉田元吉を襲うてこれを殺す。容堂公大いに怒り、有司に命じてことごとく尊王党を捕斬せしむ。武市半平太、平井収二郎、その中にあり、坂本竜馬は難を避けて国外に遊び、長崎の地にあり、その余の党類、捕斬ほぼ尽き、急進尊王論、ために地を払って空し。その党禍のはなはだしき、水戸、長州を除きては、土佐のごときはなはだしきはなかりき。而してこれがため一州の元気銷沈し、人物一に空しきに至りぬ。これ土佐が薩長に比して一歩を後れざるべからざるに至りし一大原因たらずんばあらず。而して誰か図らん、この党禍を起こして反対党を一掃したる者は、他年、自由自主を唱うる後藤伯その人ならんとは。これより土佐の急進党等、彼を怨悪して、その肉を食わんと欲する者あるに至る。これ後年に至りて彼が土佐出身の士人に信頼を得ず、ために政海の根拠地を得ざりし所以なり。