2022年12月31日土曜日

20221231 株式会社光文社刊 関口高史著「牟田口廉也とインパール作戦 日本陸軍「無責任の総和」を問う」pp.238-239より抜粋

株式会社光文社刊 関口高史著「牟田口廉也とインパール作戦 日本陸軍「無責任の総和」を問う」pp.238-239より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334046169
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334046163

これまでインパール作戦は無謀な作戦と言われてきた。では無謀な作戦とは何か。それは作戦の必要性、例えば意義や目的、そして任務に比し、達成の可能性が極端に低い環境(戦術レベルでは「状況」などと呼ばれる)で実施された作戦を言うのだろう。また、作戦基盤を十分に付与できなかった上級部隊指揮官が責を負う作戦も含まれるかもしれない。

 これまで見てきた通り、インパール作戦は必要性と可能性の検討が十分になされ、各級指揮官の状況判断に基づく正規の手続きを経て実行に移されたものだった。しかし、それが無謀だったかどうかは別の問題だ。本節ではこの疑問について考察していく。

 まずインパール作戦の意義とは何だったのか。作戦にも目的や任務だけではなく地位・役割がある。インパール作戦の場合、大東亜共栄圏の西陲に位置する方面軍の主力、一個軍が全力を挙げて取り組む主作戦であり、西陲の防衛要領は南方軍、なかでも方面軍に任せられていたと言える。もちろん、西陲の防衛とはビルマの防衛だけではない。攻勢に出て連合軍の戦力を減殺し、ビルマへの進攻企図を破砕することなども含まれる。

 ただしインパール作戦の意義は、それだけに終わらなかった。戦争終結の条件作為、つまり援蒋ルートの崩壊、西亜打通を実現することによって、独伊との提携やインドの独立などによる英国の連合国からの離脱、そして米国の戦争遂行意志を失わせ、最終的に戦争終結へ導く効果を期待されたのである。また戦争全般の情勢、那賀でも太平洋での戦局悪化による統帥部への批判をそらし、国民の戦争に向けた戦意高揚を促進するカンフル剤としての役割も加味されていった。現に昭和十九年(1944年)三月十日頃には、第八十四議会召集中の衆議院議員に対し、陸軍大臣秘書官の井本熊男がインパール作戦の説明を行っている。井本はその時のことを、当時は矢が弓を離れたばかりだったので、大きな地図を拡げ説明すると、作戦の前途に希望を持たせように感じたと回想する(井本熊男「作戦日誌で綴る大東亜戦争」芙蓉書房)。このように、意義が大きく変化する中で行われた作戦だった。

20221230 株式会社講談社刊 上横手雅敬著「源平の盛衰」pp.30-32より抜粋

株式会社講談社刊 上横手雅敬著「源平の盛衰」
pp.30-32より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061592750
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061592759

忠常の乱以前には、坂東では平氏の力が強かった。源氏は藤原氏にもちいられ、傭兵として働き、また近国の受領にも就任して富を重ねていた。その本拠も摂津・大和・河内など畿内にあり、頼信にしても藤原道長の有力な近習として諸国の国司を歴任していた。「東の源氏、西の平氏」といわれる後代とは異なり、当時はその基礎が逆であった。

 平忠常の乱を源頼信がしずめたことは、源氏の坂東進出の第一歩をきずくことになった。一方、平氏はその一族が反乱を起こしたり、その鎮圧に失敗したりしたため、みずからの勢力をおとろえさせていった。それにひきかえ、頼信によって植えつけられはじめた源氏の勢力は、その子頼信にいたってさらに強固になった。頼信は父とともに忠常追討の軍にも加わったが、やがて相模守となると、それまで国司に抵抗していた連中も、武士を愛する頼信の人柄に帰服し、その家来となるものがふえていったという。

 忠常の乱の二十年後、一〇五一(永承六)年、陸奥の俘囚(帰順した蝦夷)の長である安倍頼時が国司に反抗した。朝廷では頼義を陸奥守に任じ、その討伐にあたらせた。頼義・義家父子が頼時を討ち、最後にその子貞任をも討って乱を平定したのは一〇六二(康平五)年で、この間じつに十二年、平定のためには、出羽の俘囚の長である清原氏の援助まで借りた。この事件を前九年の役という。

板東の情勢を背景に新しい主従関係

 頼義の軍隊の特色は、死を恐れぬ坂東の精兵を従えていたことだった。戦いは苦戦の連続で、頼義さえも敵にかこまれてあやうくなった。相模の武士佐伯経頼は「自分は将軍に三十年仕えてきた。いまや将軍が滅びようとしているときにあたり、ともに戦死するのは当然だ。」(「陸奥話記」)といって頼義を救って戦死した。

 経頼のような武士は、これ以前の記録には見られなかった人物である。たとえば平将門の部下たちは、戦いに負けるとすぐに逃げ出している。中央から派遣されたかつての追討軍にしても、大将と従兵とのあいだに人間的なつながりがなく、大将のために命をすてる者はいなかった。つまり、重要なのは、頼義の軍隊が、強い主従関係のきずなで結ばれた最初のものだったということだ。

 戦いに負けたら逃げ出すのと、主人とともに討ち死にするのと、どちらが立派だろうか。もちろん人間はだれでも生きることを望む。死ぬのはいやである。だから、逃げるほうが人間的だともいえる。たしかに生命の尊重はなによりも重要ではある。しかし、ただ生きたいという本能のままに逃げ出すのと、主人のとめに献身するのとくらべると、少なくとも後者のほうが自覚された行動なのである。本能的な逃避と、戦争そのものに疑問を感じる反戦思想とを混同してはならない。