一昨日投稿の記事冒頭において野上彌生子著『迷路』を取り上げましたが、この著作上巻を昨日就寝前に読んでおりましたら、思いのほか面白く感じられ、なかなか寝付くことができませんでした・・(苦笑)。
その影響からか、本日仕事の合間を利用して書店に入り、文庫本コーナーを徘徊していると、さきの『迷路』と(ほぼ)同時代を舞台とした小説を見つけ、しばし立ち読みし、面白いと思われたことから、これを購入しました。
その後、帰宅時の電車等を利用し、これまでに60頁ほど読み進みましたが、やはり、その描かれている世界とは『迷路』と近接し、またその一方で、異なると思われたところは、地方社会の描写が見受けられないことです。
そうしますと、この著作が戦前期(1930年代)の東京を舞台としたことが分かると思われますが、この時代とは、世界規模でキナ臭い動き、動乱への前触れといったものが多く見出されるようになったという意味で、あるいは現在とも似ているのではないかと思われます・・。
また、別件ではありますが、ここまで書いており不図、不思議に思ったことは、昨日の就寝間際の『迷路』の読書を伏線として、本日の短い仕事の合間での時間(10分程度)にて、ほぼ無意識ながら、類似した時代背景を持つこの著作を見つけ出し、手に取ったことであり、こうした書籍を選ぶ時の感覚もまた経験と共に磨かれていくものであるのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、こうしたことはあまりたいしたことでもなく、あるいはさまざまな学問分野において自然に為されていることであるようにも思われます。
そして、ここまで書いて、一度休憩すべくミネラル・ウォーターを飲み、続いて無造作に床上に積み重ねられている書籍の一冊を手に取り、開いた頁に以下の記述が見受けられたこともまた、ほぼ偶然ではあるのでしょうが、さきと類似した現象であるように思われます・・(笑)。
講談社刊 加藤周一著 『日本人とは何か』pp.205-206より抜粋引用
ISBN-10: 4061580515
ISBN-13: 978-4061580510
『『近代文学』同人に典型的なように、学生時代に特高警察に追い回された経験がこの世代に共通の経験である。
それは戦時中および戦後の彼らの立場を考えるときに、重要な要素だ。明治の文学者が自然主義小説のなかに近代文学そのものをみたように、あるいはみざるをえなかったように、大正から昭和へかけての日本の知識人がマルクシズム理論のなかに社会科学そのものをみた、みざるをえなかったという事情を、想起する必要があるだろう。
しかしそれはマルクシズムとの接触を最後に経験した世代、戦時中の知識人のいちばん若い世代に、固有のことではない。
彼らがそのまえの世代から本質的にちがっていたのは、現実社会のすべての体験が、彼らにとってははじめからファッシズムの体験にほかならなかったということである。
われわれはすでに、頭で理解された外来の思想や科学的なものの考え方が、「生活」に屈服し、「日本」に屈服し、容易に天皇制国家を超えることができないという実情をみてきた。
しかしその場合の「生活」が巧妙に組織された小集団相互のつり合いの上に成り立ち、一定のコンフォルミズムが確実に一定の快適さを保証するような具合にできあがっていたこと、また「日本」が明治以来の帝国の膨張の歴史に支えられ、また中野好夫流にいえば、先進国に「追いつき追いこせ」の原理に鼓吹された国民教育によって支えられていたということを、みおとすことはできない。
そういうことのすべてが「本心からの思想などというものはない」と呟くときの「本心」を形成したといえるだろう。
戦時中に四十歳以上の世代では、思想が身についていなかったばかりでなく、身についていない思想に復讐する本心が彼らの「日本」と強く結ばれていたのだ。社会的に責任のある地位にいたということも、そのむすびつきを強めたにちがいない。またすでに享受していた便宜を失いたくないという動機をも生んだに違いない。』
さて、如何でしょうか・・?
また、現在読んでいるこの著作については、また後日取り上げるつもりです。
そして、面白いことにこうした現象とは、自身の場合、夏に何故であるか割合多く生じるように思われます。
また、こうした現象とは、単なる自身の思い込みでなく、何かしらの根拠があるものであれば、それはシンクロニティあるいはセレンディピティと称されるものなのでしょうか・・(笑)?
ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被災された地域での諸インフラの復旧および、その後の速やかな復興を祈念しています。』