2017年2月27日月曜日

20170227 昨日投稿の記事から思ったこと・・内発性・議論について

本日の首都圏は以前の肌寒さが戻ってきたように思われますが、それでも去る1月全般と比べますと徐徐に温暖になっている感じを受けます。

さて、昨日投稿した記事もまた思いのほか、多くの方々に閲覧して頂きました。

この記事を興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

このことから、時折は以前に投稿した記事の中で比較的反響の大きかったものを題材とするのもまた、悪くないことであると認識した次第です・・(笑)。

そういえば、以前読んだある著作の中で『明治維新以降の現代に至るまでの我が国とは、全体として精神を病んでいる』と表現したものがありましたが、この考えは夏目漱石が明治44年に行った講演、書籍化もされている『現代日本の開化』を媒介として自身としては納得できるものでした。

また、あるいはさきの著作も、その主題の基層には夏目漱石の講演があったのかもしれません・・。

ともあれ、我々とは日常において、そのようなことを考える暇もなければ、機会も十分にあるとはいえません・・。

しかしながら、やはりこのこと(夏目漱石の『現代日本の開化』を読んでみてください)とは、少なくとも近代以降の我々の社会を考える上において、最も重要な事柄(の一つ)ではないかと思われるのです・・。

我々は夏目漱石およびその著作を紙幣の図柄にもなる国民的作家そして国民的著作として称揚していながらも、日常的な話題において、それら著作の主題となっている『我々の持つさまざまな性質』および同様に『社会、文化についての言及』が取り上げられることはほぼ皆無といっても良いのではないでしょうか・・?

とはいえ、現今の我が国における近代初期の文学とは、そのような位置付けであり、また、それが一般的であるため、現今の首都圏(のマスメディア)を中心とする文化が発信する皮相的、他律的とも云える衒学性の方が余程上滑りであり、結果的に神経衰弱を招きかねないのではないかと思われます・・。

そして、ここまで書いており、また不図思ったことはいや、近代以降の我が国とは、現代に至るまで、このような皮相的、他律的な言説を自家嚢中のものの如く、さも権威であるかの如く、ただ大声で喚き散らし、あるいは(ただ)耳聞こえの良い調子にて説いてきた勢力により牽引され続けてきたのではないか・・?ということです・・。

そして、こうした状況をどうにか変革するためにはどうした良いかと考えてみますと、一つは教育による漸進的なものであり、次に我々が『内発的な動機』により、さまざまな著作を読み、それらの主題を考えて、議論をする風土を創り出すことではないかと思われるのですが、実はこうしたことは明治初期から云われてきたことでもあるのです・・。

そしてその象徴が港区三田の高台にある和洋折衷(なまこ壁)の特徴的な建造物です・・。

無論、自身も含めてそうですが、我々とは、その時代から多少なりとも進化しているのでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した大地震によって被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。