2019年1月3日木曜日

20190103 1160記事の到達および昨日の投稿記事に関連して

昨日の記事投稿により、総投稿記事数が1160に到達しました。これは特に区切りが良い数値ではありませんが、これにより、あと40記事の投稿にて当面の目標である1200記事に到達することが出来ますので、ともかく一つのマイル・ストーンであるとは云えます・・。

さて、1日1記事の投稿として、本日より40日後と考えてみますと、来月2月半ば頃になりますが、ある程度の余裕を見込んで2月中に1200記事に到達出来れば良いとします。ともあれ、そこまで問題なく記事作成を続けることが出来るかどうかも未だ分かりませんが、とりあえずこうして『書けるうちは書き続ける』といったスタンスを自然に保持することが重要であるものと考えます。

また、昨日の投稿記事のように時には書籍からの抜粋引用を行うことも、記事作成の刺激になり良いと考えます。また、こうした記事の投稿により、抜粋引用した著作に興味を持って頂ける方が少しでもいましたら、それはそれで意味があるように思います。

そういえば、昨日抜粋引用部を記事として投稿した中央公論社刊(中公クラシックス)陸奥宗光著『蹇々録』ですが、この著作は岩波文庫からも刊行されていますが、岩波文庫版には抜粋引用部の論説は収録されておらず、その意味で中公クラシック版の方は、多少値が張りますが、装丁の大きさも適当であり、いくらか読み易くなっているのではないかと思います。

くわえて、その表題である『古今浪人の勢力』の内容からもまた、極めて重要な時期の外務大臣を務めた、いわば政府側の要人であるにも関わらず、反政府的な政治スタンスを常態とする浪人勢力の更なる伸長、そしてその勝利をも予言し文章を結んでいるところから、この一見現存する写真からはノーブルにも見える政府要人は、維新回天期そして、その後のめまぐるしく変化する社会の中をかいくぐり生き抜いてきたことが分かるものと考えます・・。

ともあれ、ハナシは戻り、この中公クラシックスですが、先日立ち寄った書店においても少なからず置いてあり、また神田神保町の三省堂では中公クラシックスにて一つの書棚がほぼ埋まっていましたので、その全貌は分かりませんが、このシリーズからは、かなり多くの著作が刊行されていると云えます。

さて、そうした中で、先日の書店にて見つけたのは同シリーズの小泉信三著『共産主義批判の常識』という著作であり、ざっと立ち読みしてみましたが、以前読んだ講談社刊 同著者による『平生の心がけ』とも被る部分があるように思われましたが、全体的に興味深い内容であり、後日機会を見つけて読んでみようと思います。

また、ここまで書いていて不図思い出したことは、さきに述べた陸奥宗光も、そして小泉信三も出自が紀伊国、紀州藩であるということです・・。こうしたことにあまり文脈的な関連性はないのかもしれませんが、文章を作成している自身としては、なかなか面白い現象であるように思えます・・。くわえて、多少、蛇足の気味もありますが、現在の和歌山の状況をお二方が見た場合、一体どのような感想を持つのであろうかということもなかなか興味深いと云えます・・。

ちなみに幕末期、陸奥宗光はその兄貴分であった坂本竜馬および陸援隊長であった中岡慎太郎の暗殺の真犯人を、いろは丸沈没事件にて揉めた相手であり、陸奥宗光の出自でもある紀州藩の三浦休太郎等であると考え、海援隊・陸援隊士等で襲撃を実行しています。【天満屋事件

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
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20180102 陸奥宗光著 中央公論社刊『蹇々録』収録 論説『古今浪人の勢力』より抜粋引用pp.329‐333

論説『古今浪人の勢力』より
『元亀、天正のころ、諸侯八方に割拠してその雄を争うのあまり、いわゆる譜代恩顧のみにてはその勢力の不足を感じたるにや、いやしくも一技一能ある浪人あれば互いに争うてこれを招致、網羅するの風習を生じたれば、一筋の長槍と一片の感状とを有するものあればすべて群豪、諸侯の間に歴任してその功名心を満足せしむるを得、かつ、いやしくもその志を得ざれば朝に黒田の家を去りて夕に加藤に仕え、関東に方人して思うがごとくならざれば大阪に籠城する等、その進退実に自由にして毫も拘束を受くることあらざりしがゆえに、したがってこの時代において利器を抱きてその位を得ずという一種の不平党ははなはだ稀なりしがごとし。慶長偃武ののち、徳川治世十五代の間は、世は既に太平の運に向かい、将軍も諸侯もただ自己の逸楽に耽るのほか、またいわゆる一技一能ある士を用ゆるを要せず、これに加うるに幕府、諸侯もすでに多くの常職あり常禄あるの士族を蓄養し居ることなれば、別に新たに有為の浪人者流を満足せしむるだけの余地を有せず。ここにおいてか所在文武の技能ある浪人の徒は何方にいたるもその位を得ずその志を達せず、沈鬱憤怨のあまりついに一種の不平党とならざるを得ずして、結局或は腕力をもって社会を動乱せんとし或は議論をもって政弊を痛斥し、時の政府を困却せしめたる例、はなはだ少なからず。すなわちかの天草の乱を始めとして由井丸橋の徒、もしくは山県藤井の輩、その他大塩平八郎の類のごとき、その志望おのおの自ら相同じからざるものあれども、いずれも有為の才を抱きてその位を得ざるよりも激してもってここに至りたるものなるはまた疑うべからざるものあるなり。

 ゆえに徳川幕府二百五十年間の政治は、大体、智勇弁力を具うる浪人の安排法を工夫せるものに過ぎずというも過言にあらざるなり。今この二百五十年の歴史を三分すれば、初めの一百年は元亀、天正の余勢に乗ずる浪人鎮圧の時代にして、次の一百年はこの浪人が文学、経書に身を託し腰を屈して威勢ある官吏に阿付しもって時勢に同化せんと試みたる時代なり。試みに御家騒動なるものを見よ、多くは志を得ずんば浪人となるべく性格ある者が腰を屈して搦手より官途に就きて生じたるものなるを見るを得べし。而して次の五十年は一旦腰を屈して時勢に同化せんとしたる浪人が、同化はとうていその功名、栄誉を遂ぐるの道にあらざるを覚り、局面を打破して時務を一変しもって風雲に乗ぜんとしたる時代ともいうべきか。而して第三期に現出したる浪人こそもっとも恐るべき腕力、議論兼帯の浪人なりしが、徳川幕府も最初の間こそその慣手段なる政権をもってこれら浪人に対してしきりに圧制、酷刑をもってその種子を絶滅せんとしたれども、のちには到底これを全滅するの至難なるを悟り、その浪人中やや馴致し易き者をば誘惑買収し、もってその不平を慰めんとしたり(壬生浪人、新撰組のごときものすなわちその一例なり)。然れどもいずれもその政策を貫く能わずして徳川政府はついに滅亡するを免れざりしなり。右の由来なれば、尊攘党の本山とし維新功臣の最第一等を占むる薩長両藩はその実、右の不平浪人に多少の糧米を与え、ときとして罪人逃遁の隠れ家を与えたる浪人尻押者たりしに過ぎざりしのみ。ゆえに徳川政府は不平浪人と戦うたるために敗れ、薩長両藩は不平浪人に味方したるために勝てりというも、またはなはだ失当の言にあらざるべし。

 もちろん皇政維新の初めにあたり、不平浪人の尻押者たる薩長両藩は無比の功臣として顕揚せられ、したがって政治上最大の権力を有するに至れるは明白の事実なり。然れども島津家も毛利家もこの際徳川氏に代わりて征夷大将軍となり、天下の大権を掌握せんというまでに野心を起こし得ざりしものは何故なるかといえば、当時内外の情勢ははなはだ不利なるものありしならんなれども、この両藩主ともに自己の実才、実力ありし尊氏、信長、秀吉、家康のごとく善悪邪正にかかわらず自己の力をもって自己の主張を実行したるにあらずして、畢竟部下もしくは他の浪人らが主張するところに付随し、ようやくその功を奏したるにほかならざれば、切にいえば天下は浪人の天下にして始めより薩長の天下たるを許さざりしによれりというべし。


 かくて尊攘党てふ(という)不平浪人者流の巨魁にして、維新以前にその一身をもって自家の主張の犠牲として非命に倒れたるものその数はなはだ多かりしといえども、維新の際なお引き続き生存したる輩もまた少なからず。すなわち薩の西郷大久保、長の木戸広沢という不平党の巨魁および各藩各地に散在したる同輩のごときは、いずれもいわゆる維新の隆運に乗じ、今はみな顕要の権勢を占め、ここにおいてはじめて積年の所志を達し、その劣等なる不平連もその材に従いその分に応じ相当の位置を得るに至りたれば、当時しばらくの間は浪人輩が不平を鳴らすの声も聞こえざりし。然れどもいずれの時代においても天下の不平党を絶滅する能わず。かつ人類の常情として、此に一の不平消滅するとほとんど同時に彼に一の不平を現出するものあるに加えて、薩長一列の不平党がようやく自らその志を得るに至るや、往々放恣専横のことを行い、あたかも昔日彼らが徳川幕府を攻撃したるがごとき咎責を自ら招くに至り、世間再び一種の不平党を生じたるは数の免れざるところなるべし。而してその不平党は、第一に彼らの仲間内より起こりたるこそおかしけれ。その著大なるものを挙ぐれば肥後に神風連あり、佐賀に江藤の党あり、長門に前原一誠の徒あり、最後にかつて尊王攘夷という看板を掲げたる不平党の大本尊たりし西郷隆盛は薩肥の子弟を統率して九州地方を擾乱せしことほとんど十閲月の久しきにおよびたり。而してこれらの不平党はいずれも腕力をもって政府に抗敵したれども、幸いにその時の政府は優勢の兵力をもってこれらを剿滅することを得たり。

 しかるに明治六年のころ、かの征韓論にて当時の征韓論にて当時の内閣の分裂するや、板垣らが唱起したる民選議院論は腕力以外に一種の議論を有する不平党を招集して政府に反抗せんとするに至れり。この新不平党を組織したる分子は醇駁雑多にして、その立論ははなはだ浅薄たるを免れざりしといえども、要するにその主張するところの自由民権の説によりて専制政治を改革し、もって立憲政府を設立せんと欲するにあり。その内幕よりいえば彼らは自由民権説を仮り薩長政府を顛覆せんと欲するものなることは、薩長政府の元老輩が尊王攘夷論をもって徳川政府を攻撃したるとその揆を異にせざるべし。しかるに人心は古今相同じきものにして、かつて徳川政府の虐遇を受けし薩長政府の元老は、かつて己れらが徳川政府より受けたる圧制政略を施してこれら自由民権の不平党を撲滅せんとし、種々苛察の政策を断行したるこそ不思議の極みなり。すなわち明治十年後、政府が西南叛乱鎮定の余威を仮り自由民権家を窘迫するや、当時各種の国事犯者が鉄窓の下に呻吟せし者その数はなはだ少なからざりしがごときがその一例というべし。然れどもかつて西郷輩に属せる腕力不平党を撲滅し得たる政府も、今や板垣輩に属する議論の不平党を征伐し能わざりしは時勢の力はなはだ大なるを知るべし。しかのみならず開拓使官有物払い下げの一件より、当時政府内の一骨子たる大隈をして朝を去り野に出てさらに一種の新不平党を集合せしむるに至れり。』

陸奥宗光著 中央公論社刊『蹇々録』pp.329‐333より抜粋引用
ISBN-10: 412160153X
ISBN-13: 978-4121601537



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