昨日のブログ記事において山椒、椒(はじかみ)について記しましたが、元々山椒とは植物としては蜜柑などの柑橘類に近いとのことです(同じミカン科)。
そのように考えてみますと、現在の我が国において山椒が多く栽培、生産されている県は和歌山県であり、特に有田郡有田川町のそれが有名であり、また同様に、この地域一帯とは、紀州みかんの栽培、生産においても知られておりますので、元々そうした植物(蜜柑、柑橘、橘)を栽培するのに適した地域であると思われます・・。
ちなみに、この有田郡の湯浅(あるいは南隣の日高郡由良町)とは醤油発祥の地として知られております。
また、不思議なことに有田川町と隣接する有田市の海岸に立地する「椒(はじかみ)古墳」とは長屋王の墳墓との伝説がありますが、実際はそれよりもかなり古いものであり、おそらく5世紀中、後期に造営された近畿地方における最初期の横穴式石室の様式を持つ古墳であるとされています。
また、当古墳から出土した甲冑とは、奈良県五條市猫塚から出土した極めて半島、大陸的要素が強い蒙古鉢形冑と呼ばれるものであり、その兜の形状はいくぶん洋梨を彷彿とさせます・・。
ともあれ、このように山椒から、それが属する植物のミカン科、そして国内における蜜柑の一大産地である有田郡、有田市一帯、さらにその地に存在する古墳の名称が「椒」(はじかみ)であること、さらにまた、その古墳が近畿地方における最初期の横穴式石室様式(我が国におけるその最初期のものは九州北部に多い)を持つものであるということは、なかなか面白いことではないかと思われますが如何でしょうか?
また、この椒古墳からさらに古くなりますが、記紀の垂仁天皇の御代に記されている、天皇の不老不死への御希望から、常世国に生えている非時香菓(ときじく)の実(これを食べると不老不死になるという)を求めて田道間守(たじまもり)が常世国へ派遣されたという伝承があります。
しかし残念ながら田道間守の非時香菓(ときじく)の実を持参しての帰着は垂仁天皇在命中には叶わず、このことを嘆いて田道間守(たじまもり)は垂仁天皇御陵墓の傍らにて亡くなったとされています・・。
そして、この不老不死をもたらす非時香菓(ときじく)の実こそが柑橘であったのではないかと考えられております。
また、一説には、田道間守が常世国から我が国に持ち帰った非時香菓(ときじく)をはじめに植樹した場所が、さきほどの蜜柑の一大産地である有田郡、有田市の北に隣接する和歌山県海南市であったとされています・・。
そして、こうしたことに何かしらの関連性はあるのでしょうか・・?
しかし、何れにしてもなかなか面白いことではないでしょうか・・?
今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
そして、もう一つの柑橘類の産地であり、さる四月に発生した大地震によって被災された熊本の諸インフラの早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」