A「先日来より読んでいる「迷路」の著者である野上彌生子とは大分県の臼杵市御出身であることは以前ブログ記事にて記しました。
そして最近、大分前から私がよく聴いていたglobeの女性ヴォーカリストが同じく大分県臼杵市出身であることを知りました。
また、この御二方は遠縁にあたるかもしれないとのことで、これもまた「何たる偶然!」です(笑)。
ちなみに私が大分県臼杵市に立ち寄ったのは2009年夏であり、鹿児島在住時のことです。
この時、所用により近くまで行ったため、当時親戚が住んでいた愛媛県松山市を訪ね、数日間滞在し、帰路は松山から八幡浜までJR予讃線で行き、そこからフェリーにて豊後水道、豊予海峡を渡り、臼杵港に着き、そこからJR日豊本線にて当時在住んでいた場所の最寄り駅である宇宿(うすき)に帰着しました。
また、奄美大島には「宇宿」と書いて「うしゅく」と読む貝塚で有名な場所がありますが、元々は「うすき」も「うしゅく」も同じような音あるいは意味として認識されていたのかもしれません・・。
そして、このことはたしか金関丈夫氏の著作内において、取り扱われたものがあったのではないかと思います。
その著作中において「特に「しゅく・すき」とは、元来南洋由来の航海民、海洋民族のコトバであったのではないか?」と記されていたと記憶しております。
たしかに、それらの地名の場所は共通して沿岸部(かつてのを含む)に位置します。
また、これは関係ありませんが、私が前出globeの曲をもっともよく聴いていたのは、南紀在住の頃でした・・。
この当時は、毎日の暮らしの中で、現在考えてみるとぜいたく過ぎるほどにキレイな海の景色を眺めていたと思います・・。
そう書いていますと「おそらく昔の人々は白良浜の延長上にある権現崎そしてその近くに浮かぶ円月島といった一連の景観に何かしら神秘的なものを感じていたのではないだろうか?」と考えさせられます。
そして、そうであるからこそ、権現崎に熊野三所権現、火雨塚古墳などが造営されたのではないかと思います。」
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
2016年4月21日木曜日
20160420 都市と地方について考えたコト
地震で被災した熊本、九州にて、今度は大雨が降るという天気予報が出たといいます・・。
辛い状況ではあるとは思いますが、被災された地域の方々が出来るだけ早期に安心して過ごすことが出来るようになることを願っています。
このようなことを軽々しく書くことは、失礼であるのかもしれませんが、九州にて数年過ごしたことのある私としては、現実的に、自身が現地に行き、何かしらお手伝いできないこの状況においては、こうしたことを書くこと以外出来ませんし、また、そうした状況を歯がゆく感じます・・。
さて、首都圏にて暮らしておりますと、観光、旅行などで国内地方に行き、そこの魅力を味わうといった趣向、傾向(ばかり)が大変強いように思いますが、実際に、それら観光、旅行などで取り上げられている地方に住み、生活したことがある私から見ますと、どうもそれは違うような感じを受けます・・。
一方、そうした地方に住まわれている方々からすれば、観光、旅行などで地域に「お金」を落としていってくれる観光客、旅行者の方々は、それなりにありがたい存在であるのかもしれませんが・・。
ともあれ、そうした地方に住み、その土地の昔ながらの因習などを含めた、いわば観光向けでない、ホンモノのその土地に根差した歴史、文化に否応なく接し、それらを受け入れなければならなかった人間にとっては、如上のような観光、旅行などのみによって、その地方、地域を知ったかのように考えてしまう状況とは、前述同様、大変歯がゆく感じます・・。
しかしながら、こうした感覚、認識を表出することは、都市部、首都圏在住の方々、地方の方々双方にとって、あまり都合の良いものではないために、あえて放置されるか、あるいは悪い場合になると、何かしら糾弾(別件逮捕的な)されるような場合も少なからずあるのではないかと思います・・。(同調圧力、社会凝集性)
そしてまた、こうした図式とは、特に我が国の場合、自身の国の歴史に対しても同様の傾向が認められるのではないかとも思います・・。
さらに、こうした傾向は、インターネットが普及し、多くの人々が様々な知識を手軽に入手できるようになったことにより、より一層拍車が掛かったような感じをも受けますが、如何でしょうか?
そうしますと、本来、自他の文化をより深く知るための手段としての学問であった昔ながらの文系学問分野全般においても、さきと類似、同様の図式、傾向が強くなってゆくのかもしれません・・。
こうしたことは、もしかしたら、ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」そしてオルテガ、ウェーバーが各々著作で述べている近代以降の社会の特徴と関連があるのかもしれません・・。
とはいえ、我々が日常的な生活する上において「効率性」とは、きわめて重要なものであることもまた事実であり、それは肯定するのですが・・。
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
辛い状況ではあるとは思いますが、被災された地域の方々が出来るだけ早期に安心して過ごすことが出来るようになることを願っています。
このようなことを軽々しく書くことは、失礼であるのかもしれませんが、九州にて数年過ごしたことのある私としては、現実的に、自身が現地に行き、何かしらお手伝いできないこの状況においては、こうしたことを書くこと以外出来ませんし、また、そうした状況を歯がゆく感じます・・。
さて、首都圏にて暮らしておりますと、観光、旅行などで国内地方に行き、そこの魅力を味わうといった趣向、傾向(ばかり)が大変強いように思いますが、実際に、それら観光、旅行などで取り上げられている地方に住み、生活したことがある私から見ますと、どうもそれは違うような感じを受けます・・。
一方、そうした地方に住まわれている方々からすれば、観光、旅行などで地域に「お金」を落としていってくれる観光客、旅行者の方々は、それなりにありがたい存在であるのかもしれませんが・・。
ともあれ、そうした地方に住み、その土地の昔ながらの因習などを含めた、いわば観光向けでない、ホンモノのその土地に根差した歴史、文化に否応なく接し、それらを受け入れなければならなかった人間にとっては、如上のような観光、旅行などのみによって、その地方、地域を知ったかのように考えてしまう状況とは、前述同様、大変歯がゆく感じます・・。
しかしながら、こうした感覚、認識を表出することは、都市部、首都圏在住の方々、地方の方々双方にとって、あまり都合の良いものではないために、あえて放置されるか、あるいは悪い場合になると、何かしら糾弾(別件逮捕的な)されるような場合も少なからずあるのではないかと思います・・。(同調圧力、社会凝集性)
そしてまた、こうした図式とは、特に我が国の場合、自身の国の歴史に対しても同様の傾向が認められるのではないかとも思います・・。
さらに、こうした傾向は、インターネットが普及し、多くの人々が様々な知識を手軽に入手できるようになったことにより、より一層拍車が掛かったような感じをも受けますが、如何でしょうか?
そうしますと、本来、自他の文化をより深く知るための手段としての学問であった昔ながらの文系学問分野全般においても、さきと類似、同様の図式、傾向が強くなってゆくのかもしれません・・。
こうしたことは、もしかしたら、ニーチェが「ツァラトゥストラかく語りき」そしてオルテガ、ウェーバーが各々著作で述べている近代以降の社会の特徴と関連があるのかもしれません・・。
とはいえ、我々が日常的な生活する上において「効率性」とは、きわめて重要なものであることもまた事実であり、それは肯定するのですが・・。
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
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