2025年1月26日日曜日

20250125 光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」 pp.69-72より抜粋

光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」
pp.69-72より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334785204
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334785208

現代の日本人の間では親鸞と日蓮がポピュラーで、知識人の間では道元の評判がよい。これらの人たちはそれぞれ、ひたすら一つの方向に徹底していった。それが多くの日本人に好かれる。空海はそう単純じゃない。とくに明治以後の日本知識人には、ものすごく異質的に思われるのです。空海が好きという人は少ない。

 -そこからだんだん結論的な話にはいらせていただきたいと思うんですが、われわれは人類史的にみまして偉大な創造的な仕事をした人を天才と称しているわけですが、学問、芸術そのほか創造的な頭脳を発揮した人が出てくるというためには、出てくる社会経済史的な環境がいると思います。弘法大師の場合も、大師と同じくらいの能力をもった人が、大師以前、以後になかったかというと、それは必ずしもそうはいえないと思う。逆に申しますと、もしあっても、あれだけの大きな仕事をする条件が熟していなかったと思います。わたしは環境論にすべてを帰そうとは思いませんが、そういった条件も無視できない。その条件というのは何かといいますと、やはり当時の社会において、かなりの矛盾と危機的状況が進行していたんじゃないか。さきほどの先生のお話ですと、最澄は比叡山の上で何をやったかというと、堕落した奈良仏教と理論闘争をしておったということですけれども、奈良仏教が堕落しておったというのは、当時の社会があの時点で相当混乱しておったわけなのでしょうか。

湯川 ぼくはそのへんの確かなことはわかりませんけれども、要するに奈良は首都として七十年ですか、七代も続いたわけでしょう。だけど、桓武天皇という人は、相当偉い統治者、政治家でしょうね。その時代になりまして、奈良ではあかんというので、場所を捜すと、京都のこの辺がひじょうにいい。そこで移るといっても、長岡京をつくりかけたり、なかなか簡単に移れませんけれども、細かい話は別として、わたしの歴史の見方は怪しいけれども、とにかく、日本の政治体制も社会も、やはり変わりつつある奈良時代の末期に弘法大師は生まれてきて、彼がおとなになったころには、京都が中心になって新しい体制にはいっていくわけですね。ですから、やはり大きな変動期に生れていたといっていいでしょうね。 

ーそうしますと、わたしはさきほどから弘法大師に対する多少の疑問があったのですが、つまり空海が護国寺を守ったというのは、一応の変革を終って、堕落した反動的権力だけを護持する国家の教学、宗教を守ったというのではなしに、奈良の古いものを脱ぎ捨てて京都へ遷都してきた国家信仰といえども、なにか前向きの生産的、創造的なものがまだ残っていたとみていいわけでしょうね。

湯川 明治の初めごろに似ておりまして、奈良時代からすでに唐の文物、文化を取り入れるということをやっておりますから、ある程度引き続きですけれども、それがさらに強まるわけです。ただし弘法大師のパトロンは桓武天皇ではなくて、嵯峨天皇ですね。桓武天皇の時代にもかかっておりますけれども、桓武天皇は伝教大師のパトロンと思っていいと思います。次は平城天皇ですが、またその次の嵯峨天皇はひじょうな文化人なんです。教養の高い人で、字なんかもひじょうにうまいですし、中国的教養の非常に高い人です。それをもっと吸収したいというわけで、そうなると、弘法大師という人は、中国的教養全部を身につけているから、大師をひじょうに尊敬するわけです。ですから、パトロンになり、漢詩の贈答をしたり、友だちづきあいをしているわけですよ。だから、中国文化、唐の文化を全面的に吸収している時代でもあるわけです。

ーそうしますと、奈良の東大寺大仏殿の建造のときのように、律令国家がだいぶんあぶなくなって。それを引き締めるために聖武天皇がああいうものをつくったというのとは、社会経済史的背景がだいぶん違いますね。

湯川 どうでしょうかね、よく知りませんが、平安初期というのは教養主義みたいなものが、ひじょうに感じられる時代ですね。