例えば、大学には、中国の古典は読むが、近代中国を創造した孫逸仙の著書を知らない中国語の教授が今なおいる。
また、文章が純粋である著書が書くものに限った古代史、換言すれば、ギリシャではアレキサンダー、ローマではネロに至る歴史は知っているが、もっと重要な後世の歴史は、それを述べる歴史家が文学的に劣っているから、知ろうとしない人がいる。
しかし、フランスでもイギリスでも、古い伝統は絶えていき、ロシアや合衆国のような近代的な国では、全くなくなっている。
例えば、アメリカでは、教育委員会は、大多数の人が、商業通信文に使う語は、全部で千五百字を出てないことを指摘し、それに基づいて、これ以外の語は一切、学校の課程から除くべきだと提唱している。
基本英語は、イギリスの案出にかかわるものだが、もっと進んで、どうしても必要だという語彙を八百語に減らしている。言葉は美的価値を持ち得るものだとする考え方は亡びていって、実際的な知識を伝えるのが、言語の唯一の目的だと考えるようになって来ている。
ロシアでは、実用上の目的を追求することがアメリカよりも熱心である。というのは、教育機関で教えることは、教育や政治の面で、或るはっきりした目的を果そうとすることに限られているからである。しかしただ一つの例外は、神学に見られる。即ち、聖書は、誰かは固有のドイツ語で研究しなければならないし、少数の教授たちは、ブルジョア形而上学の批判から傷つけられないように唯物弁証法を守るために、哲学を勉強しなければならない。
だが正統派の基盤がもっともしっかり定まると、このささやかな逃げ口も閉ざされるだろう。
どの方面をみても、知識は、それ自身だけで善いものとみなされず、また一般的にいって、ひろく情味豊かな人生観を生み出す方法としては考えられず、単なる技術の一要素とみなすようになって来ている。
こういうことは、科学的技術や軍事上の必要がもたらした社会の大きな統合の一端のあらわれである。
昔より今は、経済上または政治上の相互依存が強くなって来たので、社会的圧迫がふえたから、誰でも、その隣人に役に立っていると思われる方法で生活せざるを得ない。
非常な金持のための学校や、伝統が古いために動かすことができないような学校(イギリスにおいて)は別として、すべての教育機関は、好き勝手に金をつかうことは許されないが、技術を授け、忠誠心を吹きこむことで有用な目的にかなったことをしていることを、国家に納得させなければならない。
このことが、強制的な兵役、ボーイスカウト、政党の組織及び新聞を通じて政治的な情熱の伝播を引き起こす結果となったその運動の重要な要素である。
私たちは、なかまの市民を以前よりかえってよく知っており、私たちに道徳心があるなら、彼らのためになり、どんな場合でも、彼らも私たちのためになることもするようにさせたいという念願を前よりも強くなっている。
誰であろうと、ぶろぶらして人生を享受している人を思い浮かべるのもいやである。その享楽の性質がどんなに品がいいものであろうともそうである。ひとはすべて、(何であろうと)偉大な事件を推し進めるために何か為すべきだと思う。
多くの悪人がその事件を妨げる働きをしており、それを止めなければならないから一層そう思われる。したがって、どんなものにせよ、私たちが大切だと考えることえお求めてたたかう助けとなるような知識でない知識は何によらず、獲得する心のゆとりは、私たちにはない。
教育に対してせまい功利的見解をするいいわけはたくさんある。大体、暮らしをたて始めない内に、あらゆることを学ぶ時間はない。それで確かにいわゆる「有用」な知識が甚だ役に立つ。その知識が現代世界を作ったのである。それがなければ、機械も自動車も鉄道も飛行機もできていなかったはずだ。さらに近代の知識は、おしなべて健康えお著しく増進したが、同時に毒ガスで大都市を滅ぼす方法も発見した。私たちの世界を前の時代と比較してわかる著しい特徴は、どれもいわゆる「有用」な知識から生まれている。今までのところ、どの社会をとってみても、この知識は不十分なので、教育はたゆまずそれを増進していかなければならないことはいうまでもない。
伝統的な文化教育の多くが馬鹿げていることも認めなければならない。少年たちは、ラテン語やギリシャの文法を修得するために何年も費やしているが、結局(そのごく少数の人の場合を除けば)その言葉で書いた著作物を読む能力もないし、或いは読む気もない。どんな点からみても、近代語や歴史の方が好ましい。それらは遥かに役に立つばかりでなく、遥かに少ない時間で、より多くの教養を与えてくれる。
「怠惰への賛歌」
「怠惰への賛歌」
柿村峻