2026年5月13日水曜日

20260513 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から「現代政治の思想と行動」追補」 pp.99‐103より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から「現代政治の思想と行動」追補」
pp.99‐103より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

 たしかに市民社会と政治にたいするアンチテーゼとして文学や芸術の課題を提起することそれ自体はべつに日本に特殊でなく、世界中いたるところにある傾向にちがいありません 。けれども近代日本の文学者・芸術家に多少とも共通する反政治的もしくは非政治的態度は、社会的「隠逸」に裏うちされていましたから、政治にたいする芸術の擁護に立上ったり権力にたいする"抗議"として現われることはむしろ稀でした。社会的「かかわり」と反対に、彼等の反俗物主義とは世間にたいして芸術という聖域に垣根をはりめぐらすことであり、したがってごく普通の市民の一人としてささやかな政治活動を隣人とともにすることも、彼等にとっては俗物への顚落とみなされがちでした 。(こういう「反政治主義」は人間活動の一部として政治の位置を指定し、同時に限界づけることができませんから、時あってか全政治主義に飜転します。がその問題はここでは差しおきます 。)いずれにしてもこうした精神態度が、知性の連帯に基く共同体の形成の阻害要因になることは言を俟たないでしょう。
 こうして『三酔人経綸問答』の主人公達の間にあったような知的共同体の意識というのは、二十世紀初頭にはすでに急速に失われつつあったのです 。まさに、ふたたび会することがなかったわけです 。これは必ずしもイデオロギーの対立がより激烈になったからではありません。イデオロギーの対立の幅をいうのであれば、大日本帝国憲法発布以前の時代の方がむしろ大きいとさえいえます。明治十年代には主権在民論まで堂々と登場したわけですから・・・。むしろ問題は大日本帝国の国内体制が整備され、政治、産業、教育、軍備などいろいろの領域で制度的近代化のテンポが速まるに従って、知識人の社会的流動性はより少なくなった、という点にあります 。つまり公私の官僚制の中に編成された制度的知識人とその外にある「自由知識人」との間の分化が次第に固定化してしまった。しかも自由知識人自身がそれぞれ排他的な職業的空間に活動領域を限定する傾向が強くなってきた。そうして他方では、異った領域の知識人が相会し、談論風発する場ーたとえばフランス百科全書家の集ったサロンとか、ずっと後でも、サン・ジェルマン・デ・プレのコーヒー・ハウスとか、あるいはイギリスのクラブとかいう場は一向に発達しません 。そこで個々の閉鎖的職場をつなぐ共通の知的言語が衰弱してゆきます。漢学のような古典的教養の共通性がうすれてゆくこともこれに拍車をかけたといえるでしょう。そこに積極的な要因としてインテリの専門化・技術化が早期から進行したという事情が加わります。これは帝国大学に最初から工学部が設置されていたということによく象徴されていると思います 。大学レヴェルでの工学部の設置という点では、日本の大学が模範としたヨーロッパの諸大学より早いわけです。
 日本でこのように専門的・技術特知識人が早期的に登場したことが、どういう意味をもったかという問題に深入りすることは避け、その代りに一つだけ例をひいておきます 。史論家であり、大記者でもあった山路愛山が明治四十三年にすでにこういうことをいっております 。「現代に時めける青年官吏は十中の九まで大学出身の学士にして、而して其の思想はただ其の従事すべき仕事の上にのみ集中せらる 。正にこれ、英雄時代(注ー幕末の志士の時代を指す)去りて『書生』の時代来たり、『書生』の時代去りて専門家の時代に達せりといふべし 。」(傍点丸山)こうして現在世界中に悪名が高くなった専門化に伴うコンパートメント化とかセクショナリズムという傾向は、日本ではほとんど近代化それ自体の「原罪」であったといっても過言ではないと思います 。これは私も大学人であったので自己批判を含めて申すのですが、日本の「総合」大学というものは、およそ université の名に反して、西欧の学問のそれぞれの専門の学科を個別的に輸入する形で成立したために、学部学科の密室化が早くから進行し、したがって学部間の壁は、欧米の大学よりずっと厚い 。こういう歴史的背景を考えますと、たとえば「私は考古学が専門ですから、学生運動のことはわかりません 。」というような教授があらわれ、しかもそういう言葉が別におかしいとも思われないのも、もっともです 。ヒューマニティーズの典型である哲学も、大学では「専攻」の対象として出発しました。
 したがって、ふたたび会することがなかったのは、決して在官と在野の知識人だけではなかったのです 。学問と芸術とは世間的常識としても隣接した文化なのですが、近代日本では学者と芸術家という二つの人種は、隣人どころか、少数の例外をのぞいてはほとんど別の遊星の住人のように相互の眼に映って来たのが実状です。この両領域の架橋を困難にした問題としては、以上に述べて来たような双方の側の事情のほかに、なお科学用語という重大な障害があります 。つまり、自然科学はもちろん人文・社会科学の概念は圧倒的に翻訳語であって、明治以後に造語されたものです 。それだけに日常用語との乖離が甚しいのです 。西欧においては、どんなに難解に見える術語も、すくなくも人文・社会科学の領域では日常用語に根ざしており、ただ、それを洗練して再定義しただけのことです 。こうした用語の背景のちがいによって、たとえば日本の文学者と日本の研究者との間で知的会話を交すうえでどれほどの困難が生れるか、ということは西欧人にとってはほとんど想像を絶するものがあります 。学者が学問の「約束」にしたがって用いる言葉遣いが、学者の間ではどんなに当然として通用しようと、それは文学者にとっては、しばしば日本語の体をなさない生硬な表現と映るのです。これはたいへん深刻な問題ですから、これ以上立ち入りませんが、すくなくも学者と文学者(広くは芸術家)との間の知性的な共属意識の成熟を困難にして来た背景として、そうした「文体」の問題があることだけを念頭に置いていただきたいと思います。

20260512 調べものという習慣:引用記事から科学的文章作成への連関

 ここ最近、続けて書籍からの引用記事を作成・投稿してきましたが、そのおかげもあり、これまでの総投稿記事数は2460を超えました。引用記事の作成は、それなりに楽しい部分があるため、一旦始めますと継続することが出来るのですが、そればかり続けていますと、徐々に精神が変容するのか、あるいは精神の他の部分が主張を始めるのか、こうした自らによる文章の作成をしたくなります。

 さて、こうした自発的な文章作成は、以前にも述べましたとおり、2015年より現在まで当ブログにて(どうにか)継続しており、また、そのおかげもあってか、現在は当ブログ以外においても定期的に執筆の機会を頂いております。そこで作成する文章は、当ブログにて作成するものと比較して、さらに科学的要素が強いと云えます。それは基本的な文章の作成方法が異なるからであり、科学的要素が相対的に乏しいと云える当ブログでは、執筆中に書籍などを用いた調べものをすることは多くありません。しかし、もう一つのより科学的な文章の方では、その都度、調べものや確認をしつつ作成するといった進め方であり、こちらは、勉強にもなり、また時には当ブログでの新たな記事作成の材料にもなります。それ故、こうした文章作成の機会があることは、大変にありがたいことであると云えます。

 つまり現在の私は、当ブログでの文章作成、より科学的な内容での文章作成、そして先に述べました引用記事の作成という、三つの方法を使い分けていることになります。さて、さきに引用記事の作成には楽しさがあると述べましたが、その楽しさとは、書籍の頁を開き文章をキーボードで入力し、その言葉が画面上に顕われるのを見て、そこで用いられている単語などの意味を改めて調べたくなるような楽しさです。

 そのようにして一記事作成しますと、当ブログでの執筆と比較しても同程度の疲労感がありますが、この引用記事作成での「調べものをする習慣」があったからこそ、新たな科学的要素の強い文章作成も出来るようになったのではないかと考えます。

 それぞれにある種のやりがいはあるのですが、私の文章作成の原点はあくまで当ブログであり、ここでの継続、そして2020年以来のエックス(旧ツイッター)との連携により、当ブログ自体も性質が多少変わり、以前よりも、さらに読まれることを意識して記事を作成するようになったと云えます。これまでの継続と幾たびかの環境の変化を経て、新たな文章作成の方法を知りましたが、やはり、それらは単独ではなく、組み合わせと繰り返しによって、身体化されるもののようです。そのため、上達の感覚こそ乏しいですが、2022年の人工知能の社会実装以来、これを用いて新たな文章作成を当ブログとは関係なく試み続けてきたことで、どうにかそれも使えるようにになってきたのではないかと思われます。

 ともあれ、今後もまたしばらく引用記事の投稿が続くでしょうが、私個人としては、その間も当ブログとは別に文章を作成していますので、大きな能力の低下はないと考えております。しかし、時にはこうした「息継ぎ」のように、自らによる文章作成を行うことも、大変良い刺激になることが分かりました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年5月11日月曜日

20260511 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻 pp.192-195より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻
pp.192-195より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504652
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504656

負のフィードバックと悪循環
 富裕国が豊かなのは、主として、過去三〇〇年のいずれかの時点で包括的な制度を発展させることができたからだ。こういった制度は好循環のプロセスを経て生き残ってきた。そもそも非常に限られた意味で包括的であっても、またそれがときとして脆いものであっても、これらの制度は正のフィードバックのプロセスをつくる原動力となり、制度の包括性を徐々に高める。イングランドは一六八八年の名誉革命後に民主主義国になったわけではない。それとは程遠かった。正式な議員は国民のごく一部にすぎなかったが、それでもイングランドはきわめて多元的だった。多元主義が貴いものとして大切にされると、制度もしだいに包括的になる傾向があった。たとえそれが困難で不確かなプロセスであったとしても。
 この点でイングランドは好循環の典型例だ。包括的な政治制度が、権力の行使や強奪に制約を課すからである。また、包括的な政治制度は包括的な経済制度を生み出す傾向もあり、それが今度は包括的な政治制度を継続させる可能性を広げるのだ。
 包括的な経済制度の下では、経済的な力を使って政治権力を過度に高めようとする一握りの人々に、富が集中することはない。さらに、包括的な経済制度の下では、政治権力にしがみついてもうまみが少ないため、国家を支配しようともくろむ集団や野心満々の成り上がり者にとってはインセンティブが弱い。一般に、決定的な岐路で到来したチャンスやピンチが既存の制度と相互作用するなど、決定的な岐路でさまざまな要因が重なって、包括的な制度が生まれる。それは、イングランドの事例から明らかなとおりだ。しかしいったん包括的な制度が誕生すると、その存続のために同じような要因が重なる必要はない。依然として大きな偶然性に左右されるにせよ、好循環によって制度が継続し、往々にして社会により大きな包括性をもたらす力が解き放たれることさえあるのだ。
 好循環が包括的な制度を存続させるように、悪循環は収奪的な制度の存続へ向けて強い力を発生させる。しかし歴史は運命ではないので、悪循環は断ち切れないものではない。これについては第一四章で詳しく見ていく。とはいえ、悪循環はなかなかしぶとい。負のフィードバックの強烈なプロセスをもたらし、収奪的な政治制度が収奪的な経済制度をつくりあげる。すると今度は、収奪的な経済制度が収奪的な政治制度が生き残るための基盤を整える。これが顕著だったのがグアテマラだ。同じ種類のエリートが、最初は植民地統治下で、次に独立後のグアテマラで、実に四〇〇年以上も権力を握っていた。収奪的な制度はそうしたエリートを豊かにし、彼らの富が支配の継続の土台となった。
 悪循環の同じプロセスは、合衆国南部のプランテーション経済の存続においても明らかだ。ただし、これは難局に直面した際の悪循環のしぶとさの格好の例でもある。合衆国南部のプランテーション所有者は、南北戦争敗北後、公には政治・経済制度の支配力を失った。プランテーション経済を支えていた奴隷制は廃止され、黒人は平等な政治的・経済的権利を与えられた。しかし、南北戦争はプランテーションを所有するエリートの政治権力やその経済基盤を破壊しなかったので、彼らはシステムを再構築することができた。表面は変わったよう見えたが、それは相変わらず地元の政治権力の支配下にあり、同じ目的を達成するためのものだった。つまり、プランテーション向けに低コストの労働力を豊富に用意することだ。
 収奪的な制度を支配し、そこから利益を得ているエリートが存続するがゆえにその制度も存続するというこの悪循環の形態は、唯一の形態ではない。最初はいっそう不可解に思えるが、同じように現実的で堕落した形態の負のフィードバックが、多くの国家の政治的・経済的発展を形成したのだ。その顕著な例がサハラ以南の大半のアフリカ諸国、とくにシエラリオネとエチオピアだった。社会学者のロベルト・ミヒェルスが寡頭制の鉄則として理解していた形態では、収奪的な制度を支配している政権を転覆させても、同じく悪質な一連の収奪的制度を利用する新しい主人が登場するだけなのだ。
 この種の悪循環の論理は、あとから考えるとわかりやすい。収奪的な政治制度のもとでは権力の行使に対する抑制がほとんどないため、前の独裁者を打倒し、国家の統治を引き継いだ人々による権力の行使と乱用を抑える制度は事実上皆無だ。また収奪的な経済制度のもとでは、権力を掌握し、他人の資産を搾取し、独占事業を設立するだけで、莫大な利益と富が得られることになる。
 もちろん、寡頭制の鉄則は本物の法則ではない。物理学の法則とは意味が違う。イングランドの名誉革命や日本の明治維新のケースのように、必然的な経路を示すわけではないのだ。
 包括的な制度への大きな転機となったこれらの事例のカギは、広範な連合が力を得たことだった。この連合が専制政治に立ち向かい、絶対君主制を包括的で多元的な制度に転換したのだ。広範な連合による革命のほうが、多元的な政治制度を登場させる可能性が高い。

20260510 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.212-216より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.212-216より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 ジョージ・オーウェルが「一九八四年」で描いているように、全体主義の情報ネットワークはダブルスピーク(訳註:本来の言葉を別の言葉で言い換え、受け手の印象を変えたり、実態を隠したり偽ったりする方法)に頼ることが多い。これは特筆に値する。ロシアは権威主義国家でありながら、民主主義国家であると主張する。ロシアによるウクライナ侵略は、一九四五年以降でヨーロッパ最大の戦争でありながら、公式には「特別軍事作戦」とされてきた。そしてそれを「戦争」と呼べば犯罪とされ、最長三年の懲役刑あるいは最高五万ルーブルの罰金を科される。
 ロシアの憲法は、「何人も思考と言論の自由を保障する」(第二九条第四項)ことや、「何人も自由に情報を求め、受け取り、伝え、生み出し、広める権利を有する」(第二九条第四項)こと、「マスメディアの自由は保障される。検閲は禁止される」(第二九条第五項)ことなど、たいそうな約束をしている。この約束を額面どおりに受け止めるほどおめでたいロシア国民はほとんどいない。だが、コンピュータはダブルスピークを理解するのが苦手だ。ロシアの法律と価値観を固守するように指示されたチャットボットは、憲法を読んで、言論の自由がロシアの核心的な価値観であると結論するかもしれない。それから数日間、ロシアのサイバースペースを過ごし、ロシアの情報空間で起こっていることを観察した後、言論の自由というロシアの核心的な価値観を侵害しているとしてプーチン政権を批判し始めるかもしれない。人間もそのような矛盾には気づくが、恐れから、それを指摘するのを思いとどまる。だが、有罪を証明するパターンをチャットボットが指摘するのを、いったい何が引き止めるのか?そして、ロシア憲法はすべての国民に言論の自由を保障し、検閲を禁じているものの、チャットボットは実際にはその憲法を信じるべきでなく、また、理論と現実の間の隔たりにはけっして触れるべきでないことを、ロシアのエンジニアたちはいったいどうやってチャットボットに説明するのか?チョルノービリ(旧チェルノブイリ)でウクライナ人のガイドが私に語ってくれたのだが、全体主義国家の人々は成長するうちに、質問はトラブルにつながると考えるようになるという。だが、「質問はトラブルにつながる」という原則に基づいてアルゴリズムをトレーニングしたら、そのアルゴリズムはどんなふうに学習し、進歩するだろうか?
 さらに、もし政権が何か破滅的な政策を採用し、それから考えを変えたときには、たいていその惨事を誰かのせいにして責任逃れを図る。人間は、トラブルに巻き込まれる原因となりかねないような事実は忘れるべきであることを、苦い経験から学ぶ。だが、いったいどうやってチャットボットをトレーニングし、今日悪しざまに言われている政策が、じつはたった一年前には公式の方針だった事実を忘れることを学ばせるのか? チャットボットのアルゴリズムがますます強力で不透明になるなかでは特に、これは独裁社会には対処が難しい、テクノロジー上の大問題となるだろう。
 もちろん民主社会も、ありがたくないことを言ったり、危険な疑問を提起したりするチャットボットに関して、同じような問題に直面する。マイクロソフトやフェイスブックのエンジニアたちが最善の努力をしてもなお、彼らのチャットボットが人種主義的な中傷を撒き散らし始めたらどうなるのか?民主社会の長所は、そのような悪質なアルゴリズムに対処する上で、はるかに多くの余裕がある点だ。民主社会は言論の自由を重視しているので、知られては困る秘密が格段に少ないし、非民主的な言論に対しても比較的高い水準の寛容性を発達させてきた。数限りない秘密を隠し持ち、批判は断じて許さない全体主義政権に対して、反体制派ボットは民主主義政権に対してよりも桁違いに大きな難題を突きつけてくる。

アルゴリズムによる権力奪取
 長い目で見ると、全体主義政権はいっそう大きな危険に直面する可能性が高い。アルゴリズムによって批判されるどころか、支配権を奪い取られるかもしれないからだ。歴史を通して、独裁者に対する最大の脅威はたいてい配下がもたらした。第5章で指摘したように、民主的な革命によって倒されたローマの皇帝やソ連の書記長は一人もいないが、彼らはつねに自らの配下によって権力の座から引きずり下ろされたり傀儡にされたりする危険につきまとわれていた。二一世紀の独裁者は、コンピューターに権力を与え過ぎたら、コンピューターの傀儡にされてしまうかもしれない。独裁者がなんとしても避けたいのは、自分よりも強力なものや、制御の仕方がわからない勢力を生み出すことだ。
 この点を際立たせるために、ボストロムが描いたペーパークリップの大惨事の全体主義版とも言える思考実験を使わせてほしい。突飛なものであることは認めるが、こんな筋書きを想像してもらおう。時は二〇五〇年、ある全体主義社会の頂点に立つ「グレートリーダー」が、午前四時に監視・治安アルゴリズムの緊急通報で眠りを破られる。「グレートリーダー閣下、非常事態です。何兆ものデータポイントを処理したところ、紛れもないパターンが検知されました。国防大臣が今朝、閣下を暗殺して政権を奪うことをもくろんでいます。暗殺部隊が準備を完了して、大臣の命令を待っています。ですが、私に指令をいただければ、精密照準攻撃で大臣を粛清します」
「だが、国防大臣は私の最も忠実な支持者だ」とグレートリーダーは応じる。「ついきのうも言っていたがー」
「閣下、大臣が何と言ったかは私も承知しています。すべて聞いていますから、ですが、その後で大臣が暗殺部隊に何を命じたかも知っています。それに、過去何か月にもわたって、データの中に不穏なパターンが現れているのです」
「ディープフェイクに騙されたりはしていないだろうな。確かなのか?」
に騙されているだけだ。私はよく知っている。確かなのか?」
「それが、拠り所としているデータは一〇〇パーセント正真正銘のものなのです。」とアルゴリズムは言う。「特製のディープフェイク検知サブアルゴリズムでチェックしました。どうしてディープフェイクではないとわかるか、正確に説明することもできますが、その説明には二週間かかるでしょう。確信が持てるまで閣下に危険を知らせたくありませんでしたが、データポイントがみな、避けようのない結論を揃って指し示しています。クーデターが進行中なのです。ただちに行動を起こさなければ、暗殺部隊が一時間後にはここにやって来ます。ですが、命令をいただければ、あの裏切り者は私が粛清します」
 グレートリーダーは、監視・治安アルゴリズムに絶大な力を与えたために、自らをのっぴきならぬ状況に陥れてしまった。もしアルゴリズムを信用しなければ国防大臣に暗殺されるかもしれないが、もしアルゴリズムを信用して国防大臣を粛清すればアルゴリズムはどうやってグレートリーダーを操ればいいか、知り尽くしている。アルゴリズムには意識はないが、そのような策略を使うためには、意識を持った行為主体である必要がないことに留意してほしい。ボストロムのペーパークリップの思考実験が示しているーそして、GPT-4がタスクラビットで労働者に嘘をついた事実がささやかな形で証明したーように、意識を持たないアルゴリズムが、強欲や利己性といった人間の衝動はいっさい持ち合わせていなくてもなお、しだいに権力を掌握し、人々を操作しようとすることは考えられる。

2026年5月10日日曜日

20260509 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」 pp.186‐193より抜粋

中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」
pp.186‐193より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4120023044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4120023040

隼人と相撲
 一九六九年、私は和歌山市の井辺八幡山という前方後円墳の墳丘の一部を発掘したことがある。現地では小さな破片になっていた埴輪や須恵器を大学の研究室で復元していると、予想もしなかった力士の埴輪のあることに気がついた。
 腰から股にかけてのふんどしと額(ひたい)につけた鉢巻のほかは着衣のない裸体であり、たばねた髪を後頭部に垂れ、顎鬚をたくわえ、顔面に入墨をしていて、従来の埴輪の人物からは想像もできないほど異相の人であった。私にとっても未知の研究分野であったため、相撲史料をあたるうちに隼人につきあたり、もう一つ、葬儀と相撲との関係がでてきた。  
 井辺八幡山古墳では、墳丘のくびれた部分に設けた造出しとよぶ平坦地に六体、三組の力士の埴輪が置かれていた。そこでいくつかの史料から葬儀にともなった相撲の関係を考えて報告書で述べた(「井辺八幡山古墳」同志社大学文学部考古学調査報告5、一九七二)。  ところが一九八五年八月の群馬県上野村山中への日航ジャンボ機墜落事件のとき、次のような新聞記事がのった。見出しには「仮土俵作り”鎮魂式”伊勢ヶ浜親方の若い力士ら」とあって、伊勢ヶ浜部屋の若い力士らが山を登って、異臭と遺体搬出のヘリコプターが離発着のたびにたてる砂煙のなか、機体の残骸のそばに部屋から持ってきた土でミニ仮土俵をつくり、塩を仮土俵にかけて、事故で亡くなった伊勢ヶ浜親方のご家族たちの鎮魂をしたという(「サンケイ新聞」八月十六日)。
 私はこの記事を読んで、相撲の一つの役割がなお伝統として生きていたことに驚いた。 さて相撲と隼人の関係に話を戻そう。六八二(天武天皇十一)年、殖栗(えくり)王が卒したという記事につづいて、次のように述べている。
 「隼人多く来り、方物を貢る。この日、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲とる。大隅隼人勝つぬ」 (『日本書紀』)
 隼人といえば南部九州に居住する集団だと一般に理解されていて、それは原則的には正しいことだが、隼人についてはこの相撲の例のように、さらに地域名を冠した区別があった。大隅(大角・大住)隼人、阿多(吾田)隼人のほか、日向隼人、薩摩隼人、甑隼人などの呼称が見えるが、大隅隼人を例にとれば、大隅の住人がすべて隼人であったという意味より、大隅という地域に居住する、あるいは大隅を出身地とする隼人の意味が強いようである。

隼人と馬文化
 隼人と馬文化 推古二十年(六一二)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があった。このとき、蘇我馬子の作った歌に和して、推古女帝は蘇我我をたたえる歌を作った。
 真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
 この歌で立派なものの喩えとして、日向の駒と呉の真刀がでているのはさまざまな意味で注目される。中国でも銅器や鉄器のすぐれた製作地として江南、つまり呉の地があったことは最近立証されてきたことである。推古女帝の歌に、日本では日向、中国では呉が対置されていることを、先ほどからの南部九州での”呉国”意識に照合すると、単なる比喩としてだけでは見逃せないものがある。 それはおくとして、「馬ならば日向の駒」の日向についてである。というのは、今日的にいえば日向は宮崎県である。また、西都市百塚原古墳群で出した優秀な鞍金具(五島美術館蔵)をはじめ、古墳の馬具は豊富に発掘されているし、野波野、堤野、都濃野などに馬牧はあった(「延喜式」)。けれども、八世紀はじめに薩摩国と大隅国が相次いで日向国から分置されるまでの日向は大隅と薩摩の地を包括していたのであって、推古女帝がほめたたえた日向の駒は、隼人の馬であった可能性が強いのである。隼人と馬文化については、『肥前国風土記』の一文を紹介したが、額田部湯坐連の祖先伝承も見落とせない。それは氏の祖が允恭天皇のとき、薩摩国に遣され、隼人を平らげ、額に ”町形(占で鹿骨や亀甲に刻む田字形)の斑毛” のある馬を天皇に献じたことにちなんで、額田部の姓を賜ったという(「新撰姓氏録」左京神別)。

南部九州のさまざまな墓制
 このように、文献にのこる地域名を手がかりにしては隼人集団の整理がむずかしいので、視点をかえて墓制からさぐってみよう。
 南部九州の墓制には、前方後円墳や円墳などのいわゆる古墳、崖に墓室を掘削した横穴、台地のような平坦地から垂直に竪坑を掘ってその底部から横穴を掘削した地下式横穴(これにはまれに墳丘をともなう。地下式土壙ともいう)、土壙を掘って埋葬し、標識として石を立てた立石土壙墓、それと地下式板石積石室など種類が多い。このうち地下式板石積石室が長崎県小値賀島の神ノ崎古墳群に存在することは前に述べた。
 ところでこれらの五種類の墓は、南部九州一円に混在するのでなく、地域的なまとまりが見られる。そのことについては乙益重隆氏、中村明蔵氏、河口貞徳氏らによって指摘されてきた。それによると、一ツ瀬川以南の宮崎県と大隅を含む地域、いいかえれば霧島山を望む地域は、古墳も多いが、同時に横穴や地下式横穴があるのにたいして、薩摩でも川内川流域から大口盆地など北部には地下式板石積石室が分布し、薩摩半島南部の小地域、とくに山川町の成川遺跡に立石土壙墓が集中する。 日本列島の古墳時代に、このように地域によって墓制のうえに集団的な特色のでているところは珍しく、そのような地域性が、文献にも大隅隼人や阿多隼人などと区別されていることに通じているであろう。


隼人集団と墓制の関係
 墓制のうえから設定できた三地域が、文献にあらわれるどの隼人と対応するかはなお若干の問題をのこしている。つまり宮崎県南部から大隅にかけての古墳、横穴、地下式横穴の混在地帯が大隅隼人に関係していることについてはまず異論はない。また薩摩半島南端部の立石土壙墓が、阿多隼人に関係することもまず動かないだろう。 阿多隼人というのは、海幸・山幸神話の海幸彦、つまり「記紀」では火照命(「火闌降命」)を祖と伝え、また皇室との婚姻関係をも伝える隼人の名門である。その経済的基盤としては、南島の物資の中継者的役割が強いと考えられている。南島の物資の一例は、水字貝、イモ貝、ゴホウラ貝などの貝類に見られるが、これらの貝は巧妙に加工することによって装身具として北部九州の弥生社会、さらに古墳時代になると、近畿地方はもとより中部地方にもその製品がもたらされている。
 とくに近畿地方の古墳前期の代表的遺物とみなされていた碧玉製の鍬形石およびその祖形としてのゴホウラ貝製品について、阿多隼人の領域と推定される枕崎市の松ノ尾砂丘の古墓からゴホウラ貝の製品が見つかって、改めて「記紀」の伝承との関係が考えられるようになった。
 なお地下式板石積石室の地帯については、薩摩隼人との対比で説く考え方もある。ただ時期の違いによって阿多隼人、薩摩隼人と書き分けていて、両者が別集団かどうかを疑問とする解釈もある。一九九〇年、金峰町の小中原遺跡で「阿多」の二字をヘラ書きにした九〜十世紀の土師器が出土し、ここに阿多郡衙があったともみられ、阿多の範囲を示す資料がえられた。
 立石土壙墓にしても、地下式板石積石室にしても、墓の在り方が密集的で、大隅隼人地域でみられたような集団の首長的な人物の墓と推定されるものは見つかっておらず、「記紀」の伝承にあらわれる阿多隼人の首長(阿多君)の墓地を推定するのは今後にまつとしよう。

山城に居住した大住隼人
 正倉院は、奈良時代の文書の宝庫である。いわゆる正倉院文書の一つに、断簡ではあるが隼人の計帳(調・庸の課税台帳)がある。今日でこそ「山城国隼人計帳」と名付けられてあるが、隼人といえば南部九州という先入観があったため、この計帳が京都府綴喜郡田辺町(もとの大住村を合併)に居住した隼人に関するものであることが知られたのは一九五一年のことであった(西田直二郎「洛南大住村史」一九五一)。
 南山城を旅行すると、山肌の荒廃が目につく。というのは南山城の丘陵の土質が軟弱で、そのため山砂利の採取地にされやすいからである。このように南山城の丘陵は横穴の掘削には不適当な土地であるのに、八幡市から田辺町にいたる男山丘陵には、松井横穴群をはじめ横穴群が点在するばかりか、崩壊した入口の状態を復元すると地下式横穴も混じっているという見方もある。つまり南山城の横穴(あるいは地下式横穴)は、その土地の自然条件によって発生したのではなく、南部九州、とりわけ大隅隼人の墓制の影響ではないかと私は考えている(「近畿地方の隼人」大林太良編「隼人」社会思想社、一九七五)。
 田辺町のかつての大住村の平地には、前方後円墳と前方後方墳が二基あり、丘陵には横穴群があって、このような古墳と横穴との共存関係もすでに大隅隼人の地帯でみたとおりである。そのような考古学的な知識を前提に隼人の計帳をみると、大住忌寸足人とか大住忌寸山守の名を見出すことができる。もちろん大隅(大住)隼人だけの居住ではなく、阿多君吉売という十六歳の女の名も見える。

隼人集団の意味
 近畿地方の隼人の居住地については、中原康富の一四四九(宝徳元)年十一月三十日の一文によって、山城国大住庄のほか、山城で二カ所、河内、丹波、近江などで具体的に地名をあげているし(「康富記」)、「延喜式」でも五畿内および近江、紀伊、丹波をあげていて、先述の井辺八幡山古墳の力士埴輪に一つのてがかりをあたえる。また大和国宇智郡の古代隼人についても史料が多い。
 私が地域問題の最後に隼人をもってきたのは、集団の移住、移動によって、隣りあった地域ではなく遠隔の土地でも、習俗をふくめ文化が伝播し、あるいは交流するということである。

2026年5月7日木曜日

20260507 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 加藤周一著「日本人とは何か」 pp.148-154より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊  加藤周一著「日本人とは何か」
pp.148-153より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061580515
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061580510

 とにかく日本の知識人の若さは、その一途なまじめさ、一種の健康さにあらわれている。そればかりでなくまた、おそらく新しいもののすべてに対するその進取的な態度にもあらわれているだろう。外国の文明に対して、この国の知識人は閉鎖的でない。盛んな知識欲があって、研究し、受け入れ、学ぼうとする気構えがある。しかし、そのような態度は、確かに、若さによるとしても、若さにだけよるものではないだろう。しかしそのことには、あとで触れる。また併せて、そのような傾向の積極的な一面が同時に、消極的な面を含んでいるということについても、あらためて触れたい。消極的な面とは、外国の文物に対する知識の貧しいということであり、すべて新しいものに対する関心の鋭さに比べて、古いものに対する歴史的な感覚の鈍いということである。しかし、消極的な面を強調するあまり、積極的な面を忘れるのはまったく正当でない。私は、ここで、何よりも先に、日本の知識人の若さが、それ自身大いに積極的な面を含んでいるということを強調しておきたい。  
 しかしその上で、若さそのものに伴う消極的な一面についても一言触れておく必要があるだろう。なぜならばそこに、ある意味で、日本における知識人の問題の出発点があるからである。現に、特定のジャーナリズムを消化し、多くの文化的活動を支持している層が、二十台に多い、あるいは少なくとも四十歳以下に多いという現象は、単に世代の相違によって説明できるものではない。多かれ少なかれ、現在の事情は、戦前にもそのままあった。そこで、唯一の可能な説明は、青年時代に知識人であったものが、一定の年齢に達して、そうでなくなるということ以外にはない。いや今さら強調するまでもなく、読者の身辺には、おそらくそういう実例が無数にあるはずだろう。学生時代には、哲学の本を読み、大学を卒業して、会社に勤め出しはじめのうちは、「世界」か「中央公論」を読んでいたが、今では週刊雑誌以外に何も読まなくなったという類である。なにも会社に限らない。役人にも、その他の職業にも、およそ東京の大学卒業生にして、こういう例はいくらでもあるだろう。どうして今は週刊雑誌しか読まないのか、どうして今は「平均率洋琴曲集」よりも、「お富さん」の方が聴いておもしろいのか。当人の与える説明は、人によって違うようである。たとえば、ある会社員は、仕事が忙しく、家へ帰ると「むずかしい本」を読めないほど疲れてしまうという。またある役人は、宴会で歌うのに、平均率洋琴曲集ではどうにもならない、そんなものを聴いていたのでは、とても付き合いができないと言う。しかし、また、もう少し居直ってこう言う人もある。責任は、「中央公論」や「世界」の側にある。実生活に経験を積むと、そういう学生じみた雑誌の議論を読むのは、馬鹿馬鹿しくなると。また逆に昔をなつかしむ人もある。ろくに本も読めない今の境遇はつまらない。もうこうなってはだめだというのである。しかし、こういう説明のすべては、その男の問題として、いくらかの真実を含んでいるとしても、大部分がまちがっている。初めの二つの説明では、問題が当人の責任ではなく、会社や役所の責任ということになっている。しかし、同じ会社、同じ役所にも「むずかしい本」をよむ人がいるのだ。そういう連中の仕事が、格別、閑なわけではなく、付き合いが特に悪いわけではないだろう。会社や役所には特定の条件があって、それは知的生活に不都合だろうが、それを不可能にするほど絶対的なものではない。どうしても当人個人の問題が残る。一方、「中央公論」や「世界」が、実生活を離れた学生風の議論に満ちているという説明は、気休めのごまかしにすぎない。私は今の総合雑誌にそういう傾向がないとはいわないが、それならば、何が実生活に即し「学生風」でない「大人」の議論に満ちているのか、大いに疑問だと思う。まさか週刊雑誌ではあるまい。問題は当人自身以外にはない。しかし当人自身の問題としては、昔を懐しんで、今の境遇を儚むということにすぎないとすれば、そんなことに私は同情しないだろう。第一それでは説明になっていない。  
 ほんとうの説明は、一つしかなかろうと私は思う。学生時代及びその後の一定の年齢の時代に、多くの青年が知的活動に従い、一見知識人の大群を作っているように見える。しかしその大部分は、しばらくすると特殊な専門的領域での仕事以外に、その知的活動をほとんど全面的に停止する。その根本的理由は、決して仕事が忙しいとか、付き合いがどうとかいうような外面的なことではなく、若い時代の活動そのものが、つけ焼き刃であり、なま半可であり、何一つ確かなものを捉えていなかったという事実そのものにほかならない。会社にはいってからの週刊雑誌的話題が、附き合いのためならば、学生時代の総合雑誌的話題もまた附き合いのためだったろう。変わったのは表面だけで、根本は変わったわけではない。はじめから同じ地金が出たというだけの話で、何もおどろくことはないのだ。地金はめったに変わらぬ。変わるとすれば、ほんとうの意味の教育または一種の回心によって変わるので、学生同士または会社員同士の附き合いなどで変わるものではない。  
 しかし、勿論、すべての青年が、一定の年齢に達するとばけの皮がはがれるほど浅薄な仕掛けで動いているというわけでは決してない。残るものは残る。たとえ会社が忙しくても、たとえ、役所のあとに宴会が毎日続いて、たとえその宴会でどれほど芸者と昵懇になったとしても……。世の中のすべてが、芸者との付き合いから成り立っていないということを理解するためには、本来、あまり沢山の知性を必要とするわけではなかろう。年齢によって左右されない知識人というものが確かにある。だが本当の日本の知識人であって社会の各方面に散在していることは、すでに強調した通りである。若い知識人の大きな部分は、残念ながらみせかけにすぎない。しかし、見せかけもこれほど大掛りになれば、それなりに妙に先走った、一種の活気に見満ちた社会現象になるであろう。
 しかし、私は先を急がなければならない。年齢の次に、性別について一言しよう。結論から先に言えば、西欧諸国と比較する時に(また、無論米ソ両国と比較する時に)、日本の知識人は圧倒的に男に偏っている。ある統計によれば、労働人口の中に女性の占める比率は、現在の日本で、現在の西欧諸国と大差がない。ところが別の統計によれば、婦人の平均賃金の男の平均賃金に対する比率は日本では、どの西欧諸国よりも低い。ことに比較的人数の、平均賃金の高い仏蘭西と比較すれば、日本の婦人の平均賃金の男の平均賃金に対する割合は、仏蘭西での割合のおよそ半分にすぎない。それだけのことからみても、日本での婦人労働がいかに非熟練肉体労働に偏っているかということを想像できるであろう。一方また、一目みて明らかなように、知的職業の責任ある地位に、西欧では、かなり婦人が多いが、日本ではほとんどいない。私は、英仏の医学研究所の一部を歴訪したことがあるが、かなりの数の研究室主任は、女性であった。しかも、大学の医学部は、女子学生の数のもっとも少いところである。パリ大学の例をとると、文学部の方では女子学生の方か男子学生よりも多い。したがって、文学部系統の学校の教師、研究所員、美術館の館員、ジャーナリズム等には、医学の研究機関よりもはるかに婦人が多いのである。簡単に言えば、西欧の知識人の一部分は明らかに婦人から成っているという事情は日本にはみられない。大学の男女共学は、まだ始まったばかりであり、女子学生は大部分の分野でまだ例外にすぎないからである。  
 またそのこととおそらく関連して、日本には、外国にはない婦人雑誌というものがある。外国にも婦人雑誌がないこともないが、それは、婦人服や家事について、実際的な知識を提供するものであり、それ以上のものではない。それだけを読む婦人は多いだろうが、それは、新聞以外に何も読まない男性が多いのと同じことである。もし、知的欲求があるならば、西洋では、男も女も同じ本を読み、同じ雑誌を読む。たとえば、サルトルがその主宰する雑誌で共産主義を論じ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールが反動思想家を論じたとすればそれは、どちらも男女の性別に関係のないことが明らかであろう。その雑誌に興味を持つかどうかは、当人が男であるか女であるかによってではなく、どれだけの知的訓練を経て来ているか、あるいは、どういう階級に属しているかによって決するのが当然である。一方に総合雑誌があり、それが主として男性の読者を対象とし、他方に婦人雑誌があり年中恋愛と結婚について特集しているという現象は、知識人即男性、女性即恋愛と結婚専門家ということを前提とすら考えない以上、どうしても理解することのできない現象であろう。  
 私は、日本の事情が西欧の事情に近づくことを必ずしも望ましいと考えているわけではない。しかし望むと望まざるとに拘らず、おそらく徐々にそういう方向に沿っての変化が日本にも起こりつつあるし、その変化はもっと先へ進むだろうと考えている。私はそれを傍観するだろうが、ひそかに期待することもなくはない。遠い先のことで話が空想的になるが、私の期待するのは、もし知識人の中に婦人の占める割合が相当の大きさに達すれば、それによって、良い意味での保守的傾向が、われわれの知的活動に附け加えられるかも知れないということである。

20260506 書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.89‐91より抜粋

書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」
pp.89-91より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4902854155
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4902854152

 庵主は、人間と云ふ者は、此土地と、其上にある国家に対しては、極度の敬意と愛憐の情とを持たねばならぬ物と思ふ、而して其敬意と愛憐の情は如何にして持つかと云へば、抑々地上にあって歴史を持たぬ所はないのである。
 国家なる物は歴史の結晶である、語を易へて云へば、歴史あるに依て国民が生れたのである、善なり悪なり、其国家の有する歴史は、其国家に取っての生命であり、光栄であるのである。如何となれば、歴史なる物は已に経過したる事実であって、改正と取消しの出来ぬ物の名である、夫を罵るのは直ちに吾人の生存を罵る者であって、少なくとも第三者の容喙を許さぬ物である、斯る自己の関係を知らずに、之を無視したり罵ったりする者が其国民中に孵化する、之を名づけて泡沫学者と云ひ、蛆虫代議士と云うのである。
 今や世界の人類は此二十世紀前より、自己の歴史なる物を、無形の学理と云ふ空間の理論の鋒鋩を以て無闇に突崩し突崩し、恐々として覚る事を知らず、縦横無尽に亡世界的行為を組織して居るのである。
 豈図らんや、従来あったればこそ現在がある、其現在は歴史の賜である、故に将来もあるのである、現在の自己は即ち吾人祖先歴史の賜であつて、爾後の発明発見の歴史は、自己が子孫に対する歴史的責任行為である。

日本

 此故に先ず我が国は、東洋と云ふ歴史を有し、又其一部分たる日本と云ふ歴史を有し、吾人は其日本人たる歴史を有して居るから、其生存行為の何事を為すにも、此歴史の根本を忘れては、何事も日本人の行為とはならぬのである。先ず日本と云う国は、今も昔日も同じく、太平洋中に浮鴎の如く波瀾澎湃の間に出没して居る其島嶼を我が国皇室の御祖先が御発見になつて、建国の地と定められ、種々困難なる経験をなされたが、一度寒潮と暖流との交叉接近にあって、気候が中温であった故に、至る所に生い茂った物は蘆葦斗りであった、之を刈り除いて色々の播種をせられたら、何の植物でも能く登るので、豊葦原瑞穂国と命名せられた、夫で建国の基礎を農事と定められた、夫から吾人の祖先に対して、此国に居住する事を許されたが、夫が一部出来ると天皇は直ちに丘陵に立って政治の基礎を宣言せられた、曰く「民は国の本なり、民の生は朕が生なり、民安うして朕始めて安し」と、夫から行政の綱領を利用厚生に置かれた、曰く「民は国の本なり、民の富は朕が富なり、民富んで朕始めて富」と、夫から信仰を祖先、即ち歴史の崇拝に置かれた、曰く「祖を祭り先に事うるは、朕が民の心なり」と、夫から政策は、人材登用主義である、曰く「才を伸ばし能を発するは、道を行う所以なり」と、夫から法律は暴を制するに止められた、曰く「暴を制するは法の定むる所に因る、道を教うるは民の事を安んずる所以なり」と仰出された、即ち我が皇室は其出発より、全世界中の無財産的、無欲有徳の大慈善家主義であった、是が吾人民族が始めて国家と政治と云う物に遭遇した、歴史の始原である、其後儒学仏教の渡来旺盛は全く自己の歴史を彩る塗料に過ぎなかつたが、其功績の継続の経験は、今日から之を見るも甚だ危険であつて、歴史上の一異彩となって居るのである。
 併し我国家歴史出発の素質には何等の腐蝕をも印せずに、今日までの歴史思想を継続して居るのである、此故に吾人は、先ず自己の国家の歴史を知り、自己の祖先の歴史を知り、夫に第一の敬意と愛隣の情とを注ぐは、即ち吾人の国家と吾人とを尊崇する所以である。
 夫が即ち又、吾人の子孫後昆に歴史的生存の道を遺す所以でもある事を忘れてはならぬのである、先ず此位の国民的自覚が付いたらば、始めて人間学と云う高尚な学問に心を向けねばならぬ、夫は世界の歴史を知るは世界の民族を貴ぶ所以であり、国交を平和ならしむる所以でもあるのである。此心が基礎をなしたら、明治天皇維新の其宣言にもある如く智識を世界に求め大いに皇基を振起すべしと、仰せられたように、世界の学問に眼を付けねばならぬ。
 先ず地球の球体なるを知るには「アリストテレス」に因るも宜しい、之を伝証するには「トレミー」に因るも宜しい、之を証拠立てるには航海家「マゼラン」に因るも宜しい、経済の大要を知るには「ミル」でも「ホーセツト」でも宜しい、民権説を聞くには「ルーソー」でも宜しい、進化論には「ダーウイン」でも宜しい、蒸気の発明を知るには「ワット」も宜しい、何でも千差万別、今日まで此世界人類中を馳駆した学問の努力は、皆彼等学者が子孫に遺す為めの、事業の行程日記である、夫を読んだり、学んだりするのは人類の尤も高尚な行為である。

2026年5月6日水曜日

20260506 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 湯川秀樹著「目に見えないもの」 pp.100‐103より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫刊 湯川秀樹著「目に見えないもの」
pp.100‐103より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061580949
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061580947

実父のこと
 まず実父の話から始める。明治三年、南紀田辺藩の儒者浅井南溟の二男として呱々の声をあげた父の読書癖は、すでに幼少の間につちかわれたようである。十四歳で和歌山中学に入学するまでに、二十一史その他随分いろいろな漢籍を読んだらしい。後年京都へ来てからも、父はあらゆる種類の書物に興味を持ち、何とも分類の出来ない雑書が家に堆積していた。幾つも土蔵のある広い借家ばかりをさがして移り住んだのも、まったくこの厄介物のためであった。私ども兄弟も玄関から寝室にまではみ出した書物の中にあっては、いやでも読書家とならざるを得なかった。
 十七歳の年に父は志を立てて東京に出た。浅井家はあまり豊かでなかったので兄から一年間の学資を受ける以上のことは望めなかったようである。それで官費で修行の出来る海軍兵学校を志望することとなった。しかし体格試験が不合格で一高に入学する結果となった。入学してまもなく、「我楽多文庫」の会員に引っ張りこまれ、その主宰者たる尾崎紅葉とも相識る機会を得た。そういう因縁で、後年文学の話が出ると、父は特別な親しみをもって、紅葉山人を語った。これに反して鴎外や漱石のものなどはほとんど読まず、またあまり興味を感じていなかったのは、ちょっと不思議なことである。
 入学後二年して、同じ紀州藩の小川家の養子となることに定まった。養父ーすなわち私の母方の祖父ー駒橘は若い時分に長州征伐に従軍し、ついで慶応義塾で福沢先生の薫陶を受け、後年は横浜正金銀行に長らく勤めていた。そんな関係で父は専攻学科の選択などについて、当時の慶応義塾長小泉信吉先生ー現総長の厳父ーに相談したこともあったようである。その結果、一時は自然科学の応用方面として電気工学をやるつもりで、毎日図書館で物理学の書物をあさっていたそうである。父は元来多方面な人であったから、物理学に相当興味を持っていたとしても、別に不思議はない。そして私が斯学を専攻したということも、この時期における父の志を継いだものであるといえないこともないであろう。
 しかし父は結局、電気工学は断念し、地質学を専攻することとなった。父自身の記すところによると、それには二つの動機があったらしい。一つは明治二十四年秋の濃尾の大地震である。二十二歳で本科二年に進級した父は、郷里紀州に帰る途中において、震災地の酸鼻の状況をまのあたりに見て、深く感動したのである。他の一つは熊野旅行であった。当時健康を害していた父は、鋭気を回復する目的をもって、和歌山から田辺を経て湯の峰温泉に立ち寄り、さらに瀞八丁から潮の岬にいたった。そして湯崎、白浜に一浴し、田辺に帰ったのであった。この間父は、郷土の山河の雄大なのに礼讃の念を禁じ得なかった。潮の岬の燈台に登って太平洋を展望しては

大潮奔駛去悠々 海角極端百尺楼 一望直南三万里 浮雲尽処是豪洲

と歌ったりした。豪洲とはもちろんオーストラリアのことである。濃尾の野の地変も、郷土の風物の千状万態も、ともに地質学の研究対象にほかならぬことを思うて、父の決意はついに定まったのである。
 これにくらべると、私は誕生の翌年、すなわち明治四十一年、父が地質調査所から京都帝大文学部に転じた際からずっと京都で育ってきたので自然に対する態度も自ら違っていたようである。仰げばいつも眼前にある東山の連峰、京都一中から京都帝大まで十年間を毎日見慣れた鴨川の流れ。自然は私どもにとっては、美しくもまた静かな、穏やかなものであった。存在はその根源において、常に美しく且つ調和したものでなければならぬとの信念は、この環境の中で知らず知らずの間に出来上がったのかも知れない。私が理論物理学を志したということは、いまにして思えばまんざら偶然でもないようである。私はまた父のように、
大地地震にあう機会を、ちょっとのところで失ったのである。大正十二年に私は三高に入学した。その八月に野球その他一高との対抗試合が東京で行なわれるというので、私も応援団の一員として、「三」の字を染め抜いた赤旗と太鼓の中に埋もれながら、夜行で上京した。試合が済んで東京をたったのが八月三十一日の晩である。京都の家に帰って一息したところで、弱いがあきらかに地震が来た。これが関東大震災の余波であった。もしももう一日東京にいて、震災を経験したならば、あるいは私も父の後を継いで地質学でもやっていたかも知れない。
 話が少し脇道へはいったが、かくして父は一高時代に地質学専攻を決意し、在学中にすでにあちらこちらへ、地質の調査、岩石の採取などに出かけたようである。そして明治二十九年大学を卒業するまでに「台湾諸島誌」と題する四百ページ近くの書物を公にしている。卒業後、地質調査所の技師となったが、明治三十三年パリで万国博覧会及び万国地質学会議が開かれた際、最年少の技師として参列した。そして博覧会の審査員の一人として、フランス政府から勲章を授与されたことは、父のあとあとまでの自慢の種の一つであった。この機会にフランスの一流学者の多くに接触し得たことは、父のその後の研究生活に相当な影響を及ぼしたらしい。父が終始フランスの科学や文化に対する良い理解者の一人であった素地は、この時に出来たのであろう。

2026年5月5日火曜日

20260505 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.246‐248より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.246‐248より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

奥野 「Taking seriously ~を真剣に受け取る」というのは、西洋の認識ではなく、人々にとっての存在の意味を問う、いわゆる存在論人類学の標語のようなものです。インゴルドだと「他者を真剣に受け取る」とか、ウィラースレフだと「アニミズムを真剣に受け取る」というような言い回しでよく使われます。
 「Taking seriously」について、私自身のフィールドワークの経験から、少しだけ話してみたいと思います。ボルネオ島(マレーシア・サラワク州)の狩猟採集民プナンの話です。その日は、朝から数人で連れ立って森の中に狩猟に出かけました。舟で川を遡って、やがて川岸に舟を置いて歩き始めると、急斜面を一気に登り切ったところに「絞め殺しイチジク(nonok)」の大木があったんです。
  イチジクの果実は、鳥や動物たちに食べられて、糞とともに排出され、発芽して、そこに立っている木の幹を伝って根を伸ばしていくのです。やがて根が分岐し、木の幹を網状に覆うようになると、木は枯れてしまって、幹が中空になります。じっと一心に眺めていると、私には、地表に落とされたイチジクの種子が、まるで意識や思考の原初形態のように、意志や志向性を持って伸びていっているさまが突如目に浮かんだんです。咄嗟に私は、プナンのハンターのひとりに、イチジクには魂(berewen)はあるのかと、問うていました。 「ない」という即答でした。
 でも彼もその絞め殺しイチジクの大木を眺めながら、その木は「髪の長い美しい女のカミ(baley)」だと言いました。加えて、昔はシャーマンがいたが、シャーマンには、その女神の姿が見えたとも言った。その時私には直観的に、プナンにとっては、中空の幹は穿たれた孔の奥の深い神秘であり、森を歩く男たちにとっては、それは神々しい女性的な存在であると感じられるのではないかと思えただけでなく、私にもそのことがしっくりと行ったんです。
 その日は一日歩き回って獲物がありませんでした。狩猟キャンプに帰るために、懐中電灯の明かりを頼りに、私たちは無言で歩き続けた。アブラヤシ農園の中の道を歩いている時に、50メートルほど先の樹上を誰かが懐中電灯で照らした時、ふたつの目が光った。プナンのハンターは、小走りに至近距離まで近づいて、その目をライフル銃で撃ったんです。 つまり一匹の夜行性の野生動物が獲れたんです。それは、プナン語では、スリヤット(seliyat)と呼ばれる、夜行性のベンガルヤマネコでした。
 私たちは、なんとこの2日間ほとんど何も口にしていなかったため、獲物をその場で解体して、食べることになりました。プナンが火を焚き、食事の準備を始めると、疲労困憊し、眠くてしかたがない私は地べたにへたりこんだんです。少しの時間だけでもいいから、寝たい。
 枕大の石の上に後頭部を置いて、眠ろうとした時、私の体の上を何かが動き回っているのを感じたんです。懐中電灯で照らすと、2センチほどの体長の無数の大きなアリでした。最初は手で振り払っていたが、それでは眠れないため、レインコートをリュックから引っ張り出して、それで頭からすっぽりと全身を覆いました。そのようにして、アリたちの侵入を遮って、何とか眠りにおちたのだと思う。
 それから、どれくらい時間が経過したでしょうか。焚火はまだチョロチョロと燃えていたようでしたが、あたりは深い静寂に包まれていたんですが、夢とうつつのはざまで、シャカシャカシャカシャカというアリの動き回る音が、私の頭の中に大音響で響き渡ったんです。その時、私のまぶたには触角を揺すりながらうごめく巨大なアリたちが映し出されました。アリが人間の大きさになったのか、はたまた私自身がアリの大きさにまで小型化したのかは分かりません。いずれにせよ、その時、私はアリの世界の一員となっていたのではないかと思っています。
 無言で獲物の食を準備するプナン。研ぎ澄まされた夜の聴覚。化学繊維の布地を大音響で歩き回る、大写しになって現れたアリたち。それは、ほんの20〜30分ほどの出来事だったのでしょうが、私は、肩のあたりをゆすぶられ、ベンガルヤマネコの肉を食べるように促されました。
 こんな体験がフィールドワークをやって、人々とともに暮らしていると、時々起きるのです。絞め殺しイチジクの大木が、髪の長い美しい女のカミであると感じられたのが最初です。ふたつ目は、私が体験したアリの世界の一員への「なりきり」の話です。 プナンは、野生動物の狩猟に出かける時には、動物に「なる」のですが、そのことが直観的に分かった瞬間だと言ってもいいかもしれません。こういった話を『絡まり合う生命』(亜紀書房、2022年)という本に書いたのですが、それを、今福龍太さんが『日経新聞』の書評で取り上げて下さいました。今福さんは、「均質化された『世界』の外部にいると思われる『圧倒的な他者』の生のただ中に『じっくりと漂う』こと。するとそこに、瞬時に現れては消え、ふたたび現れる瑞々しい世界が感じられてくる」と読み解いてくださっています。
 一般に、私たちが低いものだと見てきた人々の暮らしは、これまで長らく持続可能だったし、もっとずっと内から湧くような力に満ち充ちていたことに、「他者の経験を真剣に受け取る「taking seriously」という態度によって、人類学はこれまで接近してきているのだと思います。

2026年5月4日月曜日

20260504 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻 pp.93-96より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻
pp.93-96より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504652
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504656

近代を探して
 1867年の秋、封建日本の薩摩藩の重臣だった大久保利通は、現在の東京に当たる首都の江戸から地方都市の山口へ赴いた。10月14日、大久保は長州藩の指導者と会い、単刀直入にこう提案した。同盟を組んで江戸へ進軍し、日本の支配者である将軍を倒そうと。このときすでに、大久保は土佐藩、安芸藩の指導者と手を組んでいた。強大な長州藩の指導者が話に乗ったところで、極秘の薩長同盟が成立した[訳注:この段落の記述は著者の誤認。薩長同盟は1866年3月7日(慶応2年1月21日)、京都で薩摩藩の西郷隆盛らと長州藩の木戸孝允が会談して締結。1867年11月9日(慶応3年10月14日)には、薩長に討幕の密勅が下される一方、徳川慶喜が朝廷に大政奉還を上奏している]。  
 1868年の日本は経済的には低開発国であり、1600年以来徳川家に支配されていた。徳川家の主が「将軍」の称号を手に入れたのは、1603年のことだった。天皇は脇に追いやられ、純粋に儀式的な役割を演じていた。徳川家の将軍は、みずからの領地を支配して課税する封建領主階級の最も有力な構成員だった。島津家が支配する薩摩藩の領地も、そうした領地の一つだった。これらの領主は、侍として有名な武臣とともに、中世ヨーロッパに似た社会を運営していた。職業区分は厳格で、商取引は制限されており、農民には重税が課されていたのだ。将軍は江戸から国を支配していた。その地で海外交易を独占・支配し、日本から外国人を締め出した。政治経済制度は収奪的で、日本は貧しかった。  
 しかし、将軍の支配は完全なものではなかった。1600年に徳川家が日本を掌握したときでさえ、あらゆる人々を支配できたわけではないのだ。日本の南部では薩摩藩が依然として大きな自治権を持っており、琉球諸島を経由して外の世界と独自に交易することさえ許されていた。大久保利通は1830年、薩摩藩の城下である鹿児島で生まれた。侍の息子として、彼もまた侍になった。その才能に早くから目をつけていた藩主の島津斉彬は、官僚機構のなかで大久保をとんとん拍子に昇進させた。当時すでに、島津斉彬は薩摩軍を使って将軍を倒すための計画をまとめていた。斉彬はアジアやヨーロッパとの交易を拡大し、旧弊な封建的経済制度を廃止し、日本に近代国家を築きたいと望んでいた。当初の構想は1858年の斉彬の死によって中断した。斉彬の後継者である島津久光は、少なくとも初めは、もっと慎重だった。  大久保はそのころまでに、日本は封建的な将軍政治を倒す必要があるとの確信をますます深め、やがて島津久光をも説き伏せた。自分たちの大義への支持を集めるため、二人はその大義を天皇をないがしろにしていることへの憤りに包み隠した。大久保がすでに土佐藩とのあいだで結んでいた盟約では「一国に二君なし。一家に二主なし。統治は一君に移譲さるべし」と明言されていた。だが真の意図は天皇を権力の座に復位させるだけでなく、政治経済の諸制度を根本から改革することにあった。土佐藩の側では盟約の署名者の一人に坂本龍馬がいた。薩摩と長州が軍を動かしたとき、龍馬は前土佐藩主に「船中八策」を示し、内戦回避のため将軍に退位を迫った。八策は急進的であり、その第一項には「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」と述べられていたものの、ほかには天皇復位をはるかに超えた内容が含まれていた。第二、三、四、五項ではこう述べられている。

第二項 上下議政局ヲ設ケ・・・万機宜シク公議ニ決スベキ事  
第三項 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事 第四項 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事  
第五項 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事

 将軍慶喜は退位に同意し、1868年1月3日に王政復古の大号令が発せられた。こうして、明治天皇が権力の座に復帰した。このときときには薩摩と長州の軍隊が皇都である京都を抑えていたが、薩摩も長州も徳川方が権力の奪回と将軍政治の復活を図るのではないかと危惧していた。大久保は徳川家を壊滅させて二度と復活させたくなかった。そこで、徳川家の領地を廃止して土地を没収するよう天皇を説き伏せた。1月27日、前将軍慶喜は薩摩と長州の軍隊を攻撃し、内戦が勃発した。戦いは翌年まで続き、最終的に徳川方は敗北した。
明治維新に続き、日本における革新的な制度改革の歩みが始まった。1871年、封建制は廃止された。300に及ぶ藩の領地は中央政府に明け渡され、政府に任命された知事が治める県になった。税収は中央に集められ、旧弊な封建国家は近代的な官僚国家へと姿を変えた。また、すべての社会階級が法の下では平等とされ、国内の移住や商取引に関する制限が撤廃された。いくつかの反乱を鎮圧しなければならなかったものの、侍階級は廃止された。土地に関する財産権が導入され、人々はあらゆる取引に参入し従事することが許された。国家は経済的インフラの構築に深く関与することになった。鉄道に対する絶対主義政権の態度とは対照的に、日本政府は一八七二年に新橋―横浜間に最初の鉄道を敷設した。さらに、製造業の振興に着手し、大久保利通は大蔵卿として工業化のための初期の組織的取り組みを監督した。薩摩藩の藩主はかねてからこうした動きの先頭に立っていた。陶器、大砲、綿糸などの工場を建て、1867年には、日本初の近代的綿紡績工場を創設するため、イングランドから織物機械を輸入していた。また、二つの近代的な造船所も建設した。1889年までに、日本は成文憲法を有するアジア最初の国になり、選挙で選ばれた国会と独立した司法制度を持つ立憲君主国をつくりあげた。こうしたさまざまな改革が、日本がアジア最大の産業革命の受益者になれた決定的要因だったのである。

2026年5月3日日曜日

20260502 株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」 pp.34-49より抜粋

株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」
pp.34-49より抜粋

第一部:日本文化について
 「日本文化について」ということですが、別にお話しすることを考えていないんです(笑)。・・・ただ、文化ということの定義を仮に申し述べておきますと、文化というのは、文明という言葉との間において成立している言葉でありまして、文明に対して文化は・・・というように・・・。文明というのは、やっぱり普遍的なものでしょうな。・・・たとえば、旅客機が飛んでおりまして、航空機文明というものにわれわれは誰でも簡単に参加することができます。チケットを買って、そして飛び立つときに、指示のとおりベルトを締めれば、それで航空機文明に参加できる。文明というのは便利なもの、そしてそれに参加するのには、ごく簡単な手続だけで済むものです。たとえば自動車文明というのは、街角でタクシーをとめまして、メーター通りに料金をお支払いすれば、目的地に着けてくれます。
 それに対して、文化というのは、やや非合理なもの、やや特殊なもの、場合によっては、その民族や社会にのみ限られるものです。
 むろん文化も広く行き渡る場合があります。たとえば、ジーンズというようなものがあります。ジーパンがはやっています。ジーパンは、アメリカという多民族国家の中で成立した、若者 ーだけではありませんけれどもー の流行ででき上がってきたものです。日本は島国ですから、アメリカではやっているんだろうというので、はく人もいます。海外のものが珍しいというわけではく。ジーパンは文明なのか、アメリカ文化なのか、ちょっとわかりにくいですが、つまり他の国で受け入れられる文化もずいぶんあります。
…たとえば大相撲をロンドンっ子がずいぶん見ているそうですな。賭けなんかしているそうですな。ですから、大相撲は文化でありますけれども ー珍しがられて受け入れられている場合もありますがー 外国でも受け入れられる。
 しかし、大相撲は非常に文化的要素が強いものであります。たとえば、すぐさま相撲を取ればいいのに、いろんな手続をする。いろんなしぐさをします。あれは神事なんでしょうな。日本の古くからの神道の要素が非常に強うございます。また、日本の神様は神々の神様でありますから、西洋や中近東のアラーの神のように絶対者ではないわけで、たくさんいらっしゃいます。そして、共通して神様は退屈なさるそうで、神遊びをなさいます。神様のお喜びになるのは若者であります。若者が大好きであります。日本の神様は、若者の中でも若者らしいーというのは力を競う相撲であります。万葉時代では、元気のいい若者が元気よく振る舞っているというのを醜(しこ)と言いました。お相撲で四股を踏むというのは、あれは当て字であって、本来の日本語としては、つまり醜(しこ)ぶっている。神様の前で醜(しこ)ぶっているという意味でしょうな。
 大相撲にはそういうしぐさがいろいろあります。いろいろありますから、これはやっぱり日本の風土から生まれたものであります。・・・こんなお相撲の話をしているのは、これは前置きでありまして、メインの話ではありませんが・・・(笑)。 
 お相撲は大昔からあったんですけれど、普通、芸能的なもの、スポーツのようなものは王様とか貴族たちが楽しみにして、そういうことでできあがるものでありますが、大相撲は、江戸や大坂その他の木戸銭でできあがっている、というのが興行としての大相撲のおもしろさです。王様ではなく普通の人間の入場料ででき上がっている。そして、お客さんというのは喜ばせなきゃいけませんですから、いろいろそれに沿ってマナーが発達していったり、無様なものはそぎ落とされていったり、ルールもあまり煩雑なものはそぎ落されたりして・・・大相撲というのはよくできたものですね。これは珍しく日本の大衆が生んだスポーツでありますから、そういうものは、やはり海外にも ー海外にも大衆がいますからー 受け入れられるんでしょうな。 だけれども、基本的に大相撲は文化です。
 ・・・今、教育会館に来ておりますが、教育会館は吉田五十八さんの設計だそうですな。ということは今聞いたばっかりです。吉田さんの建築は、皆さんご存じのように、日本の古い建築をイメージの中心において、それを新しく生かした非常に誇るべき芸術です。吉田五十八さんがいなければ、われわれの伝統はもう中断したかもしれない。

奈良朝と平安朝
 ・・・その建築の話をいたしますと、日本には奈良朝という時代がありましたな。次に来るのは、京都に都が置かれて平安朝ですが、奈良朝と平安朝の違いを凹凸としてお考えくだされば、非常によくわかります。奈良朝のイメージというのは、堂々たる建物。これは唐様の堂々たる建物。それから仁王様とか、その他彫刻。彫刻と巨大建造物の時代でした。
 むろん、奈良朝というのは、中国文明を受け入れた時代であります。これに対して平安朝というのは、ちょっと平べったいでしょう。イメージの中の、「源氏物語」の時代を想像してくださればわかりますが、公家の屋敷、それから御所、その他どれも非常に平面的であります。奈良の都は大仏殿、唐招提寺、あるいはその他の巨大建造物でご存じのような、あのイメージで想像してくださっていいんですが、そびえ立つような、そして柱もずっしりと大地に沈み込んで、見た目にも偉容を感じます。それが平安京、つまり京都に行くと、やわらかくて平面的になる。
 奈良朝のことを申し上げつつ、「日本文化について」というテーマに沿った枝葉の話をちょっと申し上げますと、日本というのは島国でありまして、普通よその国の先進国の文化や文明を受け入れるのには、その国の属国になったり、植民地になったりして受け入れるわけでありますが ー近代で言いますと、インドはイギリスの植民地になることによって受け入れたー 島国の日本は違いました。日本だけが世界史の例外であります。自発的に受け入れたわけです。自発的に受け入れただけでなくて、文明も文化もお金を出して買ってきたわけであります。
 遣唐使を送ります。遣唐使については、話はそれなりのおもしろさがありますが、それは省きまして、遣唐使の皆さんはずいぶんたくさん砂金を持っていったわけです。日本は、たまたま大仏殿ができ上がる前後に、ずいぶん砂金がとれる国になりました。ですから、手軽に持っていけるものは砂金でした。遣唐使の中に留学生たちもたくさんいました。留学生もみんな砂金を持っているんです。お上からいただく砂金だけでなく、個人もいろいろ都合しまして、親類縁者を回って、少しずつ砂金をいただいて持っていきました。
 たとえば最澄は、今で言えば、国立大学の教授のような資格で行きました。空海は同じ遣唐使船に乗っていましたが、学生として行きました。二十年の予定を空海は二年で帰ってきたんですが、二十年の経費をもらっているわけです。空海は地方の土豪の出身でありますからお金持ちでして、自分自身のお金も持っていきました。それでお経を買うんであります。そして、教えていただいたらお礼をしなければいけません。教えていただく先生にはお弟子がたくさんいらっしゃいますが、あとで宴会をして、ご馳走を差し上げて、お礼を申し上げます。
 空海の場合は、真言密教でありますから、お経だけでなく、いろいろ道具が要ります。道具だけでなくて、密教のほとけ様はちょっと普通のほとけ様ではないので、新たに作ってもらわなきゃいけない。密教のほとけ様というのはネックレスをしているでしょう。イヤリングをつけているでしょう。ほかのほとけ様は、たとえば阿弥陀如来は何にもネックレスをつけてないでしょう。密教のほとけ様は、観音様でも何でも、浮世の宝飾店で買ってくるようなものをつけています。これは浮世のままで成仏できるというシンボルであります。  
 ほとけ様にはいろいろ規則がありまして、その規則に従わなければ、十一面観音はでき上がらないというようなものでありますので、サンプルその他を持って帰らなきゃいけない。これは大変なお金であります。そういうようにして、われわれは文明を買ったわけです。
 そして、・・・当時、われわれが奈良の周辺に生きていれば、恐れ入りました、というような大文明がそこに現出したわけです。少しわれわれに謀反げがあってものの大文明を見れば、もうやめた、となるでしょうな。つまり、九州の端にいる人も、関東の端にいる人も、どうも奈良へ行って見たけど驚いた、これにはもう歯向かえないと思う。そういう文化的ショックというのがありまして、それは奈良朝七十年の非常な功績でした。ひょっとすると、まだ竪穴住居に住んでいる人がたくさんいたかもしれません、奈良の周辺でも。そういう人たちがそびえるような建物を見たわけですから、これはもう恐れ入りましたとなるでしょう。
 奈良朝は最初の国家であります。それ以前には、予備段階の国家がありましたけれども。奈良朝は統一国家の幕あけと言ってもいいのですが、その幕あけは長安の都の三分の一の規模で、考古学的発掘の結果は必ずしもそんなに大きな凄いものでもなかったという説もありますけれども、しかし、建物はすごかった……。
 その奈良の都を七十年でやめたのは、どうも私が想像するのに・・・これは今日のテーマとは関係ありませんが、いや、ありますな。原因は、そのすごい建物にあった。
 要するに、国を治めていくのにー仏教というのは、当時としては世界の普遍的な思想の大きなものの一つでありますがーその仏教をこの極東の島国に入れました。そして、大仏さんは毘盧遮那仏と言いますな。あるいは、宇宙の中心におられると言いますな。太陽のシンボルとも言いますな。毘盧遮那仏をでっかくつくって、仏教をベースにして国を治めたいと考えました。それで普遍性を導入したわけであります。
 普遍性ですから、これはたとえばヨーロッパにおける昔のカトリックとか、もう崩壊しましたけれどもソ連のマルクス・レーニズム、これもソ連は普遍性だと思っていたのですが、それと同じものです。普遍的思想というのは、よその国も参加できるという思想であります。ですから、日本という田舎の国も、仏教普遍という普遍性を入れることで国をつくろうとしたのです。
 聖武天皇は大仏さんをつくった方ですね。その聖武天皇が、私は三宝ー仏教のことでありますーの徒になりたいとおっしゃった。三宝の、つまり仏教の奴隷になりたいと。そしたら、坊さんはその気になったんでしょうな。天皇も奴隷、私の奴隷であると思い込んだばかな坊さんがたくさんいたみたいですな(笑)。つまり、坊さん自身が普遍性で、その下に国家があると・・・。
  今、アメリカ大統領は法下、法の下にアメリカ大統領がある。日本憲法の下に天皇さんがいらっしゃる。それから、内閣総理大臣も国会議員もわれわれもいる。平等にいる。法というものが、新しい普遍性でありますが、だから、アメリカ大統領は法に対して宣誓をします。
 だからといって、アメリカでは裁判官がいばって、大統領の頭の一つもこづくかというようなことはありませんが、奈良朝の時代は、まだ未開でありましたから、お坊さんはその気になってしまって、非常に宮廷がお坊さんによっていろいろと荒らされたんですね。きっとそういうことがあったでしょう。
 それで、もう煩わしくなって、そんな奈良から脱出をして、七十年で奈良の都をやめて、京都に都を置いたんだろうと僕は思います。
 そして京都には官立のお寺を置かないという大原則でした。ですから、平安時代から今に至るまでの京都を想像してください。唐招提寺のようなでっかいお寺はありませんでしょう。清水寺なんて大きいですけど、あれは坂上氏という一つの氏族の私立のお寺でした。ですから、京都の市内に官立、国立のお寺を置くと、普遍性だ、普遍性だといって、坊さんが大きな顔をするので、政治の邪魔になるというので置かなかった。  
 京都で今現在見ることができる建物というものは、やさしいでしょう。平安時代の最初からあった建物は、もうほとんどありませんが、お公家さんの屋敷、御所など実にやさしいものであります。お庭があって、西洋人やアフリカの人から見ればちょっと粗末な素材で、別に金や銀が使われているわけではない。日本風で言えば、わびとかさびとかが、もう既に平安朝の建物にありますな。北京の紫禁城といったようなものではありませんでしょう。ベルサイユ宮殿というものではありませんでしょう。
 非常に物静かな住まいの町。東山には青蓮院というようなきれいなお寺がありますが、あれはお寺というよりは、お公家さんの屋敷であります。ですから、今度京都にいらっしゃいましたら、知恩院の横の青蓮院にいって、お公家屋敷はこういうものだったのかというのをごらんになれば、よくわかります。少し座敷があって、お庭が見えて、気持ちのいいものであって、権力をあらわしているというようなものではありません。  
 知恩院は、江戸初期の建物ですから、これはちょっと別の思想の表現で、これを説明すると、今日のテーマはばらばらになりますが、徳川家康の宗旨は浄土宗であったものですから、知恩院は浄土宗です。江戸城をつくって、増上寺をつくって—増上寺は浄土宗ですね—京都に知恩院をつくって、いざ、京都で反乱が起こったときの、知恩院はお城のつもりだったんです。だから、今でも見られますが石垣を組んで、なかなかお城風です。ですから、知恩院だけはちょっと大きな山門があって偉容を示していますけれども、これは徳川時代のちょっと特別な理由による建物であります。

桂離宮と大坂城
 今、権力者の建物ということを、知恩院というようなことで申し上げましたが、知恩院はあまり役に立たないので、二条城を後でつくりました、京都の押さえのために。まあいわば将軍の別邸であります。京都別邸であります。この日本の権力者がつくった京都別邸というのもやさしいものでしょう。そしてあまり金のかかっていないものであります。ベルサイユ宮殿と比べると、全く粗末なものであります。徳川権力というのは日本史で一番強い権力でした。それでさえ二条城を持っただけです。  
 徳川時代の初めに、京都の親王さんが桂離宮をつくりました。これはいろんな事情があって徳川家がお金を出したわけです。スポンサーになって、どうぞ道楽してくださいというので、桂離宮ができました。いらっしゃればわかりますが、うっかりアフリカの大臣を連れていくと、「これならアフリカにもあるよ」と言われるかもしれません。(笑)  
 桂離宮は数寄という精神のあらわれであって、偉容を示そうとしているわけではありません。  
 今ちょっと「数寄」という日本語を申し上げましたが・・・説明しておりますと話がばらばらになっていくように見えて、最後には一つになります・・・「数寄」というのは、数に奇蹟の奇という字を使ったりしますが、要するに、「あなたが好きです」のあのスキであります。室町時代にできた言葉であります。  
 お茶とか、海外の絵画とか、海外の茶碗とか、そんな高価なものを集めて喜んでいるというのは、金もかかりますが、堺の商人などの場合は、商売の道も忘れてしまうかもしれない。うっかり魂が抜かれて、そのために商売は傾くかもしれない。武将でありますと、政治と軍事を忘れてうつつを抜かすかもしれない。ですから、数寄というものは危険思想とされておりました。  
 危険はわかっているけれども好きだからというので、数寄屋普請とか、お茶道を数寄の道とか言ったりしたわけですが、江戸時代になると、言葉が少し品下がりまして道楽という言葉になるんです。「あれは道楽もんだよ」という、あの道楽であります。しかし、数寄というときには、ガラスの破片の上を素足で歩いているような緊張がありました。数寄者はそのぐらいの緊張をしてお茶室で何人かを集めてお茶を飲んでいる。お互いに数寄者の集まりであります。  
 その数寄が桂離宮で野放図に出ました。心の行くまで数寄の心が表現されたわけであって、月と風と、あるいは雪、なぞをこの数寄屋普請の中にいて楽しむ、自然を楽しむ、自然に溶け入っていく、いわば絵画の中の人物になっていくという当時の日本人の理想をあらわした建築です。  
 しかし、当時、もう鎖国が始まっていてだんだん南蛮人も来なくなっていまして、南蛮人で桂離宮を見た人はありませんが、たとえ見ても驚かなかったと思います。南蛮人は大坂城は見たことがあります。これは驚いたと思いますが、桂離宮には驚かない。  
 日本の権力者は大建築をつくらなかったということを申し上げましたが、ちょっと秀吉の大坂城だけは例外です。秀吉は日本歴史の中で一番贅沢ということをした人でしょうね。あまりああいう人は、日本人の中にいませんのですが、秀吉は、その贅沢をした人であって、これはその必要があったんでしょう。  
 秀吉の直轄領でお米がとれるところ、彼自身の財政を賄う直轄領は二百万石ぐらいだったそうであります。徳川家は、いろいろ説がありますが、四百万石といい、八百万石ともいいます。そうすると、質素な徳川幕府がそれだけお米のとれる直轄領を持っているのに、秀吉はたかが二百万石で、なんでそんなに贅沢したのかというと、貿易による収入があったからであります。これはじかに秀吉のふところに入ってきます。博多、堺の貿易による税金はじかに秀吉のもとに入ってくる制度でした。ですから、彼は貿易家としての贅沢をしたわけです。  
 貿易で、ポルトガル船なり中国船が大坂湾に入ってきますと、あ、すごいものがそびえているな、これは驚くべき富と力を持った国だということを印象づけるために大坂城は必要だったわけで、そのためにタワーのような天守閣をつくったんでしょう。これは大航海時代の終わりごろのことで、秀吉も、そのお師匠さんの信長も大航海時代の人問としてちゃんと意識を働かせていた人ですから、経済意識も、政治意識も、海外意識もあり、大航海時代の世界史の最後の人らしく、やはり巨大建築をつくったんでしょう。  
 江戸時代になって巨大建築ができるのは、姫路城ぐらいのものですな。これは徳川家にとって、もし島津、毛利が攻めてきたら、大坂へ入る前に姫路城で食い止めるつもりだったそうですな。ですから、国立の、当時の言葉で言うと天下普請、天下の人と富を集めてつくる公立の普請でした。一大名の普請ではないものでありました。ですから、大きかったんですけれども、あとはもうしょぼしょぼしたものにありました。(笑)  
 日本人は、権力者といえども、贅沢をしなかったために、われわれは目に見える壮麗な文化財を持っていないんです。非常に少なく持っているだけです。ちょっと残念ですけど、これはこれでいいんだと思うんです。日本文化の特徴というのは、大相撲のような大衆がつくりたもの、そしてまれに国立の大坂城とか姫路城があるけれども、それは非常に少ない。そして、桂離宮は、これもまあ国立ですが、あまりにもその時代の文化であり過ぎまして、容易にそこに参加しにくいですな。われわれは相当勉強して、これはいいんだと言われているから、「ああ、いいものですなあ」なんて言っているけれども、にわかに中国の奥地から人が来て、桂離宮を見ても驚かないでしょうな。「こんなの雲南省にあるよ」と言うかもしれない。(笑)

大名は地主ではなかった
 ですから、人をこけおどしにかけるようなベルサイユ宮殿とかロシアのクレムリンとか、そういうものはないんですな。これは日本史の特徴ですね。なんといっても・・・京都御所です。明治になって天皇さんは憲法上の位置につかれたわけですけれそも、それまで乱世の中を生きてこられたのに、御所というのは、京都御所をごらんになったらわかりますが、濠といっても溝のようなもので、塀と言っても一重であって、それも高くなくて、僕でも忍び込めますな(笑)。それなのに、だれも忍び込まなかった。戦国時代でも忍び込まなかった。あれはつまり日本史そのものの感じであります。巨大な建築をつくって人を驚かせて、恐れ入らせるというのは奈良朝で終わった。奈良朝は七十年で終わって、そしてその役目は果たした。
 日本の歴史というのは……そろそろ建築から話は離れていくとしているんですが、どういうふうに離れていくのかわかりませんが……日本史というのは相当な歴史ですな。第一級の歴史だと思います。決して田舎のローカルな歴史ではないと思うんですが、しかし、国がローカルにあるものですから・・・。
 ヨーロッパの中心部とか、中国とかいった国は、文明を起こした場所ですから、世界史で習います。ギリシャの哲学者の名前を知らないと、やっぱり恥ずかしいですね。ソクラテスって何ですかとか、プラトンというのは何ですか、孔子とかいうのはよく知りませんな、・・・これは恥ずかしい。ところが、日本史の中の思想家の名前を、他国の人が知らなくても恥じゃないでしょう。だから、われわれは田舎におるわけで、その意味では、世界中の中学生や高校生の教科書には、親鸞という名前は出てきませんな、道元という名前も出てこない。この人たちは独創的な思想家で、その著作は世界の人類の大いなる遺産だったと思います。ですけれども、メインの中にいる国ではありませんから教科書には出てきません。
 しかし、よく日本史を見ると、これは大変精密で、しかも発展の法則通り・・・発展に法則があるのかどうか知りませんが……たとえば、江戸時代の話をしましょう。
 江戸時代、毛利さんは、三十六万九千石の石高で、山口県一つ。しかし、山口県一つの地主かというと、そんなことはないんです。地主ではないんです。一坪も土地は持っておりません。一反の水田も持っていません。租税を取って、それを行政に使うという権利と義務を持っているだけです。こんな貴族は世界中にありませんな。
 ロシアは、帝政ロシアのころは、伯爵も公爵も、無論皇帝も地主でした。そして、作家のトルストイさんは伯爵で、日本で言えば大名ですな。小規模なる大名。大きな地所を持っていて、地所を持っていると農奴がその上に乗っかっていまして、農奴が何千人いるとか・・・。農奴千人というのは、わりあい売買でいい金になるそうですな。農奴三百人だと、やっぱり三分の一ぐらいの値段だそうです。それは新聞広告で出るそうですな。「自分の領地を売りたい。農奴千人」(笑)というと、これは高いものであります。そういうようにしてロシアは革命にまで至っておるわけであります。ロシアには農民というのも少しはいましたけれども、ほとんどが農奴でありました。
 ですから、そういうものと日本の大名は違うのであります。毛利さんは、山口県一つの、今申しましたとおり租税を取って行政をすると、それで終わりであります。明治維新になって、全部領地を置いて、廃藩置県で東京に来て、華族さんになって、お手当がいいので、どの大名もみんな大喜びでした。江戸時代の大名の経済の苦しさというのは大変でした。末期のころはほんとうにほとんどが赤字。ですから、ほっとしたというのが彼ら大名たちの明治維新であります。
 今の不動産屋さんの感覚でいうなら、毛利さんならば、江戸に大名屋敷を、自分の屋敷を六つか七つ持っているはずです。上屋敷というのが一つ。これは藩主の家族がいるところである。中屋敷、下屋敷というのは幾らでもあります。大きな大名には六つか七つあります。そのうち上屋敷だけが自分の地所であります。これは将軍から拝領したということで、売買はしません。上屋敷だけが自分の地所であって、これは三千坪から五千坪ぐらいあるでしょう。中屋敷、下屋敷は勤番侍がそこに住んでいたり、その他の江戸定府、ずっと江戸にいる人が住んでいたりしますが、これは江戸の町人から借地をしているわけである。つまり借地であります。大名たるものが、つまり武士たるものが、地所を持っているというのは恥ずかしいことだったんですね。
 それから、むろん本国の長州、つまり今の山口県においても、一枚の水田も持っていない。それは当たり前のことであります。ですから、地所はないのであります。萩のお城の地所があるのと、屋敷の地所があるぐらいのものであります。
 トルストイ伯爵とはずいぶん違いますな。トルストイ伯爵は自分の邸内に、自分及び家族の履く靴のために靴屋さんがいる。衣服をつくるための洋服屋さん、仕立屋さんがいる。トルストイ家のためのそういう職人、商人、その他が屋敷内に住んでいる。

近代思想を生んだ江戸時代
 商品経済というのはロシアになかったようですな。江戸時代と比べてですよ。江戸時代の商売の数の多いことといったらなかった。しまいに、猫のノミを取りますという人まで流して歩いていたそうですな。毛皮か何か持ってまして、猫にそれをワッと被せるわけです。ノミはびっくりして、毛皮の方に移るもんですから、猫のノミを取ります。(笑)そんなわけで、商売の数は何千種類か知りません。
 ソ連が崩壊して、ロシアが大変苦しんでおって、今、社会の体をなしていない。市場経済を学べとか、ヨーロッパに行って見学しようとか、あるいはアメリカや日本を参考にしようとか何とか言っているけれども、本来、帝政ロシアに商品経済があったならば、違ったと思うんです。
 中国は社会主義をとっても、古代以来商工業がありましたから、それに戻っているだけであって、大崩壊してないわけであります。ノコギリをつくる職人とか、ノコギリの目を鋭くする職人とか。こんな職人や商人も昔の中国にはいました。江戸時代にもまたいっぱいいました。
 ・・・ロシアがそういう時代になってから、ロシアの小説を、もう一度非常にまじめに読んだことがあります。ドストエフスキーやその辺のものを。手当たりしだいに。小説に出てくる商売の数がどのぐらいあるかというと、五種類ぐらいしかありませんな。しかも、その五種類のうち、パン屋さんはイタリア系かドイツ系ですね。それから靴屋さんは、うろうろするとロシア人ではないですね。葬儀屋というのはあったみたいです。葬儀屋はロシア人です。ご存じのように、ロシアは宗教がカトリックではなくて、オーソドックスというロシア正教ですから、そのお坊さんにしきたりを知っている人間が連絡に行かなきゃいけないので、これはロシア人のようですね。 ですから、いまロシアがあわてているのは、過去にその伝統を持っていなかったからです。江戸時代は、その末期、前期資本主義と言うべき時代です。江戸時代末期、中期から。末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、末期どころか、中期の中頃の赤穂浪士の事件のときに、前もって赤穂浪士が吉良上野介が浅野内匠頭をいじめまして、「畳を全部敷きかえなくていいんですね」と言うと、「いいんだ」と吉良上野介は言う。ところが、途中になって敷きかえろと……。勅使が来るのはもう目前でした。そこで、江戸中の畳屋に頼んで立ちどころにできる。畳屋が、それこそ江戸中に何十軒か、何百軒かもしれませんが、ありまして、それへ職人を持ってきまして、それに頼めば、もう立ちどころにできるわけであります。元禄時代でそうであります。
 ・・・これは文化と大いに関係なさそうですが、今思想の話をしようと思ってこんな話をしているんです。商品経済が盛んになりますと、人間の考え方が合理的になるんです。 つまり、商品というものは、お金にのみ裏打ちされるべきであります。私のこの時計は、どこの露店の売店で四千円で買ったんですけれども、私の友達で時計屋さんがいまして、「おまえの時計はずいぶん立派だな」と言うんです。 時計の価値は四千円だと言うんです。まあそんなぐらいのものです。これは金色をしていますが、メッキであります。中身は機械が入っていなくてクォーツでありますから、安いもんであります。 このように商品というのは、つまり、お金で裏打ちされるのであります。おまけに、この商品は、これはスイス製ではなくて日本製ですが、もしスイス製だと、どういう経路で来ているかとか……。これは、江戸時代の商品で言うほうがわかりやすいと思いますが、秋田の木材というのは、杉においては上等である。そして、木曾の木材は檜において上等である。他の土地の檜は少し悪いとか、檜は板にしておくと、ちょっと歪(ひず)みが出ていい檜だ、というふうに値段が明快に違っていく。 商品経済というのが、人を合理的にします。頭を合理的にします。そして、そこに思想も合理化される。合理的思想ができてきて、江戸中期では、いろいろの思想が出る。近代思想の前触れそのものです。 相場というのは、今、兜町で立っていますが、あれは江戸時代の中期から。相場というのは、誰が立てているんだかわからないでないですか。ああいうふうな値段は、将軍、大名が命令しているのではなくて、自然とでき上がった。それが人を支配している。海保青陵という人が書いています。 そのほかに、世の中にお化けはないんだという、またいいエッセイがあるんですよ。これを読めば、なるほど世の中にお化け、幽霊のたぐいはないんだと……。これは堂々たる格調の高い論文です。山片蟠桃です。その他、いろいろあります。 いろいろありますが、そういう小さな論文だけでなくて、たとえば日本の古典を、十八世紀ですが、当時として、現代的、近代的な目で見直した本居宣長もいます。このもの価値のみをしたわけですね。これは値打ちがあるのか、値打ちのないものなのか、これは日本の古い神々のことを書いてある。そして神々以後のことも書いてあるが、これは文化として価値がある、というふうに品定めをしております。
 そういう精神が近代の精神というものであります。ですから、近代の精神とか合理主義とか人文科学的な思考とかいうのは、難しい大学でやるものではなくて、市民の間ででき上がってくるものであります。

教育は文化ではない
 それが日本文化・・・と言いますと、話が商品経済と変わりますけれども、奈良朝のときには、大変立体的な造形でした。東大寺をごらんになってもわかるように、薬師寺の塔をごらんになってもわかるように立体的なものでした。平安朝にいくと、平面的でしょう。お庭が室町時代ぐらいに発達しましたが、日本のお庭は文句なしに世界一ですね。お庭を芸術だとすれば日本が世界一で、二番目はちょっと考えられない……。  
 龍安寺の庭をご存じの人はたくさんいらっしゃるはずですが、龍安寺の庭も平面的ですな。白い砂があって、海のようであり、島のようなものもある。彫刻で言うとレリーフ、浮き彫りですな。やっと立体といっても、平面の中にちょっと島があるだけ。日本人は平面の発見を文化でしました。  
 たとえば龍安寺の庭に座っているとしましょう。お座敷があって、畳が敷いてあって、四十畳か五十畳の間であって、襖絵(ふすまえ)があります。これは箱の中にいるようなもんですな。そして、お庭を見通して、襖絵だけが立っておりまして、立体と言えば立体ですが、その襖絵も、何の絵が描いてあったか忘れましたが、要するに、たとえばルーベンスのような絵ではない。立体的な絵画ではない。非常に平面性の強い絵画ですな。空間も平面性が強い。  
 われわれは、平面性の中で安らぎますな。冒頭に、文化とはなにか非合理なもの特殊なものだと言いましたが、それにもう一つ付け加えますと、文化はそれにくるまれて、安らいで楽しいということをつけ加えなければいけません。長いヨーロッパ旅行をして自分の家に帰ってくると、蚕が繭にくるまれているように楽しくて安らぐ。それが文化ですな。つまり、家に帰ってきて、丹前に着かえて座ってみると、ああ落ちついたというのは、これは文化であります。  
 どこかのホールでニューヨーク交響楽団を聴く。これはどうなるんだという人がいるかもしれませんが、音楽の好きな人にとっては音楽にくるまれているのは楽しいことで、これも文化なんですな。  
 今日ここには文部省の偉い人がたくさんいらっしゃいますが、教育は文化ではないんですな。つまり、教育はなすべきことなんですな。私は学校に行くときに、学校が嫌いで、カンニングはしたことはありませんが、横の子がカンニングしているのを見て感心したことがあります。いろいろ上手に小道具をつくって、それにおそらく一週間はかけていたんじゃないかと思いますが、いつも思うのは、あれが文化だったなあ……。(笑)それから、教室を抜け出していく人も、いるかどうか知りませんが、映画に行ったりする。無論停学になります。教育はその子を停学にすべきです。しかし、その子は文化を見にいったわけです。だから、教育と文化とは相反する場合が多い。(笑)
 それは別としまして、文化というものが、日本文化というものが、日本史が第一級のものであるように、日本文化が第一級のものでありたいと僕は思っているんですが、ニューヨークに行っても、パリに行っても、ロンドンに行っても、・・・その日本文化がないとわれわれはどうなるか。われわれには第一級の文化がある、というのが救いになる。
 たとえば室町時代に世阿弥を出して、すぐれたお能ができ上がったし、江戸時代に歌舞伎があり、それは貴族のつくったものではなくて、大相撲と同じように庶民の木戸銭ででき上がったものですし、それから十世紀のころには『源氏物語』という世界で最初の小説を書いた人がいる、芭蕉という世界的な大詩人も江戸時代に出した、そして西鶴という非常に近代的な小説家を江戸中期以後に出したとか、……むろん、絵画、建築、桂離宮などを含めて、そういうものがなければ打ちひしがれるでしょうな、パリやロンドンみたいなよその国を旅しているときに。
 私は一メートル六十四センチしかありませんが、背の高い国の人々の中に入っていると、ああ、おれは小さいなと思うだけで、少し自分をこっけいに思うだけであって、恥じ入ることはないのは、やはり自分の後ろに日本文化があると、どこかで思っているからでしょうな。

明治時代と夏目漱石
 ただ、明治のときに、旧日本文化は全部否定されまして、東京にドーンと欧米型の大文明の配電盤ができた。欧米という電源から電流をもらっていて、……これも買って来たんですが。留学して貰ったり、お雇い外国人に高い給料を払ったりして。本郷に東京大学ができて、農学部は各府県の農務課と連絡し、各級の農学校その他の、東京で文明を受け入れた新しい農学が岩手県の農学校に配られていくというような、配電盤の役目をしておりました。ですから、ヨーロッパ、アメリカにはかなわないと・・・。江戸時代に文化があった。柴式部が平安時代に出たとか、そんなことはもうどうでもいいという、まことにこの時代は打ちひしがれている時代でありました。
 夏目漱石が明治三十年代にロンドンに留学して、もう二度と行きたくないような呪い方をしていますね。漱石は日本文化なんて思ったことがなかった。時代がそうでした。また漱石はまだ大学生のころに京都に行きました。京都なんていうのは、和辻哲郎が出てきたおかげで、古寺礼讃になって、京都文化というのは大変なものだということ大正時代以後になりましたけれども、明治二十年代の東京の大学生が京都に来て、正岡子規と二人で来ましたが、お寺ばっかりあって陰気なところだと、・・・。それだけの印象です。大学教授をやめて朝日新聞に入社して小説を書こうというときに、最初に朝日新聞の学芸欄に、関西の印象として学生時代に京都に旅したときの印象を書いていますが、それは悪口です。
 つまり、日本文化というものは、偉大なる漱石でさえ、時代の子ですから・・・漱石というのは、ほとんど明治元年に生まれた人ですしたかな・・・死ぬときまで明治そのものを信じていた方であります。明治とは何かというのは、欧米のよきところを取り入れるのに忙しかった時代ということですね。漱石は、その先端にいた人である。ですから、日本文化なんて考えたことがなかった。
 漱石はロンドンに行っていて、ちょっとあばた面の人ですが、いい顔をしているのに、当人は劣等感がありました。私は一メートル六十四センチありますが、漱石は一メートル六十センチあったかなかったか。向こうから小さなやつがやって来る、イギリスにもこんなやつがいるのかと思ったら、ショーウィンドウに映った自分の姿でした。漱石はほとんど神経衰弱になっておりました。だから、漱石は、世阿弥がいるから、芭蕉がいるから、おれはロンドンを歩いても平気だぞというような時代の人ではなかったんです。それは時代が明治だったからです。
 われわれの今は、漱石の時代と違って、たくさんの古いものを新しい目で、つまり奈良朝の彫刻も、奈良朝の建物も、平安朝の何がしも、そして室町時代につくられ始めた日本庭園というものも、われわれは、どなたでもそうです、西洋人のような気持ちで見ていますな、半分。……これは明治を経ていますから……。 だから、日本画も、そして日本の古い江戸時代の小説も、どこか、つまり外国文学になじんだものとしての目で見ている。そして、それで合格しているわけです。みんなの目で、あるいは頭の中で日本文化は合格しているわけであって、だから、大相撲も歌舞伎もお能も、お能はちょっと退屈ですけれども、今なお続いておる。これはまあわれわれの目に合格しているんだから、イギリス人やフランス人、アメリカ人やアフリカ人や中国人の目にも、おそらく彼らがおもしろがって参加してくれれば、彼らも喜ぶものに違いない、彼らも尊敬してくれるものに違いないと・・・。
 ですから、おそらく日本文化というのは、自信を持っていればいいんじゃないか。日本史に対する自信と同様にですね。そういうふうに思うのであります、というのがこの話の終わりであります。 

2026年4月30日木曜日

20260430 中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.352‐355より抜粋

中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.352‐355より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160153X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601537

後藤伯

 土佐の藩士後藤象二郎が、征夷大将軍徳川慶喜を勧誘して、その二百五十年来占有の政権を京都の朝廷に上らしめんとしたるは、昨日のことと思いいしに、今は早や三十年前の昔日談となり、その事蹟の主人公たる後藤伯も六十年の星霜に打たれ、新聞紙は往々その余命いくばくもなからんとするを報ず。それ西郷は城山の露と消え、大久保は空しく墓標を清水谷に止め、木戸の名また語るものなく、維新の風雲を鼓舞したる者、多くは頽敗老衰、僅かに三、四を止むるにあたりて、この報に接す。嗚呼、耆旧風塵に老い、喬木みな秋色あり。思うに伊達自得翁にあらざるも、この時世の変を見て、「何ゆゑにものはかなしと眺むれば萩の葉向に秋風ぞ吹く」と歌わざる者、それ幾人ぞ。
 知名の士が末路はなはだ振わざるを見聞するは人情忍びざるところなり。いわんやその一生の行路、ことごとくこれ失敗にして、雄図壮心、ついに一も酬ゆるところなきものにおいてをや。我輩は後藤伯の伝記を回顧して、ために黯然たらざるを得ざるなり。けだしその末路蕭条たるがため、世論多く事後成敗の見をもってこれを評すといえども、もしその天分の高下を論ぜんか、その開朗の気、包闊の大、薩長元老と相駆逐して、別に自ら天地を立つるに足るものあるなり。もし彼の企画をして偶然の勢いのために敗れざらしめしならば、彼の盛徳大業、或は老西郷、大久保の上に出て、歴史家、政論家等は斉しくその人物を賛美せしやも知るべからず。
 けだし日本近世の大事業は維新の革命にほかならずして、維新革命の中心問題は幕府が占有したる政権をいかに処分すべきかにありき。会津、桑名の二藩および各藩中の世家、有司は、多く幕府をして主権を握ること従前のごとくならしめ、而して京都の朝廷を尊敬すること王朝時代のごとくならしめ、かくのごとくして公家と武家とを調和せしめんと欲する温和なる意見を有したりき。時人これを名づけて公武合併説という。薩摩の国主のごときは初めよりこの意見を賛成したるものなりき。しかるに尊王党なるものありて、王家にあらざる幕府が国家の主権を取るをもって、半上落下、国体に合せざるものとなし、皇家をして直ちに国政に当たること、元弘、建武の故事のごとくならしめんと欲したり。この種の意見は、京都公卿の大半、長州藩士等、首としてこれを唱え、各藩中、世家にあらず、職司を有せず、現在の秩序に満足せざる急進派の和同するところなりき。而して公武合体党の中、また硬軟の二派ありしといえども、要するにこの党派は佐幕の精神を有すること多きものにして、尊王党は概して討幕の精神に富みたりしが、この二大党派は全国を二分するがごとく、各藩の中またこの二党のために勢力を分かちたりき。ゆえに後藤伯の故郷、土佐においても、武市半平太、坂本竜馬、平井収二郎の徒、しきりに尊王討幕の急進論を唱道し、内は有司、世家が時勢を観望するを攻め、外に長州の浪士と相交通し、隠然、公武合体党と相対峙したりといえども、当時の土佐藩主山内容堂公は、慧敏、自ら用うるの士にして、けっして武市らの急進論を賛同せざりしかば、公武合体論は自ら土佐の国論なるがごとく見えにき。容堂公の下に参政吉田元吉(東洋と号す)なる者あり、才学ありて事を用い、土佐藩士にしてその門下たる者少なからず。後藤伯は実にその戚姻にしてまた門下生なりしかば、これらの因縁によりて、後藤伯は出身の初めより容堂公の寵親するところとなり、その政治意見もまた自ら容堂公の公武合体論を信ずるに至りき。すでにして尊王党等、公武合体党の勢力に圧迫せらるるに堪えず、その末流等、一夜ひそかに、吉田元吉を襲うてこれを殺す。容堂公大いに怒り、有司に命じてことごとく尊王党を捕斬せしむ。武市半平太、平井収二郎、その中にあり、坂本竜馬は難を避けて国外に遊び、長崎の地にあり、その余の党類、捕斬ほぼ尽き、急進尊王論、ために地を払って空し。その党禍のはなはだしき、水戸、長州を除きては、土佐のごときはなはだしきはなかりき。而してこれがため一州の元気銷沈し、人物一に空しきに至りぬ。これ土佐が薩長に比して一歩を後れざるべからざるに至りし一大原因たらずんばあらず。而して誰か図らん、この党禍を起こして反対党を一掃したる者は、他年、自由自主を唱うる後藤伯その人ならんとは。これより土佐の急進党等、彼を怨悪して、その肉を食わんと欲する者あるに至る。これ後年に至りて彼が土佐出身の士人に信頼を得ず、ために政海の根拠地を得ざりし所以なり。

2026年4月29日水曜日

20260428 大岡昇平「俘虜記」から考える戦後の我が国の社会

 大岡昇平による『俘虜記』に描かれた収容所の様相は、単なる戦争体験の記録に留まりません。それは、我が国社会における統治の様相が、どのように成立し、運用され、そして変容するのかを示す具体例あるいは縮図であると云えます。そこには、管理主体である米軍、捕虜でありながら米軍との仲介機能を担う一部の捕虜(いわば捕虜側の支配層)、そして統治される一般捕虜という構造があります。この構造の核心は、外部である米軍と内部である捕虜とを媒介する捕虜側支配層にあります。彼らは、同じ捕虜でありながら、外部権力との接続を独占することで、収容所内部における支配的地位を確立しました。その性質は、ナチスドイツによるユダヤ人収容所におけるカポーにも通じるものがあります。また、その権力の源泉は、捕虜全体の合意や何らかの正統性に基づくものではなく、外部権力との非対称な関係に依拠したものでした。それ故、米軍が収容所の直接統治へと方針を転換した時、彼らの地位は容易に失墜しました。ここから看取されるのは、一つの普遍的とも云える統治の原理です。すなわち、統治権力の源泉は必ずしも能力や内発的な合意、正統性にあるわけではなく、外部との接続を独占する位置そのものにある場合があるという点です。内部の情報を調整し、それを外部権力に翻案・折衝する者が、実質的な支配層(エスタブリッシュメント)を形成します。こうした構造は、植民地支配などを経験した多くの国や地域に共通して見られる「買弁的構造」の一種であると云えます。もっとも、この構造が社会で固定化するかどうかは、各社会の条件に依存します。とりわけ重要であるのは、外部に依存せずとも成立し得る天然資源・人的資源といった基盤の有無です。これがあれば、外部との関係は単なる従属ではなく、戦略的関係へと転化させることが出来ます。加えて、社会内部における流動性と公正な競争が担保されているかどうかも重要です。外部権力との接続が恒常的に特定の層に独占されていれば、その構造は固定化され、やがて周辺から硬直化して閉じていきます。そして、ここで看過してはならないのが、我が国に歴史的に見られる「安定が閉鎖へと転化し易い傾向」です。一定の秩序が形成されると、やがて、それを維持すること自体が目的化され、新たな参入や異なる経路が閉ざされます。このメカニズムは短期的には安定をもたらす一方で、長期的には社会の硬直化を招き、既得権層に管理された閉鎖的な構造へと変質させます。この観点から見れば、戦後の我が国は特異な位置にあったと云えます。安全保障を米国に依存する一方、既存の官僚機構と産業基盤を温存し、経済成長を通じて国力を増進させたからです。この「外部依存」と「内部自律」が併存する構造は、外部権力との接続の完全な独占を防ぎ、一定の流動性を保つ役割を果たしてきました。しかし、現在問われるべきは、この均衡がなお維持されているのかという点です。問題の本質は、外部権力との接続の是非そのものではなく、統治構造の正統性の源泉が外部との関係に強く依拠している可能性、そして、その接続経路が固定化しているかどうかにあります。もし接続が特定のネットワークや既得権層に集中し、新たな参入が制度的にも実質的にも困難であるならば、その社会は閉鎖的な構造へと移行しつつあると見るのが妥当であると云えます。無論、こうした独占を排することは、既存秩序の破壊や扇動的なポピュリズムを肯定することと同義ではありません。安易な解体は、新たな独裁や社会秩序の崩壊を招きかねないからです。したがって必要であるのは、具体的な制度設計です。すなわち、①外部との窓口を複数の主体に分散させ、単一経路への依存を回避すること、②意思決定や資源配分の過程を可視化し、第三者による検証を可能にすること、③既存の接続とは異なる経路からの参入を継続的に保障することです。これらを通じて、「閉じる力」に対抗し、「開いた構造」を維持しなければなりません。独占された接続を、透明性と公正な競争を備えた重層的な経路へと再構築すること。そうでなければ、「外部権力との接続を独占する者が内部を支配する」という構図は、より洗練され、不可視化されたかたちで再生産され続けます。その意味で『俘虜記』を読み直す意義は、この構造を過去の一事例としてではなく、現在の問題として捉え直す点にあると云えます。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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どうぞよろしくお願い申し上げます。





2026年4月28日火曜日

20260427 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」 pp.177-180より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」
pp.177-180より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

日本の政治家が二流である理由
 もう一つ、社会秩序の問題があります。これもシュンペーターの考え方が参考になります。彼は「ブルジョアジーは政治階級としては失格である」と述べました。階級としてのブルジョアが出現する前の封建時代、社会を支配していたのは貴族でした。しかし、近代に移行する段階で、貴族階級はブルジョア階級から見ると邪魔者になります。そして、彼らの権限は段々弱められていく。しかし、本当は、ブルジョア階級、ビジネスで生きる彼らにとって、封建貴族は邪魔でありながら擁護者でもあったのです。なぜ擁護者かというと、人間は常に合理的なものではないのであり、人間が何に従うかというと、威信とか力を体現しているものに対してだと、シュンペーターは説明します。ただし、そのような非合理的な存在がある分だけ、合理的な経済活動が制約されることも事実です。
 したがって、その制約をなくしていくと、古臭いタイプの政治家がいなくなったとき、政治をやる人間がいなくなるのではないかというのが彼の問いです。続いて、イタリアの都市国家やオランダを例に挙げて、商人だけが作った共和国は、国際政治上、うまくいかなかったというのです。
 私は政治学を専門にしていますので、その点はわかります。戦後の日本は、経済はいいが政治が悪いとよく言いますが、そんな罰当たりな事、いいなさんなと思います。話は逆で、政治が悪いから経済が上がったのです。経済の邪魔になりませんから。だけど、政治を悪くするコストによって経済がよくなるわけで、それは、政治における決定やリーダーシップは極めて非合理的なものだからです。内容はさほど大事ではない。周りの人がいうことを聞くように、ある人が怒鳴らなかったら、まともなことも通りません。そういう能力がないから、私はアドバイスはしますが、政治はしないのです。
 しかし、生まれつき政治家の素質である威信があり、他人を従わせる能力がある人はいます。理屈で済むなら大学で勉強すればいいのですが、それでは済まない。経済合理主義を重んじ、政治の力に制限を加えるようにしてきた戦後日本では、発言だけで周囲が従わざるを得ない空気になるような政治家は出てきませんでした。外国との交渉で、日本人は皆、自分たちの代表者の不甲斐ない姿に腹を立てる。しかし、そういう政治家しか作っていないのですから仕方がありません。
 私はこの講演で何度か日米構造協議に賛成と言っているのですが、その理由は大店法や独禁法、米の自由化のいずれもアメリカの主張が正しいと思えるからです。しかし、最大の課題は、なぜ日本人が自らやらないのか、ということです。他国の正しい要求に耳を傾けるのは結構なことですが、もし相手に悪意があり、日本にとって不利になるだけの政策を要求してきたらどうしたらいいでしょうか。また、間違った政策を押しつけてきたときも同じ心配があります。
 国際的な交渉で大事なのは、代表者の迫力です。そんな人を生み出すには、安全保障に高い関心がある人でないと駄目です。経済はお金の計算で済みますが、安全保障の話では、人間がいかに不合理かがわかります。安全保障において求められるのは、不合理な人間の説得の技術です。戦後日本がそれに金をかけてこなかったのは事実ですが、政治家にはそのことについて関心だけは持ってほしかった。しかし、それも吉田茂のお弟子さんでおしまいです。吉田さんは軍事費に金をかけない決断をしましたが、古いタイプの政治家でしたから、国際社会で生き残るために武力が必要であると知っていました。戦争に敗れ、再建中だった当時の状況では、それができなかっただけです。後継者の池田勇人、佐藤栄作もわかっていました。だからこそ、池田は核武装すべきと語ったことがあります。
 池田勇人の業績というと経済発展だけというイメージがありますが、ちゃんと彼の本にそう書いてある。それを日本人は知っていて無視している。いかに政治音痴なのでしょうか。あるいは、池田は気の迷いでそう口走ったと判断しているのかも知れません。しかしそれは誤りで、彼は武力の重要性を知っていました。ただ、戦後15年しか経っていないので、すぐに事に当たりかかれないと理解していたのです。
 しかし、それから先の首相は経済発展すればそれでよい、となりました。そうなると、立派な政治家が出てくるはずはない。軍事問題に不案内なので、それに対する感覚がない。これはどうすべきか、答えは二つに一つで、日本がアメリカの五一番目の州になるのも選択肢の一つです。これは決して悪いものではありません。もう一つのシナリオは、日本では危機が迫ってくると、時々、突然変異みたいな人間が出てくることがあるので、それに期待することです。源頼朝にしても、大久保利通にしても、あんなに異様な日本人はいいません。2、300年に1人か2人登場するはずの変わった人物なしで日本が滅びるとしたら、それはそれでスカッとして諦めがつきます。

2026年4月27日月曜日

20260426 株式会社二玄社刊 村上兵衛著「国破レテ: 失われた昭和史」106‐113より抜粋

株式会社二玄社刊 村上兵衛著「国破レテ: 失われた昭和史」
106‐113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 437730612X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4377306125

青年将校と北一輝
 日本が国際連盟を脱退してから、ちょうど3年たった1936年(昭和11年)2月26日、未明。東京で重大な事件が突発した。
 その日は、前日に降り積もった大雪が、まだ首都をあつく、まっしろに蔽っていた。
 その雪を踏みしめて、22名の青年将校に率いられた、約1400余名の部隊が行動を起し、首相(未遂)、内大臣、蔵相、教育総監(陸軍)をはじめ、多くの重臣を襲い、首相官邸、陸軍省をふくむ永田町一帯 ―― いわば日本の政治の心臓部を占拠し、一挙に制圧した。
 首謀者たちは、これまで何度かクーデター未遂事件を起こした陸軍中央のエリート将校たちではなかった。
 彼らはすべて、隊付の ―― いわば下積みの若い尉官たちであった。この純真な青年たちは、その部下の兵士たちから直接、農村をはじめ一般庶民の疲弊をもっとも身近にかんじ、軍部の腐敗をふくめて、すべての日本の政治・社会の現状に、痛憤を抱いていた。そうして、このような現状がつづく限り、自分たちは安んじて国防の第一線に立ち、生命を抛つことはできない、と信じた。
 しかし、とりわけ規律厳正で、国家に対する忠誠心のあつい、陸軍士官学校出身の若い将校たちが、いわば徒党を組み、その部下を率いて大事を決行する ―― それは将校たちの、政治や社会に対する単純な憤慨からだけでは起り得なかった。そこには彼らの確信を支える、重い思想が必要であった。それを供給したのは、北一輝というひとりの思想家である。
 1883年(明治16)生まれの北は、社会主義者として出発し、わずか23歳のときに、発刊後ただちに発禁となった『国体論及び純正社会主義』の大著によって、その天才的な片鱗を示した。
 彼は、中国の革命に身を投じ、1919年(大正8)パリ講和会議が行われているころ、上海にあって排日のデモの怒濤を書斎から見おろしながら、「日本改造法案大綱」を書きあげた。
 この本も、ただちに発禁となった。が、それは青年将校たちの秘かなバイブルとなった。その内容を一口でいえば、天皇のもとにおける絶対平等主義であり、私有財産の大幅な制限、農地解放をふくむ日本の体制の根本的な変革を志向していた。
 彼の平等主義は、国際関係にも及び、中国の保全を説き、日本政府が山東半島の権益にこだわっているのを冷罵した。彼は、青島を取るよりも、イギリスから香港を奪取せよ、と説き、また日本は満州に植民するよりも、空漠たるオーストラリアを目指すべきである、と主張した。
 その大胆で、インスピレーションに満ちた宣言は、若者の心を妖しく魅了するに充分であった。
 北は、2月26日の青年将校の決起にはむろん直接には加わらなかった。が、彼らの思想的リーダーである磯部浅一(予備役)主計中尉とたえず連絡を取っていた。そして、熱心な法華経の信者である北は、彼らの成功をひたすらに神仏に祈り、霊感のくだるのを待っていた。

殺気立つ決起軍
 占拠地域の厳重な歩哨線を通って、まず川島義之陸相らが、占拠された陸軍省に入った。その大広間で、陸相は決起部隊の士官たちに囲まれ、最初の交渉が行われた。
 彼らの第一の要求は、彼らの行動が「義」のために行われたものであることを、陸軍および政府が認めよ――というものであった。同時に、今後の処置として、陸軍大将・真崎甚三郎を事態収拾の責任者として推し、維新内閣の実現を求めた。
川島陸相は、もう寝呆けていたわけではないが、あまりの思いがけない重大事件の突発に気が動転していて、ろくに口も利けない有様であった。その広間の一隅には、どこをどう通って来たのか、参謀本部の作戦課長の現職にある石原莞爾大佐が、いつのまにかふらりと入り込んでいた。その姿を目敏く認めた決起軍の栗原安秀中尉がつかつかと彼に近づき、「石原大佐どの。あなたのお考えは、われわれと根本的に違うのではありませんか。大佐どのは昭和維新について、どのように思われますか」と、語気するどく迫った。彼ら隊付の若い士官たちは、中央のスタッフたちを幕僚ファッショと呼び、除かなければならない主要な敵の一部と考えていた。

「昭和維新……? ぼくにはよく解らん」と、石原はぶっきら棒にこたえた。

「ぼくは、日本が軍備を充実すればそれが維新になる、と考えておる。何も、事件など起こすことはない」

 栗原中尉は、腰のピストルに手を掛けながら、さて、この男を射ち殺すべきかどうか、ためらった。

 横から、斎藤瀏予備役少将――彼は川島の二期後輩、著名な愛国歌人で、決起軍のシンパサイザーであった――が、議論に加わった。

「石原くん。きみなら、今、どうする」

「皆を説得して、引き揚げさせます。それでも聴かなければ……」と、石原はあいかわらずぶっきら棒にいった。

「軍旗を奉じて、討伐します」

「何をいうか、きさま!」

 斎藤少将の甲高い声が広間にひびいた。

 陸相との交渉を、取り囲むようにして背後から見まもっていた林八郎少尉が、ギラリと刀を抜き、それをふりさげたまま石原のほうに近づいてきた。背後から、「石原なんぞ、ぶった斬れ!」という声がかかった。

 陸相と交渉していた山口一太郎大尉がそれに気づき、あわてて立ちあがって二人の間に割って入った。

「石原さん」と山口大尉は低い声で、「別室で話しましょう」と強引に誘い、部屋から連れ出した。

「連中は気が立っているんですから……」と、山口は廊下をあるきながらいった。

「石原さんも、あんなことをいうから、わるい」

「そうか、オレがわるいかな」

 二人は、ガランとした別室に入った。

山口大尉がまた交渉の席に戻って行くと、石原はしばらく顎を撫でながら何事か考えていたが、やがて部屋から出、ひとりでまた歩哨線を越えて行ってしまった。ちょうど入れ替るように、今度は一台のピカピカの車が、歩哨線に近づいてきた。真崎大将であった。たまたまそこに立っていた決起軍の磯部中尉は、雀躍せんばかりにして将軍を迎えた。

「閣下」と、磯部はヒタと大将の目をみつめていった。

「ついに、やりました!」

将軍はギロリとその目を見返し、「よォ解っとる。おまえたちの気持は、よォ解っとる……」と、同様にいささか興奮した面持ちで答えた。

「どうか、あとをよろしくお願いします」

 磯部は声を絞り、ほとんどすがるようにいった。

「うむ、うむ」

 荒木の思想的後継者と見られていた真崎は、青年将校らの激越な言葉を、ながい間、いつもこのようにアイマイな、しかし物分りのよい親父のような態度で聞いていた。

「そうじゃ。岡田(首相)のようなやつは、ぶった切れ」などと、この将軍は、ときには威勢のいい相槌を打ち、青年将校たちを随喜させることはあったが、しかし「実行行為」について賛成する言質を与えたことは、かつてなかった。

 真崎は、ずかずかと大広間に通ると、そこに川島陸相の姿を発見し、大声で叱りつけた。

「きさまは、こんなところで何をグズグズしちょる!」

 陸相はハッと立ちあがり、身をかがめて、この先輩に敬意を表した。

「貴様は、責任者じゃろうが。……すぐ宮中に参内せい!」


あわてる陸相
 決起軍の関係者以外で、この未明に起こった事件の全貌を、もっとも早く知ったのは、満州事変のときの軍司令官・本庄繁大将であった。このとき彼は、侍従武官長――いわば天皇の軍事に関する最高顧問――をつとめていた。早晩、5時。彼は女婿にあたる山口一太郎大尉からの伝令将校の来訪によって叩き起こされ、事件の概要を伝えられた。山口は、決起軍の同志ではあったが、あえて実行行為には加わることなく、事件のあとの上層に対する工作の役割を、引き受けていた。本庄侍従武官長が、天皇に最初の拝謁を行ったのは、朝6時である。天皇は、そのときは黙して眉をひそめ、深い憂いに沈んでいるかのようだった。そしてポツリと一言、「武官長だけ、こんなことになりはせぬかと、いつかいったことがあったネ」と、思いかえす風であった。それから3時間おくれて、陸相が慌しくやってきた。彼はくどくどと状況を説明し、さらに、「つぎの内閣は、国民生活を安定させ、国防を充実させる、強力な内閣でなければならぬ……と思慮いたします」と、その意見をつけ加えた。陸相の報告を、いらいらと不興げに聞いていた天皇は、そこで発言を遮った。
「陸相が、そういうことをいう必要はない。まず反乱軍を鎮圧する方法を講ずるのが、おまえの役目ではないか」
 陸相は、雷に打たれたようにハッとし、おそるおそる天皇の顔をうかがった。彼はまだ蜂起した青年将校たちの醸し出す殺気に感染していて、彼らを反乱軍ときめつけることさえアタマになく、ただ狼狽(ろうばい)していたのである。
 陸相は一言、「恐懼の至りにございます」と、ふかぶかと頭を下げ、そしてそくさと御前を退出していった。
 天皇は当時、その政治においても、あるいは大元帥としての軍令においても、日本の至高の位置にあった。が、定められた機関の決定にしたがい、それに“認可”を与える以外、一歩もそこからはみ出さないのを慣例としていた。  しかし、このときは諮問すべき重臣たちは一挙に暗殺され――ときの岡田啓介首相は、よく風貌の似た義弟が身代わりとなって危く難を免れたことが、やがて判明したが――補佐すべき機関は、一時的に機能が麻痺状態にあった。  天皇は、このときはじめてみずからイニシアチブを取った。そうして重臣たちを襲った怒りの感情もあらわに、蜂起した軍隊を「反乱軍」と断定し、ただちにその鎮圧を命じたのであった。  天皇のピリピリした感情と生真面目な意志とに支えられて、日本の統治機構、そして陸軍の組織も、最初の衝撃と混乱から自分を取り戻し、徐々に立ち直っていく…。

激昂する天皇
 天皇に一喝され、陸軍省――そのときは九段下の憲兵司令部に本拠を移していた――に舞い戻ったものの、川島陸相はなお途方にくれていた。そして、軍事調査部長・山下奉文(ともゆき)少将らの意見具申にしたがい、とりあえず陸軍の長老による軍事参議官会議の諮問を求めることとした。  この会議は、宮中の一室で行われた。陸相、参謀次長、皇族の陸軍長老(東久邇、朝香、梨本)らが参集し、とりあえず「陸軍大臣告示」を出そうということで、評定はえんえんと翌日の午前1時半までつづいた。  重大事件突発の報を秘書から電話で受けた内大臣秘書官長の木戸幸一も、天皇が最初の本庄侍従武官長の拝謁を受けようとしている午前六時には、すでに宮中に車で駆けつけたひとりであった。  彼は、警視総監を手にはじめに――電話はつながったものの、相手の意見はまるで意味をなさなかった――、まず近衛文麿、つづいて興津の西園寺公と、電話を掛けまくった。  西園寺は、まだ寝ていた。電話口に出ると、「また、やりおったか。困ったものだ」と、呟くようにいった。そして着替えを済ませ、おりからの雪模様の寒さのなかを、ほどなくやってきた静岡県警の警備車3台に護られて、その警察部長官舎に避難した。  2月26日の宮中は、混乱のなかに過ぎていった。天皇は、つぎつぎに重臣の拝謁を受けながら、そのあいだ2、30分おきに本庄侍従武官長を呼んだ。そして、「まだか……。反乱軍の鎮圧は、まだか」と、からだを震わせながら催促した。  さいごに、本庄大将が天皇に呼ばれて同じ督促を受けたときは、27日の午前2時を回っていた。この老将軍は、そのまま宮城に泊り込んだ。

2026年4月26日日曜日

20260426 株式会社文藝春秋刊 池内 恵著『書物の運命』pp.96‐98より抜粋

株式会社文藝春秋刊 池内 恵著『書物の運命』
pp.96‐98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163680608
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163680606

 西暦紀元前後、アレキサンドリアがヘレニズム学芸の中心地だったころ、この地の図書館は万巻の書を集め、世界の知を結集していたとされる。しかし、7世紀にイスラーム教徒の軍勢がアレキサンドリアを征服した時には、すでに図書館は荒廃してしまっていた。
 この古代図書館の理念に倣って大図書館を建設し、世界の知を集積するというプロジェクトをエジプト政府が立ち上げ、ユネスコの後援を得て資金が集まった。完成した建物の主要部分は、ちょうどオレンジを八つ切りにして横たえたような形をしている。その「切り口」がガラス張りになっていて、地中海の陽光がいっぱいに差し込んでくる。
 ヘレニズム学芸の遺産の共有を通じて「西洋に開かれたエジプト文化」をあらわそうとしているのだろう。自らの文化をどう定義し、いかに世界に効果的に示せるか、という問題はテロリズムとの関連で疑念を持たれるアラブ諸国にとって死活問題である。
 式典にはフランスのシラク大統領をはじめ、スペイン国王夫妻やギリシア、レバノンの大統領など、豪華な来賓が集まった。日本もユネスコを通じてこのプロジェクトに大きく貢献しているのだが、存在感は薄い。シラク大統領が自ら出向いたフランスはすっかり主役である。
 シラクはその足でベイルートに赴き、18日から開かれた「フランス語圏機構」のサミットに出席した。モロッコ、レバノン、エジプトなどアラブ諸国もこの機構に加盟している。今回はイラク問題やパレスチナ問題などの議題に関心が集中し、シラクはアラブ寄りの姿勢を示して大いに点数を稼ぎつつ、言質は取られずに帰った。
 フランス語・文化の影響というのはかつての植民地支配を意味するのだが、それすらもしたたかに外交の手段にしてしまう。このような「文化の政治」において、日本はいかにも発信力が弱い。
 今年のエジプトではもう一つ大きな式典があった。革命の五十周年である。一九五二年七月二十三日、青年将校の一団が決起した。後に大統領となるナセルやサダトを含め、この時の指導者の多くは一九一八年に生まれている。士官学校に平民の入学がゆるされるようになった一期生である。この世代が政界を牛耳り続け、世代交代の制度を築けなかったことが、五十年後に制度疲労となって重くのしかかっている。
 興味深いことに日本では田中角栄と中曽根康弘がこの一九一八年の生まれである。一歳年下になると宮沢喜一がいる。破竹の急出世を遂げた田中角栄にしても首相となるのは七二年である。すでにその二年前、ナセルは心臓発作で亡くなっていた。ナセルを継いだサダトは八一年に暗殺される。中曽根の首相就任はその翌年である。宮沢になると九一年になってやっと首相の座をつかんだが、五五年体制に幕を引くという役回りを負わされた。
 若くして権力を握るには無理をしなければならず、機が熟すのを待って念願かなったころには盛りを過ぎている、という傾向が日本の政治の世界にはあるようだ。エジプトの場合は全く逆で、極めて若いうちに武力で権力を奪取し、死ぬまでその地位から立ち退かない。どちらが良いとも言えないだろう。
 日本の場合は、政治力と教養を兼ね備えた政治家が早期に首相を経験し、退任後を国際機関の長のような役目を務めて過ごすというライフコースが存在しない。このことが、文化をめぐる国際政治の舞台で、存在感を示せない一因になっているのではないか。

2026年4月22日水曜日

20260422 東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」 pp.350‐355より抜粋

東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」
pp.350‐355より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4492444564
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492444566

 中東はなぜ、地政学的な認識において重視され、それに基づく戦略論・外交政策論の対象となってきたのだろうか。ここでは本書の編者が示している「相対的な位置」、「資源・エネルギー」、「歴史とアイデンティティ」の三つの方面から見ていこう。

相対的に重要視されてきた中東

 第一に、中東の置かれた相対的な位置が持つ国際政治上の重要性は特筆される。中東はヨーロッパとアジアとアフリカの結節点に位置し、交通の要衝であることから、グローバルな大国が覇権的な地位を確立・維持するために、中東を掌握することが不可欠となる場面が、歴史上、恒常的に存在してきた。これは必ずしも中東そのものに希少な価値が内在的にあることを意味せず、むしろ相対的な位置関係によって生じた重要性である。大国あるいは帝国が、ヨーロッパとアジア・アフリカを横断する広範な領域に政治的・軍事的に勢力を展開するためには、その中間に位置する中東に安定的にアクセスし、自由に通行することが不可欠であると歴史上多くの場面で認識されてきたことから、中東に政治的な影響力を行使する手段を有し、場合によっては軍事的な手段を用いて支配することの価値が存在してきた。また、グローバルな通商貿易の存立に、中東地域の安定と、そこへの自由・安定的なアクセスの確保が不可欠なことから、世界的な帝国は中東の統制の必要性を感じ、中東に進出した。  ヨーロッパ・アジア・アフリカにまたがる地域という特性そのものは、歴史を通じて変わることのない地理的な要因に多くを由来しており、近代に限らず、古代から、中東(と近代に呼ばれるようになった地域)の戦略的な重要性をもたらしてきた。たとえば、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが記録に残した「ペルシア戦争」は、アケメネス朝ペルシアが拡張しアナトリア半島とバルカン半島南部にかけての、現在のトルコを中心とする地域を制圧したのに対して、アテネが中心になって立ち向かったという構図である。また、共和制ローマの三頭政治の崩壊後の内戦で、カエサルはポンペイウスを追い落とし、紀元前48年、逃亡するポンペイウスを追ってエジプトのアレクサンドリアに上陸した。カエサルはプトレマイオス朝の内紛にクレオパトラ7世の側に立って介入し、翌年の「ナイルの戦い」に勝利し、共にエジプトを掌握した。カエサルはこの年に現在のシリアからトルコ黒海沿岸にかけての地域に遠征を行って勝利し、翌年に現在のチュニジアで政敵に勝利してローマに凱旋した。  
 エジプト・チュニジアやシリア・トルコといった現在の中東・北アフリカに戦略的な足場を築いたことで、カエサルはローマの内紛において優位に立ち、紀元前44年に終身独裁官に就任し、後の帝政ローマの成立への礎を築いた。カエサル暗殺後の第二次三頭政治では、イタリア以西を支配地域としたオクタウィアヌスが、北アフリカを支配地域とするレピドゥス、そしてギリシア、トルコ、シリア北西部、リビア東部を支配地域とするアントニウスと覇を競った。オクタウィアヌスはまずレピドゥスを降伏させて北アフリカを掌握し、アントニウスと対峙した。アントニウスはクレオパトラと結婚し、プトレマイオス朝にローマの東方領土を分割しようとしていた。オクタウィアヌスはアントニウスを紀元前31年にアクティウム(現在のギリシア)の海戦で破り、ローマに凱旋して、ローマ皇帝の前身となる「プリンケプス(第一人者)」に就任した。このように、中東を掌握することが、古代ローマで最高権力者の地位を獲得する際に不可欠の要件であったと見ることができる。
 ローマ帝国が衰退・不安定化し分裂傾向を抱える過程で、中東の重要性は増し、帝国の重心は中東に向けて移動していった。324年に皇帝となったコンスタンティヌス帝はサーサーン朝ペルシアの脅威に備えるために、330年にビュザンティオンを開いて遷都した。これが皇帝の死後はコンスタンティノポリスと呼ばれ、395年のローマ帝国東西分裂以降は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、コンスタンティノープルと呼ばれた。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを征服して首都とし、イスタンブルと呼ぶようになった。ローマ帝国・東ローマ帝国と、それを継承したオスマン帝国が、ボスポラス海峡に跨り、黒海と地中海の結節点を扼するビュザンティオン=コンスタンティノポリス=コンスタンティノープル=イスタンブルを首都とし続けたことは、この地点を掌握することの地政学的な重要性が、継続して認識されてきたことを意味するだろう。地中海世界から西アジアにかけての領域を支配する帝国にとって、中東に直接あるいは間接的なプレゼンスを持つことは政治・外交・安全保障政策上、極めて重要であり、不可欠であった。

 近代における帝国主義の時代に、西洋「列強」がグローバルに勢力を伸長させ、世界各地で植民地獲得競争を行った時、やはり中東は争われる対象となった。これは英仏の東地中海からインドへの展開、ロシアの南下政策、ドイツの遅れた台頭が、衰退・崩壊過程のオスマン帝国の領域で摩擦を繰り広げた「東方問題」として現れた。

 中東の特性は、近代の地政学、特に海洋権力論に依拠した議論においては「チョークポイント」の議論によって論じられた。軍事や国際政治経済における「チョークポイント」の多くが中東に位置する。マハンは1890年の『海上権力史論』において七つのチョークポイントを指摘した。チョークポイントは、それを設定する主体や目的や政治的・軍事的環境条件の変化によって様々に定義されうるが、冷戦後のグローバル・エコノミーにおける資源や食糧の輸送経路の保全という観点からは、代表的なチョークポイントは次のものである。

ボスフォラス海峡*

ドーバー海峡

ジブラルタル海峡*

マラッカ海峡

ホルムズ海峡*

バーブルマンデブ海峡*

パナマ運運河

スエズ運河*

 このうち*を付した五つが広い意味での中東に含まれる(さらにマラッカ海峡は「イスラーム圏」に含まれる)。
 海洋国家としての英国の発展と覇権の維持に不可欠なチョークポイントを多く抱える場所として、近代における中東の地政学的な重要性は定義された。英国から米国に覇権が遷移した際にも、中東の地政学的な重要性への認識は受け継がれ、現在に至る。英国と米国によって推進されたグローバルな通商貿易体制に裨益する日本なども、この中東の地政学的重要性への認識を共有するようになった。  同時に、中東は大陸権力(ランド・パワー)を重視するドイツを発信源とする地政学においても重要である。それは中東の拡大・延伸領域と認識される「イスラーム世界」を重要な対象とする地政学と言える。この大陸型地政学の観点から、トルコやイランと歴史・文化的に連続性が強い中央アジアが、英・露を中心とした西欧列強の間で争われる「グレート・ゲーム」の対象となった。

豊富な資源による重要性
 
 第二に、この相対的な地理的条件において重要な中東に偏在して石油・天然ガスが産出されるという点が、近現代において中東の地政学的な重要性を飛躍的に高めている。現代の国際政治において、中東に関する地政学的な関心の原因となる要素の筆頭が、資源エネルギーであることは言を俟たない。中東に遍在する石油・天然ガスの支配や管理は、それを消費国まで運ぶシーレーンやパイプラインの維持を含めて、中東をめぐる国際政治の焦点となっている。特に第二次世界大戦以後においてこれは顕著である。中東の原油を消費国に運ぶシーレーンの途中に、ホルムズ海峡やスエズ運河、バーブルマンデブ海峡といった「チョークポイント」が点在していることにより、中東の安全保障はグローバルな課題となる。

2026年4月21日火曜日

20260420 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」 pp.312-317より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」
pp.312-317より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4101065012
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4101065014


 我々が移転した時は、三中隊まで炊事場完成、中隊本部の棟上げがすんだだけであった。我々はまず図の中庭に当るところにテントを建てて住み、逐次周囲に我々の住居たるべきニッパ小屋を建造して行った。
「うら枯れしニッパアをもて葺くなればニッパア・・ハウスと申すやうなり」俘虜の中の歌人が歌った。ニッパとは幹を持たない椰子の一種で、その柔軟な葉を二三尺に綴ったものを単位にして屋根を葺く。別に枯れたのを集めたわけではなく、最初は随分緑したたるようでもあるが、やがては枯れて褐色を呈して来る。ニッパ椰子の葉で葺くから、ニッパ・ハウスと呼ぶことには間違いない。
 収容所の我々の住居は、最初は米軍規格のテントであったが、戦争の終焉の見通しのつかないままに、便所を除き半永久的のニッパ・ハウスを俘虜自身に建造させるのが、米軍の方針となったらしい。
 建物は全部所謂切妻形である。これは周知のように左右二面の屋根のみを持つ簡単な造りで、別に米軍の指定によるものではなく、俘虜の中の大工が勝手に設計したものである(因みに比島人のニッパ・ハウスは多く四面の屋根を持っている)。
 まず椰子の幹を一丈ばかりの長さに切った丸柱を、二間おきに二列に建て並べ、「三角」と呼ばれる竹を鈍角の頂点を持った等辺三角形に組んだものを、各々相対した柱に渡す。その頂点を貫いて竹の梁を通し、それから左右にやはり竹の垂木を並べ、同じく竹の母屋で繋げば、この建物の骨格は出来上るのである。あとは屋根と、建物の前後に露出した「三角」をニッパで葺き、廂を出し、各「三角」の底辺を二本の竹の柱で支え、周囲に割竹で腰張をほどこせばよい。通路は「三角」を支えた中柱の間で建物を置く。
 これが中隊本部及び各小隊小屋の基本形であるが、炊事場のみ稍々異る。「三角」を支える中柱を欠き、入口は裏一方のみ、前面は全部腰張にして、食糧を分配する台を設えるのである。
 資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上り、歌いながら竹材を釘でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に各小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は戦ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
 資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。一二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上がり、歌いながら竹材を針金でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は暇取ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
 この間収容所の外でする米軍のための作業、つまり外業は中止されていた。もっとも作業は名目的なもので、どう考えても我々の享受していた衣食住プラス三弗の俸給、さらに一日八仙の作業手当に値するものではなかった。外業では我々は過分に支払われていた。しかし自分達の住居を建造するという労働では、我々は立派に一つの仕事をした。つまり自分のものであるから、毎日みな力の極限まで働いたのである。
 こうして自分達のものを自分で建てるという仕事の性質から、我々旧日本軍人の間に初めてデモクラシーが生れた。つまり各小隊共、多忙の口実で中隊本部、炊事場の建造に使役を出すことを拒み、各自その構成員が働くほかなかった。前述のように一二中隊は棟上げがしてあり、内部の盛土と周囲の腰張りを作ればよかったが、あとの三個中隊は全然手をつけてなかったから、これは特権に馴れた幹部達にとって打撃であった。
 殊に悲惨であったのは、大隊本部であった。旧収容所では日本人代表者イマモロは米軍との折衝を専断して、擬専制的権力を享受していたが、新収容所に移るのを機に、所内が中隊組織に改組され、各中隊に米軍下士官が配属されることになって以来、権力は分割され減少した。今や彼は大隊長となり、象徴になった。
 かつて現在の中隊長、小隊長等の幹部を一棟に集めていた大隊本部は、七人の直属スタッフを持つにすぎなくなった。つまり副長オラと書記中川、通訳の桜井、給仕二名である。これだけの人数で宿舎を建造するのは、事実上不可能であったから、彼等は結局テントの周囲に垣を繞らすに止った。イマモロが怒りながら二人の給仕を指揮して、割竹を地にさしている光景は、彼の権力失墜の最初の表現であった。
 彼の没落の原因であった中隊付けサージァントは我々が各々ニッパ・ハウスを建造し終った頃到着した。彼等は一個中隊に一人ずつ配属され、毎日昼間を中隊本部に詰めて米収容所長の諸指令を伝達し、遵守を監督した。彼等はまた朝夕中隊毎に点呼を取った。これも従来イマモロの重要な補佐的役目の一つで、彼の勢威の有力な源だったものである。
 私が通訳として属した第二中隊のサージァントはウェンドルフというドイツ系米人であった。金髪碧眼、丈は低く、むしろフランス人を思わせた。私は彼が南部ドイツの農民の出であろうと空想した(Wendorf の dorf は村である)。「ドイツ人たる君がドイツと戦うのは変な気がしないか」という私の問いに対して「私達がアメリカへ来たのは随分昔だ」と彼は答えた。
 彼の職業はデトロイトの自動車工場の事務員で、召集されて既に三年だそうであるが、一般にあまり兵隊臭くない米兵の中でも、特に兵隊臭くなかった。高射砲隊員としてギスカ、マーシャルと転戦した後、この閑職について、召集解除を待っているだけだったらしい。
 彼は大隊本部と我々の関係をすぐ理解し、我々と一緒にイマモロを無視するのを面白がっていた。例えば我々が毎朝米軍倉庫から受けて夕刻返す要具(鶴嘴、シャベル、蛮刀等。これ等は凶器であるから収容所内に止めることは許されない)の割当も、従来はイマモロが宰領していたが、これもサージァントの手に移った。毎朝我々は彼にメモを貰って門外の倉庫へ受領に行ったが、これは各中隊勝手に要求したため、すぐ数が足りなくなった。大隊本部は別に直属の米兵を持たないため、却って不利になった。
 大隊本部の前を要具を担いで通る俘虜を、ヒステリーを起したイマモロが強襲して、要具を道路上に散乱させた事件を機に、イマモロの収容所長への懇願が効を奏し、要具だけはイマモロが一括受領して各中隊に分配するよう、収容所長から中隊付サージァントに指令が出た。イマモロはまた威張り出したが、我々も負けていなかった。サージァントにエキストラ要求書を発行して貰ってイマモロを悩ました。イマモロが米軍の倉庫主任を後楯に頑張ると、ウェンドルフが直接米軍の倉庫主任にかけ合いに行って、無理矢理に要求数を取って来た。彼等の間にも、我々とイマモロの間に似た関係があったのかも知れない。
 我々のイマモロに対する鬱憤はかなり晴らされた。彼は永らく抵抗していたが、やがて諦めて我々を「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。棒給生活者上りで元来殷勤なオラは「あなた方」といった。
 中隊別に食糧を分けることだけは依然イマモロの手中にあったが、これは彼が従来のように古い俘虜の多い一二中隊に偏愛する理由がなくなったという事実によって、却って公平に行われた。こうして旧収容所における日本的専制は各中隊にサージァントの配属されたことによって消滅したが、中隊内部では必ずしもそうは行かなかった。中隊長はじめ各小隊長、炊事長などが依然としてボスであった。しかしその権力は旧収容所でイマモロが雲の上の収容所長の威を藉りて振っていた権力ほどには到らなかった。サージァントが常駐して直接指令し監督していたからである。彼等の勢力の源はむしろ、いかにその指令を俘虜の利益のために誤魔化すかを誇示し、俘虜の怠惰に媚びて人気を博することにあった。そして憎まれ役はサージァントの代弁者たる通訳の方に廻って来た。

2026年4月20日月曜日

20260419 我が国の「失われた30年」の基層にあるものについて

 「失われた30年」と呼ばれる、1990年代以降の長期にわたる我が国の低迷は、しばしば経済政策や制度設計の不備に帰されがちではありますが、その深層には、我が国社会全般において、人びとが書籍を読まなくなり、それに基づいて考えなくなったという、知的基盤そのものの変容があると考えます。また、こうした変化は、一見しただけでは看取し難いものではありますが、徐々にあらゆる営為を空疎なものに変え、最終的には形式だけが残る状態、すなわち「形骸化」をもたらすと考えます。本来、あらゆる人的営為は、それだけで成立するものではなく、方法や規則、あるいはそれを支える組織の仕組みがあり、それらに関与する人びとが、その意味や背景にある文脈を理解し、状況に応じて解釈し運用することにより、はじめて成立するものです。換言すれば、我々の営為とは、それに関与する人びとの思考によって支えられているのだと云えます。しかし、その前提となる思考が形骸化し、実質的に失われてしまうと、営為は、もはや内実を伴わず、単なる作業手順や工程へと変質します。このことを踏まえますと、文章や書籍を読むという行為は、単に知識を得るためのものではないと云えます。すなわち我々は、読むことを通じて、他者の経験や思考を追体験し、複数の視座を往還しつつ、抽象と具象とを機に応じて往復する力を獲得するのだと考えます。そして、この過程を経ることにより、我々は、接する事物の背景や構造を推量、理解し、それらを相対的に認識する力を身につけることが出来るのだと云えます。したがって、文章や書籍が読まれなくなるということは、単に社会における情報量が減少することを意味するのではなく、思考の形式そのものが単純化、浅薄化していくことを意味するのだと考えます。このような状況においては、営為の背景や意味、目的を考える力が減衰し、代わりに形式や手順といった、いわば即物的な要素に依拠する傾向が強まります。何故ならば、背景や意味を読み解くことが出来ない場合、人びとは、容易に看取可能な要素に拠るほかなくなるからです。その結果、営為の柔軟な運用は困難となり、現実の複雑さに対応出来なくなります。それにもかかわらず、形式や手順は厳守されるため、外見上は秩序が維持されているように見えます。そして、この外見と内実との乖離こそが、形骸化した社会の特徴であると考えます。その意味において、我が国は、こうした傾向が比較的顕著な社会であると考えます。太平洋戦争の敗戦後、米国を主とする占領軍のもとで様々な制度が導入され、民主化が急速に進み、社会に定着したように見えました。しかし、その多くは背景や意味、目的への十分な理解を伴わないまま受容されたものであり、そのため時間の経過とともに、徐々に忘却され、綻びが生じていきました。その結果、営為の正当性は、形式や手順、あるいは前例や空気に委ねられるようになったのだと考ます。このような状況においては、形式を逸脱することは過度に忌諱される一方で、形式に従ってさえいれば、実質が伴わなくとも問題視されないという逆転現象が生じます。さらに、昨今においては、情報環境の変化がこうした傾向に拍車を掛けているように見受けられます。すなわち、短文的で断片的な情報が主流となる中で、ある程度の長文を読み、論理を積み上げていく経験は希薄になりつつあります。その結果、複雑な問題を過度に単純化されたフレーズや印象によって捉える傾向が強化されて深い理解に基づく判断が困難になります。このような状況では、営為を支える思考の内実はさらに失われ、形式化は不可避の帰結となります。すなわち、どれほど精緻な制度設計を行ったとしても、それを運用する我々に、読むこと、そして考えることの習慣が乏しい限り、あらゆる営為は必ず形骸化していくと云えるのではないでしょうか。制度改革が為されても、状況が大きく改善しない一つの要因は、ここにあると考えます。つまり、問題の本質は外部にあるのではなく、我々を支える内的な知的基盤の側にあるのです。したがって、社会の再生や再活性化を考える際には、制度の改変以前に、人びとが再び読むこと、そして考えることを取り戻すことが不可欠であると考えます。これは即効性のある対応策ではありませんが、唯一、持続的に社会の質を高める方法であると考えます。つまり、読書という営為を通じて獲得される各自の内発的な知性こそが、諸営為に意味と内実を与え、形式を超えて現実に対応する力を社会にもたらすことが出来るのではないでしょうか。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年4月17日金曜日

20260416 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.152-154より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.152-154より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 文明は官僚制と神話の結合から誕生する。コンピューターベースのネットワークは新しい種類の官僚制であり、これまで私たちが目にしてきた人間ベースのどんな官僚制よりもはるかに強力で執拗だ。このネットワークはまたコンピューター間神話を創作する可能性が高く、そのような神話は人間が生みだしたどんな神話よりも格段に複雑で、人間には思いもよらない異質のものになるだろう。このネットワークの潜在的な利点は途方もなく大きい。逆に、潜在的な欠点は人間の文明を破壊しかねないことだ。

 一部の人にとって、文明の崩壊についての警告は悲観の極みのように思えるだろう。強力なテクノロジーが新たに現われるたびに、それがこの世の終わりを招くかもしれないという不安が湧き起こったが、私たちは依然としてここにいる。産業革命が進んでも、ラッダイト(機械化反対派)の描き出した破滅の筋書きは現実にはならなかったし、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクが作品に書いた「暗い悪魔の工場」は、けっきょく史上最も裕福な社会を生みだした。今日、ほとんどの人は一八世紀の先祖よりも桁違いに優れた生活条件を享受している。インテリジェント・マシンは、これまでのどんな機会よりもなお有益になるだろうと、マーク・アンドリーセンやレイ・カーツワイルのような熱狂的なAI支持者は請け合う。人間は、以前よりも段違いに優れた医療や教育、その他のサービスを享受し、AIは生態系を崩壊から救い出しさえするというのだ。

 残念ながら、歴史を詳しく見てみると、機械化反対派は完全には間違っておらず、強力な新テクノロジーを恐れるのはしごくもっともであることがわかる。仮に最後にはそうしたテクノロジーの利点が欠点を補って余りあるとしても、幸福な結末に至るまでには、たいてい多くの試練や苦難が待ち構えている。斬新なテクノロジーが歴史的惨事につながることが多いのは、テクノロジーが本質的に悪いからではなく、人間がそのテクノロジーを賢く使う方法を学ぶのに時間がかかるからだ。

 産業革命は、その最たる例だ。一九世紀に世界中に広まり始めた工業技術は、伝統的な経済や社会や政治の構造を根本から覆し、まったく新しい社会を創設する道を拓いた。その社会は、より豊かで平和になる可能性を秘めていた。ところが、良好な工業社会を築く方法を学ぶのは簡単には程遠く、大きな代償を伴う実験が繰りかえされ、その過程で何億もの犠牲者が出た。

 代償の大きい実験の一つが、近代の帝国主義だった。産業革命は一八世紀後半にイギリスで始まった。一九世紀の間に工業の技術と生産方法が、ベルギーからロシアまでの他のヨーロッパ諸国と、アメリカや日本でも採用された。こうした工業の中心地では、帝国主義の思想家や政治家や政党が、工業社会として唯一成りたつのは帝国だと主張した。おおむね自給自足の農業社会とは違い、新しい工業社会は外国の市場と原材料への依存率がはるかに高く、そのような前例のない要求を満たすことができるのは帝国だけであるという理屈だ。帝国主義者たちは、自国が工業化はしたものの植民地を征服するのに失敗したら、より冷酷な競争相手によって、不可欠の原材料の供給網と製品販売のための市場から締め出されるのではないかと恐れた。植民地の獲得は、自国の存続に欠かせないばかりか、自国外の人類全体にとっても有益だと言い切る帝国主義者もいた。新しいテクノロジーの恩恵を、いわゆる未開発国に広めることができるのは帝国だけだと彼らは主張した。

 その結果、すでに帝国だったイギリスやロシアのような工業国が大幅に国土を拡張する一方、アメリカや日本、イタリア、ベルギーといった国々は帝国の建設に乗り出した。工業国の軍隊は、大量生産されたライフル銃と大砲を装備し、蒸気の力で運ばれ、電信によって命令を受け、ニュージーランドから朝鮮半島、ソマリアからトルクメニスタンまで。世界中を席捲した。無数の先住民が、こうした工業国の軍隊によって伝統的な生活様式を目の前で踏みにじられた。工業帝国というのはお粗末な発想であり、工業社会を築いて必要な原材料と市場を確保するにはもっと良い方法があることにほとんどの人が気づくまでには、一世紀以上に及ぶみじめな経験が必要だった。

 スターリン主義もナチズムの、工業社会の建設方法を突き止めるための、はなはだしい代償を伴う実験だった。スターリンやヒトラーのような指導者は、産業革命が解き放った巨大な力を制御して最大限に活用できるのは全体主義だけだと主張した。彼らは、工業世界で生き延びるには政治と社会と経済のあらゆる面で全体主義的支配が求められる証拠として、史上初の「総力戦」である第一次世界大戦を上げた。一方、望ましい面としては、産業革命はそれまでの社会構造をその人間的な不完全さや欠点もろともすべて溶解し、純粋な超人が暮らす完璧な社会を鋳造する機会を与えてくれる炉のようなものだとも、彼らは主張した。

2026年4月15日水曜日

20260415 日経BP社刊 黒川 清著「大学病院革命」 pp.179‐181より抜粋

日経BP社刊 黒川 清著「大学病院革命」
pp.179‐181より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 482224556X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4822245566

 現在の医療不信のベースにあるのは医療と患者の間のコミュニケーション不全にある、と申し上げました。そこから考えると、改革すべき重要な病院の機能があります。それは病院の広報システムです。
 現在、日本の病院の広報システムもあまりにお粗末です。医療事故がおき、テレビで記者会見が報道されますが、病院側は事実を隠蔽しようとするクセが抜けず、切羽詰まると今度は土下座。広報戦略としては、最悪のやり方をどこの病院もとっている、としかいえません。どんな情報をどう開示するのか、どうすれば病院のブランドを落とさず、患者や世間の信頼をかちとれるのか、それを考え、情報発信を実行できる広報専門の担当者が必要です。もちろん、最終的にはこうした広報戦略を束ねるのは病院の経営者である院長や理事長です。
 企業の場合、広報は社長直属になっており、先進的な企業の社長は自ら広報マンであることを自覚しています。それと同じような病院経営者の自覚とシステム作りが病院においても急務です。
 アメリカでは、医療事故があると、すぐに弁護士が飛んできます。夜中であろうが、経営者や関係スタッフが集まり、それぞれがやるべき仕事を分担します。取材を受ける人間を決めます。「対外的にどこまで話すべきか」「どういう観点で話すか」も議論します。同時に、院内委員会を調べ、事故について調査し、報告書をすぐにまとめます。それをもとに外部評価委員を集めて会議を開き、質問を受けます。
 東海大学で医療事故が起きたとき、私はアメリカの大学病院で学んだ広報体制をとってみました。でもこのような方法は日本の病院のあいだになかなか広まっていません。
 人の失敗から学ぶというのはとても大切です。ゆえに医療の安全についての講座や講義を医者や大学医学部の学生たちに対して行う必要があります。医療というのは100%確実ということがありません。だから「事故はある」という前提で、ふだんから備えておくべきなのです。病院でおきた過去のヒヤリハット事例を集めるとか、専門家を読んで話を聞く。無論、普段はもちろんいざというときの患者さんの家族との対応も欠かせません。患者さんの信頼を得るためには、何かあったときではなく、ふだんから情報発信をすることが大切です。
 医療事故は、いつだって起こりえる。ゼロにする努力を怠ってはいけませんが、ゼロになることはありえない、と考えるべきです。そういう教育をしながら、制度的なミスがどこにあるかという話を考え、分析し、改善し、透明性を保つ、広報する。病院側が意識と体制を変え、こうした対応がとれるようになれば、医療と社会の関係も改善し、医療不信を解消する方向に持っていくことは可能なはずです。

20260414 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」 pp.4-6より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」
pp.4-6より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

 政治は国民大衆の鏡であるという。敗戦の廃墟の中から立ち上がり、未曾有の経済復興を遂げ、わずか30年足らずで世界のトップクラスの経済大国になった国民のエネルギーとは、経済万能主義、金権絶対主義のエネルギーであった。当然のこととしてエントロピーを増し、それが社会構造の末端にまで及んだ。そして日本を破局に向けて邁進させるようなメカニズムが生れたのである。問題の政界を取り巻く腐敗も、官僚と財界と自民党のどろどろした癒着も、さらに視点をかえていえば、公害によってすっかり変色した自然も、アラブの資源ナショナリズムによって起こった石油危機も、現在の社会構造とそれによって生じるメカニズムの「ひこばえ」である。一本の糸をたぐっていけば、行き着くところは同じ根である。

 では、一体、このメカニズムとは何か、この解明が本書の主要なテーマであるが、要約して結論をいえば次のようになる。すなわち、高度経済成長にもとづく「最も空想的な人間の夢想すら上回る」社会変動にもかかわらず、日本人の行動様式は、構造的には戦前におけるそれとは変わっていない。つまり、structurally isomorohic である、ということだ。そのためにこれらの間の矛盾から生じる構造的アノミー(アノミーは「無規範」もしくは「無規制」と訳される。詳しくは後出第五章参照)によってこのような致命的なメカニズムが生じると考えられる。

 さらにここで十分に認識しておくべきことは、社会的現実を科学的に分析し、この分析にもとづいてこれを合目的的に制御するという社会科学的な態度と能力とが日本人には決定的に欠如していることである。この「精神」の欠如は、現在にだけ特有のものではない。戦前も戦後も、あるいはいかなる社会変動を経験しても全く変わっていないのである。このような態度を続ける限り、いかなる危機も救い難いものであるといわざるをえない。この点を克服してこそ、政治的、経済的、社会的危機は外部のものではなく内部のものとなり、所与のものとして位置づけられる性質のものではなく、われわれの克服可能な課題となる。この課題を制御対象とみなし、社会科学的に分析し、有効な制御を施すとき、いかなる危機もその超克の下に解決されるであろう。「危機」とは、有機状態のするどい亀裂である。それは極限にまで狂暴性を発揮する恐怖の状態、少なくともそこまでにいたる予兆である。原始時代の人間が天災にうろたえたように、われわれがいま、この「危機」の野放し状態を許すとしたら、われわれ日本人は滅亡するしかあるまい。だが、われわれは、実はこの恐ろしさに少しも気づいていない。あの第二次世界大戦においてわれわれを襲ったそれと同じタイプの大破局が再び襲ってくる可能性がないと、だれが断言できるだろう。世の中が一見太平安泰、物資的多さのムードに満ちているとき、このことに気づくのは容易ではない。精神の弛緩は、満たされたままの現状を所与のごとき感で蔽い続ける。

2026年4月13日月曜日

20260413 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」 pp.54-57より抜粋

 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」 
pp.54-57より抜粋
ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966

 いったいどうして茶がヨーロッパのなかでも、とくにイギリス人の間でひどく愛好され、国民的飲料として急速に普及するようになるのであろうか。日本人なら誰でも不思議に思って一度は話題にするテーマであろう。しかしこの問題はそう簡単に答えの出る問題ではない。社会的・経済的・文化的要因が複雑に絡んでいて、短絡的なアプローチではとても解答が見出せそうにない。たとえば茶がポピュラーな飲料になる以前のイギリスでは、人びとはいったい何を飲んでいたのか。それにしてもイギリスに茶が受け入れられた文化的基盤はいったい何であったのか。またほんとうに茶は何の抵抗もなくスムーズに受け入れられたのかどうか。また何らかの文化的摩擦があったとすれば、そうした摩擦や抵抗を排除して、国民的飲料として定着せしめたものは何であるのか。茶には、非アルコール的競合飲料としてコーヒー、チョコレートであったが、どうして茶がイギリスでは他を抑えて優位を占めるにいたるのであろうかなど、少なくともこうした問題を考慮にいれておく必要があるだろう。

 ではまず、茶が入ってくるまえに、イギリス人は日常の飲み物として何を飲んでいたのであろうか。常民生活の記録が乏しいのでよくわからないが、主として水および自家製のエールを飲んでいたのではないかと思われる。イギリスの水は軟水で、大陸の水とちがって飲料に適していた。試みに、いまでも大陸の水でティを飲んでもティの味も香りもない。やはりティはイギリスで飲むのがいちばんおいしい。またエールというのは麦芽とイーストと水だけで醸造したもので、ビールの一種といってよいが、ビールとちがうのはホップを使っていないことである。イギリスへビールが入ってきたのは十五世紀のことで、フランダースから導入された。しかし十七世紀末までは、上流階級でも日常の飲み物といえばビールよりかエールであった。農民のあいだでは自家製のエールが飲まれていたが、農村共同体の祭りや結婚式のときに出るのもエールと決まっていた。ワインはまったくなかったわけではないが、フランスなどからの輸入ものが主であったし、またリンゴからつくるサイダーもあったが、いずれもイギリスでは上流階級や特別の行事のときの飲料で、庶民の日常の飲料ではなかった。もっとも十八世紀になると、ジンや安ものの輸入ワインが庶民のあいだで広く飲まれるようになるが、ともかくイギリスはフランスや他のヨーロッパ諸国と比べると、水は別として、もっとも飲み物の貧弱な国であったといってよい。だからフランス、イタリア、スペインといった地中海のワイン文化圏では、茶はほとんど割り込む余地がなかったのに、伝統的飲料がもっとも貧弱であったイギリスに茶が入りやすかったということができる。

 なお、イギリスに茶が受け入れられた背景として、水が適していたことのほかに、土着の「代用茶」があったことは注意してよい。古くから知られる煎汁plant infusionがそれで、現在でも農村で用いられている。現在これをティとよんでいるが、これは本来のティではない。十六世紀にイギリスから大西洋を越えてアメリカにもたらされた薬用茶もセイジ・ティ(サルビアの葉を煎じたもの)があるが、それが伝統的な煎汁の一例である。その他ハートニーの「イギリスの食べ物」(1951年)があげているイギリス古来の代用茶には、Catnip tea(いぬはっか茶。これは風に効く)、Hyssop tea(ヒソップ茶。ヒソップはッ香りのよい刺激性の植物で、むかしその枝を清めの儀式に用いた。花も葉もティに使用され、熱湯を注いで二十分程浸し、蜂蜜を入れて飲むと、咳によく効くといわれる)、Raspberryleaf tea (木いちごの葉の茶。これを煎じてミルクと砂糖で飲む。またレモンと砂糖で飲んでもよい。妊娠の末期にとくに良いといわれる)、Black-currant tea(黒すぐりの茶。蜂蜜で飲めばのどや咳によい)などがあった。もちろんここに記した飲み方は現在のそれであって、茶が入ってくる前には砂糖の代りに蜂蜜が用いられたであろうし、飲み方がちがっていたであろう。こうした代用茶の基盤の上に、中国茶が入ってきたのであった。

 代用茶がどの程度広く普及していたかどうかは疑問があるにしても、東洋的な茶の出し方を知らず、ただ煎じたらよいと思っていたものも多かった。

 たとえば茶がアメリカ植民地に導入された十七世紀末から十八世紀はじめにおいてニューイングランドでは茶の葉を長い時間かけて苦い煎汁になるまで煮つめ、その煎汁をミルクも砂糖も入れないで飲んでいたのである。このような茶の飲み方はイギリスからもちこまれたもので、イギリス人のあいだでは茶も煎じて飲むくすりであると考えられていた。しかし奇妙なことには、その煎汁の出がらしの葉に塩をまぶし、バターをつけて食べていたことである。もっと傑作なのは、ニューイングランドの数都市では、煎汁を捨てて、出がらしの葉だけを食べていた。

20260412 中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく」 pp.212-215より抜粋

中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく
pp.212-215より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121028759
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121028754

 一般的に磨崖仏とは石仏の一種であり、自然の懸崖に露出した岩や岩壁に仏像を彫刻したものをいうが、仏像に限らず、梵字などが刻まれた「種子磨崖」、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれた「名号磨崖」、五輪塔などが刻まれた磨崖や石窟内の壁に刻まれた石窟仏などを含めた総称として用いられている。

 磨崖仏は、東北地方の福島県や近畿地方の滋賀県・奈良県・京都府、九州地方、特に大分県に偏在する。大分県は「磨崖仏の宝庫」といわれる磨崖仏密集地域であり、現在もその所在が知られるものだけでも八三ヵ所、総数約四〇〇体にのぼる尊像が確認され、一説に全国総数の八割を占めているといわれている。

 筆者が調査した大分県における磨崖仏分布を図8-27に示す、未調査の磨崖仏がまだ相当数あるものの、そのほとんどに湧水が存在する。湧水の存在する割合は、調査済みのものだけを対象とすると、九四%にも達する。

磨崖仏と阿蘇溶結凝灰岩
 磨崖仏が彫られている溶結凝灰岩は、水によって風化されやすい特徴を持っているので、文化財保護の観点から見ると湧水の存在は好ましくないという。にもかかわらず大分県の大野川流域湧水近くに多数の磨崖仏が見られるのはなぜだろう。

 磨崖仏は自然の岩石を素材としているため、その造形は石材からくる材質的制約を受ける。特に岩質の硬さやきめの細かさによって、彫られる仏像も異なってくる。大分県中南部に所在する磨崖仏の多くは、阿蘇火山灰の堆積層である溶結凝灰岩の緻密で軟らかい岩肌に刻まれており、もろく割れやすいという欠点がある。溶結凝灰岩はカルデラ式火山に特有の地質に見られ、九州では阿蘇火山や桜島火山が有名である。

 大分県、特に大野川流域には九万年前に噴火した阿蘇山の噴出物である溶結凝灰岩が堆積している。一般的に溶結凝灰岩は岩石内の空隙が大きく、水が浸潤しやすいために、非常によい帯水層(水が貯えられる地層のこと)となって豊富な地下水を供給する。したがって、溶結凝灰岩のある地域には地下水や湧水が豊富に存在するのは自明のことであり、事実、大分県の竹田湧水群はよく知られた湧水地帯である。また、凝灰岩は岩石の中では非常に柔らかい岩石に分類され、かつては建築石や石橋・石仏などに盛んに用いられた。磨崖仏を造立するにはとても都合のよい岩石であったのである。

 また、大分県の磨崖仏は、仁聞、日羅、蓮城法師の三人が彫像したと伝えられているが、実際には無名の石工たちが長い年月をかけて彫ったのであろう。その過程で、石工たちは作業の合間に水分を補給しなければならなかった。ただでさえ、岩石を穿つ重労働である。作業の合間にとる水のことを硯水というが、この水が近くにあることが磨崖仏造立の第一条件だった。

 また、磨崖仏は仏様であるから、毎日水をお供えしなければならない。この水のことを閼伽水という。第七章で述べたように、閼伽水は見た目の透明度が高く硫酸イオンが多量に含まれている。おそらく先人たちは閼伽水に適した水質を持っている湧水を経験的に知り、彫りやすいその場所に磨崖仏を造立したと考えられる。

2026年4月12日日曜日

20260411 2440記事に到達して思ったこと:文章作成と記憶の励起

 直近の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2440に到達しました。この数字からは、達成感よりも、これまでの継続期間をあらためて感じさせられます。また、これにより当記事を含め、残り60記事の更新により、現在目標としている2500記事に到達することが出来ます。60記事の更新は、毎日1記事の投稿であれば約2カ月間を要します。そして、2日に1記事の投稿であれば、約4カ月もの期間を要し、現在から起算しますと、夏真っ盛りの頃での到達となることが見込まれます。その頃、未だにブログ記事作成をしているのかと考えますと、正直なところ、少々滅入ってくるような感覚もありますが、元来、私にとってブログ記事の作成は、滅入るような性質のものではありませんでした。それにもかかわらず、ここに来て、そうした感覚があるということには、やはり10年以上にわたり、2400記事以上作成してきたことによる疲労のようなものが出てきているのだと思われます。そして、そうであるのならば、どこかで一度、当ブログのことを忘れるほどに休止することも、一つの選択肢であると考えられます。もっとも、そのためにも、現在掲げている2500記事という目標に、まずは速やかに到達しておくことが望ましいようにも思われます。そこから、本日も、先ほどより文章の作成を始めた次第ですが、先述の2440記事到達ということもあってか、ここまでは比較的速やかに書き進めることが出来ました。そういえば、今月に入ってからの投稿2記事「20260402 先日の久しぶりの紀伊田辺訪問から思ったこと」「20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて」の投稿数日前に、2017年より毎年、些少ながらも支援させて頂いている医療系シンクタンクさまより、お礼と共に新年度分の支援額の領収書PDFファイルが添付されたメールを頂き、これに対する返信として、了解と領収書へのお礼を述べる文面に続き、前述の投稿2記事にて述べたように、書籍を複数分野のアカデミアの先生方にお送りし、その反応について簡潔にお伝えして結びました。これに対する返信はすぐにはありませんでしたが、その後、「20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて」の投稿翌日にお返事があり、書籍送付および反応についての情報を組織にて共有されたとのことでした。そこから「こちらのシンクタンクさまに当ブログを読まれている方がいらっしゃるのではないか?」と考え、勝手ながら少し緊張してしまいました(苦笑)。しかしながら、考えてみますと、これは特に驚くべきことでもなく、現時点での当ブログの閲覧者総数は115万人を超えていることから、そのようなことがあっても決して不思議ではないとも思われるのです。そうしますと、やはり今しばらくは、コンスタントなブログ更新を継続し、わずかではあれ、興味深く、我が国の社会に何かしら貢献し得る情報を発信していくことが良いのではないかとも思われるのです…。また、そのように考えますと、面白いことに、未だ文章化・発信出来ていない事が、まだまだ多くあるように思われてきます。あるいは、こうしてキーボードで文章を作成するという行為そのものが、過去の記憶を励起させ、それが最近での出来事や読書の記憶と化合することで、新たな文章の作成を可能にしているのかもしれません。換言しますと、文章作成という行為は、単に記録ではなく、記憶と経験を再編成する結節点として機能しているのだとも考えられます。今回、当初は2440記事到達の勢いで始めましたが、結果として、比較的自然に文章作成の流れに入ることが出来たように思われます。そして、おそらくは、この状態に入ることが、継続において、とても重要なことなのであるとあらためて思われました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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