2026年6月3日水曜日
20260603 株式会社新潮社 新潮選書 片山杜秀著「未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命」 pp.213‐216より抜粋
pp.213‐216より抜粋
ISBN-10 : 410603705X
ISBN-13 : 978-4106037054
雑誌『日本評論』の一九四二年七月号は「支那事変五周年」の記念特集号にあてられました。そこに「新文化の創造」という座談会が掲載されています。出席者は次の六人。「大正デモクラシー」の旗手、長谷川如是閑。「大正教養主義」の生み出した一種の人文主義者、和辻哲郎。かつての唯物論研究会のメンバーで、この頃は日本に目を向けた科学技術史家・思想史家として新境地を開いていた三枝博音。日本主義的哲学者の佐藤信衛。流行を追う俊敏さでは並ぶ者のない評論家、室伏高信。日本史家の肥後和男。
一九四二年は英米との戦争が始まって二年目。一九四〇年の齋藤隆夫の演説のときの戦争目的は「東亜新秩序」の確立でしたが、それは「大東亜共栄圏」の建設へと、少なくとも言葉の構えはより大げさなものになっていました。
座談会は長谷川如是閑と和辻哲郎の対論がかなりの部分を占めます。他の四人はいささか影が薄い。大物の二人に気圧されてけっことう黙っています。
この日、和辻はかなり苛立っていたようです。もっとも、真珠湾攻撃やマレー沖海戦といった緒戦の空からの勝利に気をよくしている箇所もある。益子焼の陶工の技が西洋皿を作るときにも無意識のうちに生きるように、日本のパイロットは剣道の呼吸を飛行機の操縦に自ずと活かせるから優秀なのではないかと、とくとくと語ってもいます。
しかし、座談会に臨む和辻の基調はやはり怒りです。何に怒っているのか。戦時下の日本の実情にです。対英米戦という世界史的大戦争が始まって、国内では「挙国一致」の類いのスローガンだけは盛んに叫ばれている。けれども、実のところは政治も社会も経済も文化も細かく割れているばかりだ。国家社会のあらゆる局面で縄張り争いが甚だしくなっているのではないか。団結し、強いリーダーシップにしたがい、一丸となり、総力を挙げて事に当たろうという姿勢がちっとも見えてこない。明確な展望もない。そのへんに我慢がならないようなのです。
その種の発言をいくつか拾ってみましょう。「日本の伝統は皇室を中心にして固まって居る。それは意識されないでもその力が動いて居つた。これはさうに違ひないが、誠に有難い伝統だがそのほかに内輪喧嘩の伝統もあるのではないか。国外の敵を見ないで国内の敵だけを見て居る。さういふ伝統が、生きなくてもい、時に生きて居るといふことはいへないですか」。「新文化を創造する場合には、凡ゆる力が一つに固つて外に向つて戦ふといふ必要がある。国内の敵だけやつけるといふ態度ではなく、一緒になつてやらうといふ態度でなければならん」。「プライベート・ライフの一面だけが非常に細かく見られて、日本の国家全体を見渡すとか、広く世界全体を見渡すとか、東亜の運命を見るといふことがない。小さいところは細かく見ているが、大局が見えない」。
こんな和辻を長谷川如是閑が次のように諫めます。
さういふ傾向は日本人の複雑性の一つで、これは外国人にもあるでせうが、つまり非常な多様多角的な国民性の現はれだ。私が伝統といふのはさういふものに拘はれないで、無意識的に強い力を以て一貫して行く性格、どんなものが出ようと、歴史はそれらを克服して一貫した性格を作って行くといふことです。維新になつても攘夷説でやつて居た人もあるし、討幕ではなくて朝廷と幕府の並立を考へて居つた人もある。しかし伝統といふものは、日本の歴史を一貫性を以て貫いて行く。
如是閑は、本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に熱烈に従うことは、いついかなるときでも、たとえ世界的大戦争に直面して総力を挙げなくてはならないときでも、日本の伝統にはないのだと主張します。
幕末維新は尊皇派も佐幕派も攘夷派も開国派も居たからこそ、かえってうまく運んだ。いろいろな意見を持つ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩になれない。常にぎくしゃくしながら進む。その結果、自ずとなるようになる。複雑で一致しない多くの力の総和や相乗や相殺として、常に日本の歴史は現前する。それをいけないとはあまり思わず、むしろよしとして放任するのが日本の伝統だ。無理に力ずくでまとめようとすればするほど、ひとつの主義主張で固めようとすればするほど、この国はうまく行かなくなる。てんでばらばらになりそうなところをみんなが我慢し、表向きは妥協しながら、けっこう勝手なことをしている。そのくらいで丁度いいのだ。和辻は間違っている。如是閑の意見はそんなところでしょう。
2026年6月2日火曜日
20260601 株式会社講談社 講談社学術文庫 徳富蘇峰著「読書法:読書九十年」pp.20‐23より抜粋
pp.20‐23より抜粋
ISBN-10 : 4061585347
ISBN-13 : 978-4061585348
予の家は細川の殿様よりもむしろ先に肥後に落ちついたものである。細川家は寛永年間に 加藤氏の後を承けて肥後の殿様となったが、予が家は殿様入国以前から、肥後の南端、薩摩 に境する葦北郡の水俣に住したる郷士であった。もとより郷士であり、殿様から禄を貰うでもなければ、武士としての特権を持っているでもなく、ただ山を拓き海を干拓して自給自足で過ごしていたのであって、きわめて呑気な生活をして代々過ごしてきた。そのうちに予の父の曾祖父、予より五代の先祖に徳富久貞というという者があり、これが自分は学者ではなかったが、学者との交通をなし、そのうちに自然に文教の必要を感じて、自らわが郷里の水俣に学校を建て、先生を熊本時習館より聘して、ここに初めてわが郷の学問はその曙光を発したのである。久貞の友人には辛島塩井・高本紫冥・富田日岳などがその主なるものであって、辛島は山陽の父春水の友人であり、春水とともに徳川将軍に召出され昌平黌の講筵に臨んだものである。高本は本来の儒者ではあったが、本居宣長などと交わり、国学に力を致したるものである。富田は高山彦九郎の親友で、九州においては討幕の率先者といっても差支えない。かかる交際であって、彼が死んだときには、彼の墓には辛島塩井がその墓碑銘を書いている。
2026年5月31日日曜日
20260530 2471 記事に到達して思ったこと:引用記事の起源?
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
20260530 腸内細菌叢に関する資料をあたり思ったこと
こうした視点に基づき、昨今、欧米ではアッカーマンシア属(Akkermansia muciniphila)が「次世代の善玉菌」として注目を集めています。この菌は腸粘膜を覆うムチンを利用しながら生育し、腸管バリア機能の維持や代謝調節との関連が報告されています。一方で、他の研究からは、我々日本人では欧米人に比べてアッカーマンシア属の割合が低い傾向も報告されています。とはいえ、こうした腸内環境の違いから「我々日本人の腸内環境は欧米人よりも劣っている」と考えることは適切ではありません。むしろ、そこには長い歴史の中で形成されてきた食文化や生活環境への適応の結果として、それぞれ異なる特徴を持つ腸内細菌叢が形成されたのだと云えます。
そして、こうした特徴の違いは、欧米社会における一神教的な世界観と、我々の社会における多神教的なそれに例えることが出来るのではないかと考えます。もちろん、実際の腸内細菌叢は極めて複雑であり、単一の菌が全体を支配しているわけではありません。しかし、欧米の研究では、アッカーマンシア属のような特定の有益菌が腸粘膜の恒常性維持に重要な役割を果たしていることが多数報告されています。言い換えますと、比較的目立つ中心的な存在がいる構図として理解することが出来るのではないかと考えられます。
これに対し、我々日本人の伝統的な食生活には、海藻、野菜、豆類などの食物繊維や、味噌、納豆、漬物などの発酵食品が数多く存在します。こうした環境では、プレボテラ属をはじめとする多糖類分解菌や、海藻由来成分を利用できる菌群など、多様な細菌がそれぞれの役割を担いながら相互に代謝産物をやり取りし、その結果として短鎖脂肪酸の産生や腸管環境の維持に寄与しています。そのため、我々日本人の腸内細菌叢は、特定の菌種のみが突出して機能するというよりも、多様な菌群が相互に補完しながら働く「分散型」の生態系として理解することが出来ると考えます。また、こうした様相は、まさに「八百万の神々」が、それぞれ固有の役割を担いながらも全体として均衡を保つ、多層的で柔軟な秩序にも通じるように思われます。
そして、こうした腸内細菌叢の特徴や傾向を考える上で、近年注目されているのが「口腸連関(oral-gut axis)」です。お口は単なる食物の通り道ではありません。毎日大量の細菌が腸へと送り込まれる消化管の最初の入り口です。そのため、口腔内環境が乱れてしまうと、本来は口腔内に留まるべき細菌が消化管へと流入し、腸内細菌叢や全身の炎症状態に影響を及ぼす可能性があることが指摘されています。
特に歯周病関連菌として知られるフソバクテリウム・ヌクレアタム(Fusobacterium nucleatum)は、近年、大腸がんや炎症性疾患との関連が世界中で研究されています。この菌が直接病気を引き起こす原因であると断定することは出来ませんが、腸内の炎症環境に関与する可能性が示されており、腸内生態系のバランスを乱す要因の一つとして注目されています。
そして、先述しました我々日本人の多様性のある腸内細菌叢は、多くの菌が協力しながら機能することで安定性を保っています。そのため、お口から炎症性細菌が継続的に流入する状況が続きますと、その細菌叢のバランスに少なからぬ影響を与える可能性があります。また逆に云えば、お口の健康が維持されていれば、腸は余計な炎症刺激にさらされにくくなります。もちろん、お口の健康管理だけで腸内環境の全てが決まるわけではありません。しかし、お口の健康を維持することは、健康な腸内細菌叢を支える一つの要因であるとは云えるでしょう。
このように、腸内細菌叢における民族あるいは個人での特徴の相違は、単に医学的なものではなく、それは長い歴史の中で形成された食文化や生活習慣の違いを反映した、生態系そのものの個性を示すのではないかと考えられます。そこから、昨今流行の「菌活」と称してサプリメントなどで特定の菌を補おうとするだけでなく、お口から腸までを一つの連続した生態系として捉える視点を得ることも重要ではないかと考えます。
さらに、我々日本人は、しばしば古来土着の神道における「八百万の神々」という言葉を用いますが、そのような世界観とは、あるいは思想や宗教観といった観念的なものとして存在するだけではなく、我々の身体そのものの中に、腸内細菌叢として微細ながらも物理的な存在として刻み込まれているのかもしれません。
ともあれ、少なくとも近年の腸内細菌叢研究が示しているのは、我々人間は決して単独で生きる存在ではなく、無数の他者との共生の上に成立しているという事実であるとは云えます。
そして、そのように考えてみますと、古来より存在した神道的な多様性の世界観の上に、外来の宗教であった仏教を受容しようとした聖徳太子による「和をもって貴しとなす」という言葉もまた、多様な存在が共存することの価値を表現したものとして、あらためて興味深く感じられます。
もちろん、聖徳太子が腸内細菌叢の存在を知っていたはずはありません。しかし、最先端の生命科学が明らかにしつつある「共生」の姿は、我々の祖先が経験的に培ってきた世界観と、どこか深いところで響き合っているようにも思えます。そう考えますと、「和をもって貴しとなす」という言葉もまた、単なる政治的理念や道徳律ではなく、多様な存在が互いを活かしながら共存するための知恵として、現代に生きる我々に新たな意味を投げかけているのかもしれませんが、さて、実際のところはどうなのでしょうか。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年5月28日木曜日
20260528 株式会社講談社 講壇社学術文庫刊 谷川健一著「魔の系譜」 pp.52-55より抜粋
pp.52-55より抜粋
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611
崇徳上皇
そこをすぎ、「煙の宮」をとおりすぎて、一行は白峰陵のまえに立った。西行が白峰陵をおとずれて、「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん」となげいたのは、仁安二年か三年の秋であり、崇徳上皇がなくなられて、三、四年しかたっていないころのことであった。
その後、白峰陵はなんども修築されて、慶応元年にもそれがおこなわれたが、その雰囲気は勅使一行が御陵のまえに立ったときも、ほとんど変わりがなかったはずである。勅使が御陵のまえに立ったその日は、崇徳帝の命日にあたる八月二十六日であった。勅使はうやうやしく額ずくと、明治天皇の宣命を崇徳帝の御神霊のまえによみあげた。
天皇我詔旨登挂巻母畏伎 讚岐国阿野郡 白峰乃山陵爾鎮座須 崇徳天皇乃御大前爾恐 美恐 美母申 給波久登申佐久志保元乃年頃忌々志伎御事与利起利弖其終爾波海路遙祁伎此国 爾佐閉行幸氏御鬱憤乃中爾崩御良世賜閉留波何奈留禍 神乃禍 事両夜有祁年最母畏 久悲 伎事 乃極美登常爾歎伎思食須此者 素先帝乃叡慮奈利志爾其事平果志賜波受此現 世乎神去給比伎故 今度其大御意乎継志氏尊霊乎迎閉 奉 利其御積憤乎和米 奉 利賜波牟登思 食氏皇宮爾最近伎 飛鳥井町爾清祁伎新宮乎造利設 立二位権大納言 源 朝臣通富乎差使 氏尊霊乎迎閉 奉 利賜布故此由平平 久安 久聞食氏 速 爾多年乃宸憂乎散志御迎 人登共爾皇都爾還 坐氏天 皇朝 廷乎常磐爾堅磐爾夜守 日守 爾護 幸反 給比此頃皇軍爾射向比 奉 留陸奥出羽乃賊徒 乎波速 爾鎮 定米弖天 下安穏爾護 助 賜反登恐 美恐 美母申 賜波久登申
慶応四年八月十八日
【人工知能の援用による現代語訳】
天皇(すめらみこと)が、言葉に発するのも恐れ多く尊き、讃岐国阿野郡の白峰山陵にお鎮まりになっておられる崇徳天皇の御前に、畏れ尊び、深く慎んで申し上げます。
かつて保元の年頃、まことに忌まわしい出来事が起こり、その果てに海路遥かに遠く離れたこの国へと移られ、深い御鬱憤の中に崩御あそばされました。これは一体どのような災い、神の引き起こされた禍事(まがごと)であったのでしょうか。朝廷はそのことを思うたび、まことに恐れ多く、また深く悲しきことの極みとして、常に嘆き思し召してまいりました。
この御霊をお迎えすることは、もとより先帝(孝明天皇)の深い思し召し(叡慮)でもありましたが、そのお心を果たせぬまま、先帝は現世を去り神去り(崩御)なされました。 そこで今、新たにその大御心を受け継ぎ、崇徳天皇の尊き御霊をお迎え申し上げ、これまでに積もり積もった御憤りをどうか和らげ、お慰め申し上げたいと思し召されました。
そのため、皇居に最も近い飛鳥井町に、清らかな新たなる御社(白峯神宮)を造営いたしました。そして、二位権大納言源通富朝臣を勅使として遣わし、お迎え申し上げます。
どうか、この朝廷の志を安らかに、平らかにお聞き届けいただき、長年にわたる歴代天皇の深い憂いをお鎮めください。そして、お迎えの人々とともに、懐かしき皇都(京都)へとお帰りください。
そして、この皇朝と朝廷を、夜も昼も、とこしえに堅牢にお守りくださいますようお願い申し上げます。あわせて、今まさに朝廷に弓引き、抗っている陸奥・出羽の賊徒どもを速やかに平定し、天下をふたたび安穏の世へと導き、お守り助けくださいますよう、畏れ多くも深く慎んで、永永と申し上げます。
慶応四年八月十八日
右に掲げた宣命にあるように、崇徳上皇の御神霊を京都に呼び迎えることを計画したのは、孝明天皇である。慶応二年、京都の飛鳥井町(現在は上京区今出川堀川東飛鳥井町)に白峯神社の造営が企てられたが、孝明帝の死去によって、先帝の遺志を明治天皇がついだのである。
慶応四年といえば、ときあたかも戊辰の役の年、朝廷方は征討軍を東上させ、まさに奥羽諸藩を挑発して、一戦をまじえようとしていた。このとき、崇徳上皇の霊が、奥羽諸藩のほうに味方して官軍をなやましたとしたら、それこそゆゆしい事態になるかも分からないと、朝廷は判断した。そこで、京都に御還御をねがい、明治天皇の宣命にも、「此頃皇軍に射向い奉る陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて天下安穏に護り助け賜え」という結語を入れることを忘れることができなかったのである。
それにしても、この宣命の文章のなんと鞠躬如として、崇徳天皇の御霊にむかっていることか。「御鬱憤の中にかむあがらせ賜える」とか、「御積憤をなごめ奉り」とか、相手の帝の心情に心をよせ、さやけき新宮をつくったから「多年の宸憂を散らし」、お迎え人とともに京都におかえりいただくよう懇願しているのである。
それはまるで、怒れる人間をなだめるときの言葉そっくりである。まかりまちがって、疎略にあつかえば、それがかえって上皇の怒りを招くことをひたすらおそれているのである。
しかし考えてもみよ。それは上皇の死後すでに七百余年を経ているのである。しかもこのように、生きた人に面とむかってなだめ、すかし、御機嫌をとるような態度はいったい何を意味するか。それほど崇徳上皇のたたりが、歴代の朝廷や貴族や武士におそれられてきたからではないか。
2026年5月27日水曜日
20260527 株式会社講談社 講談社学術文庫 吉田敦彦著「日本神話の源流」 pp.20‐24より抜粋
pp.20‐24より抜粋
ISBN-10 : 4061598201
ISBN-13 : 978-4061598201
日本の島々は、北と西と南西の三方向において、それぞれ風土的にも文化的にも明瞭に特色のある、ユーラシア大陸の北部・中央部および南部の東端に連絡する可能性をもっている。すなわちまず日本列島は、北においては、千島、カラフト(サハリン)、沿海州を経由して、独特な狩猟民文化を発達させた北方ユーラシアの森林地帯と接続している。西に向かっては本州と九州が、朝鮮半島を媒介として、馬の飼育を特徴とする剽悍(ひょうかん)な遊牧民ーいわゆる「騎馬民族」ーに、古くから縦横の活躍の舞台を提供してきた旧満州(中国東北部)から蒙古、カザフスタン、南ロシアにまたがる、「ユーラシア・ステップ地帯」と結びつく。そして西南においては、朝鮮半島南部を介し、または直接的にも、定住の農耕民・漁撈民の居住区域である、中国の中南部からインドシナを経てインドにいたる、東南アジアのモンスーン地帯の東端とも、さして隔てられてはいないのである。
日本列島は、さらに九州の南端からは、ほとんど切れ目なしに点在する小さな島々の連続と、それと並行して北上する黒潮の太くて速い流れによって、台湾およびフィリピンと結びつけられており、インドネシアの諸島をはじめ南太平洋上に浮かぶ島々ーいわゆる「南洋」あるいは「オセアニア」ーからの、民族の移住や文化の影響を受ける可能性をもっている。しかしながら日本列島の東方には、広漠たる太平洋が広がり、右に述べたようなさまざまな経路によって、大陸および南洋方面から日本に波及してくる民族の移動や文化の伝播の流れが、日本列島を通過してさらに東へ向けて運び出される道を遮断しているように見える。
日本列島の置かれている地理的位置の、このような特殊性のゆえに、北と西と南の三方向から日本に移住した民族、伝播した文化は、この列島において、行きどまり滞留する傾向をもったと考えられる。その結果日本は、古来さまざまの外来文化を受容しては、これを長期間にわたって保存するうちに、日本的風土および在来の文化的伝統と同化させ、独特な「日本的」な形に練成するという過程をくり返してきたのである。外来文化の長所を短期間のうちに摂取するという点で、世界の諸民族中にも例がないほどの能力を発揮するといわれる、日本民族の言いふるされた特性も、われわれの祖先が古くからこのような過程をくり返してきたあいだに、徐々に醸成されたものであろう。
日本文化が歴史時代において、古くは朝鮮と中国の文化ーそして間接的にはインド文化ーの、より新しくは欧米文化の影響を、きわめて貪欲(どんよく)な仕方で吸収したことはよく知られている。しかし日本文化の、右に述べたような意味での「吹溜(ふきだま)りの文化」的な性格は、実は、より古く先史時代にその淵源があると考えられる。
われわれが使っている日本語という言語も、言語学界で定説化しつつある見解に従えば、こんにちは南洋の原住民によって話されている言語のあるものと親縁関係をもつと想像される「南島語」系の「基語」の上に、中央アジアのステップ地帯からもたらされたと思われる、アルタイ系言語の強い影響がつけ加えられることによって成立したものであろうと言われる。
多元的文化から独自の文化へ
新石器時代以後における日本の先史文化は、周知のように考古学者たちによって、もっとも大まかには縄文と弥生と古墳の三時代に区分されているが、これらの諸文化を、日本の周辺に同時代的に存在した先史文化と比較してみるならば、それぞれが異なる地域と起源的に結びつくことが明らかであるように思われる。
すなわちまず縄文時代の文化は、中期以後には後に述べるように他の地域からの影響も受けたと想定されるが、少なくとも起源的には、北方ユーラシアの原始的狩猟漁労民文化炉の結びつきが、もっとも顕著であるらしい。これに対して弥生文化は、一般に認められているように、中国の江南地方から東南アジアにかけての「モンスーン地帯」に発達した稲作文化と密接に関係し、他方古墳文化はその基調において、ステップ地帯の馬匹飼育遊牧民の文化と共通する性格を持つと思われるのである。
日本の先史文化のこのような多元性を認めると同時にわれわれはまた、それぞれの時代が、外来文化の要素を吸収した上で、結局はそれらをこの国の風土と見事に調和した独特の形態に練成させ、日本列島の上に世界のどの地域とも異なるユニークな文化を展開させてきた事実を忘れてはなるまい。外から受容された要素が、日本において他に見られぬ新しい形に発達を遂げた顕著な実例として、ここでは弥生時代の銅鐸と、古墳時代における前方後円墳の場合を想起しておこう。日本の先史文化に固有のこれらの遺物・遺跡は、われわれの心に、他文化の中で生み出された美によって与えられる感動とは別の種類の、あるなつかしさと共感の入りまじった感情を呼び起こす。他文化の産物である芸術作品は、心からわれわれを感動させる傑作であっても、なおどこかにわれわれの日本人的美意識に抵触し、われわれの心の琴線と完全には調和しきれぬ部分ー 西洋文化に関してはわれわれはそれを、俗に「バタ臭さ」という言い方で表現している ーを持つのが普通である。これに反して銅鐸や前方後円墳の優美さからは、それらが体質・気質・審美感覚などにおいて、われわれと同質な人々によって創造された美的形態であることを、直感的に感じ取れる。
2026年5月26日火曜日
20260525 身体感覚と文献資料との記号接地の感覚について:南紀での記憶から
こうした感覚を覚えつつ、駅前通りを扇ヶ浜方面に歩いていますと、内からの思い付きであるのか、あるいは、外からの啓示であるのか「ブログ記事の作成に困ることがあれば、南紀でのことを思い出せば、いくらでも書けるだろう。」という言葉が生じました。もちろん、それは実際の声として聞こえるものではありませんが、心の中で、そうした主張が自然と生じたのです。
こうしたことは、度々あるわけではなく、また、何らかの感興が湧いた際に随伴して生じるものでもないようですが、それでも何度か、そのような経験があったことは記憶しています。そして、こうした内面での思い付きや啓示のようなものは、当ブログでも以前、記事題材として述べましたが、どうしたわけか、南紀白浜在住の時期に集中しています。
一つは、大雨のなか、夕刻過ぎに富田川沿いの国道311号線を中辺路方面へ自動車で走行していた際、ヘッドライトが正面道路上に大きなカエルを照らし出したため、自動車を道脇へ寄せて停車し、ハザードランプを点灯させて、懐中電灯を手に車外に出て、カエルを照らしました。すると、それが異様なほど大きく感じられ、さらに「ここから先へは行くな」との、先ほど述べたような思い付き、あるいは啓示のような感覚を覚えたため、すぐに来た道を引き返したことがありました。
二つめは、休日に自転車で、JR白浜駅方面から県道にて峠を越え、上富田町へ入り、さらに直進して富田川を渡り、庄川という地区へ入り、さらに進みますと、徐々に人家が疎らとなり、富田川の支流である庄川の流れが、小橋を渡るたび左右に変わりつつ、なおも自転車を走らせますと、庄川の流れがほぼ真正面を横切る場所に架かる小橋の左側に、河の神様でもある弁天様を祀る祠があり、その辺りで、先ほどのカエルの時とはまた異なる、これは言葉にならない畏怖の感情を覚えたため、そこから先へは進まずに引き返したことがありました。
その後、同地域の大学院に進みましたが、其処でも、このことが気になり、大学図書館にて資料をあたっていますと、かつて、この地域で行われていた雨乞い祭祀についての記述を見つけました。
この特徴的な雨乞い祭祀は、当地域だけでなく、少し北のみなべ寄りの田辺地域(芳養)、さらに北の日高川流域においても類似した祭祀を確認することが出来ました。そこから、これは一つの村落などの小規模単位ではなく、ある程度広域的な共同体で行われた祭祀、つまり、地域全体が旱魃という危機へ直面した際に実施された雨乞い祭祀であったものと考えられます。
現在、手元にある資料での記述は以下の通りです。
株式会社角川書店刊『日本民俗誌大系』全12巻 第4巻 近畿 p.201より抜粋
『北富田村庄川奥に牛屋谷(一に牛鬼谷)という滝あり、滝の奥に洞窟あり主住むという。昔、主を怒らしたため一万余の材木を洞窟に取り込まれ行き先知れず、それだけ洞窟の深さはかられずという。旱魃の時ここに雨を祈り、いかにしても雨降らぬ時は牛の首をこの滝壺に投ず、さすればその穢(けが)れを清むるためにたちまち雨降ると伝えられ、現に大正二年大旱魃の時、牛の首を投げ入れた。』
この雨乞い祭祀についての記述は、他の複数の文献資料にも確認することが出来ました。ともあれ、当時の私にとって、こうした文献資料の発見は衝撃的なものであり、いわば、かつて自らが感じた身体感覚と、文献資料とが繋がる感覚であったと云えます。あるいは、こうした現象も一種の「記号接地」であったのかもしれません。
そうしたことから、私は地域での雨乞い祭祀を基軸として、地域性について考察することにしました。そして、そのようにして研究を進めていきますと、この雨乞い祭祀が、どのような経緯、経路で当地域に伝播したのかという疑問に至りました。
その際、以前に何となく読んでいた『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)の内容が、不意に思い出されました。しかし後になり考えてみますと、このように、かつて何となく読んでいた書籍を後年、必要とされる場面において想起されるということは、当時においては、それなりに運の良いことであったのではないかと思われます。
あるいは、人工知能が広く実装された社会において、我々人間は、こうした曖昧で断片的な過去の記憶を、その都度の必要性に応じて、自らの力で想起させる必要性そのものが徐々に失われていくのかもしれません。その結果として、人間側のそうした能力自体も、少しずつ退化していく可能性があるのではないかとも思われました…。
ともあれ、この『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)において興味深い、関連性があると思われた説話につきましては、また別の機会に述べさせて頂きたく思います。
そして最後に、改めて南紀在住時代の記憶を掘り起こしてみますと、たしかに、まだそれなりに文章化することが出来そうなものが残されているようにも感じられましたが、実際のところは、どうなのでしょうか…。
また、人工知能を援用せず文章を作成することは、当初のうちは、それなりにしんどさを伴うものではありましたが、徐々に、自らの記憶と文語化とのギアが噛み合い始めますと、むしろ次第に捗るようになり、そしてまた、それなりに楽しくもなってくるようです…。ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂き、どうもありがとうございます。
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年5月22日金曜日
20260521 スマートフォン時代での紙の読書に意味について:
しかし、こうした利便性の高まりの一方で、現在の我が国社会全般からは、ある種の絶望感にも通じる強い疲労感が感じられます。そして私は、この社会に漂う疲労感こそが、さきに述べた文字や文章を取り巻く環境の激変と、深く関連しているのではないかと考えます。有史以来、最も多くの人々が文章を読むことが出来て、さらに、多くの文字情報に接しているにも関わらず、不思議なことに、社会を生きる人々の思索や思想などは必ずしも活性化されていません。それどころか、我々の思考は以前よりも短いものへと断片化され、その内容の方も浅薄化しているのではないかと思われます。
これは、単純に「昔の方が良かった」と過去を美化したいのではありません。デジタル技術がもたらした情報の民主化それ自体は、大きな意味を持つ進歩です。しかしその一方で、そうした新しい情報環境が、それを受け取る側である我々の思考のあり方や、脳の認知構造そのものを変えているのではないかという懸念があるのです。
パソコンであれスマートフォンであれ、スクリーン上の文字は、スクロール操作により次々と画面から流れ去っていきます。そして、そのような環境で日常的に文章を読むことに慣れていきますと、人間は、ある程度の長さと論理的構成を持つ文章を、一つの有機的な繋がりを持った全体として認識することが徐々に困難になっていくのではないかと考えます。
こうしたスクリーン上での文章の読み方において重視されるのは、全体を熟読することではなく、自分に必要なキーワードを素早く拾い集める能力です。そこでは、我々の脳は深い理解や知性の発達を促すモードではなく、効率性を最優先した「流し読む」状態へと自動的に切り替わります。そして、この状態の変化は、単なる文章の読み方の違いに留まらず、もっと深いところで、人間の認識の本質や世界観そのものにまで影響を及ぼすのではないかとも考えられるのです。
これまでの人類の知的営み、あるいは大半の科学研究は、「見えているもの」の背後にある「見えない構造」を読み解こうとする情熱により支えられてきたと云えます。たとえば、映画であれば、画面に映る俳優の演技を追うだけではなく、その背後にある監督の演出意図や時代背景を読む。社会現象の分析であれば、表面的な出来事に一喜一憂するのではなく、その奥にある権力構造や制度、歴史的経緯を考える。つまり、「すぐ目の前にある分かりやすいもの」に飛びつくのではなく、その内奥にある本質を想像し、考えることこそが、知性の重要な役割であると信じられてきました。
ところが近年の情報環境では、この「背後を読む」という極めて人間的な行為が、著しく困難になりつつあるのではないかと思われます。特にSNS空間においては、情報は「深く読む対象」というより、むしろ「触れて瞬時に反応する対象」として現れます。タイムラインをスクロールし、直感的にタップし、拡散し、短い感想を述べる。そこでは、その瞬間ごとの感情的快楽や反応速度ばかりが優先され、一度立ち止まって、その情報の真偽や背景をじっくりと考える時間は失われやすい環境にあります。
さらに深刻であるのは、アルゴリズムの存在です。デジタル空間では、自分にとって心地よい情報や、既に最適化された言説ばかりが次々と提示されてきます。その結果、我々は大量の情報を浴びながらも、実際には他者の思考のコピーを消費しているだけになり、自分自身でゆっくりと考えることが出来なくなっているのではないでしょうか。
本来、知性とは、単に知識を多く所有していることを意味しません。外から得た情報を一度、自らの内部に沈め、咀嚼し、既存の知識と突き合わせながら、自分なりに組み替えて再構成すること。その往復運動の過程で初めて「自分はこれをどう考えるのか」という問いが生まれるのだと考えます。そして、その過程を経て、我々は、少しずつ自らの思想や考えを形成していくのだと考えます。そして、そのためには、どうしても効率性とは対極と云える「立ち止まる時間」が必要になります。
そして、そうした内省的な営為を支えるものの一つが、冒頭で述べました文章のあり方とも繋がる「紙の書籍」ではないかと考えます。紙の書籍を開く時、そこには文字が流れ去るスクロールはありません。手には頁の紙の厚みがあり、視界には余白があり、文章は印刷された位置に留まっています。我々は自分のペースで読み進め、気になった一文があれば自由に立ち止まり、いつでも前の頁に戻ることも出来ます。これは決して単なる懐古趣味やデジタル嫌悪ではなく「自分で考える」という精神的行為を物質的に支える極めて重要な身体的環境であると云えます。
紙の本を読んでいる時、我々は単にインクで刷られた文字を目で追っているだけではありません。行間を読み、文脈の起伏を感じ取り、あえて書かれていない著者の思想や沈黙を想像しています。そこでは、「見えるもの」の背後にある「見えないもの」へと、人間の意識が自然と向かっていきます。
情報が絶え間なく流れ続け、その速度により、社会全体が疲弊している現代だからこそ、時にはスクリーンから距離を置き一冊の本を開いてみる。その時間は、コスパ・タイパという意味では遠回りであるかもしれませんが、スクロールにより流れ消えていく言葉を消費し続けるだけの状態から抜け出し、自らの思考を取り戻すためには、そうした遠回りこそが必要ではないでしょうか?
そして、おそらく今後の社会では「素早く反応する能力」だけではなく、「遅く深く考える能力」が、むしろ希少な知性として再び価値を持ち始めるのではないかと思われます。大量の情報を処理することは、やがて人工知能により代替されていくと思われます。しかし、立ち止まり、矛盾を考え、行間を読み、背後にある構造を想像しつつ、自らの言葉として思考を形成することは、最後まで人間にしか出来ない知的行為として残り続けるのではないかと考えます。
流れていく言葉に即座に反応するのではなく、一度立ち止まり、言葉を自分の内部へ沈め、自らの言葉として再び言語化する読書の時間を、これからの時代にこそ、日常のどこかで意識的に持つことが、さらに重要になってくるのではないかと思われます。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年5月20日水曜日
20260519 メタ的視座について :『宮台式人類学』を読みつつ思ったこと
ともあれ、その一度目の読後感は、前作「制服少女たちの選択 完全版 After30 Years」とはまた異なる「没入による理解」の様相が述べられているように感じられました。両著作共に対象への没入に基づいて論じている点では共通していますが「宮台式人類学」の方が、よりメタな視座から、我々人類の普遍的な部分の構造を述べようと試みているところに知的な新鮮さがあり、大変興味深く感じられました。
さて、近年、何らかの事物の説明に際し「メタ的」あるいは「俯瞰的」といった言葉を耳にする機会が増えました。一般的には、それらは対象の観察あるいは、相対化の際に用いられるのだと思われます。しかし、本来的には、対象に深く入り込み(没入して)、その内部を充分に経験した上で、そこから一歩引き、その構造を捉え直そうとする動きのなかに本来の意味での「メタ的理解」が生じるのではないかと考えます。
そして、このことは思想用語としての「即自」と「対自」とも通底するものがあるように思われるのです。つまり、人は何かに深く没入している時、自らを意識する感覚は一時的に薄れます。仕事や読書、研究などに集中している時、我々は「対象そのもの」に没入しているのであり、それは即自的状態であると云えます。
しかしまた、その没入した経験を後で振り返り「何故、自分はそれほど没入していたのか」「そこでは何を考えていたのか」と、その経験を俯瞰的に再考することが出来ます。そして、そこではじめて、「対自化」すなわち自己を対象として捉え返す視座が生じるのではないかと考えます。
ここで興味深いのは、この「没入」と振り返ってからの「俯瞰的視座」との往還を繰り返すことにより、我々は単なる経験や記憶を超えて、その背後にある構造そのものを理解し始めることが出来るのではないかと云うことです。そのため、若い時分には、ただ経験として受け止めていたことも、年月を経て振り返ることにより「何故あの時代に、あのような事物が存在したのか」「何故、人々はそのように振る舞ったのか」といった、より大きな社会的・歴史的構造として見え始めることがあるのだと考えます。
そしておそらく、優れた文学や思想あるいは研究なども、この往還運動の過程から生まれてきたのではないかと考えます。他方、抽象的な理論をいくら積み重ねても、そこには人間存在の感覚は乏しいと云えます。そしてまた逆に、経験や、そこで生じた感情だけに埋没してしまえば、それは多くの場合、一過性の表現で終わってしまいます。それ故、双方を往復し続ける過程の中で、初めて、個人的経験が普遍性へと接続される契機が生じるのではないかと考えます。
その意味で、前述「宮台式人類学」は、既存の人類学や社会学をテーマとした新書とは、かなり異なる著作であるようにも感じられました。当著作では、現代社会のさまざまな現象を、その前提にまで遡ろうと試み、それは、現在の社会制度や価値観などを所与の絶対的なものとして扱うのではなく「そもそも人間の共同体とは何か?」「近代とは何であったのか?」という地点にまで一度遡り、そして、そこで得られた視座から、あらためて考えようとする試みであると思われます。
そして、そのような考え方は、おそらく、短い時間で消費出来るものではありません。むしろ、一度読んでも理解出来ない部分が残り、時間を置いて再読し、その度に少しずつ見え方が変化していくような性質があると思われます。
近年は、出来るだけ多くの情報を素早く処理することが重視されがちです。しかし他方で、本来の読書とは、こうした「分からなさ」を抱え、繰り返し没入を試みつつ、理解を深めようとする行為でもあると考えます。その意味で、当著作は大変優れたものであると思われました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年5月18日月曜日
20260517 株式会社日経BP刊 武見敬三著「繁栄か、衰退か 活力ある健康長寿社会を創る」 pp.41‐47より抜粋
pp.41‐47より抜粋
ISBN-10 : 4296207784
ISBN-13 : 978-4296207787
岐路に立つ日本の未来、活力ある社会をつくる政策を
今後想定される人口動態からは、2つの未来が考えられるでしょう。まず、何も手を打たなければこうなるという自然的な未来で、衰退していく社会が1つです。そしてもう1つは、社会生物学的にも経済的にも活力を持続させるような政策をつくり、繁栄する社会です。
これから待ち受ける危機を考えると、過去からの延長線上に未来をつくり上げるという、これまでのフォーキャスティング型の政策では、もはや立ちゆかないのは明白です。そうではなく、大胆に将来のあるべき姿を定め、その目標から逆算して必要な政策と行動計画を立案・遂行する「バックキャスティング型」の政策形成が重要です。
先手を打てば未来は変えられます。この考えにも、父の影響は色濃いかもしれません。父が1976年に発表した「未来からの反射」という概念があります。未来の設計図を描き、そこから現代と比較して足りない部分を確認して補う、という考え方です。過去からの延長線上ではなく、あるべき未来の姿からの反射で学び、行動するという教えです。父の受け売りですが、私はこれを実践しています。
2030年代の危機を乗り切る4つの柱
私が考える2030年代の危機を乗り切るための柱は、大きく4つあります。
1:医療DXの推進
1つ目は「医療DX(デジタルトランスフォーメーション)」です。医療のデジタル化、システム化を徹底的に進めなければなりません。デジタル化とデータベースに基づいて新たな制度を設計し、より効率的なシステムをつくるのです。生成AI(人工知能)なども駆使しつつ、人が担っている業務を医療DXで置き換えていくことが必要です。とはいえ、医療・介護は人でなければできない部分も多いのは事実です。人でなければできない部分は2030年代でも持続可能な形でできるよう、どう仕組みを設計するか、かつできる限り人をかけずにやれるようにしていくことが必要でしょう。
2:女性の活躍
2つ目は「女性の活躍」です。今や医学部生の約4割が女性という時代です。2022年の女性医師の割合も23.6%と年々上昇しています(厚生労働省「2022年医師・歯科医師・薬剤師統計」)。この分野で働く女性を、男女共同で育て、支援していく。男性中心だった職場カルチャーを変えることも必要です。
3:高齢者が社会参加できる仕組みづくり
3つ目が、健康寿命の延伸による「高齢者が社会参加できる仕組みづくり」です。国民の
健康増進が、各自が長く元気に暮らしていく上で重要であることは言うまでもありません。それのみならず、健康寿命の延伸は、前述した働き手不足の問題に対する解決の一助にもなります。
元気な高齢者が社会参画し、60~75歳で働く意欲・能力のある方々に活躍していただければ、より明るい未来が期待できます。高齢者自身が希望すれば、より積極的に働けるように社会を制度設計し、かつ所得も確保できるようにする必要があります。
そのためには、現在の年金制度のように、「収入が高いと年金は出せない」といった制度設計では、これからの時代にはそぐわないでしょう。年金も雇用制度も、元気な高齢者が働きやすいものに組み替えていく必要があります。もちろん働きやすい環境をつくったり、高齢者が仕事をしやすいようにムダな仕事を減らして標準化するといった生産性向上も急務です。前述の医療DXの推進なども生産性向上や働きやすい環境づくりと関係してきます。
健康増進のためには国民の健康リテラシーの向上を図る必要もあるでしょう。「自分の健康は自分で守る」という意識を持って、必要な知識を身につけ、行動を変容させていくのです。医師や薬剤師などからのアドバイスを受けながら、体調を崩さない生活習慣を心がけたり、また軽度な不調であれば、薬局やドラッグストアなどで医師の処方箋がなくても購入で
きるOTC医薬品(一般用医薬品)を服用して重症化を防いだりなど、「セルフメディケーション」の考え方も重要になってきます。
私の母校である慶應義塾大学を創設した福沢諭吉は、「一身独立して一国独立す」という言葉を残しました。一人ひとりが独立した人間であって初めて、国として独立できるという教えです。この考えと全く同じです。自立した個人が社会の中で増えていけばいくほど、社会全体の健康度は確実に改善され、健康寿命のさらなる延伸につながっていくでしょう。
4:外国人労働者の活用
ここまで取り組んでも、国内の力だけでは足りないところは2030年代には厳然として残ります。保健・医療・介護の分野は間違いなくそうでしょう。そこで4番目の柱となるのが「外国人労働者の活用」です。日本で外国人労働者に活躍してもらう仕組みをつくる必要があります。
これは日本の医療・介護などの国内需要を支えるためだけではありません。先ほども触れましたが、将来的には日本の後を追う形で、インドネシアやフィリピン、ベトナムなどが高齢社会を迎えます。そのときに、日本で働く外国人人材が将来の自国の医療・介護政策を担う根幹の人材になるのです。いわば人材を日本で養成し、グローバルに還流する仕組みをつくる形で、日本と世界の両方にとって有益です。
既に介護の分野で活躍する外国人は少なくありません。介護福祉士養成施設における留学生の割合は、2024年度で入学者全体の46.7%に達しています(日本介護福祉士養成施設協会)。養成施設は留学生を受け入れることで、カリキュラムの多言語化などを進めるとともに、組織風土も多様性を受け入れる方向に変わっていったと聞いています。
医療でも私は厚労大臣時代、大学医学部を対象として、2025年度から返還義務のない給付型の奨学金を提供する奨学金制度を創設しました。アジア地域の留学生を中心に受け入れ、医学部教育の中でグローバル化を実現していく取り組みです。
日本での在留外国人は年々増加しています。出入国在留管理庁の報告によると、22024年6月時点の在留外国人数は358万8956人で、過去最高となっています。日本人が外国人を受け入れる際には、日本固有の文化や社会規範に対する理解を求めるのは当然のこととして、彼らの文化などにも心を配り、双方が地域社会の中で共に生きていくことが望ましいことは言うまでもありません。しかし、デジタル化などを活用し、外国人労働者の制度管理を徹底しつつ、安心で安全といわれる日本社会を守る万全の準備を進める必要もあるのです。2030年代に外国人嫌いが広がり、排斥感情が日本政治の大混乱の原因となるようにしてはいけないのです。
試練を乗り越え、世界の高齢化に道を示す日本に
日本は医療・介護における「最大の試練」を必ず乗り越えます。その解決の後に、健康・高齢化社会への対応を世界に提示するのが、国際社会における日本の役割です。日本がソフトパワーを示せる分野は、マンガや日本食、コスプレだけではありません。保健・医療・介護も日本のソフトパワーとして十分なポテンシャルがあると私は確信しています。
司馬遼太郎は歴史小説『坂の上の雲』で、明治維新を経て近代国家として歩み始め、日露戦争勝利に至るまでの日本の姿を描きました。当時の日本は若く、「西洋に追いつけ、追い越せ」という空気だったでしょう。
しかし、今は違います。2030年代の日本のあるべき姿、これからの日本の国家目標は何か。それは高齢化という世界共通の課題にいち早く対応した社会のあり方を示し、各国のモデルとなる活力のある健康長寿社会をつくることです。
2026年5月14日木曜日
20260514「フィルターとしての私」と知性
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年5月13日水曜日
20260513 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から「現代政治の思想と行動」追補」 pp.99‐103より抜粋
pp.99‐103より抜粋
ISBN-10 : 462430036X
ISBN-13 : 978-4624300364
たしかに市民社会と政治にたいするアンチテーゼとして文学や芸術の課題を提起することそれ自体はべつに日本に特殊でなく、世界中いたるところにある傾向にちがいありません 。けれども近代日本の文学者・芸術家に多少とも共通する反政治的もしくは非政治的態度は、社会的「隠逸」に裏うちされていましたから、政治にたいする芸術の擁護に立上ったり権力にたいする"抗議"として現われることはむしろ稀でした。社会的「かかわり」と反対に、彼等の反俗物主義とは世間にたいして芸術という聖域に垣根をはりめぐらすことであり、したがってごく普通の市民の一人としてささやかな政治活動を隣人とともにすることも、彼等にとっては俗物への顚落とみなされがちでした 。(こういう「反政治主義」は人間活動の一部として政治の位置を指定し、同時に限界づけることができませんから、時あってか全政治主義に飜転します。がその問題はここでは差しおきます 。)いずれにしてもこうした精神態度が、知性の連帯に基く共同体の形成の阻害要因になることは言を俟たないでしょう。
こうして『三酔人経綸問答』の主人公達の間にあったような知的共同体の意識というのは、二十世紀初頭にはすでに急速に失われつつあったのです 。まさに、ふたたび会することがなかったわけです 。これは必ずしもイデオロギーの対立がより激烈になったからではありません。イデオロギーの対立の幅をいうのであれば、大日本帝国憲法発布以前の時代の方がむしろ大きいとさえいえます。明治十年代には主権在民論まで堂々と登場したわけですから・・・。むしろ問題は大日本帝国の国内体制が整備され、政治、産業、教育、軍備などいろいろの領域で制度的近代化のテンポが速まるに従って、知識人の社会的流動性はより少なくなった、という点にあります 。つまり公私の官僚制の中に編成された制度的知識人とその外にある「自由知識人」との間の分化が次第に固定化してしまった。しかも自由知識人自身がそれぞれ排他的な職業的空間に活動領域を限定する傾向が強くなってきた。そうして他方では、異った領域の知識人が相会し、談論風発する場ーたとえばフランス百科全書家の集ったサロンとか、ずっと後でも、サン・ジェルマン・デ・プレのコーヒー・ハウスとか、あるいはイギリスのクラブとかいう場は一向に発達しません 。そこで個々の閉鎖的職場をつなぐ共通の知的言語が衰弱してゆきます。漢学のような古典的教養の共通性がうすれてゆくこともこれに拍車をかけたといえるでしょう。そこに積極的な要因としてインテリの専門化・技術化が早期から進行したという事情が加わります。これは帝国大学に最初から工学部が設置されていたということによく象徴されていると思います 。大学レヴェルでの工学部の設置という点では、日本の大学が模範としたヨーロッパの諸大学より早いわけです。
日本でこのように専門的・技術特知識人が早期的に登場したことが、どういう意味をもったかという問題に深入りすることは避け、その代りに一つだけ例をひいておきます 。史論家であり、大記者でもあった山路愛山が明治四十三年にすでにこういうことをいっております 。「現代に時めける青年官吏は十中の九まで大学出身の学士にして、而して其の思想はただ其の従事すべき仕事の上にのみ集中せらる 。正にこれ、英雄時代(注ー幕末の志士の時代を指す)去りて『書生』の時代来たり、『書生』の時代去りて専門家の時代に達せりといふべし 。」(傍点丸山)こうして現在世界中に悪名が高くなった専門化に伴うコンパートメント化とかセクショナリズムという傾向は、日本ではほとんど近代化それ自体の「原罪」であったといっても過言ではないと思います 。これは私も大学人であったので自己批判を含めて申すのですが、日本の「総合」大学というものは、およそ université の名に反して、西欧の学問のそれぞれの専門の学科を個別的に輸入する形で成立したために、学部学科の密室化が早くから進行し、したがって学部間の壁は、欧米の大学よりずっと厚い 。こういう歴史的背景を考えますと、たとえば「私は考古学が専門ですから、学生運動のことはわかりません 。」というような教授があらわれ、しかもそういう言葉が別におかしいとも思われないのも、もっともです 。ヒューマニティーズの典型である哲学も、大学では「専攻」の対象として出発しました。
したがって、ふたたび会することがなかったのは、決して在官と在野の知識人だけではなかったのです 。学問と芸術とは世間的常識としても隣接した文化なのですが、近代日本では学者と芸術家という二つの人種は、隣人どころか、少数の例外をのぞいてはほとんど別の遊星の住人のように相互の眼に映って来たのが実状です。この両領域の架橋を困難にした問題としては、以上に述べて来たような双方の側の事情のほかに、なお科学用語という重大な障害があります 。つまり、自然科学はもちろん人文・社会科学の概念は圧倒的に翻訳語であって、明治以後に造語されたものです 。それだけに日常用語との乖離が甚しいのです 。西欧においては、どんなに難解に見える術語も、すくなくも人文・社会科学の領域では日常用語に根ざしており、ただ、それを洗練して再定義しただけのことです 。こうした用語の背景のちがいによって、たとえば日本の文学者と日本の研究者との間で知的会話を交すうえでどれほどの困難が生れるか、ということは西欧人にとってはほとんど想像を絶するものがあります 。学者が学問の「約束」にしたがって用いる言葉遣いが、学者の間ではどんなに当然として通用しようと、それは文学者にとっては、しばしば日本語の体をなさない生硬な表現と映るのです。これはたいへん深刻な問題ですから、これ以上立ち入りませんが、すくなくも学者と文学者(広くは芸術家)との間の知性的な共属意識の成熟を困難にして来た背景として、そうした「文体」の問題があることだけを念頭に置いていただきたいと思います。
20260512 調べものという習慣:引用記事から科学的文章作成への連関
さて、こうした自発的な文章作成は、以前にも述べましたとおり、2015年より現在まで当ブログにて(どうにか)継続しており、また、そのおかげもあってか、現在は当ブログ以外においても定期的に執筆の機会を頂いております。そこで作成する文章は、当ブログにて作成するものと比較して、さらに科学的要素が強いと云えます。それは基本的な文章の作成方法が異なるからであり、科学的要素が相対的に乏しいと云える当ブログでは、執筆中に書籍などを用いた調べものをすることは多くありません。しかし、もう一つのより科学的な文章の方では、その都度、調べものや確認をしつつ作成するといった進め方であり、こちらは、勉強にもなり、また時には当ブログでの新たな記事作成の材料にもなります。それ故、こうした文章作成の機会があることは、大変にありがたいことであると云えます。
つまり現在の私は、当ブログでの文章作成、より科学的な内容での文章作成、そして先に述べました引用記事の作成という、三つの方法を使い分けていることになります。さて、さきに引用記事の作成には楽しさがあると述べましたが、その楽しさとは、書籍の頁を開き文章をキーボードで入力し、その言葉が画面上に顕われるのを見て、そこで用いられている単語などの意味を改めて調べたくなるような楽しさです。
そのようにして一記事作成しますと、当ブログでの執筆と比較しても同程度の疲労感がありますが、この引用記事作成での「調べものをする習慣」があったからこそ、新たな科学的要素の強い文章作成も出来るようになったのではないかと考えます。
それぞれにある種のやりがいはあるのですが、私の文章作成の原点はあくまで当ブログであり、ここでの継続、そして2020年以来のエックス(旧ツイッター)との連携により、当ブログ自体も性質が多少変わり、以前よりも、さらに読まれることを意識して記事を作成するようになったと云えます。これまでの継続と幾たびかの環境の変化を経て、新たな文章作成の方法を知りましたが、やはり、それらは単独ではなく、組み合わせと繰り返しによって、身体化されるもののようです。そのため、上達の感覚こそ乏しいですが、2022年の人工知能の社会実装以来、これを用いて新たな文章作成を当ブログとは関係なく試み続けてきたことで、どうにかそれも使えるようにになってきたのではないかと思われます。
ともあれ、今後もまたしばらく引用記事の投稿が続くでしょうが、私個人としては、その間も当ブログとは別に文章を作成していますので、大きな能力の低下はないと考えております。しかし、時にはこうした「息継ぎ」のように、自らによる文章作成を行うことも、大変良い刺激になることが分かりました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年5月11日月曜日
20260511 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻 pp.192-195より抜粋
pp.192-195より抜粋
ISBN-10 : 4150504652
ISBN-13 : 978-4150504656
負のフィードバックと悪循環
富裕国が豊かなのは、主として、過去三〇〇年のいずれかの時点で包括的な制度を発展させることができたからだ。こういった制度は好循環のプロセスを経て生き残ってきた。そもそも非常に限られた意味で包括的であっても、またそれがときとして脆いものであっても、これらの制度は正のフィードバックのプロセスをつくる原動力となり、制度の包括性を徐々に高める。イングランドは一六八八年の名誉革命後に民主主義国になったわけではない。それとは程遠かった。正式な議員は国民のごく一部にすぎなかったが、それでもイングランドはきわめて多元的だった。多元主義が貴いものとして大切にされると、制度もしだいに包括的になる傾向があった。たとえそれが困難で不確かなプロセスであったとしても。
この点でイングランドは好循環の典型例だ。包括的な政治制度が、権力の行使や強奪に制約を課すからである。また、包括的な政治制度は包括的な経済制度を生み出す傾向もあり、それが今度は包括的な政治制度を継続させる可能性を広げるのだ。
包括的な経済制度の下では、経済的な力を使って政治権力を過度に高めようとする一握りの人々に、富が集中することはない。さらに、包括的な経済制度の下では、政治権力にしがみついてもうまみが少ないため、国家を支配しようともくろむ集団や野心満々の成り上がり者にとってはインセンティブが弱い。一般に、決定的な岐路で到来したチャンスやピンチが既存の制度と相互作用するなど、決定的な岐路でさまざまな要因が重なって、包括的な制度が生まれる。それは、イングランドの事例から明らかなとおりだ。しかしいったん包括的な制度が誕生すると、その存続のために同じような要因が重なる必要はない。依然として大きな偶然性に左右されるにせよ、好循環によって制度が継続し、往々にして社会により大きな包括性をもたらす力が解き放たれることさえあるのだ。
好循環が包括的な制度を存続させるように、悪循環は収奪的な制度の存続へ向けて強い力を発生させる。しかし歴史は運命ではないので、悪循環は断ち切れないものではない。これについては第一四章で詳しく見ていく。とはいえ、悪循環はなかなかしぶとい。負のフィードバックの強烈なプロセスをもたらし、収奪的な政治制度が収奪的な経済制度をつくりあげる。すると今度は、収奪的な経済制度が収奪的な政治制度が生き残るための基盤を整える。これが顕著だったのがグアテマラだ。同じ種類のエリートが、最初は植民地統治下で、次に独立後のグアテマラで、実に四〇〇年以上も権力を握っていた。収奪的な制度はそうしたエリートを豊かにし、彼らの富が支配の継続の土台となった。
悪循環の同じプロセスは、合衆国南部のプランテーション経済の存続においても明らかだ。ただし、これは難局に直面した際の悪循環のしぶとさの格好の例でもある。合衆国南部のプランテーション所有者は、南北戦争敗北後、公には政治・経済制度の支配力を失った。プランテーション経済を支えていた奴隷制は廃止され、黒人は平等な政治的・経済的権利を与えられた。しかし、南北戦争はプランテーションを所有するエリートの政治権力やその経済基盤を破壊しなかったので、彼らはシステムを再構築することができた。表面は変わったよう見えたが、それは相変わらず地元の政治権力の支配下にあり、同じ目的を達成するためのものだった。つまり、プランテーション向けに低コストの労働力を豊富に用意することだ。
収奪的な制度を支配し、そこから利益を得ているエリートが存続するがゆえにその制度も存続するというこの悪循環の形態は、唯一の形態ではない。最初はいっそう不可解に思えるが、同じように現実的で堕落した形態の負のフィードバックが、多くの国家の政治的・経済的発展を形成したのだ。その顕著な例がサハラ以南の大半のアフリカ諸国、とくにシエラリオネとエチオピアだった。社会学者のロベルト・ミヒェルスが寡頭制の鉄則として理解していた形態では、収奪的な制度を支配している政権を転覆させても、同じく悪質な一連の収奪的制度を利用する新しい主人が登場するだけなのだ。
この種の悪循環の論理は、あとから考えるとわかりやすい。収奪的な政治制度のもとでは権力の行使に対する抑制がほとんどないため、前の独裁者を打倒し、国家の統治を引き継いだ人々による権力の行使と乱用を抑える制度は事実上皆無だ。また収奪的な経済制度のもとでは、権力を掌握し、他人の資産を搾取し、独占事業を設立するだけで、莫大な利益と富が得られることになる。
もちろん、寡頭制の鉄則は本物の法則ではない。物理学の法則とは意味が違う。イングランドの名誉革命や日本の明治維新のケースのように、必然的な経路を示すわけではないのだ。
包括的な制度への大きな転機となったこれらの事例のカギは、広範な連合が力を得たことだった。この連合が専制政治に立ち向かい、絶対君主制を包括的で多元的な制度に転換したのだ。広範な連合による革命のほうが、多元的な政治制度を登場させる可能性が高い。
20260510 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.212-216より抜粋
pp.212-216より抜粋
ISBN-10 : 4309229441
ISBN-13 : 978-4309229447
ジョージ・オーウェルが「一九八四年」で描いているように、全体主義の情報ネットワークはダブルスピーク(訳註:本来の言葉を別の言葉で言い換え、受け手の印象を変えたり、実態を隠したり偽ったりする方法)に頼ることが多い。これは特筆に値する。ロシアは権威主義国家でありながら、民主主義国家であると主張する。ロシアによるウクライナ侵略は、一九四五年以降でヨーロッパ最大の戦争でありながら、公式には「特別軍事作戦」とされてきた。そしてそれを「戦争」と呼べば犯罪とされ、最長三年の懲役刑あるいは最高五万ルーブルの罰金を科される。
長い目で見ると、全体主義政権はいっそう大きな危険に直面する可能性が高い。アルゴリズムによって批判されるどころか、支配権を奪い取られるかもしれないからだ。歴史を通して、独裁者に対する最大の脅威はたいてい配下がもたらした。第5章で指摘したように、民主的な革命によって倒されたローマの皇帝やソ連の書記長は一人もいないが、彼らはつねに自らの配下によって権力の座から引きずり下ろされたり傀儡にされたりする危険につきまとわれていた。二一世紀の独裁者は、コンピューターに権力を与え過ぎたら、コンピューターの傀儡にされてしまうかもしれない。独裁者がなんとしても避けたいのは、自分よりも強力なものや、制御の仕方がわからない勢力を生み出すことだ。
2026年5月10日日曜日
20260509 中央公論社刊 森浩一著「考古学と古代日本」 pp.186‐193より抜粋
pp.186‐193より抜粋
ISBN-10 : 4120023044
ISBN-13 : 978-4120023040
隼人と相撲
一九六九年、私は和歌山市の井辺八幡山という前方後円墳の墳丘の一部を発掘したことがある。現地では小さな破片になっていた埴輪や須恵器を大学の研究室で復元していると、予想もしなかった力士の埴輪のあることに気がついた。
腰から股にかけてのふんどしと額(ひたい)につけた鉢巻のほかは着衣のない裸体であり、たばねた髪を後頭部に垂れ、顎鬚をたくわえ、顔面に入墨をしていて、従来の埴輪の人物からは想像もできないほど異相の人であった。私にとっても未知の研究分野であったため、相撲史料をあたるうちに隼人につきあたり、もう一つ、葬儀と相撲との関係がでてきた。
井辺八幡山古墳では、墳丘のくびれた部分に設けた造出しとよぶ平坦地に六体、三組の力士の埴輪が置かれていた。そこでいくつかの史料から葬儀にともなった相撲の関係を考えて報告書で述べた(「井辺八幡山古墳」同志社大学文学部考古学調査報告5、一九七二)。 ところが一九八五年八月の群馬県上野村山中への日航ジャンボ機墜落事件のとき、次のような新聞記事がのった。見出しには「仮土俵作り”鎮魂式”伊勢ヶ浜親方の若い力士ら」とあって、伊勢ヶ浜部屋の若い力士らが山を登って、異臭と遺体搬出のヘリコプターが離発着のたびにたてる砂煙のなか、機体の残骸のそばに部屋から持ってきた土でミニ仮土俵をつくり、塩を仮土俵にかけて、事故で亡くなった伊勢ヶ浜親方のご家族たちの鎮魂をしたという(「サンケイ新聞」八月十六日)。
私はこの記事を読んで、相撲の一つの役割がなお伝統として生きていたことに驚いた。 さて相撲と隼人の関係に話を戻そう。六八二(天武天皇十一)年、殖栗(えくり)王が卒したという記事につづいて、次のように述べている。
「隼人多く来り、方物を貢る。この日、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷に相撲とる。大隅隼人勝つぬ」 (『日本書紀』)
隼人といえば南部九州に居住する集団だと一般に理解されていて、それは原則的には正しいことだが、隼人についてはこの相撲の例のように、さらに地域名を冠した区別があった。大隅(大角・大住)隼人、阿多(吾田)隼人のほか、日向隼人、薩摩隼人、甑隼人などの呼称が見えるが、大隅隼人を例にとれば、大隅の住人がすべて隼人であったという意味より、大隅という地域に居住する、あるいは大隅を出身地とする隼人の意味が強いようである。
隼人と馬文化
隼人と馬文化 推古二十年(六一二)春正月の七日、宮中で群臣たちとの酒宴があった。このとき、蘇我馬子の作った歌に和して、推古女帝は蘇我我をたたえる歌を作った。
真蘇我よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向の駒 太刀ならば 呉の真刀 諾しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき
この歌で立派なものの喩えとして、日向の駒と呉の真刀がでているのはさまざまな意味で注目される。中国でも銅器や鉄器のすぐれた製作地として江南、つまり呉の地があったことは最近立証されてきたことである。推古女帝の歌に、日本では日向、中国では呉が対置されていることを、先ほどからの南部九州での”呉国”意識に照合すると、単なる比喩としてだけでは見逃せないものがある。 それはおくとして、「馬ならば日向の駒」の日向についてである。というのは、今日的にいえば日向は宮崎県である。また、西都市百塚原古墳群で出した優秀な鞍金具(五島美術館蔵)をはじめ、古墳の馬具は豊富に発掘されているし、野波野、堤野、都濃野などに馬牧はあった(「延喜式」)。けれども、八世紀はじめに薩摩国と大隅国が相次いで日向国から分置されるまでの日向は大隅と薩摩の地を包括していたのであって、推古女帝がほめたたえた日向の駒は、隼人の馬であった可能性が強いのである。隼人と馬文化については、『肥前国風土記』の一文を紹介したが、額田部湯坐連の祖先伝承も見落とせない。それは氏の祖が允恭天皇のとき、薩摩国に遣され、隼人を平らげ、額に ”町形(占で鹿骨や亀甲に刻む田字形)の斑毛” のある馬を天皇に献じたことにちなんで、額田部の姓を賜ったという(「新撰姓氏録」左京神別)。
南部九州のさまざまな墓制
このように、文献にのこる地域名を手がかりにしては隼人集団の整理がむずかしいので、視点をかえて墓制からさぐってみよう。
南部九州の墓制には、前方後円墳や円墳などのいわゆる古墳、崖に墓室を掘削した横穴、台地のような平坦地から垂直に竪坑を掘ってその底部から横穴を掘削した地下式横穴(これにはまれに墳丘をともなう。地下式土壙ともいう)、土壙を掘って埋葬し、標識として石を立てた立石土壙墓、それと地下式板石積石室など種類が多い。このうち地下式板石積石室が長崎県小値賀島の神ノ崎古墳群に存在することは前に述べた。
ところでこれらの五種類の墓は、南部九州一円に混在するのでなく、地域的なまとまりが見られる。そのことについては乙益重隆氏、中村明蔵氏、河口貞徳氏らによって指摘されてきた。それによると、一ツ瀬川以南の宮崎県と大隅を含む地域、いいかえれば霧島山を望む地域は、古墳も多いが、同時に横穴や地下式横穴があるのにたいして、薩摩でも川内川流域から大口盆地など北部には地下式板石積石室が分布し、薩摩半島南部の小地域、とくに山川町の成川遺跡に立石土壙墓が集中する。 日本列島の古墳時代に、このように地域によって墓制のうえに集団的な特色のでているところは珍しく、そのような地域性が、文献にも大隅隼人や阿多隼人などと区別されていることに通じているであろう。
隼人集団と墓制の関係
墓制のうえから設定できた三地域が、文献にあらわれるどの隼人と対応するかはなお若干の問題をのこしている。つまり宮崎県南部から大隅にかけての古墳、横穴、地下式横穴の混在地帯が大隅隼人に関係していることについてはまず異論はない。また薩摩半島南端部の立石土壙墓が、阿多隼人に関係することもまず動かないだろう。 阿多隼人というのは、海幸・山幸神話の海幸彦、つまり「記紀」では火照命(「火闌降命」)を祖と伝え、また皇室との婚姻関係をも伝える隼人の名門である。その経済的基盤としては、南島の物資の中継者的役割が強いと考えられている。南島の物資の一例は、水字貝、イモ貝、ゴホウラ貝などの貝類に見られるが、これらの貝は巧妙に加工することによって装身具として北部九州の弥生社会、さらに古墳時代になると、近畿地方はもとより中部地方にもその製品がもたらされている。
とくに近畿地方の古墳前期の代表的遺物とみなされていた碧玉製の鍬形石およびその祖形としてのゴホウラ貝製品について、阿多隼人の領域と推定される枕崎市の松ノ尾砂丘の古墓からゴホウラ貝の製品が見つかって、改めて「記紀」の伝承との関係が考えられるようになった。
なお地下式板石積石室の地帯については、薩摩隼人との対比で説く考え方もある。ただ時期の違いによって阿多隼人、薩摩隼人と書き分けていて、両者が別集団かどうかを疑問とする解釈もある。一九九〇年、金峰町の小中原遺跡で「阿多」の二字をヘラ書きにした九〜十世紀の土師器が出土し、ここに阿多郡衙があったともみられ、阿多の範囲を示す資料がえられた。
立石土壙墓にしても、地下式板石積石室にしても、墓の在り方が密集的で、大隅隼人地域でみられたような集団の首長的な人物の墓と推定されるものは見つかっておらず、「記紀」の伝承にあらわれる阿多隼人の首長(阿多君)の墓地を推定するのは今後にまつとしよう。
山城に居住した大住隼人
正倉院は、奈良時代の文書の宝庫である。いわゆる正倉院文書の一つに、断簡ではあるが隼人の計帳(調・庸の課税台帳)がある。今日でこそ「山城国隼人計帳」と名付けられてあるが、隼人といえば南部九州という先入観があったため、この計帳が京都府綴喜郡田辺町(もとの大住村を合併)に居住した隼人に関するものであることが知られたのは一九五一年のことであった(西田直二郎「洛南大住村史」一九五一)。
南山城を旅行すると、山肌の荒廃が目につく。というのは南山城の丘陵の土質が軟弱で、そのため山砂利の採取地にされやすいからである。このように南山城の丘陵は横穴の掘削には不適当な土地であるのに、八幡市から田辺町にいたる男山丘陵には、松井横穴群をはじめ横穴群が点在するばかりか、崩壊した入口の状態を復元すると地下式横穴も混じっているという見方もある。つまり南山城の横穴(あるいは地下式横穴)は、その土地の自然条件によって発生したのではなく、南部九州、とりわけ大隅隼人の墓制の影響ではないかと私は考えている(「近畿地方の隼人」大林太良編「隼人」社会思想社、一九七五)。
田辺町のかつての大住村の平地には、前方後円墳と前方後方墳が二基あり、丘陵には横穴群があって、このような古墳と横穴との共存関係もすでに大隅隼人の地帯でみたとおりである。そのような考古学的な知識を前提に隼人の計帳をみると、大住忌寸足人とか大住忌寸山守の名を見出すことができる。もちろん大隅(大住)隼人だけの居住ではなく、阿多君吉売という十六歳の女の名も見える。
隼人集団の意味
近畿地方の隼人の居住地については、中原康富の一四四九(宝徳元)年十一月三十日の一文によって、山城国大住庄のほか、山城で二カ所、河内、丹波、近江などで具体的に地名をあげているし(「康富記」)、「延喜式」でも五畿内および近江、紀伊、丹波をあげていて、先述の井辺八幡山古墳の力士埴輪に一つのてがかりをあたえる。また大和国宇智郡の古代隼人についても史料が多い。
私が地域問題の最後に隼人をもってきたのは、集団の移住、移動によって、隣りあった地域ではなく遠隔の土地でも、習俗をふくめ文化が伝播し、あるいは交流するということである。
2026年5月7日木曜日
20260507 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 加藤周一著「日本人とは何か」 pp.148-154より抜粋
pp.148-153より抜粋
ISBN-10 : 4061580515
ISBN-13 : 978-4061580510
とにかく日本の知識人の若さは、その一途なまじめさ、一種の健康さにあらわれている。そればかりでなくまた、おそらく新しいもののすべてに対するその進取的な態度にもあらわれているだろう。外国の文明に対して、この国の知識人は閉鎖的でない。盛んな知識欲があって、研究し、受け入れ、学ぼうとする気構えがある。しかし、そのような態度は、確かに、若さによるとしても、若さにだけよるものではないだろう。しかしそのことには、あとで触れる。また併せて、そのような傾向の積極的な一面が同時に、消極的な面を含んでいるということについても、あらためて触れたい。消極的な面とは、外国の文物に対する知識の貧しいということであり、すべて新しいものに対する関心の鋭さに比べて、古いものに対する歴史的な感覚の鈍いということである。しかし、消極的な面を強調するあまり、積極的な面を忘れるのはまったく正当でない。私は、ここで、何よりも先に、日本の知識人の若さが、それ自身大いに積極的な面を含んでいるということを強調しておきたい。
20260506 書肆心水刊 杉山茂丸著「俗戦国策」pp.89‐91より抜粋
pp.89-91より抜粋
ISBN-10 : 4902854155
ISBN-13 : 978-4902854152
庵主は、人間と云ふ者は、此土地と、其上にある国家に対しては、極度の敬意と愛憐の情とを持たねばならぬ物と思ふ、而して其敬意と愛憐の情は如何にして持つかと云へば、抑々地上にあって歴史を持たぬ所はないのである。
国家なる物は歴史の結晶である、語を易へて云へば、歴史あるに依て国民が生れたのである、善なり悪なり、其国家の有する歴史は、其国家に取っての生命であり、光栄であるのである。如何となれば、歴史なる物は已に経過したる事実であって、改正と取消しの出来ぬ物の名である、夫を罵るのは直ちに吾人の生存を罵る者であって、少なくとも第三者の容喙を許さぬ物である、斯る自己の関係を知らずに、之を無視したり罵ったりする者が其国民中に孵化する、之を名づけて泡沫学者と云ひ、蛆虫代議士と云うのである。
今や世界の人類は此二十世紀前より、自己の歴史なる物を、無形の学理と云ふ空間の理論の鋒鋩を以て無闇に突崩し突崩し、恐々として覚る事を知らず、縦横無尽に亡世界的行為を組織して居るのである。
豈図らんや、従来あったればこそ現在がある、其現在は歴史の賜である、故に将来もあるのである、現在の自己は即ち吾人祖先歴史の賜であつて、爾後の発明発見の歴史は、自己が子孫に対する歴史的責任行為である。
日本
此故に先ず我が国は、東洋と云ふ歴史を有し、又其一部分たる日本と云ふ歴史を有し、吾人は其日本人たる歴史を有して居るから、其生存行為の何事を為すにも、此歴史の根本を忘れては、何事も日本人の行為とはならぬのである。先ず日本と云う国は、今も昔日も同じく、太平洋中に浮鴎の如く波瀾澎湃の間に出没して居る其島嶼を我が国皇室の御祖先が御発見になつて、建国の地と定められ、種々困難なる経験をなされたが、一度寒潮と暖流との交叉接近にあって、気候が中温であった故に、至る所に生い茂った物は蘆葦斗りであった、之を刈り除いて色々の播種をせられたら、何の植物でも能く登るので、豊葦原瑞穂国と命名せられた、夫で建国の基礎を農事と定められた、夫から吾人の祖先に対して、此国に居住する事を許されたが、夫が一部出来ると天皇は直ちに丘陵に立って政治の基礎を宣言せられた、曰く「民は国の本なり、民の生は朕が生なり、民安うして朕始めて安し」と、夫から行政の綱領を利用厚生に置かれた、曰く「民は国の本なり、民の富は朕が富なり、民富んで朕始めて富」と、夫から信仰を祖先、即ち歴史の崇拝に置かれた、曰く「祖を祭り先に事うるは、朕が民の心なり」と、夫から政策は、人材登用主義である、曰く「才を伸ばし能を発するは、道を行う所以なり」と、夫から法律は暴を制するに止められた、曰く「暴を制するは法の定むる所に因る、道を教うるは民の事を安んずる所以なり」と仰出された、即ち我が皇室は其出発より、全世界中の無財産的、無欲有徳の大慈善家主義であった、是が吾人民族が始めて国家と政治と云う物に遭遇した、歴史の始原である、其後儒学仏教の渡来旺盛は全く自己の歴史を彩る塗料に過ぎなかつたが、其功績の継続の経験は、今日から之を見るも甚だ危険であつて、歴史上の一異彩となって居るのである。
併し我国家歴史出発の素質には何等の腐蝕をも印せずに、今日までの歴史思想を継続して居るのである、此故に吾人は、先ず自己の国家の歴史を知り、自己の祖先の歴史を知り、夫に第一の敬意と愛隣の情とを注ぐは、即ち吾人の国家と吾人とを尊崇する所以である。
夫が即ち又、吾人の子孫後昆に歴史的生存の道を遺す所以でもある事を忘れてはならぬのである、先ず此位の国民的自覚が付いたらば、始めて人間学と云う高尚な学問に心を向けねばならぬ、夫は世界の歴史を知るは世界の民族を貴ぶ所以であり、国交を平和ならしむる所以でもあるのである。此心が基礎をなしたら、明治天皇維新の其宣言にもある如く智識を世界に求め大いに皇基を振起すべしと、仰せられたように、世界の学問に眼を付けねばならぬ。
先ず地球の球体なるを知るには「アリストテレス」に因るも宜しい、之を伝証するには「トレミー」に因るも宜しい、之を証拠立てるには航海家「マゼラン」に因るも宜しい、経済の大要を知るには「ミル」でも「ホーセツト」でも宜しい、民権説を聞くには「ルーソー」でも宜しい、進化論には「ダーウイン」でも宜しい、蒸気の発明を知るには「ワット」も宜しい、何でも千差万別、今日まで此世界人類中を馳駆した学問の努力は、皆彼等学者が子孫に遺す為めの、事業の行程日記である、夫を読んだり、学んだりするのは人類の尤も高尚な行為である。
2026年5月6日水曜日
20260506 株式会社講談社 講談社学術文庫刊 湯川秀樹著「目に見えないもの」 pp.100‐103より抜粋
pp.100‐103より抜粋
ISBN-10 : 4061580949
ISBN-13 : 978-4061580947
実父のこと
まず実父の話から始める。明治三年、南紀田辺藩の儒者浅井南溟の二男として呱々の声をあげた父の読書癖は、すでに幼少の間につちかわれたようである。十四歳で和歌山中学に入学するまでに、二十一史その他随分いろいろな漢籍を読んだらしい。後年京都へ来てからも、父はあらゆる種類の書物に興味を持ち、何とも分類の出来ない雑書が家に堆積していた。幾つも土蔵のある広い借家ばかりをさがして移り住んだのも、まったくこの厄介物のためであった。私ども兄弟も玄関から寝室にまではみ出した書物の中にあっては、いやでも読書家とならざるを得なかった。
十七歳の年に父は志を立てて東京に出た。浅井家はあまり豊かでなかったので兄から一年間の学資を受ける以上のことは望めなかったようである。それで官費で修行の出来る海軍兵学校を志望することとなった。しかし体格試験が不合格で一高に入学する結果となった。入学してまもなく、「我楽多文庫」の会員に引っ張りこまれ、その主宰者たる尾崎紅葉とも相識る機会を得た。そういう因縁で、後年文学の話が出ると、父は特別な親しみをもって、紅葉山人を語った。これに反して鴎外や漱石のものなどはほとんど読まず、またあまり興味を感じていなかったのは、ちょっと不思議なことである。
入学後二年して、同じ紀州藩の小川家の養子となることに定まった。養父ーすなわち私の母方の祖父ー駒橘は若い時分に長州征伐に従軍し、ついで慶応義塾で福沢先生の薫陶を受け、後年は横浜正金銀行に長らく勤めていた。そんな関係で父は専攻学科の選択などについて、当時の慶応義塾長小泉信吉先生ー現総長の厳父ーに相談したこともあったようである。その結果、一時は自然科学の応用方面として電気工学をやるつもりで、毎日図書館で物理学の書物をあさっていたそうである。父は元来多方面な人であったから、物理学に相当興味を持っていたとしても、別に不思議はない。そして私が斯学を専攻したということも、この時期における父の志を継いだものであるといえないこともないであろう。
しかし父は結局、電気工学は断念し、地質学を専攻することとなった。父自身の記すところによると、それには二つの動機があったらしい。一つは明治二十四年秋の濃尾の大地震である。二十二歳で本科二年に進級した父は、郷里紀州に帰る途中において、震災地の酸鼻の状況をまのあたりに見て、深く感動したのである。他の一つは熊野旅行であった。当時健康を害していた父は、鋭気を回復する目的をもって、和歌山から田辺を経て湯の峰温泉に立ち寄り、さらに瀞八丁から潮の岬にいたった。そして湯崎、白浜に一浴し、田辺に帰ったのであった。この間父は、郷土の山河の雄大なのに礼讃の念を禁じ得なかった。潮の岬の燈台に登って太平洋を展望しては
大潮奔駛去悠々 海角極端百尺楼 一望直南三万里 浮雲尽処是豪洲
と歌ったりした。豪洲とはもちろんオーストラリアのことである。濃尾の野の地変も、郷土の風物の千状万態も、ともに地質学の研究対象にほかならぬことを思うて、父の決意はついに定まったのである。
これにくらべると、私は誕生の翌年、すなわち明治四十一年、父が地質調査所から京都帝大文学部に転じた際からずっと京都で育ってきたので自然に対する態度も自ら違っていたようである。仰げばいつも眼前にある東山の連峰、京都一中から京都帝大まで十年間を毎日見慣れた鴨川の流れ。自然は私どもにとっては、美しくもまた静かな、穏やかなものであった。存在はその根源において、常に美しく且つ調和したものでなければならぬとの信念は、この環境の中で知らず知らずの間に出来上がったのかも知れない。私が理論物理学を志したということは、いまにして思えばまんざら偶然でもないようである。私はまた父のように、
大地地震にあう機会を、ちょっとのところで失ったのである。大正十二年に私は三高に入学した。その八月に野球その他一高との対抗試合が東京で行なわれるというので、私も応援団の一員として、「三」の字を染め抜いた赤旗と太鼓の中に埋もれながら、夜行で上京した。試合が済んで東京をたったのが八月三十一日の晩である。京都の家に帰って一息したところで、弱いがあきらかに地震が来た。これが関東大震災の余波であった。もしももう一日東京にいて、震災を経験したならば、あるいは私も父の後を継いで地質学でもやっていたかも知れない。
話が少し脇道へはいったが、かくして父は一高時代に地質学専攻を決意し、在学中にすでにあちらこちらへ、地質の調査、岩石の採取などに出かけたようである。そして明治二十九年大学を卒業するまでに「台湾諸島誌」と題する四百ページ近くの書物を公にしている。卒業後、地質調査所の技師となったが、明治三十三年パリで万国博覧会及び万国地質学会議が開かれた際、最年少の技師として参列した。そして博覧会の審査員の一人として、フランス政府から勲章を授与されたことは、父のあとあとまでの自慢の種の一つであった。この機会にフランスの一流学者の多くに接触し得たことは、父のその後の研究生活に相当な影響を及ぼしたらしい。父が終始フランスの科学や文化に対する良い理解者の一人であった素地は、この時に出来たのであろう。
2026年5月5日火曜日
20260505 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.246‐248より抜粋
pp.246‐248より抜粋
ISBN-10 : 4480077359
ISBN-13 : 978-4480077356
奥野 「Taking seriously ~を真剣に受け取る」というのは、西洋の認識ではなく、人々にとっての存在の意味を問う、いわゆる存在論人類学の標語のようなものです。インゴルドだと「他者を真剣に受け取る」とか、ウィラースレフだと「アニミズムを真剣に受け取る」というような言い回しでよく使われます。
「Taking seriously」について、私自身のフィールドワークの経験から、少しだけ話してみたいと思います。ボルネオ島(マレーシア・サラワク州)の狩猟採集民プナンの話です。その日は、朝から数人で連れ立って森の中に狩猟に出かけました。舟で川を遡って、やがて川岸に舟を置いて歩き始めると、急斜面を一気に登り切ったところに「絞め殺しイチジク(nonok)」の大木があったんです。
イチジクの果実は、鳥や動物たちに食べられて、糞とともに排出され、発芽して、そこに立っている木の幹を伝って根を伸ばしていくのです。やがて根が分岐し、木の幹を網状に覆うようになると、木は枯れてしまって、幹が中空になります。じっと一心に眺めていると、私には、地表に落とされたイチジクの種子が、まるで意識や思考の原初形態のように、意志や志向性を持って伸びていっているさまが突如目に浮かんだんです。咄嗟に私は、プナンのハンターのひとりに、イチジクには魂(berewen)はあるのかと、問うていました。 「ない」という即答でした。
でも彼もその絞め殺しイチジクの大木を眺めながら、その木は「髪の長い美しい女のカミ(baley)」だと言いました。加えて、昔はシャーマンがいたが、シャーマンには、その女神の姿が見えたとも言った。その時私には直観的に、プナンにとっては、中空の幹は穿たれた孔の奥の深い神秘であり、森を歩く男たちにとっては、それは神々しい女性的な存在であると感じられるのではないかと思えただけでなく、私にもそのことがしっくりと行ったんです。
その日は一日歩き回って獲物がありませんでした。狩猟キャンプに帰るために、懐中電灯の明かりを頼りに、私たちは無言で歩き続けた。アブラヤシ農園の中の道を歩いている時に、50メートルほど先の樹上を誰かが懐中電灯で照らした時、ふたつの目が光った。プナンのハンターは、小走りに至近距離まで近づいて、その目をライフル銃で撃ったんです。 つまり一匹の夜行性の野生動物が獲れたんです。それは、プナン語では、スリヤット(seliyat)と呼ばれる、夜行性のベンガルヤマネコでした。
私たちは、なんとこの2日間ほとんど何も口にしていなかったため、獲物をその場で解体して、食べることになりました。プナンが火を焚き、食事の準備を始めると、疲労困憊し、眠くてしかたがない私は地べたにへたりこんだんです。少しの時間だけでもいいから、寝たい。
枕大の石の上に後頭部を置いて、眠ろうとした時、私の体の上を何かが動き回っているのを感じたんです。懐中電灯で照らすと、2センチほどの体長の無数の大きなアリでした。最初は手で振り払っていたが、それでは眠れないため、レインコートをリュックから引っ張り出して、それで頭からすっぽりと全身を覆いました。そのようにして、アリたちの侵入を遮って、何とか眠りにおちたのだと思う。
それから、どれくらい時間が経過したでしょうか。焚火はまだチョロチョロと燃えていたようでしたが、あたりは深い静寂に包まれていたんですが、夢とうつつのはざまで、シャカシャカシャカシャカというアリの動き回る音が、私の頭の中に大音響で響き渡ったんです。その時、私のまぶたには触角を揺すりながらうごめく巨大なアリたちが映し出されました。アリが人間の大きさになったのか、はたまた私自身がアリの大きさにまで小型化したのかは分かりません。いずれにせよ、その時、私はアリの世界の一員となっていたのではないかと思っています。
無言で獲物の食を準備するプナン。研ぎ澄まされた夜の聴覚。化学繊維の布地を大音響で歩き回る、大写しになって現れたアリたち。それは、ほんの20〜30分ほどの出来事だったのでしょうが、私は、肩のあたりをゆすぶられ、ベンガルヤマネコの肉を食べるように促されました。
こんな体験がフィールドワークをやって、人々とともに暮らしていると、時々起きるのです。絞め殺しイチジクの大木が、髪の長い美しい女のカミであると感じられたのが最初です。ふたつ目は、私が体験したアリの世界の一員への「なりきり」の話です。 プナンは、野生動物の狩猟に出かける時には、動物に「なる」のですが、そのことが直観的に分かった瞬間だと言ってもいいかもしれません。こういった話を『絡まり合う生命』(亜紀書房、2022年)という本に書いたのですが、それを、今福龍太さんが『日経新聞』の書評で取り上げて下さいました。今福さんは、「均質化された『世界』の外部にいると思われる『圧倒的な他者』の生のただ中に『じっくりと漂う』こと。するとそこに、瞬時に現れては消え、ふたたび現れる瑞々しい世界が感じられてくる」と読み解いてくださっています。
一般に、私たちが低いものだと見てきた人々の暮らしは、これまで長らく持続可能だったし、もっとずっと内から湧くような力に満ち充ちていたことに、「他者の経験を真剣に受け取る「taking seriously」という態度によって、人類学はこれまで接近してきているのだと思います。
2026年5月4日月曜日
20260504 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻 pp.93-96より抜粋
pp.93-96より抜粋
ISBN-10 : 4150504652
ISBN-13 : 978-4150504656
近代を探して
1867年の秋、封建日本の薩摩藩の重臣だった大久保利通は、現在の東京に当たる首都の江戸から地方都市の山口へ赴いた。10月14日、大久保は長州藩の指導者と会い、単刀直入にこう提案した。同盟を組んで江戸へ進軍し、日本の支配者である将軍を倒そうと。このときすでに、大久保は土佐藩、安芸藩の指導者と手を組んでいた。強大な長州藩の指導者が話に乗ったところで、極秘の薩長同盟が成立した[訳注:この段落の記述は著者の誤認。薩長同盟は1866年3月7日(慶応2年1月21日)、京都で薩摩藩の西郷隆盛らと長州藩の木戸孝允が会談して締結。1867年11月9日(慶応3年10月14日)には、薩長に討幕の密勅が下される一方、徳川慶喜が朝廷に大政奉還を上奏している]。
1868年の日本は経済的には低開発国であり、1600年以来徳川家に支配されていた。徳川家の主が「将軍」の称号を手に入れたのは、1603年のことだった。天皇は脇に追いやられ、純粋に儀式的な役割を演じていた。徳川家の将軍は、みずからの領地を支配して課税する封建領主階級の最も有力な構成員だった。島津家が支配する薩摩藩の領地も、そうした領地の一つだった。これらの領主は、侍として有名な武臣とともに、中世ヨーロッパに似た社会を運営していた。職業区分は厳格で、商取引は制限されており、農民には重税が課されていたのだ。将軍は江戸から国を支配していた。その地で海外交易を独占・支配し、日本から外国人を締め出した。政治経済制度は収奪的で、日本は貧しかった。
しかし、将軍の支配は完全なものではなかった。1600年に徳川家が日本を掌握したときでさえ、あらゆる人々を支配できたわけではないのだ。日本の南部では薩摩藩が依然として大きな自治権を持っており、琉球諸島を経由して外の世界と独自に交易することさえ許されていた。大久保利通は1830年、薩摩藩の城下である鹿児島で生まれた。侍の息子として、彼もまた侍になった。その才能に早くから目をつけていた藩主の島津斉彬は、官僚機構のなかで大久保をとんとん拍子に昇進させた。当時すでに、島津斉彬は薩摩軍を使って将軍を倒すための計画をまとめていた。斉彬はアジアやヨーロッパとの交易を拡大し、旧弊な封建的経済制度を廃止し、日本に近代国家を築きたいと望んでいた。当初の構想は1858年の斉彬の死によって中断した。斉彬の後継者である島津久光は、少なくとも初めは、もっと慎重だった。 大久保はそのころまでに、日本は封建的な将軍政治を倒す必要があるとの確信をますます深め、やがて島津久光をも説き伏せた。自分たちの大義への支持を集めるため、二人はその大義を天皇をないがしろにしていることへの憤りに包み隠した。大久保がすでに土佐藩とのあいだで結んでいた盟約では「一国に二君なし。一家に二主なし。統治は一君に移譲さるべし」と明言されていた。だが真の意図は天皇を権力の座に復位させるだけでなく、政治経済の諸制度を根本から改革することにあった。土佐藩の側では盟約の署名者の一人に坂本龍馬がいた。薩摩と長州が軍を動かしたとき、龍馬は前土佐藩主に「船中八策」を示し、内戦回避のため将軍に退位を迫った。八策は急進的であり、その第一項には「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」と述べられていたものの、ほかには天皇復位をはるかに超えた内容が含まれていた。第二、三、四、五項ではこう述べられている。
第二項 上下議政局ヲ設ケ・・・万機宜シク公議ニ決スベキ事
第三項 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事 第四項 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
第五項 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
将軍慶喜は退位に同意し、1868年1月3日に王政復古の大号令が発せられた。こうして、明治天皇が権力の座に復帰した。このときときには薩摩と長州の軍隊が皇都である京都を抑えていたが、薩摩も長州も徳川方が権力の奪回と将軍政治の復活を図るのではないかと危惧していた。大久保は徳川家を壊滅させて二度と復活させたくなかった。そこで、徳川家の領地を廃止して土地を没収するよう天皇を説き伏せた。1月27日、前将軍慶喜は薩摩と長州の軍隊を攻撃し、内戦が勃発した。戦いは翌年まで続き、最終的に徳川方は敗北した。
明治維新に続き、日本における革新的な制度改革の歩みが始まった。1871年、封建制は廃止された。300に及ぶ藩の領地は中央政府に明け渡され、政府に任命された知事が治める県になった。税収は中央に集められ、旧弊な封建国家は近代的な官僚国家へと姿を変えた。また、すべての社会階級が法の下では平等とされ、国内の移住や商取引に関する制限が撤廃された。いくつかの反乱を鎮圧しなければならなかったものの、侍階級は廃止された。土地に関する財産権が導入され、人々はあらゆる取引に参入し従事することが許された。国家は経済的インフラの構築に深く関与することになった。鉄道に対する絶対主義政権の態度とは対照的に、日本政府は一八七二年に新橋―横浜間に最初の鉄道を敷設した。さらに、製造業の振興に着手し、大久保利通は大蔵卿として工業化のための初期の組織的取り組みを監督した。薩摩藩の藩主はかねてからこうした動きの先頭に立っていた。陶器、大砲、綿糸などの工場を建て、1867年には、日本初の近代的綿紡績工場を創設するため、イングランドから織物機械を輸入していた。また、二つの近代的な造船所も建設した。1889年までに、日本は成文憲法を有するアジア最初の国になり、選挙で選ばれた国会と独立した司法制度を持つ立憲君主国をつくりあげた。こうしたさまざまな改革が、日本がアジア最大の産業革命の受益者になれた決定的要因だったのである。