株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻
pp.93-96より抜粋
ISBN-10 : 4150504652
ISBN-13 : 978-4150504656
近代を探して
1867年の秋、封建日本の薩摩藩の重臣だった大久保利通は、現在の東京に当たる首都の江戸から地方都市の山口へ赴いた。10月14日、大久保は長州藩の指導者と会い、単刀直入にこう提案した。同盟を組んで江戸へ進軍し、日本の支配者である将軍を倒そうと。このときすでに、大久保は土佐藩、安芸藩の指導者と手を組んでいた。強大な長州藩の指導者が話に乗ったところで、極秘の薩長同盟が成立した[訳注:この段落の記述は著者の誤認。薩長同盟は1866年3月7日(慶応2年1月21日)、京都で薩摩藩の西郷隆盛らと長州藩の木戸孝允が会談して締結。1867年11月9日(慶応3年10月14日)には、薩長に討幕の密勅が下される一方、徳川慶喜が朝廷に大政奉還を上奏している]。
1868年の日本は経済的には低開発国であり、1600年以来徳川家に支配されていた。徳川家の主が「将軍」の称号を手に入れたのは、1603年のことだった。天皇は脇に追いやられ、純粋に儀式的な役割を演じていた。徳川家の将軍は、みずからの領地を支配して課税する封建領主階級の最も有力な構成員だった。島津家が支配する薩摩藩の領地も、そうした領地の一つだった。これらの領主は、侍として有名な武臣とともに、中世ヨーロッパに似た社会を運営していた。職業区分は厳格で、商取引は制限されており、農民には重税が課されていたのだ。将軍は江戸から国を支配していた。その地で海外交易を独占・支配し、日本から外国人を締め出した。政治経済制度は収奪的で、日本は貧しかった。
しかし、将軍の支配は完全なものではなかった。1600年に徳川家が日本を掌握したときでさえ、あらゆる人々を支配できたわけではないのだ。日本の南部では薩摩藩が依然として大きな自治権を持っており、琉球諸島を経由して外の世界と独自に交易することさえ許されていた。大久保利通は1830年、薩摩藩の城下である鹿児島で生まれた。侍の息子として、彼もまた侍になった。その才能に早くから目をつけていた藩主の島津斉彬は、官僚機構のなかで大久保をとんとん拍子に昇進させた。当時すでに、島津斉彬は薩摩軍を使って将軍を倒すための計画をまとめていた。斉彬はアジアやヨーロッパとの交易を拡大し、旧弊な封建的経済制度を廃止し、日本に近代国家を築きたいと望んでいた。当初の構想は1858年の斉彬の死によって中断した。斉彬の後継者である島津久光は、少なくとも初めは、もっと慎重だった。 大久保はそのころまでに、日本は封建的な将軍政治を倒す必要があるとの確信をますます深め、やがて島津久光をも説き伏せた。自分たちの大義への支持を集めるため、二人はその大義を天皇をないがしろにしていることへの憤りに包み隠した。大久保がすでに土佐藩とのあいだで結んでいた盟約では「一国に二君なし。一家に二主なし。統治は一君に移譲さるべし」と明言されていた。だが真の意図は天皇を権力の座に復位させるだけでなく、政治経済の諸制度を根本から改革することにあった。土佐藩の側では盟約の署名者の一人に坂本龍馬がいた。薩摩と長州が軍を動かしたとき、龍馬は前土佐藩主に「船中八策」を示し、内戦回避のため将軍に退位を迫った。八策は急進的であり、その第一項には「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事」と述べられていたものの、ほかには天皇復位をはるかに超えた内容が含まれていた。第二、三、四、五項ではこう述べられている。
第二項 上下議政局ヲ設ケ・・・万機宜シク公議ニ決スベキ事
第三項 有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事 第四項 外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
第五項 古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
将軍慶喜は退位に同意し、1868年1月3日に王政復古の大号令が発せられた。こうして、明治天皇が権力の座に復帰した。このときときには薩摩と長州の軍隊が皇都である京都を抑えていたが、薩摩も長州も徳川方が権力の奪回と将軍政治の復活を図るのではないかと危惧していた。大久保は徳川家を壊滅させて二度と復活させたくなかった。そこで、徳川家の領地を廃止して土地を没収するよう天皇を説き伏せた。1月27日、前将軍慶喜は薩摩と長州の軍隊を攻撃し、内戦が勃発した。戦いは翌年まで続き、最終的に徳川方は敗北した。
明治維新に続き、日本における革新的な制度改革の歩みが始まった。1871年、封建制は廃止された。300に及ぶ藩の領地は中央政府に明け渡され、政府に任命された知事が治める県になった。税収は中央に集められ、旧弊な封建国家は近代的な官僚国家へと姿を変えた。また、すべての社会階級が法の下では平等とされ、国内の移住や商取引に関する制限が撤廃された。いくつかの反乱を鎮圧しなければならなかったものの、侍階級は廃止された。土地に関する財産権が導入され、人々はあらゆる取引に参入し従事することが許された。国家は経済的インフラの構築に深く関与することになった。鉄道に対する絶対主義政権の態度とは対照的に、日本政府は一八七二年に新橋―横浜間に最初の鉄道を敷設した。さらに、製造業の振興に着手し、大久保利通は大蔵卿として工業化のための初期の組織的取り組みを監督した。薩摩藩の藩主はかねてからこうした動きの先頭に立っていた。陶器、大砲、綿糸などの工場を建て、1867年には、日本初の近代的綿紡績工場を創設するため、イングランドから織物機械を輸入していた。また、二つの近代的な造船所も建設した。1889年までに、日本は成文憲法を有するアジア最初の国になり、選挙で選ばれた国会と独立した司法制度を持つ立憲君主国をつくりあげた。こうしたさまざまな改革が、日本がアジア最大の産業革命の受益者になれた決定的要因だったのである。
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