産業革命による蒸気機関の各種用途への応用により、製品が大量生産され、それが蒸気機関車にて国内各地に運ばれ、さらに、そこから蒸気船によって国外に輸出されるといった流通経路が確立し、常態化すると、その結果、当然の如く、輸出先地域の在来産業をも含む、伝統的な土着文化が破壊もしくは大きく変形せられ、結果的に、その地域は大量の製品を持ち込んだ、産業革命を成し遂げた西欧諸国の植民地にならざるを得ない状態へと至る。
こうした状態に際し、極東の中国・朝鮮・日本といった国々は、古くからの独自文化を保持していたことから、当初、西欧諸国蒸気船の来航に対して激しく抵抗した。
しかし、こうした東アジア各国の国粋的な抵抗諸勢力は、殺傷能力の優れた火器を装備した西欧諸国軍隊に対して敗北することが多く、とりわけ、広大な国土を有する中国(当時は清王朝)は、抵抗的争いに敗れた結果、沿岸部のいくつかの地域が、半ば植民地のような状態に陥った。
一方、当時の東アジアのなかで日本のみは例外的に、西欧諸国の学問・技術等を手本として学び、順応することに努め、また、統治体制を革めて西欧諸国による国土の蚕食を免れることが出来た。
くわえて、当時(19世紀半ば頃)の西欧諸国においては、東アジア地域をも含む世界各地にて西欧諸国同士の権益拡張への牽制がしばしば為され、あるいはまた、国によっては内戦状態であったという事情も、当時の日本を利するものであったと云える。
とはいえ、こうした状況は、あくまでも恒常的なものではなく、日本はこれに適切に対応するため、速やかな、そして大きな改革な必要であることを当時の世界規模での知識を有する心ある人々は痛感していた。
この幕末期から始まる、我が国での西欧諸国を手本とした各方面での改革は、明治期にも引き継がれ、我が国においては、そのまま「近代化」や「文明開化」といった意味合いを持つと云えるのだが、その発端は、冒頭に述べた産業革命によって画期的に船足が速くなり、航続距離が伸びた蒸気船が、これまた産業革命によって、大量生産された自国製品の販路を求めて、東アジア海域に頻繁に来航するようになったことであると云える。
ともあれ、上記の経緯により西欧諸国を手本として、速やかな西欧化をはかった日本は、その後、内戦や小規模な外征を経験し、早くも19世紀末期には、隣国である中国(清王朝)と朝鮮半島の権益をめぐる対外戦争に立ち至ることになった。
この所謂、日清戦争は、西欧的な近代国家への変革をはかった日本がはじめて経験する本格的な対外戦争であり、またそれは、当時としては相当に危険な賭けであった。何故ならば、当時の日本は未だ西欧諸国から文明国であるとは見做されず孤立しており、幕政期(1858年)に結ばれた日米修好通商条約に基づく治外法権(領事裁判権)があり、これは同戦争開始直前に、ようやく英国からの撤廃に漕ぎつけることが出来たのであるが、いざ戦争が始まると、西欧を手本として変革を遂げた日本軍は、清国軍に対して陸海双方にて快勝をおさめた。
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順天堂大学保健医療学部
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