2017年9月18日月曜日

20170917 下巻(宗教に関しての章)を読み進めていて思ったこと・・

A「先日来より読んでいる著作は昨日に上巻を読み終え、次いで下巻を読み始めましたが、この冒頭での主題もまた大変興味深いものであり、読んでいて思い起こされるのは、フレーザー著「金枝篇」あるいはジョルジュ・バタイユ著「呪われた部分 有用性の限界」であったり、さらに面白いことにはかつて自身が書いた修士論文であったりもするのです・・(笑)。

もちろんそれは十年前に書いた文章ですので、現在読んでみますと間違い、不完全な点も多いのですが、同時にそこで考えたこと、読んだ著作とは現在においても割合明瞭に憶えているものであり、そうしたことから、やはり自身のある程度本格的な思索の原点とは、そこにあるのではないかと思われるのです・・(おそらく勢いは現在よりもあります。)。

さて、ハナシを冒頭に戻し下巻冒頭の章にて扱っている主題とは『宗教』についてであり、そこで述べられることは、さまざまな宗教の成立過程、およびその後の発展過程についてのより観念的、抽象的な概説のようなものであるといえます。

そして、かつての自身とは、こうした原初的、局地的ではあるにしても何らかの宗教の背景にある心情、精神について、ある程度の知見、理解を得ていなければ、地域にて継続して行われた雨乞い祭祀および、それと同じ系譜のさらに先に存在した銅鐸が、如何なる時代・地域を貫く特性にて祀られたのか分からないだろうと考えたのです・・。

とはいえ、そうした考えに基づいた探求の結果によって得られた知見とは、どちらかというと、そのものズバリの特徴を言い当てる、形容できるようなものではなく、その輪郭の概形を触感として得た感覚をさらに言語化したような不明瞭なものであるといえます。

そして、そうした自身の経験から、あくまでも私見ではありますが、文系学問の探求によって得られる知見とは、往々にしてこのような不明瞭なものであり、おそらくそのようにして書かれた文章とは、それと類似した思索を以前に行った方々はどうにか理解することが出来るのでしょうが、そうした経験がない方(もちろんそれは全く恥ずかしいことでもなく、むしろ、そちらの方が普通、通常ではないだろうか)にとってはまさしく何が書かれているか理解不能、荒唐無稽な文章として映るのではないかと思われるのです・・。

そして、おそらくそうした理由から、文系学問における研究とは、全ての点において正当とされる評価を下すことが困難になるのではないかと考えます。

しかしながら、であるからといって文系学問が無価値であるということではなく、むしろそれとは反対に『この著作、文章には自身が引きつけられる何かがあるように思われるのだが、その意味はよく分からない・・』といった感覚を大事にして若い頃から読み続けておりますと、徐々にさきに書いたような輪郭概形の触感を言語化したような不明瞭な感じであることが多いかもしれませんが、それでも自分なりの理解に達することが出来るようになるのではないかと思われるのです・・。

そして、こうしたこととは、継続する以外にないと私には思われるのです・・。

その意味において、ブログ記事とは、現在の自身にとって適当ともいえる表出・表現の手段であるといえるのですが、そのさきに何があるのであろうかとは、さきに書いたような不明瞭な感じであれ、あるいは具体的なものであれ、よく分からないで作成しております・・(苦笑)。

(暗中模索とはこうした状態をさすのかもしれません。)
しかし、否、それだからこそ継続する以外にないのかもしれません・・(笑)。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂いてどうもありがとうございます。

昨年から現在までに発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された地域でのインフラの復旧・回復そして、その後の力強い復興を祈念しています。」