ISBN-10 : 4480087389
ISBN-13 : 978-4480087386
アイヌ民族が行っている熊の生贄の意味についてもまた、不確かなものがある。これは日本列島の島、エゾとサハリン、および千島列島の南部にも住む未開民族である。アイヌの熊に対する態度は、容易には理解しがたい。彼らは熊を「カムイ」という、「神」を意味する名で呼ぶが、一方で同じ語は外来者に対しても用いられるので、おそらく、超人的な力を備えているとみなされる存在以外の何者をも指してはいないだろう。またつぎのようにも言われている。「熊は彼らの主要な神である」。「アイヌの宗教において、熊は主要な役割を果たしている」。「動物の中で、とりわけ偶像として崇拝されているのが熊である」。「彼らは熊を独自の方法で崇拝する。…この野生の動物が、自然の非動物界の力よりも強力に、人に崇拝の念を呼び起こすものであることは疑いを容れない。アイヌ民族は、熊崇拝者と分類してよいだろう」。だが一方で彼らは、殺せるときはいつでも熊を殺す。「男たちは、秋と冬と春には、鹿と熊を狩って過ごす。貢物や税はその毛皮で支払われ、その乾燥肉を食べて暮らす」。実際熊の肉は彼らの主食のひとつである。生のまま食べることもあれば、塩漬けにして食べることもある。また熊の毛皮は彼らの衣服となる。事実、この主題について述べている著述家によれば、その「崇拝」は、もっぱら死んだ動物に対してのみ行われるものと見える。つまり、彼らは殺せるときはいつでも熊を殺すが、その死体を解体する過程で、入念に敬意を表し、謝罪のことばを述べながら、この神性を宥めようと努める。彼らが殺したのはその神の表象なのである」。「熊が罠にかかったり矢で射抜かれたりすると、猟師たちは謝罪の儀式ないし贖いの儀式を執り行う」。殺された熊の頭蓋は、小屋の中野栄誉ある場所に置かれるか、小屋の外の神聖な場所に置かれ、大変敬意をもって扱われる。これには「サケ」という名の神酒が捧げられる。キツネの頭蓋もまた小屋の外の神聖が場所に固定され、悪霊に対する護符とみなされ、また神託を求められる。だがつぎの点ははっきりと述べられている。「生きているキツネは生きている熊と同様、崇められることはほとんどない。人々はむしろこれを、できる限り避けようとする。ずる賢い動物と考えているのだ」。したがって熊は、アイヌによって神聖な動物として語られることはない。また明らかにトーテムではない。というのも、人々は自らを熊と称することはないし、自分たちが熊の子孫であるという伝説を持っていないように見える。彼らはこの動物を好きなように殺し、食するのである。
だがここでわれわれに関係があるのは、アイヌの熊の祭り(いわゆる「イオマンテ」、「熊送り」を指す)である。冬の終わりになると、彼らは幼い熊を捕らえて村に連れてくる。最初はアイヌの女が乳を与え、その後は魚が与えられる。強い大人の熊に育ち、入れられている木の檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。しかし「とりわけ驚かされるのは、幼い熊が単に上質の食べ物を与えられるのみならず、呪物として、あるいはむしろ、一種の高次の存在として扱われ、崇められている事実である」。祭りは一般に九月か十月に行われる。その前にアイヌたちは神々に謝罪し、これまでこの熊を可能な限り大切に扱ってきたが、もはやこれ以上食事を与えることはできず、殺さざるを得ない、と申し立てる。熊の祭りを行う男は親戚や友人を招き、小さな村ではほとんど村人全員がこの祭りに加わることになる。このような祭りのひとつについては、ショイベ博士が目撃し、記録している。博士が小屋に入ると、およそ三十人のアイヌたちがいた。男も女も子どもも、皆盛装している。この家の主人はまず、炉で火の神に神酒を捧げ、他の客たちもこれに倣う。つぎに神酒はこの小屋の聖所で家の神にも捧げられる。その間、これまで熊を育ててきた家の主婦は、ひとり悲しみに沈んで静かに座り、ときおり涙を溢れさす。彼女の悲しみに偽りがないことは明らかであり、それは祭りの進行とともに深まるばかりである。つぎに、家の主人と何人かの客が小屋から出て、熊の檻の前で神酒を捧げる。数滴は皿に入れて熊に与えられるが、熊はすぐにこれをひっくり返す。そして主婦たちと娘たちが、檻の前で踊る。熊の檻に顔を向け、膝をわずかに曲げ、起き上がっては爪先で飛び上がるという踊りである。踊りながら女たちは手拍子を打ち単調な歌を歌う。家の主婦と、これまで多くの熊を育ててきた少数の老婆たちも、涙を流しながら踊る。熊に向かって両腕を差し出し、愛情のこもったことばで呼びかける。若者たちはほとんど悲しみとは無縁の様子で、笑いながら歌を歌う。騒がしさに心乱された熊は檻の中で激しく動き回り、悲しげな遠吠えを上げる。つぎに、アイヌの小屋の外に立てられている、イナウ(著者はinabosと記しているが、複数のイナウの意であろう。幣同様、神事に用いられる木製の幣束)という名の神聖な細枝の束に、神酒が捧げられる。この枝は二フィートほどの長さで、先端は削られ、螺旋状の鉋屑のようになっている。この祭りでは、笹の葉を付けた五本の新しいイナウが立てられた。これは熊が殺されるときにはかならず立てられるものである。笹の葉には、熊が甦るようにという願いが込められている。熊が檻から出されると、首に縄が掛けられ、小屋の周りを引き回される。この間、男たちは、ひとりの長に先導され、先端に丸い木の付いた矢を放つ。ショイベ博士もこれに加わらなければならなかった。つぎに熊はイナウの前に連れてこられ、一本の棒が口に入れられる。九人の男が膝で抑えつけ、柱に首を押しつける。五分後には熊は声も上げずに息絶える。一方主婦たちと娘たちは男たちの後ろに立ち、歎きながら踊り、熊を殺した男たちを打つ。つぎに熊の遺体は、イナウの前に敷かれた筵の上に置かれ、イナウの中から取り出された剣と箙が熊の首に下げられる。熊が雄の場合、首飾りと耳輪もつけられる。そして雑穀の煮汁と雑穀の塊、および鉢一杯の酒が、食べ物ととして熊に捧げられる。死んだ熊を前にして筵の上に座っている男たちは、これに神酒を捧げ、大酒を飲む。一方主婦たちと娘たちは、悲しみの跡をすっかり消し去り、陽気に踊り、老婆たちもまただれにも劣らず陽気に踊る。宴たけなわとなった頃、熊を檻から出した二人の若者が、小屋の屋根に上り雑穀の塊を皆に投げる。皆は老若男女の区別なく、これを奪い合う。つぎには熊は皮を剥がれ、はらわたを抜かれ、胴から首が切り落とされるが、このとき、皮は首のほうに残るようにする。血は椀に受けられ、これを男たちが大いにありがたがって飲む。禁じられてはいないものの、女と子どもは飲まないようである。肝臓は細かく切り刻まれて生のまま塩をつけて食されるが、これは女も子どもも食べる。肉とその他の内臓は家に持ち帰られ、翌々日まで保管されるが、その日には、宴に参加した者たち全員がこれを分け合う。血と肝臓はショイベ博士にも配られた。熊がはらわたを抜かれている間、主婦たちと娘たちは最初と同じ踊りを踊る。だが今回は檻の周りではなく、イナウの周りを踊る。この踊りで、先ほどまで陽気だった老婆たちは、再びさんざん涙を流す。熊の頭から脳が取り出され、これが塩とともに飲み干されると、頭蓋は皮から切り離され、イナウの傍の竿に吊るされる。熊の轡となっていた棒もまた、竿に括り付けられ、遺体に下げられていた剣と箙も同様に竿に付けられる。後者は一時間ほどで外されるが、他はその後もそこに立てられたままになる。人々は皆、男も女もこの竿の前で騒々しく踊り、今度は女たちも加わって酒宴が始まり、これが終わると祭りも終わる。
Chatgptを用いて作成した要旨
アイヌ民族が行う熊の生贄の意味は明確には理解されていない。アイヌは日本列島のエゾ、サハリン、千島列島南部に住む民族であり、熊に対して「カムイ」という「神」を意味する名を用いる。しかし、この言葉は外来者にも使用され、超人的な力を持つ存在を指している可能性が高い。熊はアイヌの主要な神であり、特別な崇拝の対象であるとされる一方で、彼らは熊を頻繁に狩り、肉や毛皮を利用する。熊の肉はアイヌの主食のひとつであり、熊の毛皮は衣服として使われる。この矛盾した態度は、彼らが熊を殺す際に入念に敬意を払い、謝罪の言葉を述べながら解体することに現れている。殺された熊の頭蓋は神聖な場所に置かれ、神酒が捧げられる。キツネの頭蓋も同様に扱われるが、生きているキツネは熊ほど崇拝されない。アイヌは熊をトーテムとは見なしておらず、自らを熊の子孫と称する伝説も持たない。特に重要なのはアイヌの熊の祭り「イオマンテ」だ。冬の終わりに幼い熊を捕まえ、アイヌの女が乳を与え、後には魚を与える。熊が成長し、檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。祭りは九月か十月に行われ、熊に対する謝罪の言葉と共に熊を殺すことが申し立てられる。祭りには親戚や友人、村人全員が参加し、神酒が捧げられ、踊りが行われる。熊が檻から出され、首に縄を掛けられ、小屋の周りを引き回され、矢を放たれる。熊が殺されると、その遺体は神聖な場所に置かれ、剣と箙が首に下げられ、雑穀の煮汁と酒が捧げられる。死んだ熊の前で神酒を捧げ、大酒を飲む一方、女たちは悲しみから陽気に変わり、踊り続ける。熊が皮を剥がれ、はらわたを抜かれた後、その肉は保管され、参加者全員で分け合う。熊の頭蓋は皮から切り離され、神聖な竿に吊るされ、祭りが終わると共に、皆で酒宴が始まる。
このように、アイヌの熊の生贄の儀式は単なる食料確保や毛皮利用以上の宗教的、社会的意味を持つものであり、熊は崇拝される対象でありながら、生活の一部として狩猟される存在である。アイヌの熊に対する態度は、自然との共生や霊的な関係を示すものであり、彼らの文化や信仰の深層に根ざしている。