2015年7月18日土曜日

ロバート・グレーヴス著「この私、クラウディウス」みすず書房刊pp.113-115より抜粋

ウィンストン・チャーチルの戦争についての記述と併せて読むと面白いかもしれません。

『リウィウスは言った。
「ポッリオの問題は、歴史を記述する際に洗練された詩的な感情をおさえねばならんと思い込んでいるところにある。作中人物を動かすときも意識して生気がないようにしてしまうし、その人物に語らせるときにも、わざとかれらの口から能弁を奪ってしまうのだ。」
ポッリオは言った。
「そうとも。詩は詩、弁論術は弁論術、そして歴史は歴史だ。これを混同はできぬ」
「混同できぬ?私にはできるよ」リウィウスは言った。
「叙事詩的主題は詩の占有物だから歴史に用いてはならぬとか、決戦前夜の将軍に、それが弁論術の占有物だという理由から、能弁な演説をさせてはならぬというのかね」
「それこそわしの言いたいところじゃ。
実際に何が起こったか、人々がいかに生きそして死んでいったか、その人々が何を言い何をしたか、それをありのままに記録することこそ真の歴史であって、叙事詩的主題はいたずらに記録を歪めるだけだ。貴殿の将軍の演説は、なるほど弁論術としては一級品かもしれんが、まったく歴史的ではない。どれをとっても真実のかけらもないばかりか、不適切ですらある。わしは他の誰よりも決戦前夜の将軍の演説をこの耳で聞いてきた人間だが、その当の将軍たち、殊にカエサルとアントニウスは弁論術の手本ともなる能弁家であったにも係らず、何よりもまず良き軍人であったから、軍団兵の前でそうした弁論術の手本を披露したりはしなかった。
将軍たちが兵士に向って語るときには、普通の会話のように話したのであって、決して演説をぶったわけではない。
そもそもカエサルがファルサリアの合戦の前にどのように話したか貴殿は御存知かな?かれは兵士に対して、妻子のことやローマの神殿のこと、はてはローマの過去の赫々たる戦歴を思い起こせなどと言ったか?断じて否である!カエサルは片手に例のばかでかい人参、片手には硬い兵営のパンを持って松の切株の上に立ち、もぐもぐ口を動かしながらその合間に冗談を飛ばしたのだ。冗談といっても婉曲なものではなく、そのものずばりの生々しい奴で、話題は自分の自堕落な生き方に比べれば、まだしもポンペイウスの暮らしはずっと清潔だというものだった。カエサルはあの人参を使って兵士たちの腹の皮がよじれるほど大笑いさせたものよ。今でも憶えておるよ、ポンペイウスが大ポンペイウスと呼ばれるようになった由来をあのばかでかい人参を使って説明するきわどい冗談があったなあ。カエサルがどうしてアレクサンドリアの市場(バザール)で髪の毛を失う羽目に陥ったかという話はもっときわどいものだった。まあこの少年の前では話せんが、たとえ聞かせてやっても君はカエサルの兵営で鍛えられた者ではないから話の要点は分かろうはずがない。いったいカエサルは翌日の戦さのことなど話の締めくくりにこう言っただけだ―「嗚呼哀れなるかな、ポンペイウス、カエサルの軍隊に刃向かうとは。運の尽きというものだ。」「貴殿は著作の中でこうしたことは一切記しておらないのではないか」
「もちろん一般公開した版にはな」とポッリオが言った。「わしとて馬鹿ではない。それでも知りたいというのなら、私家版の補足篇を貸してやろうか。ちょうど書き上げたばかりだからな。しかし改めてあれを読むまでもない、わしが直に話してやろうから。
知っての通り、カエサルには物真似の才があった。かれは今まさに剣の上に(あの人参を剣に見立てて―尤もかじりさしではあったが)わが身を投ぜんとするポンペイウスの臨終の言葉を披露してみせたのだ。何ゆえ悪が正義に勝利するのか、ポンペイウスの名において不死の神々を痛罵したのだ。兵士たちは腹を抱えて大笑いさ。それからカエサルは声の限りに叫んだ。「ポンペイウスはこういうが、これは本当ではなかろうか?できるものなら否定してみるがいい、ふしだらな餓鬼めら!」そしてかじりさしの人参を兵士たちの前で振り回したのだ。その時の兵の怒号たるや!カエサルの兵ほどのものは後にも先にもなかった。連中がガリア戦役勝利のときに歌っていた歌を憶えているかな。「俺たちと一緒に禿頭の助平どののお帰りだローマ人よ、女房を家に閉じ込めておけ」

「これこれ、わが友ポッリオよ、今議論しているのはカエサルの道徳についてではなく、いかなるものが正しい歴史記述かという問題であったはずですぞ」とリウィウスは言った。」
この私、クラウディウス
この私、クラウディウス
ロバート・グレーヴス






ベネデット・クローチェ著 「思考としての歴史と行動としての歴史 」フィロソフィア双書23 未来社 pp.40-44より抜粋

歴史とは歴史的な判断であると述べるだけでは充分ではなく、さらに付け加えてこう述べる必要がある、すなわち、あらゆる判断は歴史的な判断である、あるいは全くのところ歴史そのものなのだ、と。

判断とは主語と述語の関係のことであるとして、主語すなわち判断される事実は、それがどのような事実であれ、つねに歴史的な事実、生成しつつあるもの、進行中の過程なのであって、実在の世界においては不動の事実といったものは見出されもしなければ想像もできないのである。

たとえば、わたしがわたしの足の前に見ている物体は石ころであり、それはわたしの足音を聞いても小鳥のように自分から飛び去ることはないであろうから、足か杖で除けるのがよいであろう、というような一目瞭然の判断的知覚(もし判断が働いていないならば、それは知覚でもないのであって、盲目のもの言わぬ感覚であるにすぎない)にしてから、やはり歴史的な判断であることに変わりはない。なぜなら、この石ころも、本当を言えば、自分を解体させようとする諸力に対抗し、たとえ屈服するにしても易々とは屈服しまいとしている一個の進行中の過程なのであり、わたしの判断はそれの歴史の一局面にかかわっていることになるからである。

しかしまたここで停止してしまってもまだ駄目なのであって、さらにいま一歩を進めて、つぎのように結論しなければならない、すなわち、歴史的判断は単に種々ある認識のうちの一つの階級にとどまるものではなく、認識そのもの、認識の分野全体を隈なく満たし、それ以外の認識形式の存在する余地を残していない、そのような認識の形式なのである、と。実際、あらゆる具体的な認識は、歴史的判断と同等に、生すなわち行動に結びついたものであらざるをえない

それは行動の一時停止あるいは待機の契機なのであって、そもそも行動というものは、さきにも述べたように、状況から出立して、それに規定され特殊化された形態において生起せざるをえないわけであるが、その肝腎の状況をそれが明確に見通すことができないでいるとき、その自らの前に立ちはだかる障害を除去しようとして、認識の行為は生じてくるのである。

認識のための認識などといったものは、一部の者たちが想像するところとは異なって、なんら貴族的なものでもなければ高尚なものでもなく、実のところ、白痴の、またわれわれ各人のうちに潜む白痴的契機の、呆けた暇つぶしのようなものであるばかりか、そもそも、実践の刺激がなくなれば、認識の質量そのもの、そしてまた目的の失われてしまうのであるから、本質的に存在しえないのであり、それゆえ現実に起こることもない。そして芸術や思索の仕事にたずさわる者が自分を取り巻く世界から身を隔絶し、卑俗な実践的対立―実践的であるかぎりにおいて卑俗な対立―には慎重を持して参加しないことを救済の道であると考えて、そのような態度をとろうと意図している知識人たちは、こうしてほかでもなく、知性の死を意図する結果になっていることに気がついていないのである。

労働も苦悩もなく、なんら克服すべき障害に出会うこともない楽園の生活においては、およそ思考の動機そのものが消失してしまっているのであるから、人は思考することもないのであり、また、活動的にして制作的な直観は実践的な闘争と情念との世界を自らのうちに包み込んだところに成立するものであるから、厳密には、人は直観することすらないのである。

数学という補助手段をもついわゆる自然科学もまた、生きようとする実践的欲求にもとづいて成立しており、その欲求を充足することを目指していることについても、これを論証するのに労力は要さない。というのも、この信念は近代初頭におけるその偉大な鼓吹者フランシス・ベイコンその人によってすでに人々の頭の中に植えつけられていたからである。しかし、それにしても、自然科学が真の認識となってこの有益な任務を果たすのは、それの過程のどの時点においてなのであろうか。
抽象を行い、分類を作り、それが法則と呼ぶところの分類された諸事物間の関係を立て、これらの法則を数学的定式を与える、等々のことをしている時点においてでないことはたしかである。これらはすべて、既得の知識を保存したり新たに獲得し直したりすることを目指した接近の作業ではあるが、認識の行為ではない。
医学上の資料の一切、病気のあらゆる種類とそれぞれの特徴とを書物にまとめたり記憶したりして所有することはできても、これだけでは、たしかにモンテーニュの言葉であったと思うが、「なるほどガレノスはいるが、しかし患者がいない」わけであって、数多く編纂されてきている世界史のうちのどれか一冊を所蔵していたり、その内容を洩らさず記憶していても、もろもろの事件の刺激の下でそれらの知識がその静止した硬直状態を破って躍動し始め、思考力が政治的その他の状況を思考するようになる瞬間が到来するまでは、歴史についてほとんど何一つ認識していることにはならないのと同様、たとえ医学の専門家といえども、直接に患者を臨床し、まさしくその患者が、そしてただ一人の患者のみが、かくかくしかじかにして、またまくかくしかじかの状態の下で患っている病気を、そしてそのとき、それはもはや一般化された定式としての病気ではなくて、或る一つの病気の具体的にして個的な現実なのであるがそのような病気の具体的にして個的な現実を直観し理解するときが到来するまでは、知性がまだ理解していないか充分には理解していない個々の事例から出発する。
そして、長い複雑な一連の作業を遂行し、こうして準備のできたところで知性をそれら個々の事例の前にふたたび連れてゆき、それらと直接に交わらせて、それらについての正しい判断を形成させるのである。
小林秀雄「科学する心」

Kenneth J. Anusavice 著 「Phillips Science of Dental Materials」Eleventh Edition  Saunders刊  pp.608-609より抜粋

Soldering of Dental Alloys

Substrate Metal for Soldering

Metal-joining operations are usually divided into three categories: brazing, soldering, and welding. The definitions seem remarkably similar. The primary difference between soldering and brazing requires a heating temperature above 450 °C (840 °F) but below the solidus temperature of the substrate metal(s) the difference between these two processes and welding is that welding may no require a filler metal and the metal surfaces to joined will fuse locally.

For dental applications the term soldering is commonly used to describe the build-up of contact area of joining of two metal parts such as components of a fixed partial denture or an intraoral appliance.
The soldering process involves the substrate metal(s) to be joined, a filler metal (usually called solder), a flux, and a heat source.
All are equally important, and the role of each must be taken into consideration to solder metal components successfully.

Some of the terms and definitions listed in the key term section are modified versions of those provided in the Metals Handbook, Desk Edition (1992). The terms and definitions that follow serve as a reference to differentiate among brazing, soldering, and welding. Because the liquidus temperature of the filler metal is the only difference between the terms brazing and soldering, the term soldering is used subsequently as a general term to describe both processes.
The substrate metal, sometimes known as the basis metal, is the original pure metal or alloy that is prepared for joining to another substrate metal or alloy.
Before casting became the popular method of producing metal prosthetic structures, many appliances were constructed by forming shapes from wrought plate and wire and then soldering these pieces together to produce the required configuration.

Dental casting alloys that can be soldered or welded include gold-based, silver-based, palladium-based, nickel-based, cobalt-based, and titanium-based alloys, as well as commercially pure titanium. Note that principles for soldering or welding are the same for any any substrate metal. Thus the individual who performs the soldering or welding procedure for cleaning the surfaces to allow intimate contact with molten filler metal, the most compatible filler metal to be used, and the heating temperature that will ensure adequate flow of filler metal or fusion of adjacent surfaces if weldering is performed. The composition of the substrate metal determines its melting range. As previously noted, the the soldering should take place below the solidus temperature of the substrate metal(s). The composition of the substrate metal determines the oxide that forms on surface during heating, and, if used, a flux must be able to reduce this oxide, inhibit further oxidation, or facilitate its removal. The composition and cleanliness of the substrate metal and the temperature to which it is heated determine the wettability of the substrate by the molten solder alloy. The solder chosen must wet the metal at as low a contact angle as possible to ensure wetting of the joint area. To prevent flow onto adjacent areas, an antiflux such as rouge mixed with chloroform can be painted on the areas before heating the assembly.
The manufacture or supplier is responsible for providing explicit instruction for eliminating the oxide layer during the joining process. The instructions for every alloy should also include a recommendation for the appropriate filler metal (solder) and flux. For alloys that will be bonded to porcelain, this recommendation should include filler metals for both prefiring (presolder) and postfiring (postsolder), and appropriate flux for the substrate alloy. As stated earlier in this chapter, the technical term for joining metals before firing of the veneering ceramic layers is presoldering (or prebrazing), and the technical term for joining metals after the veneering process is postsoldering (or postbrazing).

Phillips' Science of Dental Materials
ISBN-10: 0721693873
ISBN-13: 978-0721693873

Paul Kennedy著 「The rise and fall of the great powers」 Vintage Books刊 近代日本に関しての記述抜粋

Japan

Italy was a marginal member of the great power system in 1890, but Japan wasn’t even in the club. For centuries it had been ruled by a decentralized feudal oligarchy consisting of territorial lords (daimyo) and an aristocratic caste of warriors (samurai). Hampered by the absence of natural resources and by a mountainous terrain that left only 20percent of its land suitable for cultivation, Japan lacked all of the customary prerequisites for economic development. Isolated from the rest of the world by a complex language with no close relatives and an intense consciousness of cultural uniqueness, the Japanese people remained inward-looking and resistant to foreign influences well into the second half of the nineteenth century. For all these reasons, Japan seemed destined to remain politically immature, economically back-ward, and militarily important in world power terms. Yet within two generations it had become a major player in the international politics of Far East.


 The cause of this transformation, effected by the Meiji Restoration from 1868 onward, was the determination of influential members of the Japanese elite to avoid being dominated and colonized by the west, as seemed to be happening elsewhere in Asia, even if the reform measures to be taken involved the scrapping of the feudal order and the bitter opposition on the samurai clans. Japan had to be modernized not because individual entrepreneurs wished it, but because the state needed it. After the early opposition had been crushed, modernization proceeded with a dirigisme and commitment which makes the efforts of Colbert or Frederick the Great pale by comparison. A new constitution, based upon the Prusso-German model, was established. The legal system was reformed. The educational system was vastly expanded, so that the country achieved an exceptionally high literacy rate. The calendar was changed. Dress was changed. A modern banking system was evolved. Experts were brought in from Britain’s Royal Navy to advise upon the creation of an up-to-date Japanese fleet, and from the Prussian general staff to assist in the modernization of the army. Japanese officers were sent to western military and naval academies; modern weapons were purchased from abroad, although a native armaments industry was also established. The state encouraged the creation of a railway network, telegraphs, and shipping lines; it worked in conjunction with emerging Japanese entrepreneurs to develop heavy industry, iron, steel, and shipbuilding, as well as to modernize textile production. Government subsidies were employed to benefit exporters, to especially of silk and textiles, soared. Behind all this lay the impressive political commitment to realize the national slogan Fukoku kyohei (rich country, with strong army). For the Japanese economic power and military/naval power went hand in hand.

 But all this took time and the handicaps remained severe. Although the urban population more than doubled between 1890 and 1913, numbers engaged on the land remained about the same. Even on the eve of the First World War, over three-fifth of the Japanese population was engaged in agriculture, forestry, and fishing; and despite all the many improvements in farming techniques, the mountainous countryside and the small size of most holdings prevented an agricultural revolution on say, the British model. With such a bottom heavy agricultural base, all comparisons of Japan’s industrial potential or of per capita levels of industrialization were bound to show it at or close to the lower end of the Great Power lists (see Tables 14 and 17 above). While its pre-1914 industrial spurt can clearly be detected in the large rise of its energy consumption from modern fuels and in the increase in its share of world manufacturing production, it was still deficient in many other areas. Its iron and steel output was small, and it relied heavily upon imports. In the same way, although its shipbuilding industry was greatly expanded, it still some ordered some warship elsewhere. It also was very short of capital, needing to borrow increasing amounts from abroad but never having enough to invest in industry, in infrastructure, and in the armed services. Economically, it had performed miracles to become the only nonwestern state to go through an industrial revolution in the age of high imperialism; yet still remained, compared to Britain, the United States, and Germany, a industrial and financial lightweight.

 Two further factors, however, aided Japan’s rise to Great Power status and help to explain why it surpassed, for example, Italy. The first was geographical isolation. The nearby continental shore was held by nothing more threatening than the decaying Chinese Empire. And while China, Manchuria, and (even more alarming) Korea might fall into the hands of another Great Power, geography had placed Japan far closer to those lands than any one of the other imperialists states-as Russia was to find to its discomfort when it tried to supply an army along six thousand miles of railway in 1904-1905, and as the British and American navies were to discover several decades later as they wrestled with logistical problems involved in the relief of the Philippines, Hong Kong, and Malaya. Assuming a steady Japanese growth in East Asia, it would only be by the most extreme endeavors that any other major state could prevent Japan from becoming the predominant power there in the course of time.

 The second factor was moral. It seems indisputable that the strong Japanese sense of cultural uniqueness, the traditions of emperor worship and veneration of the state, the samurai ethos of military honor and valor, the emphasis upon discipline and fortitude, produced a political culture at once fiercely patriotic an unlikely to be deterred by sacrifices and reinforced the Japanese impulses to expand into Greater Asia, for strategical security as well as market and raw materials. This was reflected in the successful military and naval campaigning against China in 1894, when those two countries quarreled over their claims in Korea. On land and sea, the better-equipped Japanese forces seemed driven by a will to succeed. At the end of that war, the threats of the triple intervention by Russia, France, and Germany compelled an embittered Japanese government to withdraw its claims to Port Arthur and Liaotung Peninsula, but that merely increased Tokyo’s determination to try again later. Few, if any, in the government dissented from Baron Hayashi’s grim conclusion.


If new warships are considered necessary we must, at any cost, build them: if the organization of our army is inadequate we must start rectifying it from now; if need be, our entire military system must be changed…

 At present Japan must keep calm and sit tight, so as to lull suspicious nurtured against her; during this time the foundations of national power must be consolidated; and we must watch and wait for the opportunity in the Orient that will surely come one day. When this day arrives, Japan will decide her own fate…


  Its time for revenge came ten years later, when its Korean and Manchurian ambitions clashed with those of czarist Russia. While naval experts were impressed by Admiral Togo’s fleet when it destroyed the Russian ships at the decisive battle of Tsushima, it was the general bearing of Japanese society which struck other observers. The surprise strike at Port Arthur (a habit begun in the 1894 China conflict, and revived in 1941) was applauded in the West, as was enthusiasm of Japanese nationalist opinion for an outright victory, whatever the cost. More remarkable still seemed the performance of Japan’s officers and men in the land battles around Port Arthur and Mukden, where ten of thousands of soldiers were lost as they charged across minefields, over barbed wire, and through a hail of machine-gun fire before conquering the Russian trenches. The samurai spirit, it seemed, could secure battlefield victories with the bayonet even in the age of mass industrialized warfare. If, as all the contemporary military experts concluded, morale and discipline were still vital prerequisites of national power, Japan was rich in those resources.

 Even then, however, Japan was not a full-fledged Great Power. Japan had been fortunate to have fought an even more backward China and czarist Russia which was military top-heavy and disadvantaged by the immense distance between St. Petersburg and the Far East. Further more, the Anglo-Japanese Alliance of 1902 had allowed it to fight on its home ground without interference from third powers. Its navy had relied upon British-built battleships, its army upon Krupp guns. Most important of all, it had found the immense costs of the war impossible to finance from its own resources and yet had been able to rely upon loans floated in the United states and Britain. As it turned out, Japan was close to bankruptcy by the end of 1905, when the peace negotiations with Russia got under way. That may not have been able to rely upon loans floated in the United States and Britain. As it turned out, Japan was close to bankruptcy by the end of 1905, when the peace negotiations with Russia got under way. The may not have been obvious to the Tokyo public, Japan’s armed forces glorified and admired, its economy able to recover, and its status as a Great Power(albeit a regional one) admitted in the Far East without considering its response; but whether it could expand further without provoking reaction from the more established Great Powers was not all clear.

The Rise and Fall of the Great Powers 

ISBN-10: 0679720197
ISBN-13: 978-0679720195

2012年撮影