『コンラッド短編集』「武人の魂」
PP.346-349より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861
トマソフの心も頭も、そのときの記憶で一杯だった。彼はその思い出に、一種の畏敬の念さえ感じていた。そして根が純朴な男だったから、自分の思いを言葉にするのを躊躇わなかった。彼は自分自身を特別の恩恵を与えられた者と見なしていたらしい。どう言ったら貴公たちに説明できるだろう?それはなにも、一人の女が目をかけてくれたというような話ではなく、一人の女への畏敬の念が、あたかも天啓のように輝いて彼の心の内に宿った、とでも言うべきだろうか?
そう、そのとおり、彼はきわめて純な男だった。素敵な若者だった。だが、けっして馬鹿ではなかった。そのうえ、まだまったく世慣れておらず、疑うことも、ものを深く考えることも知らなかった。田舎へ行けば、そんな男によく出会うものだ。また、詩情も解する男だった。それは天性備わったもので、あとから獲得した資質ではなかったはずだ。人類の祖アダムもかくや、と思わせるようなところがトマソフにはあったのだ。だがそれ以外の点では、フランス人の言い草を借りれば、この男は野蛮なロシア人(アン・リュス・ソヴァージュ)そのものだった。しかしフランス人がよく言うような、蝋燭の獣脂を美味いもののように食ってしまう類の野蛮人ではない。そんなことは断じてなかった。さて、その女はというと、もちろんフランス女だった。しかし、十万のロシア人とともにパリに入ったわしも、この女には一度も会うことなく終わってしまった。たぶんその当時、彼女はパリにいなかったのだろう。いずれにせよ、彼女の屋敷のドアが、わしのような武骨者に対して開けられる見込みはなかったろうがな。金ぴかのサロンなどというものは、わしにはおよそ縁がなかったわけだ。だから、彼女がどんな感じの女だったか、それを貴公たちに話すことはできないのだ。だが、トマソフとわしが、あれほど肝胆相照らす仲だったことを思えば、これは妙だと言わざるをえまいな。
まもなく、トマソフは他人の前で話をしなくなった。野営の焚火を囲みながら交わすいつもの雑談が、彼の繊細な感情には鬱陶しくなったのだろう。そのうちにわしだけが、彼の話の聞き手にされてしまった。それはやむをえぬことでもあった。トマソフのような若い男に、永久に黙っていることなど、できぬ相談だったろう。そしてわしは、貴公らには信じがたいだろうが、これでも生まれつき無口な男なのだ。
わしが無口なことが、おそらく、トマソフには好ましく思えたのだろう。我々の連隊は九月のまるひと月を、あちこちの村で野営して過ごしていたが、その頃はいたって平穏無事だった。わしが、彼のする話のあらかたを聞いたのは、そのときだった。いや、あれは話と呼べるようなものではないかもしれぬ。わしが話と呼ぶのは、ああいったものではない。あれは、溢れ出ずる心情、とでも言うべきものだろうからな。
トマソフが息を弾ませて話している間、わしはじっと黙ったまま、まるまる一時間でも座って耳を傾けていたものだ。そして、彼が話し終えてしまっても、そのまま黙っていた。すると、一種の沈黙の効果みたいなものが生れるわけだ。それがある意味で、トマソフには嬉しかったのだろう。
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861
トマソフの心も頭も、そのときの記憶で一杯だった。彼はその思い出に、一種の畏敬の念さえ感じていた。そして根が純朴な男だったから、自分の思いを言葉にするのを躊躇わなかった。彼は自分自身を特別の恩恵を与えられた者と見なしていたらしい。どう言ったら貴公たちに説明できるだろう?それはなにも、一人の女が目をかけてくれたというような話ではなく、一人の女への畏敬の念が、あたかも天啓のように輝いて彼の心の内に宿った、とでも言うべきだろうか?
そう、そのとおり、彼はきわめて純な男だった。素敵な若者だった。だが、けっして馬鹿ではなかった。そのうえ、まだまったく世慣れておらず、疑うことも、ものを深く考えることも知らなかった。田舎へ行けば、そんな男によく出会うものだ。また、詩情も解する男だった。それは天性備わったもので、あとから獲得した資質ではなかったはずだ。人類の祖アダムもかくや、と思わせるようなところがトマソフにはあったのだ。だがそれ以外の点では、フランス人の言い草を借りれば、この男は野蛮なロシア人(アン・リュス・ソヴァージュ)そのものだった。しかしフランス人がよく言うような、蝋燭の獣脂を美味いもののように食ってしまう類の野蛮人ではない。そんなことは断じてなかった。さて、その女はというと、もちろんフランス女だった。しかし、十万のロシア人とともにパリに入ったわしも、この女には一度も会うことなく終わってしまった。たぶんその当時、彼女はパリにいなかったのだろう。いずれにせよ、彼女の屋敷のドアが、わしのような武骨者に対して開けられる見込みはなかったろうがな。金ぴかのサロンなどというものは、わしにはおよそ縁がなかったわけだ。だから、彼女がどんな感じの女だったか、それを貴公たちに話すことはできないのだ。だが、トマソフとわしが、あれほど肝胆相照らす仲だったことを思えば、これは妙だと言わざるをえまいな。
まもなく、トマソフは他人の前で話をしなくなった。野営の焚火を囲みながら交わすいつもの雑談が、彼の繊細な感情には鬱陶しくなったのだろう。そのうちにわしだけが、彼の話の聞き手にされてしまった。それはやむをえぬことでもあった。トマソフのような若い男に、永久に黙っていることなど、できぬ相談だったろう。そしてわしは、貴公らには信じがたいだろうが、これでも生まれつき無口な男なのだ。
わしが無口なことが、おそらく、トマソフには好ましく思えたのだろう。我々の連隊は九月のまるひと月を、あちこちの村で野営して過ごしていたが、その頃はいたって平穏無事だった。わしが、彼のする話のあらかたを聞いたのは、そのときだった。いや、あれは話と呼べるようなものではないかもしれぬ。わしが話と呼ぶのは、ああいったものではない。あれは、溢れ出ずる心情、とでも言うべきものだろうからな。
トマソフが息を弾ませて話している間、わしはじっと黙ったまま、まるまる一時間でも座って耳を傾けていたものだ。そして、彼が話し終えてしまっても、そのまま黙っていた。すると、一種の沈黙の効果みたいなものが生れるわけだ。それがある意味で、トマソフには嬉しかったのだろう。