ISBN-10: 4003243366
ISBN-13: 978-4003243367
『じつに興味をそそられます。-体とはなんでしょう?」とふいに熱狂してさけんだ。「肉とはなんでしょう! 人体とはなんでしょう! なにからできているのでしょう! 午後のこの機会に僕たちに話してください、顧問官さん!はっきりとくわしく話してくださって、わからせてください!」
「水からです」とベーレンスは答えた。「あなたは有機化学にも興味をお持ちなんですね?人文的人体を形成している成分のほとんどすべては水ですよ、それ以上のものでも、それ以下のものでもなく、それを憤慨するいわれはありません。固体成分の全体の二十五パーセントだけであって、この二十パーセントはふつうの卵白、もう少し高尚におっしゃるのでしたら、蛋白質です。ほんとうはそれに脂肪と塩分がすこし加わりますが、それでほとんど全部です」
「しかし、その卵白ですが、それはなんでしょうか?」
「さまざまな原素です。つまり、炭素、水素、窒素、酸素、硫黄です。ときたまそれに燐。あなたはあたるべからざる知識欲をお見せですね。蛋白のあるものは含水炭素と結びついています、つまりブドウ糖と澱粉とです。老人になると肉が硬化しますが、これは結締組織のなかの膠原質、つまり、骨と軟骨のもっとも重要な成分である膠質が多くなるからです。まだほかになにをお話ししたらいいでしょうか?筋漿のなかにはミオジノーゲンという一種の蛋白があって、死ぬとこれが凝結して筋肉繊維素を形成し、死後の硬直が起こるのです」
「そうですか、死後の硬直ですか」とハンス・カストルプはうきうきといった。「なるほど、なるほど。つぎに総分解、墓穴の分解になるのですね」
「いうまでもなしです。しかし、いみじくもいいあらわされましたね。それからがたいへんです。いわば溶けて流れてしまうのです。おびただしい水を想像してみてください!そして、そのほかの成分も、生命が消えたいまは結びあっていられなくなり、腐敗によって単純な化合物、無機化合物に分解してしまうのです」
「腐敗と分解」とハンス・カストルプはいった、「これは燃焼なんでしょう、僕の知っているところでは酸素との結合でしょう」
「驚くばかり真です。酸化作用」
「そして、生命とは?」
「それもです。それもです、君、それも酸化作用。生命も主として細胞のなかの蛋白の酸化作用にすぎないのです。それによってうるわしの有機体熱が生まれ、それがときどき多すぎるというわけです。しかり、生とは死です、これはごまかしようがありません、-あるフランス人が生まれついた気がるさで呼んだように、有機壊滅(une destruction organique)です。
たしかに生命にはそんなところがありますよ。そう思えないのは、うぬぼれです」
「すると生命に興味を感じる者は」とハンス・カストルプはいった、「とくに死にも興味を感じるわけですね。そうではありませんか?」
「いや、ある種のちがいはありますよ。生命とは、物質が交替するなかで形が維持されることです」
「形などをなんのために維持するんですか?」とハンス・カストルプはいった。
「なんのために?これはどうも、そのお言葉は人文的とは決して申せませんぞ」
「形などせせこましいですよ」