2025年8月27日水曜日

20250826 紀州・和歌山人の性質について

 紀州・和歌山は温暖な気候や豊かな自然に包まれながらも、そこに住む人々の多くは、ある種の熱情、反骨精神、そして大胆な行動力を内に秘めている。彼らは、その海洋民らしい進取の気性と冒険心(射幸心も含む)と行動力によって、しばしば既存の枠組みを逸脱し、反抗することで新たな世界を切り拓いて来た。そして、その果敢とも云える地域の人々の精神的傾向は、政治家や外交官としても、商人としても、研究者としても、あるいは軍人としても、さまざまなカタチで卓越性を示してきたと云える。

 以下、私見となるが、こうした紀州・和歌山の人々の精神的傾向の原型は古代にまで遡る。五世紀代、ヤマト王権の朝鮮半島における軍事行動で派遣軍の司令官であった紀州の豪族・紀大磐(生磐とも)は、その職分を逸脱し、自ら三韓の王になろうとしたと伝えられる。こうした行動は、現代から見れば「反乱」となるが、さきの地域性の視座から見れば、単に野心や野望に基づくものだけではなく、紀州人が持つ逸脱や反抗の気質を歴史に刻印したものだと云うことが出来る。

 この紀州人の精神的な傾向は、千年以上を隔てて維新回天期や明治初期にも姿を現した。紀州藩を出自とする岡本柳之助は、新政府に抵抗する幕臣等によって構成された彰義隊に参加し、維新後は謹慎の後、明治政府陸軍に出仕して西南戦争では九州各地を転戦、活躍し、その軍事的才能を示した。しかしその後、竹橋事件での反政府的行動を指弾され官職追放となり、やがて福澤諭吉を介して当時の朝鮮独立運動指導者等と懇意になり、朝鮮の内政改革のために軍事顧問となった。さらに、辛亥革命に際しては清国に渡って活動し、上海にて客死した。その一様とは云えない生涯からは、安穏を拒み、既成の秩序から逸脱して反抗するという、古来からの紀州人の精神的傾向が看取出来る。

 同じく、紀州藩を出自とする陸奥宗光(伊達陽之助)もまた、この紀州人的性質を体現した人物と云える。陸奥は、若い頃に脱藩し、維新回天期には坂本龍馬と共に活動し、維新後は政治家・外交官として手腕を発揮し、我が国の近代化に貢献した。外務大臣としては、各国との不平等条約改正に尽力し、より対等な関係を築くために努力した。そしてまた、近代日本最初の本格的な対外戦争である日清戦争に際しては、危ない局面もありながら、当時、東洋に植民地を持っていた西洋列強諸国を大きく刺激することなく、我が国を戦勝へ導くことに貢献した。

 とはいえ、陸奥宗光の生涯には挫折も葛藤も少なからずあったと云える。そして、その紆余曲折の人生経路の背後からは、紀州人らしい強い自我と進取の気性、既存の秩序に挑む姿勢が看取出来る。それが結果として、我が国の近代外交史に確かな足跡を残したのだと云える。

 このように紀州人的性質としての「越境・逸脱・反抗」の精神は、それは単なる反発ではなく、社会の停滞を打破し、新たな創造や建設へとつながる原動力であったとも云える。古代から近現代にかけての岡本柳之助や陸奥宗光、それに続く多くの紀州・和歌山を出自とする優れた人々は、この精神を内面的な構え(ハビトゥス)として半ば無意識的に受け継いできたのではないかと思われる。

 そしてそれは、偶発的な活動として収斂されるものではなく、紀州・和歌山の自然風土と文化に根ざした地域の人々の性質であると云える。越境と逸脱から生じる新たな諸様相は、時代ごとに異なる意匠を装いつつも、その奥には、現在に至っては著しく衰弱しているが、なおも変わらぬ、さきの内面的な構え(ハビトゥス)が残されているのではないかと考える。その視座から「失われた30年」の我が国の衰退ぶりを検討してみるのも興味深いのではないかと思われる。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

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