昨日のブログにて記しましたが、先日来一つの小説、著作を集中して読んでおり、また他の時間では必要に迫られ、以前専攻した分野に比較的近い領域の書籍等を読んでおります。
私の場合、このような状態になりますと、他の書籍を斜め読みすることが出来なくなる傾向があります。
おそらくこれは私の頭脳のキャパシティーの問題ではないかと思います(笑)。
とはいえ、同時にこうした状態にて書籍等を読むことは、頭が疲れ、肩が凝る反面、一種充実した感覚を与えてくれます。
こうした状態にて書籍を読むことの方が身につくのでしょうか?
そうであって欲しいと考えるのが一般的に健全であると思われるのでしょうが、私個人の経験に照らして考えてみると、それはよくわからないのではないかと思います。
自身が一番快適、あるいは苦痛と感じた勉強方法こそが、もっとも知識、学識が身についた、あるいは身につかない勉強方法であると考えることは、実は短絡的な考えであるのかもしれません。実際のこうしたことは混沌としていると思います・・。
それ故、そこに学び続ける必要性、楽しさがあるのではないかと思います。
しかし、こうしたことに限らずとも、おそらく我々とは、半ば無意識であるかもしれませんが、こういった論法をあてはめて短絡的に物事を考えてしまうクセがあるように思います。
話は少し変わるかもしれませんが、昨今書店に行きますと「他人の心を操る」と題した、目的とした書籍が堂々と書棚に並んでいるのを見かけます。
時間があれば、ああいった書籍はどのような人物が購入し、どのように読み、そしてどのように実生活において応用しているのかを密かに観察してみたいと思います。
また、実在のそうした書籍に基づく、上記の一連の行動をコントのようにしてみたら、なかなか面白いのではないかと思いますが、如何でしょうか?
ある人が話している内容が知性のどの程度の深度から発せられたものであるかどうかとは、ある程度の何か(これがよくわかりませんが)に達すると何となく分かってくるのではないかと思います。
また本来、笑いとは、そうしたことと密接な関係があるのではないでしょうか?
そしてまた、それは国同士、国際間においても同じようなことがいえるのではないかと思います。
情報化の進展した現在社会において、施政者、文化的指導者層等の半ば無意識的、近視眼的な愚行が、全世界で閲覧される社会において、その真価を発揮するのは一体どういった価値、考えなのでしょうか?