「アジア史概説」 宮崎市定著 中央公論社 p.206
「インド文化と日本」
「日本では古来インドを普通に天竺、中国を唐(から)とよび、日本・唐・天竺の三国が世界の文化を代表するものと考えた。いわゆる三国一は世界一を意味し、三国伝来はもっとも珍奇貴重という意味であった。インドの文明は日本では仏教文化で代表されていたが、この仏教文化はたんに宗教思想としてでなく、インド文化全体日本に紹介する通路となったものであった。「今昔物語」にはインドの寓話が数多く転載され、盂蘭盆、施餓鬼などのインド行事は、中国社会を通じて日本にも伝わり、暦術、音韻学も日本に輸入された。今日もなお日本で盛んな囲碁や将棋もその起源はインドにあると認められている。」
「今昔物語」福永武彦訳 ちくま文庫 pp.328-329
「今は昔のこと、京に住む木こりたちが連れ立って北山に行った事があった。すると道に迷って、どちらに帰ればよいのかわからなくなり、山の奥深く四五人ばかり集まって、嘆いていた。すると山奥のほうから人が来る様子。誰が来るのかと不思議に思っていると、四五人ほどの尼さんたちが、歌を歌い、手振り足振りで舞を舞いながら、姿を現した。木こりたちはこれを見て怖がり、舞を舞いながら来るとは、この尼さんたちはとても人ではあるまい、天狗かしらん、鬼神かしらん、などと顫えていると、尼さんたちは木こりを見つけてまっすぐにこちらに来た。
とうとう尼さんたちがすぐそばまで寄ってきたので、木こりはびくびくしながら、「もうし、あなた方はどうしてそんなに踊りながら、山奥からおいでになったんです?」とたずねると、尼さんたちが答えるには、「わたくしたちがこんなに踊っているので、お主たちもきっと不思議に思っておいででしょうが、わたくしどもは某に住む尼です。花を摘んで仏さまにお供えしようと、連れ立ってこの山に登りましたが、道に迷って帰れなくなりました。そこにたまたま茸が生えているのを見つけて、ひょっとこれを食べたらあたるかもしれないとも思いましたが、空腹のあまり飢えて死ぬよりは、いっそ食べましょうと思って、焼いて食べました。たいそうおいしかったので食べて良かったと思ううちに、いつのまにか、その気でもないのに手足が動き出して、この様に舞を舞い始めました。不思議なことと思いますが、何とも止めようがありません」と言って踊っているので、木こりたちも話をきいてあきれはてた。
しかしこれらの木こりたちも、やはりしだいに腹がへってきたので、尼さんたちが食い残してなお持っていたその茸を、死ぬよりはましだともらいうけて食べた。そうすると木こりたちも、ちっとも気がないのに同様に手足が動き出した。そこで尼さんも木こりも、お互いに舞い続けながら相手の踊るのを見て笑った。しばらく踊ったのちに、どうやら酔いがさめたような気分になって、どこをどう歩いたともわからぬうちに、おのおの自分の住まいに帰った。こののち、この茸のことを舞茸と呼んだ。思えばたいそう怪しいことである。近頃でもこの舞茸というものはあるが、それを食べても必ず舞うとは限らない。どういうわけか不思議千万だ、という話である。」(巻廿八第廿八話)
「ギリシャ神話・新版」ロバート・グレイヴス著 高杉一郎訳 紀伊国屋書店 pp.8-9
「あるエトルリアの鏡のイクシオーンの足の下に、一つの生のきのこ(アマニタ・ムスカリア)が刻まれている。イクシオーンは神々のところで神々の食べ物(アムブロシアー)を食べたテッサリアの英雄だった。彼の子孫であるケンタロウスたちもまた、この生のきのこ(アマニタ・ムスカリア)を食べたのだとする私の説は、いくつかの神話であきらかにすることができるし、のちになってノルウェーの「狂戦士たち」(バーサークス)が戦闘にのぞんで危険をかえりみぬ力を発揮できるように生のきのこ(アマニタ・ムスカリア)を食べたことは、何人かの歴史家たちが証言している。現在の私は、神々の食べ物(アムブロシアー)と飲み物(ネクタル)というのは、麻酔力のあるきのこだったと信じている。まちがいなく生のきのこだったし、ひょっとすると、なかに小さくてほっそりした糞きのこ(パナエオロス・パピリオナケオス)も混じっていたかもしれない。糞きのこ(パナエオロス・パピリオナケオス)は無害だが、ひどく楽しい幻覚をひきおこすのである。糞きのこ(パナエオロス・パピリオナケオス)に似ていなくもないきのこが、アッティカの壺の上のケンタロウスのネッソスのひづめの間に描かれている。神話の中で、神々の食べ物(アムブロシアー)と飲み物(ネクタル)が捧げられた「神々」というのは、前古典時代の聖女王と聖王だったのだろう。タンタロス王が犯した罪というのは、彼が禁制(タブー)を破って神々の食べ物を人間の友人たちにわけあたえたことだった。
ギリシャでは、神聖な女王権も聖王権もやがて衰えていった。すると、神々の食べ物(アムブロシアー)は、ディオニューソスとかかわりのあるエレウシース、オルペウス、その他の秘教の聖餐になったらしい。どの場合も、その参加者たちは、何を食べ、何を飲んだか、どんな忘れがたい幻影を見たかについてはかたく沈黙を守ることを誓った上で、不死の生命を約束されたのだった。オリムピックの徒競走に勝利しても、もはや聖王権があたえられるわけではなくなったのちの優勝者に与えられる「神々の食べ物」(アムブロシアー)はあきらかに代用品で、いろいろな食べ物―私が「ケンタウロスたちはなにを食べていたか」という本のなかに書いたように、その頭文字がギリシャ語で「きのこ」になるようないくつかの食べ物を混ぜ合わせたものだった。神々の飲み物(ネクタル)や、デーメーテールがエレウシースで飲んだはっか(ミント)の香りのする飲み物のつくり方を記している古典作家たちの文章を読み取るとどちらからも「生のきのこ」という文字が出てくる。
私は、メキシコのオアハカ州のインディアンたちが遠い昔から神々の食べ物(アムブロシアー)だとしている幻覚を引き起こすきのこを自分でも食べたことがある。そのとき、女祭司がきのこの神トラロックを呼び出す声も耳にしたし、理解を超える幻覚も見た。だから私は、この古代の祭式を発見したアメリカ人R・ゴードン・ワッソンが、ヨーロッパ人の天国と地獄に関する観念は、これに似た秘教から生まれたのではないかという説に心の底から賛成である。トラロックの神は電光のなかからあらわれるが、ディオニューソスもやはりそうだった。ギリシャの民間伝承でも、メキシコのマサテクでも、きのこはすべて一般に、どちらの国のことばでも「神々の食べ物」になっている。」