2015年8月11日火曜日

ヴィクトル・ザスラフスキー著「カチンの森」みすず書房刊pp.65-69より抜粋

ポーランド将校の「最終的解決」にかんするソ連政治局の極秘文書は、強調するが、最近になってやっと公開された。それがどんなふうに再発見されたのか、くわしくは後述する。カチン虐殺事件が、虐殺の実行された1940年春からソ連崩壊が起きた1991年12月までのあいだにどのようにみられていたのかを思い起こすことは、現代史にとってとりわけ教訓に富んでいる。

1940年の欧州では、スターリンのソ連はポーランドを分割しおえるとフィンランドを攻撃し、バルト三国を併合、そのあいだにナチ・ドイツはフランスを降伏させ、イギリス侵攻を準備していたのだから、ソ連収容所のポーランド人戦争捕虜の運命はほとんど忘れられていた。捕虜となったポーランド将校の家族のうち、西部ポーランドに住んでいたため強制移住を免れた者だけが、ソ連収容所にいる肉親からの手紙が1940年3月と4月に突如途絶え、自分たちの手紙が宛名不明でもどってきたのに気付いた。
1941年6月22日、ドイツはソ連を攻撃、その年の7月と8月にはポーランド将校が収容されていた収容所のあった地域を占領した。ドイツの攻撃直後、スターリン政府はロンドンに樹立されたポーランド亡命政府と外交関係を結び、アンデルス将軍指揮の下でソ連領内でポーランド軍を編成する軍事協定に署名した。1941年8月12日、ソ連は全ポーランド戦争捕虜に「特赦」を与え、その多くはアンデルス軍に入隊した。だがコゼルスク、スタロベルスク、オスタシュコフの収容所からの釈放者は448名だけで、その他は跡形もなく消えていた。
スターリンは1941年12月3日、アンデルス将軍と亡命ポーランド政府主席シコルスキ将軍を接見したさいに、2人から他の将校の運命を訊かれた。スターリンは自ら銃殺の命令をくだしながら臆面もなく、きわめて冷ややかな態度ではぐらかすように、おそらく将校たちは「満州に逃げたか、ソ連のどこかに潜んでいる」と答えた。スターリンは2人のポーランド将軍の面前でベリヤに電話をかけ、ポーランド捕虜をみつけ出して釈放するよう命じさえしたのだ。
亡命ポーランド政府の度重なる問い合わせは無駄だった。1942年3月にソ連検閲官は、モスクワのポーランド大使館発行の新聞にポーランド人家族が尋ね人照会を掲載することを禁止した。亡命ポーランド政府とポーランド世論は、将校たちがソ連に殺害されたのではないかとの疑惑を深めていく。
1943年4月13日、ドイツメディアは世界に向けて、カチンにほど近い森のなかでドイツ側の言い分ではNKVDに射殺された数千のポーランド将校の死体を発見したと報じた。ドイツの軍事情勢は1943年の春にはドイツ軍に不利になっていたのだから、ナチ・ドイツはこれを絶好の宣伝機会として最大限に利用しようとした。ベルリン政府は国際医学調査委員会を設置し、国際赤十字社に、カチンに専門家を派遣するよう求めた。加えてドイツは宣伝効果をあげるために、英米の戦争捕虜将校を何人か連れていき、死体で埋まった墓穴をみせた。ゲシュタポ長官ヒムラーからリッベントロプ宛の手紙が残っていて、それは亡命ポーランド政府主席シコルスキをカチンに招き、自分の目で確かめさせてはどうかと提案している。リッベントロプはそれを絶好の宣伝機会と認めながらも、シコルスキ将軍の訪問は亡命ポーランド政府と一切接触しないとするドイツの公式路線に違反すると返答している。
カチンの森の集団墓穴のドイツ軍による発見は、連合国政府とロンドンの亡命ポーランド政府をジレンマに陥れた。

チャーチルは、4月のはじめにシコルスキから「ソ連政府が手を下して15000人のポーランド将校、その他を殺害しておもにカチン周辺の森の巨大な墓穴に埋めた証拠」について知らされたと回想している。チャーチルは「かれらが死んでいるとすれば、貴方達には生き返らせることはできない。」と答え、その数日後にソ連駐英大使マイスキーにたいして、「われわれはヒトラーを叩き潰さねばならない。非難合戦のときではない」と自分の立場を再認識している。
しかしポーランド政府には、この態度は受け容れがたかった。アンデルス将軍と、指揮下将兵のうちソ連収容所・監獄の生き残りは、ポーランド将校の死にソ連が責任ありと確信した。1943年4月18日、アンデルス将軍はソ連収容所で命を落としたポーランド戦争捕虜の鎮魂ミサを執り行うことを命じた。ポーランド軍と一般庶民の反撥、それに身内をなくした閣僚からの圧力を先取りして、シコルスキ将軍は国際赤十字社に専門家のカチン派遣を要請した。
以前からロンドンの亡命ポーランド政府との関係断絶の名目探しをしていたスターリンは、これを好機としてとらえた。そして4月21日、スターリンはチャーチルとルーズベルトに同文の電報を送った。「ドイツとポーランドの新聞で同時に反ソ宣伝が開始され、おなじ主張を行っている事実は、ヒトラーとシコルスキ政府のあいだで秘密の接触と取り決めがあることを示す否定しようのない証拠と考えられる「・・・」。
したがってソ連政府はこの政府との関係を断絶する決定をした」。その日「プラウダ」は「ヒトラーと協力するポーランド人」の見出しで記事を掲載した。西側指導者はこの決定を変えさせようとわずかな努力をしたが、効き目はなかった。4月26日、モスクワ駐在ポーランド大使はソ連政府が亡命ポーランド政府との外交関係を断絶するとの覚書を受け取る。この覚書にはスターリンの署名があった。7月はじめ、スターリンと交渉できるただ一人のポーランド人と考えられていたシコルスキ将軍は、謎の飛行機事故で死んだ。事故の責任は明らかにされなかったし、ソ連に奉仕する有名なイギリス人スパイ、キム・フィルビーが、ソ連秘密機関のつよい要請にこたえてシコルスキの動静を逐次知らせていた事実は疑いを呼ぶ。


アンジェイ・ワイダ監督映画「カチンの森」
カチンの森
ISBN-10: 4622075393
ISBN-13: 978-4622075394

ヴィクトール・E・フランクル著 「夜と霧」 みすず書房刊 pp.125-129より抜粋


スピノザは「エチカ」のなかでこう言っていなかっただろうか。

「苦悩という情動は、それについて表象したとたん、苦悩であることをやめる」

(「エチカ」第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三)

しかし未来を、自分の未来をもはや信じることができなかった者は、収容所内で破綻した。そういう人は未来とともに精神的なよりどころを失い、精神的に自分を見捨て、身体的にも精神的にも破綻していったのだ。

通常、こうしたことはなんの前触れもなく「発症」した。


そのあらわれ方を、わりと古株の被収容者はよく知っていた。わたしたちはみな、発症の最初の徴候を恐れた。それも、自分自身よりも、仲間にあらわれるのを恐れた。なぜなら、もしも自分にそれがあらわれたら、もう恐れる理由もなくなるからだ。


ふつう、それはこのように始まった。ある日、居住棟で、被収容者が横たわったまま動こうとしなくなる。着替える事も、洗面に行く事も、点呼場に出る事もしない。

どう動きかけても効果はない。彼はもう何も恐れない。


頼んでも、脅しても、叩いても、全ては徒労だ。


ただもう横たわったきり、ぴくりとも動かない。


この「発症」を引き起こしたのが何らかの病気である場合は、彼は診察棟につれて行かれることや処置されることを拒否する。彼は自分を放棄したのだ。自らの糞尿にまみれて横たわったまま、もう何もその心を煩わすことはない。



一方の死に至る自己放棄と破綻、そしてもう一方の未来の喪失が、どれほど本質的につながっているかを劇的に示す事件が、わたしの目の前で起こった。わたしがいた棟の班長は外国人で、かつては著名な作曲家兼台本作家だったが、ある日わたしにこんなことを打ち明けた。「先生、話があるんです。最近おかしな夢をみましてね。声がして、こう言うんですよ。なんでも願いがあれば願いなさい、知りたいことがあるなら、なんでも答えるって。わたしがなんとたずねたと思います?わたしにとって戦いはいつ終わるか知りたい、と言ったんです。先生「わたしにとって」というのはどういう意味かわかりますか。つまり、わたしが知りたかったのは、いつ収容所を解放されるか、つまりこの苦しみはいつ終わるかってことなんです。」

 わたしはいつその夢を見たんですか、とたずねた。

19452月」と、彼は答えた(そのときは3月の初めだった。)

それで、夢の中の声はなんて言ったんですか、と私はたたみかけた。相手は意味ありげにささやいた。

330日・・」

このFという名の仲間は、私に夢の話をしたとき、まだ充分に希望を持ち、夢が正夢だと信じていた。ところが、夢のお告げの日が近づくのに、収容所に入ってくる軍事情報によると、戦況が3月中に私たちを解放する見込みはどんどん薄れていった。すると、329日、Fは突然高熱を発して倒れた。そして330日、戦いと苦しみが「彼にとって」終わるであろうとお告げがいった日に、Fは重篤な譫妄状態におちいり、意識を失った・・331日、Fは死んだ。死因は発疹チフスだった。


勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるのかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがそれほど致命的かということも熟知している。

仲間Fは、待ちに待った解放の時が訪れなかったことにひどく落胆し、すでに潜伏していた発疹チフスに対する抵抗力が急速に低下したあげくに命を落としたのだ。未来を信じる気持ちや未来に向けられた意思は萎え、そのため、身体は病に屈した。そして結局、夢のお告げどおりになったのだ。


この一例の観察とそこから引き出される結論は、私たちの強制収容所の医長が折りに触れて言っていたことと符号する。

医長によると、この収容所は1944年のクリスマスと1945の新年の間の週に、かつてないほど大量の死者を出したのだ。これは、医長の見解によると、過酷さを増した労働条件からも、悪化した食糧事情からも、季候の変化からも、あるいは新たにひろまった伝染性の疾患からも説明がつかない、むしろこの大量死の原因は、多くの被収容者が、クリスマスには家に帰れるという、ありきたりの素朴な希望にすがっていたことに求められる、というのだ。クリスマスの季節が近づいても、収容所の新聞はいっこうに元気の出るような記事は載せないので、被収容者たちは一般的な落胆と失望にうちひしがれたのであり、それが抵抗力におよぼす危険な作用が、この時期の大量死となってあらわれたのだ。



すでに述べたように、強制収容所の人間を精神的に奮い立せるには、まず未来に目的を持たせなければならなかった。被収容者を対象とした心理療法や精神衛生の治療の試みがしたがうべきは、ニーチェの的を射た格言だろう。


「なぜ生きるかを知っている者は、どのように生きることにも耐える。」


したがって被収容者には、彼等が生きる「なぜ」を、生きる目的を、ことあるごとに意識させ、現在のありようの悲惨な「どのように」に、つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え、抵抗できるようにしてやらねばならない。

ひるがえって、生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていても何もならないと考え、自分が存在することの意味をなくすとともにがんばり抜く意識も見失った人は痛ましいかぎりだった。そのような人々はよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。あらゆる励ましを拒み、慰めを拒絶するとき、彼等が口にするのはきまってこんな言葉だ。「生きていることにもうなんにも期待がもてない」こんな言葉に対して、いったいどう応えたらいいのだろう。

Laurence Van Der Post著 「The seed and the sower」Vintage classics刊 pp.25-26より抜粋およびその他

It was as if the individual at the start, at birth even, rejected the claims of his own individuality.
Henceforth he was inspired not by individual human precept and example so much as by his inborn sense of the behavior of the corpuscles in his own blood dying every split second in millions in defense of the corporate whole.
As a result they were socially not unlike a more complex extension of the great insect societies in life.
In fact in the days when he lived in Japan, much as he liked the people and country, his mind always returned involuntarily to this basic comparison: the just parallel was not an animal one, was not even the most tight and fanatical horde, but an insect one: collectively they were a sort of super-society of bees with Emperor as a male queen-bee at the centre.
He did not want to exaggerate these things but the knew of no other way of making me realize how strangely, almost cosmically, propelled like an eccentric and dying comet on an archaic, anti-clockwise and foredoomed course, Hara’s people had been. They were so committed, blindly and mindlessly entangled in their real and imagined past that their view of life was not synchronized to
our urgent time. 


岩波理化学辞典第5版 岩波書店刊 p1160より抜粋

フェロモン

微量で動物の特定行動を誘起する物質の総称。特に昆虫の生殖や行動に関わる昆虫フェロモンが重要である。その機能によって性フェロモン、警報フェロモン、道しるべフェロモン等に分類される。カイコガの雌が雄を誘引する性誘引物質ボンビコールをブーテナントらが発見したのが最初である。フェロモンは空気を媒介して感覚器官を刺激するものが多いが、経口的に効くものもある。女王蜂の頭腺から分泌される女王物質Queen bee substance)のように雌蜂の生殖腺の発達を抑制して働き蜂にするような物質もフェロモンと呼ぶ。生体外に放出して動物の個体または社会行動や機能に影響を与える物質を一般にエクトホルモン(Ectohormone)というが、フェロモンもこの一種である。