ポーランド将校の「最終的解決」にかんするソ連政治局の極秘文書は、強調するが、最近になってやっと公開された。それがどんなふうに再発見されたのか、くわしくは後述する。カチン虐殺事件が、虐殺の実行された1940年春からソ連崩壊が起きた1991年12月までのあいだにどのようにみられていたのかを思い起こすことは、現代史にとってとりわけ教訓に富んでいる。
1940年の欧州では、スターリンのソ連はポーランドを分割しおえるとフィンランドを攻撃し、バルト三国を併合、そのあいだにナチ・ドイツはフランスを降伏させ、イギリス侵攻を準備していたのだから、ソ連収容所のポーランド人戦争捕虜の運命はほとんど忘れられていた。捕虜となったポーランド将校の家族のうち、西部ポーランドに住んでいたため強制移住を免れた者だけが、ソ連収容所にいる肉親からの手紙が1940年3月と4月に突如途絶え、自分たちの手紙が宛名不明でもどってきたのに気付いた。
1940年の欧州では、スターリンのソ連はポーランドを分割しおえるとフィンランドを攻撃し、バルト三国を併合、そのあいだにナチ・ドイツはフランスを降伏させ、イギリス侵攻を準備していたのだから、ソ連収容所のポーランド人戦争捕虜の運命はほとんど忘れられていた。捕虜となったポーランド将校の家族のうち、西部ポーランドに住んでいたため強制移住を免れた者だけが、ソ連収容所にいる肉親からの手紙が1940年3月と4月に突如途絶え、自分たちの手紙が宛名不明でもどってきたのに気付いた。
1941年6月22日、ドイツはソ連を攻撃、その年の7月と8月にはポーランド将校が収容されていた収容所のあった地域を占領した。ドイツの攻撃直後、スターリン政府はロンドンに樹立されたポーランド亡命政府と外交関係を結び、アンデルス将軍指揮の下でソ連領内でポーランド軍を編成する軍事協定に署名した。1941年8月12日、ソ連は全ポーランド戦争捕虜に「特赦」を与え、その多くはアンデルス軍に入隊した。だがコゼルスク、スタロベルスク、オスタシュコフの収容所からの釈放者は448名だけで、その他は跡形もなく消えていた。
スターリンは1941年12月3日、アンデルス将軍と亡命ポーランド政府主席シコルスキ将軍を接見したさいに、2人から他の将校の運命を訊かれた。スターリンは自ら銃殺の命令をくだしながら臆面もなく、きわめて冷ややかな態度ではぐらかすように、おそらく将校たちは「満州に逃げたか、ソ連のどこかに潜んでいる」と答えた。スターリンは2人のポーランド将軍の面前でベリヤに電話をかけ、ポーランド捕虜をみつけ出して釈放するよう命じさえしたのだ。
亡命ポーランド政府の度重なる問い合わせは無駄だった。1942年3月にソ連検閲官は、モスクワのポーランド大使館発行の新聞にポーランド人家族が尋ね人照会を掲載することを禁止した。亡命ポーランド政府とポーランド世論は、将校たちがソ連に殺害されたのではないかとの疑惑を深めていく。
1943年4月13日、ドイツメディアは世界に向けて、カチンにほど近い森のなかでドイツ側の言い分ではNKVDに射殺された数千のポーランド将校の死体を発見したと報じた。ドイツの軍事情勢は1943年の春にはドイツ軍に不利になっていたのだから、ナチ・ドイツはこれを絶好の宣伝機会として最大限に利用しようとした。ベルリン政府は国際医学調査委員会を設置し、国際赤十字社に、カチンに専門家を派遣するよう求めた。加えてドイツは宣伝効果をあげるために、英米の戦争捕虜将校を何人か連れていき、死体で埋まった墓穴をみせた。ゲシュタポ長官ヒムラーからリッベントロプ宛の手紙が残っていて、それは亡命ポーランド政府主席シコルスキをカチンに招き、自分の目で確かめさせてはどうかと提案している。リッベントロプはそれを絶好の宣伝機会と認めながらも、シコルスキ将軍の訪問は亡命ポーランド政府と一切接触しないとするドイツの公式路線に違反すると返答している。
カチンの森の集団墓穴のドイツ軍による発見は、連合国政府とロンドンの亡命ポーランド政府をジレンマに陥れた。
チャーチルは、4月のはじめにシコルスキから「ソ連政府が手を下して15000人のポーランド将校、その他を殺害しておもにカチン周辺の森の巨大な墓穴に埋めた証拠」について知らされたと回想している。チャーチルは「かれらが死んでいるとすれば、貴方達には生き返らせることはできない。」と答え、その数日後にソ連駐英大使マイスキーにたいして、「われわれはヒトラーを叩き潰さねばならない。非難合戦のときではない」と自分の立場を再認識している。
チャーチルは、4月のはじめにシコルスキから「ソ連政府が手を下して15000人のポーランド将校、その他を殺害しておもにカチン周辺の森の巨大な墓穴に埋めた証拠」について知らされたと回想している。チャーチルは「かれらが死んでいるとすれば、貴方達には生き返らせることはできない。」と答え、その数日後にソ連駐英大使マイスキーにたいして、「われわれはヒトラーを叩き潰さねばならない。非難合戦のときではない」と自分の立場を再認識している。
しかしポーランド政府には、この態度は受け容れがたかった。アンデルス将軍と、指揮下将兵のうちソ連収容所・監獄の生き残りは、ポーランド将校の死にソ連が責任ありと確信した。1943年4月18日、アンデルス将軍はソ連収容所で命を落としたポーランド戦争捕虜の鎮魂ミサを執り行うことを命じた。ポーランド軍と一般庶民の反撥、それに身内をなくした閣僚からの圧力を先取りして、シコルスキ将軍は国際赤十字社に専門家のカチン派遣を要請した。
以前からロンドンの亡命ポーランド政府との関係断絶の名目探しをしていたスターリンは、これを好機としてとらえた。そして4月21日、スターリンはチャーチルとルーズベルトに同文の電報を送った。「ドイツとポーランドの新聞で同時に反ソ宣伝が開始され、おなじ主張を行っている事実は、ヒトラーとシコルスキ政府のあいだで秘密の接触と取り決めがあることを示す否定しようのない証拠と考えられる「・・・」。
したがってソ連政府はこの政府との関係を断絶する決定をした」。その日「プラウダ」は「ヒトラーと協力するポーランド人」の見出しで記事を掲載した。西側指導者はこの決定を変えさせようとわずかな努力をしたが、効き目はなかった。4月26日、モスクワ駐在ポーランド大使はソ連政府が亡命ポーランド政府との外交関係を断絶するとの覚書を受け取る。この覚書にはスターリンの署名があった。7月はじめ、スターリンと交渉できるただ一人のポーランド人と考えられていたシコルスキ将軍は、謎の飛行機事故で死んだ。事故の責任は明らかにされなかったし、ソ連に奉仕する有名なイギリス人スパイ、キム・フィルビーが、ソ連秘密機関のつよい要請にこたえてシコルスキの動静を逐次知らせていた事実は疑いを呼ぶ。
アンジェイ・ワイダ監督映画「カチンの森」
ISBN-10: 4622075393
ISBN-13: 978-4622075394
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