昨日投稿したブログ記事は投稿翌日にしては閲覧者数が伸びました・・。
また、正直これまで500記事近くブログ記事を投稿してきましたが、一体どのような記事が、より多くの閲覧者を得ることが出来るのか、未だ現在イマイチよく分かりません・・(苦笑)。
とはいえ、たとえそれが分かったとしても、そうしたことをねらい記事を書く、書き続けるのも、あまり面白くないのかもしれません。
もし、そうしたことを自分なりに理解、意識していたとしたら、ここに至るまで記事作成、投稿は出来なかったのではないかとも思われます・・(笑)。
そして、そのように考えてみますと、案外と上手い具合にここまで書き続けることが出来たのではないかとも思えるのです・・(笑)。
それに加え、これまでのブログの炎上が生じることがなかったのも、幸運であったのかもしれません・・。
いや、あるいはこれは単に、これまで作成したブログ記事が衆目を集めるに至っていない、つまり、あまり面白くないことによるものであるのかもしれませんが・・(苦笑)。
しかし、これ(面白くない)は意外と良いことであったのかもしれません・・(笑)。
とはいえ、何れにせよ、そうした思いにあまり振り回されることなく500記事に到達できることが現在の目標であるといって良いと思います・・。
また、記事作成に関しては、今回もそうであるように、感覚的に半分以上惰性にて作成している感がありますが、実のところ、この「惰性」あるいはもう少し聞こえの良い表現を用いますと「記事作成の日常化(無意識化)」により、これまでどうにか記事作成を継続出来ているものと考えます・・。
そのように考えますと、如何なる種類の訓練であれ、何かしらの行動、行為の日常化(無意識化)こそが、その継続そして上達への大切な要素ではないかと思うに至ります・・。
(意外と命題、反対命題の生成過程に似ているのかもしれない。)
しかし一方「下手の考え休むに似たり」ともいいますが・・(苦笑)。
もとい、では現在継続して作成しているブログ記事以外、これまでに私は如何なる行動、行為を日常化(無意識化)してきたのかと考えてみますと、それは書籍、文献を読むことではないかと思われます・・。
これに関しては特に自信といったものはありませんが、多少の断続はあるものの、おそらく20年以上は継続してきたと思われます・・。
(しかし、それは努力というよりも、欲求といった側面の方が強いと考えますが・・。)
そして、それがこれまでのブログ記事作成の基盤であったのならば、もう少しは継続することが出来るのではないかと思われるのです・・。
(何せ20年以上と1年半ですから・・(笑)。)
とはいえ、これもあくまでも希望論であり、実際のところは直近の未来においてすら、何が生じるか分からないといった状況にて毎回記事作成を行っているのが現状であるといえます・・(苦笑)。
(しかし、そのような中でこそ、ある行動、行為の日常化(無意識化)といったものが進行し、第二の天性のように精神に定着していくのかもしれない・・?)
そして、そうした(不安定ともいえる)状態にて、ほぼ毎日記事を作成し、ブログの更新を行ってきたことに、どのような効果があるか、あるいはどの程度の変化が望めるかとは、まったく見当がつきませんが、何かしらの効果、変化といったものは精神の深層において生じているのではないかとも考えることが出来る、あるいは考えたいと思う部分が(少なからず)あるといえます・・(笑)。
まあ、それでも、それ(のみ)を期待しつつ毎回記事を作成しているわけではありませんが・・(苦笑)。
それに加え、これまでの習慣を支えている何かしらの精神的要素が何時まで継続するかも分かったものではありませんし・・(笑)。
そして、ここまで書いて不図、思い起こしたのはゲーテの「ファウスト」にてファウストが聖書のヨハネによる福音書の冒頭部を訳している以下の記述です・・。
「こう書いている。
「初めにことばありき!」
ここでわしはもうつかえる!
だれかわたしを助けて先へ進ませてくれないか。
わしはことばというものをそう高く値ぶみすることはできない。
わしは霊の光に正しく照らされているなら、別に訳さなくてはならない。
こう書いてある。
「初めに意味ありき!」
ペンが先走りせぬように
第一行をよく考えよ!
一切を作り出すものは意味だろうか。
こう書いてあるべきだ。
「初めに力ありき!」
しかしこう書きつけているうちに、もうこれでは済まされないと警告するものがある。
霊の助けだ!不意に思いついて
安んじてこう書く。
「初めにおこないありき!」」
では、ことばを用いて何かを記すことは「おこない」なのであろうか?
あるいは、あくまでもそれも「ことば」なのであろうか?
と、考えてしまいました・・(苦笑)。
ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧およびその後の復興を祈念しております。
2016年11月18日金曜日
20161117 継続的な着想、(循環論法・トートロジー)、弁証法について・・☆☆☆
総投稿記事数も480に到達し、500記事まで残すところ20記事未満となりました。
そこで少し前を振り返ってみますと、直近の適当な区切りであった450記事到達から現在に至るまでは思いのほか早いものであったと思います。
そして、このままのペース(1日1記事)にて書き続けることにより来月12月初頭の500記事到達が予測されます。
とはいえ、この先如何なることが生じるか分かりませんので、とりあえず500記事到達までは「継続的な着想」が枯渇しないように書き続けようと考えております・・。
さて、その「継続的な着想」ですが、これは昨日投稿のブログ記事にて扱った「循環論法」あるいは「トートロジー」(これも以前ブログ記事にて扱った)と深く関連するものであり、さらにこれらは特に文系学問分野における思考方法に類縁関係を持つのではないかと考えます・・。
その一方において、文系学問分野における思考法として即座に思い浮かぶのは「弁証法」(ヘーゲル以降)ですが、この弁証法において定義される命題、反対命題もまた、その各々(命題・反対命題)の生成過程を考えてみますと、おそらくさきの「循環論法」「トートロジー」に拠るものが多いのではないかと考えられます・・。
そして命題・反対命題であれ、それらの生成過程とは、その次の段階ともいえる弁証法による議論よりも、内面性が強く、明らかにされることが少ない、無意識のうちに生成が為される部分が多いのではないかと思われます・・。
「循環論法」「トートロジー」とは、本質的にそうした性質を帯びていると私は考えます。
そして我々は日常において、そうした思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)の様相を言明、記述の何れであれ、明示しようとはあまり考えません・・。
むしろ、そうしたことを試みるのは「変」であるとされるのが通常ではないでしょうか・・(笑)。
また、この点について、我々日本人とは、相対的にその傾向が強いのではないでしょうか?
それ故、我々には「常識」といった感覚はありながら、議論により構築された汎用性を持つ「哲学」といったものに未だ持つに至っていないのではないかとも考えられます・・。
あるいはそうしたものが苦手であるのかもしれないです・・。
これを別言すると、個別的ともいえる思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)と「弁証法」の議論の間に大きな溝がありながら、論理的な議論に対し何らかの知的な理解を示さなければならない場合においては、感情的な能力ともいえる「共感」の(名人的ともいえる)駆動により、どうにかその場をやり過ごすことが多いといった感じです・・。
これはたしかに一種のユーモアではあるのかもしれませんが、そればかりではやはりダメであると思います・・。
とはいえ、それでも「循環論法」「トートロジー」といった議論、思想のタネともいえるものが大事に扱われないのは、それらが持つ一種の悩んでいるような感じ、暗さとも見られる鬱屈した感じからではないでしょうか・・?
そうしたものよりも、それを表層的なユーモアにていじり倒す方が余程「見ていて」気持ちがいいことは間違いありませんが・・(笑)。
しかし、それだけでいいのでしょうか・・?
あるいは、実のところそれが(我が国における)適当な価値の配分であるのでしょうか・・(苦笑)。
また、国民性とは、こうしたところにも表れるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本における大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
そこで少し前を振り返ってみますと、直近の適当な区切りであった450記事到達から現在に至るまでは思いのほか早いものであったと思います。
そして、このままのペース(1日1記事)にて書き続けることにより来月12月初頭の500記事到達が予測されます。
とはいえ、この先如何なることが生じるか分かりませんので、とりあえず500記事到達までは「継続的な着想」が枯渇しないように書き続けようと考えております・・。
さて、その「継続的な着想」ですが、これは昨日投稿のブログ記事にて扱った「循環論法」あるいは「トートロジー」(これも以前ブログ記事にて扱った)と深く関連するものであり、さらにこれらは特に文系学問分野における思考方法に類縁関係を持つのではないかと考えます・・。
その一方において、文系学問分野における思考法として即座に思い浮かぶのは「弁証法」(ヘーゲル以降)ですが、この弁証法において定義される命題、反対命題もまた、その各々(命題・反対命題)の生成過程を考えてみますと、おそらくさきの「循環論法」「トートロジー」に拠るものが多いのではないかと考えられます・・。
そして命題・反対命題であれ、それらの生成過程とは、その次の段階ともいえる弁証法による議論よりも、内面性が強く、明らかにされることが少ない、無意識のうちに生成が為される部分が多いのではないかと思われます・・。
「循環論法」「トートロジー」とは、本質的にそうした性質を帯びていると私は考えます。
そして我々は日常において、そうした思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)の様相を言明、記述の何れであれ、明示しようとはあまり考えません・・。
むしろ、そうしたことを試みるのは「変」であるとされるのが通常ではないでしょうか・・(笑)。
また、この点について、我々日本人とは、相対的にその傾向が強いのではないでしょうか?
それ故、我々には「常識」といった感覚はありながら、議論により構築された汎用性を持つ「哲学」といったものに未だ持つに至っていないのではないかとも考えられます・・。
あるいはそうしたものが苦手であるのかもしれないです・・。
これを別言すると、個別的ともいえる思考の回転(「循環論法」「トートロジー」)と「弁証法」の議論の間に大きな溝がありながら、論理的な議論に対し何らかの知的な理解を示さなければならない場合においては、感情的な能力ともいえる「共感」の(名人的ともいえる)駆動により、どうにかその場をやり過ごすことが多いといった感じです・・。
これはたしかに一種のユーモアではあるのかもしれませんが、そればかりではやはりダメであると思います・・。
とはいえ、それでも「循環論法」「トートロジー」といった議論、思想のタネともいえるものが大事に扱われないのは、それらが持つ一種の悩んでいるような感じ、暗さとも見られる鬱屈した感じからではないでしょうか・・?
そうしたものよりも、それを表層的なユーモアにていじり倒す方が余程「見ていて」気持ちがいいことは間違いありませんが・・(笑)。
しかし、それだけでいいのでしょうか・・?
あるいは、実のところそれが(我が国における)適当な価値の配分であるのでしょうか・・(苦笑)。
また、国民性とは、こうしたところにも表れるのかもしれません・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
さる熊本における大地震、山陰東部における大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。
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