我が国における横穴式石室とは、さきにも述べたように四世紀末頃に九州北部にて受容され、六世紀頃に至ると、東日本、東北地方南部をも含めた国内各地にて、群集墳といった様式による比較的小規模な古墳を主として急速に伝播・普及していったと評し得る。
竪穴式と横穴式は文字面からの印象では幾分類似しているが実際は双方かなり異なったものであり、竪穴式石室は基本的に遺体を収めた棺を保存、密閉するための構造であり、石室内部に余分な空間はなく、石室内部の棺周辺は土砂、粘土、石などにより充填され、その石室は二度と開かれないことを前提として造営される。
一方、横穴式石室は、構造的には玄室および羨道より構成され、玄室は棺を静置する場所であり、羨道は玄室と古墳外部をつなぐ通路であり、棺が収められたのち、羨道の入り口、あるいは古墳の入口は大小の岩石などを以って閉塞、封鎖される。
そして、その後必要があれば再度、閉塞、封鎖石を取り除き、羨道を通り玄室内部に入ることが出来る。
つまり、横穴式石室は、さきに述べたように棺を収めた後も繰り返し玄室内部に入ることを前提として造営されていると云える。
この源流と云えるものは、これまたさきにも述べたように、朝鮮半島、大陸にあり、我が国のそれと特に深い関連があると考えられているものは朝鮮半島北部(高句麗)のそれである。
ともあれ、この横穴式石室が普及した頃(六世紀初頭)から、冒頭の群集墳という名称から示されるように古墳そのものの数もまた急激に増加した。
その理由として考えられることは概ね以下のとおりである。
①:古墳造営を行うことが出来る人々が増加した。
②:人口そのものが急激に増加した。
③:多くの渡来人がこの時期に集中して日本に渡り、定住した。
といった理由が挙げられるが①~③それぞれある程度妥当であると思われる。
さて、さきに述べたように横穴式石室とは、埋葬の後も繰り返し、石室(玄室)内に入ることが可能な構造であるのだが、後世になり、その内部に入ってみると、複数の遺骸がおさめられていることが多く、おそらくそれは同じ血族にて数世代のものが埋葬されたことを示しているものと考えられている。
こうした埋葬の様式を追葬と云う。
そして、そのことから、竪穴式石室と横穴式石室の最も大きな構造上ひいては、その背景にある葬送思想の違いを認識することが出来るのではないかと考える。
さらに横穴式石室の場合、埋葬ののち、その遺骸が白骨化すると、それ(ら)を石室(玄室)隅にまとめ、空いた場所に新たな遺骸を埋葬するといった様式が一般的に採られていた。
これも竪穴式石室における遺骸を密閉した空間にて保存を試みる葬送思想とは根本的に異なるものであり、横穴式石室においては遺骸の保存よりも、白骨化することにより(遺骸の)体積を減少させることを予め企図したようにも考えられ、あるいは現代における火葬ともその意味においては類似した葬送思想であるとも評し得る。
ともあれ、この横穴式石室の構造に依拠する葬送思想から生じた記紀における神話がイザナギの黄泉国へ亡くなった妻イザナミのもとに訪れる一節であると考えられている。
イザナギが訪れた暗闇の黄泉国(おそらく石室(玄室)内)にて、自らの櫛の歯を欠き、それに火を灯すと、そこにはまさに腐敗過程にあるイザナミの遺骸があり、そのさまに驚嘆し恐れ、逃げ帰るというものであるが、おそらくこうした様子とは、おそらく横穴式石室の造営が為された六、七世紀当時においては比較的日常とも云える経験であったのではないかと思われる。
今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
昨年から現在までに列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害によって被災された諸インフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事も祈念しています。』