2024年6月12日水曜日

20240612 株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」 pp.90-92より抜粋

株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」
pp.90-92より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490209924
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490209921

書店とのかかわりからレクトゥーア(Lektor)のこともお伝えしておく。辞書には「(出版社において主として原稿審査を担当する)編集者」といった訳語がついているのではなかろうか。「原稿審査員」などとも出ている。わが国の出版界には見ない職種であって、それは彼らの特権からも見てとれる。

毎日、出社する義務がない。

刊行本に自分の名前を明示できる。

なかなかの高給取りである。

新しい才能の登場には陰に陽にレクトゥーアの存在があずかっている。文学や思想の産婆役であって、才能発掘の請負人、ときにはセンセーションの仕掛け人ともなる。だからといって、ベストセラーばかりねらっている人ではない。

トーマス・マンもレクトゥーアの返事には一喜一憂した。注意を受けた個所は書き直した。ブレヒトは人間関係でいろいろ問題を起こした人だが、レクトゥーアとの関係は終始おだやかに維持していた。ノーベル賞作家ギュンター・グラスは、若年期の経歴を自伝で公表するにあたり、誰よりもまずレクトゥーアに相談しただろう。問題の箇所の叙述にしても、大いに相談役のアドバイスを参考にしたにちがいない。

 たしかトーマス・ベッカーマンといったが、むかし、私が勤めていた大学に外国人講師としてやってきた。私はたまたま、彼がレクトゥーアとしてつくった本を読んでいて、そのことを言うと、目を丸くした。あの作家は今、どうしているとたずねると、伸び悩んでいると遠回しに答えた。

 30代半ばで、童顔で、背広よりもジャンパーが似合った。当人も背広にネクタイは苦手のようだった。大学で教えるかたわら、学会で新しいドイツの文学をめぐって講演をした。しかし、さして日本の大学に関心がなく、感銘もなかったのだろう。2年ばかりして、さっさとドイツに帰ってしまった。

 何年かして、ドイツの老舗の出版社のレクトゥーアになった。由緒ある文芸誌の編集長をつとめ、「ベッカーマン編集」と扉にうたったシリーズが出はじめた。

 世の中には、こういう人もいる。鋭い文学センスをもっているが、自分では書かない。自分の本ではなく、他人の本をつくる。才能を見つけ出すのもまた才能である。