A「昨日投稿分の記事は、正直なところ、多くの方々には読んで頂きたくないものであり、またそうした事情もあってか投稿以降これまでにいくらか手を加え、加筆修正を行っております。
とはいえ、全体的な内容に関しては特に変わってはいないと思われますが・・。
何れにせよ、一度ブログ記事として作成、投稿したものは、少なくとも削除はしないという方針ですので、それにはこれまで通りに従おうと考えた次第です・・。
また、これまでにある程度のブログ記事を作成、投稿してきて、各々投稿記事の内容に対して見受けられるさまざまな反応にて『この反応は誰々からのものである』と判断、断定できるものは、これまでに皆無でしたが、先日投稿の『ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで・・M2病の妄想?』に対しての反応にて『・・この反応は**さんからのものではないか?』と思われるものがありましたが、こうしたことを本人に聞いてみるのも、どうも無粋、空気を読まないようですので、わざわざ尋ねてみることは止め、今後何かの機会があった際にでも聞いてみようかと思った次第です・・(笑)。
それはともかく、この記事に関しては、投稿数日にしては、ここ最近かなり珍しいほど多くの方々に読んで頂けたことから、そのもととなった小説の文章、実際の会話の雰囲気を残しつつも、より読み易く、伝わり易い文章とするため、投稿以降、何度か手を加え、加筆修正を行いました・・。
また、それに加え、こうした加筆修正を行っておりますと、更なる着想も湧いてくるようであり、それらは今後機会を見つけ、記事として書いてみようかと考えております・・。
そして、そのように考えてみますと『能動的に』精読、深く読んだと自覚できるような著作が幾つかあるということは、案外と大事なことなのではないかと思われるのですが如何でしょうか・・?
また、それは、ある程度感受性が成熟した20~30代前半あたりが良いのではないかと思われますが、このあたりの年代において、どのような著作を『能動的』に選び読むかに、何といいますか、その人の本質に迫る『何か』があるのではないかと思われるのです・・。
それはあたかも、偶然に選び取られたタロットカード一枚一枚に固有の『意味』があるように・・。
とはいえ、その『意味』とは、占術によるものではなく、より必然的あるいは普遍化し得る『意味』であるように思われるのです・・。
こうした考えとは、もしかすると当然であるのかもしれませんが、その一方において『書籍、読書に関しても、その他の文化的事物と同様、何だかよく分からない表層的なものにのみ関心が払われ、こうした(それぞれの主体にとって)本質的とも云える『何か・意味』といったものには、あまり価値、注意が払われていないのではなかろうか・・?』とも思われることもまた、少なからずあるのです・・。
昨今我が国のさまざまな分野において席捲そして浸透している市場原理主義が個人の能動性、いや、それ以前にある、日常の行為態度に対して与える影響とは、こと学問(理系・文系含む)、芸術に対しては良いことばかりでもないのかもしれません・・。
ただ、こうしたことは、その判断までには、もうしばらくの観察期間が必要であるようにも思われますが・・。
今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
去る2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震により被災された地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」