A「理系学問分野においては、あるコトバ(専門用語)が指し示す対象とは、概ね実在するものです。
それに対し、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)とは、往々にして、その対象が実在するものではなく、時代によって解釈、定義が異なる概念あるいは事物であったります。
また、それに加えて、近代以降の我が国における学問全般とは、西欧から輸入されたものであり、その方法論、考え方などにおいて現在なお強い影響を受けています。
そして、それはたとえ民俗学などのような近代以前の我が国の文化、習俗などを研究対象とする学問においても同様であり、その記述法、用いる方法論において、西欧から輸入された手法を用いざるを得ないのが現状であるといえます。
また、そのような手法に拠らなければ、現代の我が国において学問として認められる文章(主に論文)は書くことができないのではないかと思います。
それほどまでに近代以降の我が国の学問全般とは、西欧からの影響を強く受けているといえます。
しかし、理系学問分野においては、その多くが実際の生活に資することが多いこと、つまり、強い必要性により、あまりこういったことは考慮されず、どちらかといえば、所与(アプリオリ)のものとされる傾向があったのではないかと思います。
また、それに加えて、古来より我が国は自然環境が豊かであることから、そうした要素(理系学問分野)に対する感受性は鋭く、近代以降に流入した西欧的な自然科学をはじめとする理系学問分野の学問体系も比較的容易に咀嚼吸収できるような文化的背景があったのではないかと思います。
さらに理系学問全般とは、再現可能性、つまりその知識、見解の普遍性を大変重視します。
そうしますと、基本的に、理系学問分野においては東西文化の相違とは、あまり考慮される(べき)ものではないと思われます。
それでは、その一方において、文系学問分野におけるコトバ(専門用語)および、それにより体系化された知識の価値とは一体どのようなモノなのでしょうか?
それは現在のような時代であるからこそ、今一度真剣に学び、考えてみる価値があるのではないかと思います。
そして、その結果として、文系学問分野とは小価値であると認定するに至っても、そこに至るまでの学び、考えてみる過程こそが既に小価値ではないと私には思われるのです。
そして、そうした学び、考える過程とは、各々個々人が実際に経験してみないとわからないということが、先ほど述べた理系学問全般における知識、見解の普遍性と大きく異なる点ではないかと思います。
そして、現在のような個人の経験、体験を代行してくれる便利な道具が増えてゆくにしたがい、こうした文理間の異なる点もまた、ボヤけてくるのではないかと思います。
こうしたことは実のところ進化なのでしょうか?
あるいは退化なのでしょうか?
まあ、単純に割り切れるようなことではないと思いますが、そういった面倒でカネにならないようなことを時折考えてみるのもまた価値のあることではないかと思います・・。」