おかげさまで、一昨日投稿の「時代精神を人工的に再現する様式としての映画作品について思ったこと」は思いのほかに多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
さて、ここでも以前からの続きにて「時代精神」や「地域性」について述べましたが、これらは、ある程度の期間、その対象となる時代や地域に向き合い続けないと、知覚することが困難な性質を持ち、さらに、これは運動神経などのように、個々人の性質による向き・不向きといったものが顕著にあるように思われます。
他方で、我々が学校で学ぶ履修科目の中には「時代精神」や「地域性」などについての学びとも云える日本史、世界史そして地理といった科目があります。しかしながら、そうした学ぶ機会がありながらも、我が国においては多くの場合「時代精神」や「地域性」についての能動的な学びまでには結びつかず、何やら実態を伴わない「お題目的なもの」になり下がっているように見受けられます。
そして、その理由とは端的に、社会において、それらについてのホンモノの興味を持っている人々が少ないからであると思われます。またさらに、そうした状況に多数派による同調圧力も加わり、その結果、さきに述べたような状況へと至るのではないかと思われます。
この状況を異言してみますと、社会の公的なレベルでの発言においては「歴史や地域独自の文化などは大変重要である。」としておきながら、それらを実際に公的な機関(私立・公立問わず教育機関)にて学ぶ際には、学習科目として扱われ、その習熟度は、テストによって判断されるようになります。そうしますと、本来、生きたものであると云える「時代精神」や「地域性」は、我々の精神には作用しなくなり、それらは単によく分からない観念やコトバの寄せ集めのように感じられていくのではないかと思われます。
そうした中、それらが履修科目であろうがなかろうがあまり関係なく、学ぼうとする方も、ごく少数ながらいるようであり、多くの場合、そうした方は、学生時代を過ぎた後でも、その自転運動を止めようとはしないように見受けられます。
他方で、そうしたごく少数の方々も含めた殆どの方々は、学生時代を過ぎますと「時代精神」や「地域性」とは決して近しいとは云えない、営利の世界に入って行きます。そして、その世界での実質的な正義とは「経済力」であり、それはそれで、たしかにとても重要ではありますが、しかし、そうした正義を調整あるいは相対化するものとして「時代精神」や「地域性」が本来は存在するはずであると云えるのですが、どうしたわけか、そうした思考段階での結び付き・融合は、殆ど生じることはなく、片方が他方をマウントし貶めていくというのが、必ずしも視野が広いとは云えない我々の持つ、変えがたく、そして悲しい性であるように思われます・・。
また、この中で「時代精神」とは、その背景もしくは基層に「歴史意識」が存在する感覚であると考えますが、この「歴史意識」については、以前、当ブログにて抜粋引用した文章に以下の記述があります。
「日本人に「歴史意識」が薄いというのが真理であるならば、他方で歴史観における強さをいうことは虚偽でなければならない。(あらかじめいえば、私はそのとおりだと考える。)」*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
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