2024年9月15日日曜日

20240918 1848年のヨーロッパについて③

 1848年は欧州にとって激動の年でした。「諸国民の春」として知られるこの年に始まった一連の革命や動乱では、自由主義や民族主義の思想の拡がりによって、欧州各地で新たな秩序を求める運動が活発化しました。これら19世紀半ばの出来事によって、欧州ではナポレオン戦争後以来のウィーン体制に大きな変革が生じ、続く同世紀後半、そして次なる20世紀へと至ります。

 1848年2月、フランスのパリで革命が起こり、1830年以来、所謂7月王政によって統治していたオルレアン朝のルイ=フィリップ王が退位しました。この2月革命では、労働者や市民が蜂起をして、7月王政に反発した結果、第二共和政が樹立されます。この革命は、労働者階級と市民階級(ブルジョワジー)とが協力して政治的変革を求めたものであり、自由主義的な政府が誕生しました。しかし、第二共和政が成立してもフランス国内の治安は安定せずに同年6月には労働者階級と政府間の対立が表面化して、労働者階級側が反乱・暴動を起こしました(6月蜂起)。この反乱は政府軍により鎮圧されましたが、結果的にフランス社会にさらなる分断が生じて、そうした状況を背景として、後にナポレオン三世がクーデターを起こし、1852年に自らを皇帝とする第2帝政が誕生する要因の一つとなりました。

 フランスの2月革命は、ヨーロッパ全体に波及し、欧州各国で同様の革命が勃発しました。特に、ドイツ諸邦、オーストリア、イタリアでの蜂起は、フランスの影響を受けたものでした。これら地域では、長年にわたる社会的不満や経済的苦境があり、そこに自由主義や民族主義の台頭が化合して勃発の要因を形成していました。ドイツにおいては、自由主義者と民族主義者が連携して、統一ドイツを目指した運動が活発化しました。この運動の結果、フランクフルト国民議会が開催され、統一憲法の草案が作成されましたが、最終的にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝の称号を拒否して、この運動は頓挫しました。この時点でドイツ統一は実現されなかったものの、後のプロイセン主導による統一ドイツへの布石となりました。他方、イタリアでは、ジュゼッペ・マッツィーニをはじめとする革命家たちが、イタリア統一を目指してサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト王が主導する形で対オーストリア戦争が始まりました。しかし、当時のイタリアは分裂状態のままであったことから、オーストリア軍に敗北して、イタリア統一は頓挫しました。しかし、さきのドイツと同様、これも後にイタリアが統一国家を形成するための礎となりました。

 先述のウィーン体制はナポレオン戦争後1815年に成立したものであり、ヨーロッパの保守的秩序を維持するためのものでした。この体制下では、オーストリア帝国がヨーロッパの安定を担う中心的な存在でしたが、1848年の革命の波は、このウィーン体制を大きく揺るがしました。特に、オーストリアの首都ウィーンでの蜂起は象徴的であり、市民や学生、労働者達が蜂起し、これにより首相メッテルニヒが失脚しました。さらに隣のハンガリーでも独立を求める民族主義運動が激化して、ハンガリー人はオーストリアからの分離を求めて戦いました。しかし、オーストリア帝国はロシアの支援を得てこのハンガリーでの蜂起を鎮圧して一時的にではあれ秩序を回復させました。

 くわえて、1848年の欧州での革命や動乱の背景には、1845年からの深刻な飢饉がありました。特に、アイルランドではジャガイモ胴枯れ病によって壊滅的な打撃を受け、100万人以上の死者が出ました。この影響は、アイルランドにとどまらず、ヨーロッパ各地に広がり、フランスやドイツでも食糧不足と物価高騰が社会不安を招きました。南ドイツ地域では物価高騰により暴動が頻発して、またベルギーでは飢饉が疫病蔓延を引き起こしました。そしてそこからの経済的困窮も民衆による暴動や蜂起を引き起こす一つの要因となりました。

 1848年の革命は一時的には成功をおさめたものの、多くの場合は、保守的勢力の反動によって失敗に終わりました。先述のとおり、ドイツでは統一運動が内部の分裂によって頓挫し、フランスでは労働者と市民階級との対立が深まり、最終的にナポレオン三世による第二帝政の樹立となりました。イタリアではオーストリア帝国との戦争に敗北して、統一されることはありませんでした。

 オーストリア帝国やハンガリーでは、民族主義運動がロシア帝国の軍事介入によって鎮圧され、保守的な君主制が復権しました。こうした革命失敗の背景には、革命勢力の内部分裂や組織の欠如、外部からの軍事的圧力などが複合的に作用していました。特に、革命勢力間の連携の欠如が致命的であり、後の革命運動への重要な教訓となりました。

 こうした一連の動きから、欧州の情勢はさらに緊張度を増して、その後、1853年に勃発したナポレオン戦争以来の大戦争と云えるクリミア戦争では、オーストリアとロシアがバルカン半島への支配・影響力をめぐって対立を深めて、ウィーン体制は崩壊に向かいます。クリミア戦争では、フランスとイギリスがオスマン帝国側に立ってロシア帝国と戦い、ロシアのバルカン半島における影響力を削減しようとしました。オーストリアは直接的な武力行使を避けたものの、ロシアとの対立を深めて、後の国際関係に大きな影響を与えました。また、クリミア戦争の後、オーストリアとプロイセンとの関係も悪化して、これが1866年の普墺戦争へと繋がります。この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ドイツ統一実現への道を開き、そしてまた後の1870年の普仏戦争によってナポレオン3世による第二帝政崩壊も招くことになります。

 先述のとおり、1848年の一連の革命や動乱の多くは失敗に終わりましたが、それでも欧州の政治構造に大きな影響を与え、自由主義と民族主義の思想は欧州各地に広がり、特にドイツやイタリアの統一運動においては重要な役割を果たし、ドイツはプロイセンを中心として1871年に統一が為され、イタリアも1861年に統一国家として成立しました。また、1848年の革命は、後の民主主義の発展にも大きく寄与しました。自由主義的な政治思想は、その後のヨーロッパ各国での政治改革に大きな影響を与え、最終的には多くの国で議会制民主主義が定着しました。そこから、一連の1848年の欧州での革命は、それまでの保守的秩序の終焉を告げて、新たな国民国家の形成と民主主義の発展を促した重要な出来事であり、これにより、ヨーロッパ全体が近代化の道を進み、今日の国際政治の基盤が築かれることになりました。

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ISBN978-4-263-46420-5

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20240914 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.407‐410より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.407‐410より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 六月十三日の事件はヨーロッパ大陸のすみずみに、苦悩と歓喜の叫びを生じさせた。この事件は突如として運命を決定することになった、それはライン河の側から急速に展開することになる。

 すでにプファルツとライン河流域を支配したプロイセン軍はバーデン大公国にすぐさま侵入し反乱者をけちらし、数週間もちこたえたラスタットを除く全国土を占領した。

 大公国の革命派はスイスに亡命した、このスイスにはイタリアやフランスからも、そして実際のところヨーロッパのあらゆるところから亡命者がやってきた。ロシアを除くヨーロッパ全体が革命を経験するが、まだそのさなかにあったからである。亡命者の数は一万あるいは一万二〇〇〇に達しようとしていた。それはスイスの隣国にいつでも敗走してなだれ込んでこようとしている一つの軍隊であった。これは、すべての政府の心配の種になっていた。

 すぐにこのようなスイス連邦には不満をもらす理由のあったオーストリアや、とくにプロイセン、また全くスイスとの関係のなかったロシアまでもが、軍隊によってスイス国境に侵入すると言い出しており、革命の脅威にさらされているすべての政府の名において、そこで警察の役割を果たそうとまで言っていたのである。われわれにとってたえ難かったのは、このような諸国の態度であった。

 私はまずスイスを説得し、脅かしに耳をかさないようにと言ってきかせ、しかし当然の権利として、隣接する諸国民の平安を公然とおびやかす煽動者を、国境の外にスイス自身の手で追い出してしまうように説得しようと試みた。私はパリのスイス連邦代表にたえずくり返して次のように述べた、「正当なこととしてあなたがたに要求してくる前に、このように先手をうっておかれるならば、諸国の宮廷からの不当な、あるいは過大な要求のすべてに抗してあなたがたが自己の立場を守るにあたっては、フランスをたよりにして下さい。われわれは、あなたがたが諸国王によっておしつぶされ、屈辱を受けるままになってしまうよりは、むしろ危険をおかしてでも戦争に訴えるでしょう。しかしもしあなたがたが、あなたがた自身のための道理をまずはっきりさせないのであれば、たよりとなるのはあなたがただけとなり、全ヨーロッパに対して唯一人で身を守ることになります」と。

 しかしこのような言葉は効果のないものだった。スイス人ほど自尊心やうぬぼれの強い連中はいないからである。スイス人は農民の一人にいたるまで、自分の国は世界のあらゆる君主、あらゆる国民をものともしない、すぐれたものなのだと信じている。私はそこで別の手段をとったが、これはより効果のあるものだった。それは外国の諸政府、なかんずくスイスに軍隊を侵入させようという気になっている政府に対して、しばらくの間、スイスに亡命したその国の者たちにいかなる恩赦も与えず、どんな罪の者にも祖国に帰ることを許さないようにと、勧告することであった。われわれの側としても、いったんスイスに亡命した後に、イギリスやアメリカに渡って行こうとしてフランスを通過したいと望む者に対して、それが煽動家である場合は勿論、害を与えることのない多勢の亡命者の場合でも、わが国の国境を通過することを認めないことになした。すべての国境がこのようにして厳重に閉鎖されたので、スイスは、ヨーロッパにいた要注意人物のうちの、もっとも煽動的で反抗的な分子であった者一万人ないし一万二〇〇〇人で、あふれ返ることになった、彼らに食料を与え住いを与え、また彼らがスイスに何かと相談ごとをしたりしないように、金銭をも与えておかなければならなかった。このことは亡命の権利が具合の悪いものだということを、スイス人にいっきょに気づかせることになった。彼らは、自分たちの中に幾人かの有名な革命の指導者をいつまでもかかえ込んでおくことを、これによって隣接の諸国に危険を及ぼすということがあったにしても、そんなに苦にしないなかった。しかし一軍団もの革命派が存在することは、大変困ったことだった。スイスのなかのもっとも急進的な諸州が最初に、この不都合で金のかかる客を早急に追い払うように、声高に要求しはじめた。そしてスイスに在留することが都合がよいと思っていた革命の指導者をあらかじめ追放しなければ、スイスを離れることができ、またそれを希望している、あまり害のない亡命者の大群に対して、諸外国がその国境を開くようにさせることが不可能だったので、ついにスイスは革命の指導者を追放するいことにした。これらの人物を領土内から遠ざけることをせず、すべてのヨーロッパの敵意を、危ういところで招き込んでしまうことになるところだったスイス人たちは、こうして当面の困難を回避し、多少の出費を避けるために、自分たちで自主的に、彼ら領土の外に追い払った。スイス人のデモクラシーの性格を人はよく理解していなかった。そのデモクラシーは、きわめてしばしば、外交問題について非常に混乱した理念しかもっておらず、国外の問題を国内的な問題が起った時にしか解決しようとしないものであった。

 スイスでこのように事態が展開していたとき、ドイツの全体的な情勢は、様相が変化しつつあった。諸政府に対する民衆の闘いに続いて、諸君主相互の間の争いが起った。私は革命のこの新しい局面を注意深く、困惑した気持で観察していた。