1848年2月、フランスのパリで革命が起こり、1830年以来、所謂7月王政によって統治していたオルレアン朝のルイ=フィリップ王が退位しました。この2月革命では、労働者や市民が蜂起をして、7月王政に反発した結果、第二共和政が樹立されます。この革命は、労働者階級と市民階級(ブルジョワジー)とが協力して政治的変革を求めたものであり、自由主義的な政府が誕生しました。しかし、第二共和政が成立してもフランス国内の治安は安定せずに同年6月には労働者階級と政府間の対立が表面化して、労働者階級側が反乱・暴動を起こしました(6月蜂起)。この反乱は政府軍により鎮圧されましたが、結果的にフランス社会にさらなる分断が生じて、そうした状況を背景として、後にナポレオン三世がクーデターを起こし、1852年に自らを皇帝とする第2帝政が誕生する要因の一つとなりました。
フランスの2月革命は、ヨーロッパ全体に波及し、欧州各国で同様の革命が勃発しました。特に、ドイツ諸邦、オーストリア、イタリアでの蜂起は、フランスの影響を受けたものでした。これら地域では、長年にわたる社会的不満や経済的苦境があり、そこに自由主義や民族主義の台頭が化合して勃発の要因を形成していました。ドイツにおいては、自由主義者と民族主義者が連携して、統一ドイツを目指した運動が活発化しました。この運動の結果、フランクフルト国民議会が開催され、統一憲法の草案が作成されましたが、最終的にはプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝の称号を拒否して、この運動は頓挫しました。この時点でドイツ統一は実現されなかったものの、後のプロイセン主導による統一ドイツへの布石となりました。他方、イタリアでは、ジュゼッペ・マッツィーニをはじめとする革命家たちが、イタリア統一を目指してサルデーニャ王国のカルロ・アルベルト王が主導する形で対オーストリア戦争が始まりました。しかし、当時のイタリアは分裂状態のままであったことから、オーストリア軍に敗北して、イタリア統一は頓挫しました。しかし、さきのドイツと同様、これも後にイタリアが統一国家を形成するための礎となりました。
先述のウィーン体制はナポレオン戦争後1815年に成立したものであり、ヨーロッパの保守的秩序を維持するためのものでした。この体制下では、オーストリア帝国がヨーロッパの安定を担う中心的な存在でしたが、1848年の革命の波は、このウィーン体制を大きく揺るがしました。特に、オーストリアの首都ウィーンでの蜂起は象徴的であり、市民や学生、労働者達が蜂起し、これにより首相メッテルニヒが失脚しました。さらに隣のハンガリーでも独立を求める民族主義運動が激化して、ハンガリー人はオーストリアからの分離を求めて戦いました。しかし、オーストリア帝国はロシアの支援を得てこのハンガリーでの蜂起を鎮圧して一時的にではあれ秩序を回復させました。
くわえて、1848年の欧州での革命や動乱の背景には、1845年からの深刻な飢饉がありました。特に、アイルランドではジャガイモ胴枯れ病によって壊滅的な打撃を受け、100万人以上の死者が出ました。この影響は、アイルランドにとどまらず、ヨーロッパ各地に広がり、フランスやドイツでも食糧不足と物価高騰が社会不安を招きました。南ドイツ地域では物価高騰により暴動が頻発して、またベルギーでは飢饉が疫病蔓延を引き起こしました。そしてそこからの経済的困窮も民衆による暴動や蜂起を引き起こす一つの要因となりました。
1848年の革命は一時的には成功をおさめたものの、多くの場合は、保守的勢力の反動によって失敗に終わりました。先述のとおり、ドイツでは統一運動が内部の分裂によって頓挫し、フランスでは労働者と市民階級との対立が深まり、最終的にナポレオン三世による第二帝政の樹立となりました。イタリアではオーストリア帝国との戦争に敗北して、統一されることはありませんでした。
オーストリア帝国やハンガリーでは、民族主義運動がロシア帝国の軍事介入によって鎮圧され、保守的な君主制が復権しました。こうした革命失敗の背景には、革命勢力の内部分裂や組織の欠如、外部からの軍事的圧力などが複合的に作用していました。特に、革命勢力間の連携の欠如が致命的であり、後の革命運動への重要な教訓となりました。
こうした一連の動きから、欧州の情勢はさらに緊張度を増して、その後、1853年に勃発したナポレオン戦争以来の大戦争と云えるクリミア戦争では、オーストリアとロシアがバルカン半島への支配・影響力をめぐって対立を深めて、ウィーン体制は崩壊に向かいます。クリミア戦争では、フランスとイギリスがオスマン帝国側に立ってロシア帝国と戦い、ロシアのバルカン半島における影響力を削減しようとしました。オーストリアは直接的な武力行使を避けたものの、ロシアとの対立を深めて、後の国際関係に大きな影響を与えました。また、クリミア戦争の後、オーストリアとプロイセンとの関係も悪化して、これが1866年の普墺戦争へと繋がります。この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ドイツ統一実現への道を開き、そしてまた後の1870年の普仏戦争によってナポレオン3世による第二帝政崩壊も招くことになります。
先述のとおり、1848年の一連の革命や動乱の多くは失敗に終わりましたが、それでも欧州の政治構造に大きな影響を与え、自由主義と民族主義の思想は欧州各地に広がり、特にドイツやイタリアの統一運動においては重要な役割を果たし、ドイツはプロイセンを中心として1871年に統一が為され、イタリアも1861年に統一国家として成立しました。また、1848年の革命は、後の民主主義の発展にも大きく寄与しました。自由主義的な政治思想は、その後のヨーロッパ各国での政治改革に大きな影響を与え、最終的には多くの国で議会制民主主義が定着しました。そこから、一連の1848年の欧州での革命は、それまでの保守的秩序の終焉を告げて、新たな国民国家の形成と民主主義の発展を促した重要な出来事であり、これにより、ヨーロッパ全体が近代化の道を進み、今日の国際政治の基盤が築かれることになりました。
こうした一連の動きから、欧州の情勢はさらに緊張度を増して、その後、1853年に勃発したナポレオン戦争以来の大戦争と云えるクリミア戦争では、オーストリアとロシアがバルカン半島への支配・影響力をめぐって対立を深めて、ウィーン体制は崩壊に向かいます。クリミア戦争では、フランスとイギリスがオスマン帝国側に立ってロシア帝国と戦い、ロシアのバルカン半島における影響力を削減しようとしました。オーストリアは直接的な武力行使を避けたものの、ロシアとの対立を深めて、後の国際関係に大きな影響を与えました。また、クリミア戦争の後、オーストリアとプロイセンとの関係も悪化して、これが1866年の普墺戦争へと繋がります。この戦争はプロイセンの勝利に終わり、ドイツ統一実現への道を開き、そしてまた後の1870年の普仏戦争によってナポレオン3世による第二帝政崩壊も招くことになります。
先述のとおり、1848年の一連の革命や動乱の多くは失敗に終わりましたが、それでも欧州の政治構造に大きな影響を与え、自由主義と民族主義の思想は欧州各地に広がり、特にドイツやイタリアの統一運動においては重要な役割を果たし、ドイツはプロイセンを中心として1871年に統一が為され、イタリアも1861年に統一国家として成立しました。また、1848年の革命は、後の民主主義の発展にも大きく寄与しました。自由主義的な政治思想は、その後のヨーロッパ各国での政治改革に大きな影響を与え、最終的には多くの国で議会制民主主義が定着しました。そこから、一連の1848年の欧州での革命は、それまでの保守的秩序の終焉を告げて、新たな国民国家の形成と民主主義の発展を促した重要な出来事であり、これにより、ヨーロッパ全体が近代化の道を進み、今日の国際政治の基盤が築かれることになりました。
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祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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