2024年9月15日日曜日

20240914 株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」 pp.407‐410より抜粋

株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.407‐410より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

 六月十三日の事件はヨーロッパ大陸のすみずみに、苦悩と歓喜の叫びを生じさせた。この事件は突如として運命を決定することになった、それはライン河の側から急速に展開することになる。

 すでにプファルツとライン河流域を支配したプロイセン軍はバーデン大公国にすぐさま侵入し反乱者をけちらし、数週間もちこたえたラスタットを除く全国土を占領した。

 大公国の革命派はスイスに亡命した、このスイスにはイタリアやフランスからも、そして実際のところヨーロッパのあらゆるところから亡命者がやってきた。ロシアを除くヨーロッパ全体が革命を経験するが、まだそのさなかにあったからである。亡命者の数は一万あるいは一万二〇〇〇に達しようとしていた。それはスイスの隣国にいつでも敗走してなだれ込んでこようとしている一つの軍隊であった。これは、すべての政府の心配の種になっていた。

 すぐにこのようなスイス連邦には不満をもらす理由のあったオーストリアや、とくにプロイセン、また全くスイスとの関係のなかったロシアまでもが、軍隊によってスイス国境に侵入すると言い出しており、革命の脅威にさらされているすべての政府の名において、そこで警察の役割を果たそうとまで言っていたのである。われわれにとってたえ難かったのは、このような諸国の態度であった。

 私はまずスイスを説得し、脅かしに耳をかさないようにと言ってきかせ、しかし当然の権利として、隣接する諸国民の平安を公然とおびやかす煽動者を、国境の外にスイス自身の手で追い出してしまうように説得しようと試みた。私はパリのスイス連邦代表にたえずくり返して次のように述べた、「正当なこととしてあなたがたに要求してくる前に、このように先手をうっておかれるならば、諸国の宮廷からの不当な、あるいは過大な要求のすべてに抗してあなたがたが自己の立場を守るにあたっては、フランスをたよりにして下さい。われわれは、あなたがたが諸国王によっておしつぶされ、屈辱を受けるままになってしまうよりは、むしろ危険をおかしてでも戦争に訴えるでしょう。しかしもしあなたがたが、あなたがた自身のための道理をまずはっきりさせないのであれば、たよりとなるのはあなたがただけとなり、全ヨーロッパに対して唯一人で身を守ることになります」と。

 しかしこのような言葉は効果のないものだった。スイス人ほど自尊心やうぬぼれの強い連中はいないからである。スイス人は農民の一人にいたるまで、自分の国は世界のあらゆる君主、あらゆる国民をものともしない、すぐれたものなのだと信じている。私はそこで別の手段をとったが、これはより効果のあるものだった。それは外国の諸政府、なかんずくスイスに軍隊を侵入させようという気になっている政府に対して、しばらくの間、スイスに亡命したその国の者たちにいかなる恩赦も与えず、どんな罪の者にも祖国に帰ることを許さないようにと、勧告することであった。われわれの側としても、いったんスイスに亡命した後に、イギリスやアメリカに渡って行こうとしてフランスを通過したいと望む者に対して、それが煽動家である場合は勿論、害を与えることのない多勢の亡命者の場合でも、わが国の国境を通過することを認めないことになした。すべての国境がこのようにして厳重に閉鎖されたので、スイスは、ヨーロッパにいた要注意人物のうちの、もっとも煽動的で反抗的な分子であった者一万人ないし一万二〇〇〇人で、あふれ返ることになった、彼らに食料を与え住いを与え、また彼らがスイスに何かと相談ごとをしたりしないように、金銭をも与えておかなければならなかった。このことは亡命の権利が具合の悪いものだということを、スイス人にいっきょに気づかせることになった。彼らは、自分たちの中に幾人かの有名な革命の指導者をいつまでもかかえ込んでおくことを、これによって隣接の諸国に危険を及ぼすということがあったにしても、そんなに苦にしないなかった。しかし一軍団もの革命派が存在することは、大変困ったことだった。スイスのなかのもっとも急進的な諸州が最初に、この不都合で金のかかる客を早急に追い払うように、声高に要求しはじめた。そしてスイスに在留することが都合がよいと思っていた革命の指導者をあらかじめ追放しなければ、スイスを離れることができ、またそれを希望している、あまり害のない亡命者の大群に対して、諸外国がその国境を開くようにさせることが不可能だったので、ついにスイスは革命の指導者を追放するいことにした。これらの人物を領土内から遠ざけることをせず、すべてのヨーロッパの敵意を、危ういところで招き込んでしまうことになるところだったスイス人たちは、こうして当面の困難を回避し、多少の出費を避けるために、自分たちで自主的に、彼ら領土の外に追い払った。スイス人のデモクラシーの性格を人はよく理解していなかった。そのデモクラシーは、きわめてしばしば、外交問題について非常に混乱した理念しかもっておらず、国外の問題を国内的な問題が起った時にしか解決しようとしないものであった。

 スイスでこのように事態が展開していたとき、ドイツの全体的な情勢は、様相が変化しつつあった。諸政府に対する民衆の闘いに続いて、諸君主相互の間の争いが起った。私は革命のこの新しい局面を注意深く、困惑した気持で観察していた。

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