2024年8月9日金曜日

20240808 中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.115‐119より抜粋

中央公論新社刊 陸奥宗光著「蹇蹇録」pp.115‐119より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412160153X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601537

 豊島の海戦は七月二十五日午前七時と八時との間、わが軍艦秋津洲、吉野、浪速と清国軍艦済遠、広乙との間における戦闘にして、すなわち清艦済遠よりまず戦端を啓きたるに始まり、而してその結果は済遠敗走し広乙逃れて沙礁に坐触し、操江ついにわが海軍の捕獲するところとなるに畢り、その後同日午前九時ごろ、浪速が敵艦を追撃する途上、ショパイオル島の近傍において、清国軍隊を搭載し英国旗章を掲げたる運送船高陞号に出会えり。このときすでに戦端は啓けり。わが軍艦は交戦者の権利を行わんため運送船を捜査し、またある場合にありてはなんらの強制手段をも施し得べきこともちろんなれば、浪速は最初に信号をもって停戦を命じたるに、高陞号船長は直ちにこれに応じその他浪速の下したる命令に対し一も違背するところなかりしも、同船に乗り組み居たる清国将官は、該船長を抑制しすべて浪速の命令に服従せしめず。浪速は両回までもその短艇を発し該船船長に就き懇諭したるもなお、その目的を達し得ざるを見て、ついに最後の信号を掲げて該船内の欧人をして各自活路を求めしむるの便宜を与えたるのち、これを砲撃して沈没せしめたるは正に午後零時四十分なりという。かくのごとくほとんど四時間を経過するまで、浪速艦長が最後の手段を決行せざりしは該艦長の注意精密周到なるを見るべく、また国際法上なんら失当の所為なかりしを証すべきなれども〔すべて戦闘の状況を詳記するは本篇の目的にあらず、然れども豊島の海戦は高陞号砲撃のことと関繋して他日国際公法上争論の基礎となりし事実は、ここにその大要を記せざるを得ず。これ例外とす〕、然れども、これ特に後日続々接受したる詳報により初めて明瞭なるを得たる事実のみ。当初豊島の海戦中わが軍艦が英国の旗章を掲げたる運送船を砲撃し沈没せしめたりとの報告に接したるときにありては、この不慮の出来事より日英両国の間将に一大紛争を惹き起こすやも計られずとて何人もいたく驚駭し、ともかくも時日を遷延せず英国に対し十分満足を与えざるべからずとの説多く、在英国青木公使より七月三十一日をもって、「英国運送船の事件に関しては英国政府よりなんらの要求あるを待たず、われより進んで相当の満足を与うるよういたしたく、かつ該船に乗り居たる独逸士官がはたして死したりとせば、これまた同上の処分ありたし」との電稟あり〔このときまで倫敦には未だ船名をつまびらかにせず、またハンネッケンの姓名も明らかならざりしと見ゆ〕。ついで八月三日において、英国外務大臣は高陞号事件に関し公然青木公使に向かい一の書翰を送れり。その公文の概要に、「当時日本海軍将校の処置より生じたる英国臣民の生命もしくは財産の損害に対しては、日本政府はその責に任ずべきものと認定いたし候。(中略)なお本件に関し詳細の報知を得て英国政府の意見も確定いたし候節は、直ちに再応御照会におよぶべく候」と照会ありたりと電稟せり。当時倫敦においてその詳報を得ずというのはもちろんのことなり。東京においてすら未だ確然たる詳報を得る能わずにより、余は、かの時日を遷延せずまず英国に対し満足を与うべしとの説にも、また青木公使の建議のごとく、かの国よりなんらの要求あるを待たず我より進んで補償を申し出ずべしとのことも今日はなお早計たるを免れずと思惟し、かつ余は曩にこの変報に接したるとき、とりあえず東京駐在英国臨時代理公使を招き、この悲嘆すべき事件に付ては十分に顛末を審査したるうえ、もし不幸にも帝国軍艦の所為その当を失したることを発見せば、帝国政府は相当の補償をなすことを怠らざるべき旨を述べ、同公使をして直ちにこれを本国政府に電報せしめておきたれば、今はただ一日も早く詳報を得んことを望めり。その後各所より戦時実地の確報続到し、かつ当時わが軍艦のために救出せられたる高陞号船長以下の外国人はすべて佐世保鎮守府に到着したるにより、政府は七月二十九日をもって法制局長官末松謙澄を該鎮守府に派遣し、親しく右外国人等につき事実取調べなさしめたり。すなわち末松がその取調べの結果を余に報告したる概要を挙ぐれば、沈没船は高陞と号し英国船籍に属しその持主は印度支那汽船会社なり、同船には清国砲歩将卒千百人乗りこみその他多の大砲弾薬を搭載しほかに旅客の名義をもって独逸人フォン・ハンネッケンあり、本船は清国政府の雇船となり大沽より清国兵およびハンネッケンを搭載して朝鮮国牙山に至り揚陸せしむの命令を受けおれり、高陞号の大沽を出帆したるは七月二十三日なり、同船長の言によればその前後清国軍隊の運送船八隻はおのおのの封書命令を奉じて大沽を発したりと、下官は高陞号もまた封書命令を齎したるものと信ずべき理由を有す。高陞号は七月二十七日(実際には二十五日)の早天、豊島近傍においてわが軍艦と清国軍艦との間においてすでに開戦ありたるのち二時間を経てわが軍艦浪速に出空いたり、該船長はすべて浪速の命令に依従することを諾したるも船内の清国軍官はこれを許さず、ゆえに該船長はすべて自由の運動を妨げられたり、浪速艦長はこの軍機倥偬の間においても高陞号が英国旗章を掲げるのゆえをもって談判往復に長時間を費やしたるは注意周到なりしを証するに足る。また高陞号の持主と清国政府の間との間にいかなる関係あるや未だその詳細を得ざれども、種々の事情より推察すればけっして尋常一様の通運業の関係に止まらざるを信ずべき理由あり、下官の切実なる質問に対し該船長が書面に記したるところによるも、該船は清国政府が雇用し、もし航海中に開戦におよぶときは直ちに同船をもって清国政府に引き渡し乗組員は悉皆その船を去るべしとの契約ありしこと明白なり、といい、而して末松はこの報告書の末文において、「以上は下官が調査したる事項の要領とす。関係書類はこれを別封とし斉しくこれを閣下に呈す。本件に対し万国公法上わが浪速艦長行為の当否如何は下官がここに論述すべきところにあらずといえども、これを要言すれば、前に挙ぐるところの事実なるをもってその行為の失当にあらざることはいやしくも公平を持する批評家の疑わざるところなるべし」との意見を加えたり。この取調書の事項はあたかも追い追いに海軍当局者より接受したる確報と符合せり。ここにはじめて高陞号砲撃の事件もようやく明瞭となるに至れり。