2016年7月15日金曜日

20160715 はじめての原稿 芸の肥やし・・? 

本日は朝から頭が痛く、往生しました・・。
薬を服用し大分楽にはなりましたが、現在なお多少痛みが残っております。

とはいえ、これまで継続してきたブログ記事作成を中断することもまた、自身にとっては痛いことであるため記事の作成をはじめました・・(苦笑)。

さて、昨日のブログ閲覧者の傾向を見てみますと、大変面白いことに、既に私が寝入った後での閲覧が多く、結果的に通常の平日よりも大分多い閲覧者数(800~1000)となりました。

また、ここでの閲覧者の多くとは、時間帯も時間帯であるため、時差のある海外(特にアメリカ合衆国)の方々が多く、読んで頂いたことに対し感謝すると同時に「一体私の書いたブログ記事がどのように読まれているのだろうか?」といった疑問もまた生じてきました・・。

とはいえ、一連のブログ記事において、特にアメリカ合衆国を(感情的に)論難、非難したことはないと考え、また個人として特に同国に対し悪感情を持っているわけでもありませんので、引き続き興味を持って読んでくださることを願うばかりです。

読んでくださっている国内外の皆様、どうぞよろしくお願いします。

さて、私がはじめて何かしらの記事を書くということになったのは在和歌山時代からのことであり、以前ブログの記事にも記した「紀州鉈について」という記事、文章が自分の書いた文章で何かしらの報酬を頂いた、はじめての経験であったことが思い起こされました。

また、その時の報酬でJR和歌山駅前にある近鉄百貨店にて(私としては)多少高価なハンカチを購入し、実家の母親に誕生日プレゼントとして贈りました。

その後も在和歌山、鹿児島時代を通じ、必要に応じ、さまざまな文章を作成しましたが、現在継続しているブログ記事の作成ほど長期間にわたり、文章、記事を作成したことはありませんでした・・。

「芸は身を助く」などといわれますが、イマイチよくわからないのは、現在記しているこのブログ記事とは、何かしら「芸の肥やし」になっているのだろうか?ということです・・(苦笑)。
(それ以前に私の芸とは一体何であろうか・・(笑)。)

しかし一方、そのように何かしら能動的な(多少は有益と思われる)行為といったものを継続していないと、何も良いことは生じないとも思われます。

卑近な具体例として、これまでブログ記事を継続して作成したことにより、私としては望外に多くの閲覧者数を得ることができました。また同時に、それがこれまで記事を書き続けることが出来た主な理由であるともいえます。

この場合、どちらがニワトリ、タマゴであるか考えた場合、はじめにあったのは能動的なブログ記事の作成・投稿であると思われます・・。

それ故、「はじめにコトバありき」からはじまる新約聖書のヨハネによる福音書の一章一説とは、なかなか深い意味があるのかもしれません・・。

さて、先日電話にて知人と話し、その中で「もちろんAさん特有の文体はありますよ・・多少古めかしい感じがしますけれど・・。」といわれました。
私見として、自身の文体というものは、なかなかその特徴を言語化して表現することが難しいのですが、不思議なことに、他者のそれに対しては、比較的容易に表現、評価することが出来るように思われます・・。
こういった我々の持つ性質といったものもなかなか興味深いと思われますが如何でしょうか?

また、以前ブログ記事にて記したことではありますが「自身の文体を獲得する経緯、契機とは、比較的明瞭に認識することが出来る。」と、たしか中井久夫がその著作内にて述べておりましたが、これは本当なのでしょうか?
こうしたことが未だによくわかないままにてブログ記事を作成しておりますが、そのうち、案外近い将来、分かってくるのではないかと思います・・。
また、不思議なことに、ここまで記していると、さきほどよりも多少頭痛がおさまってきたように思われます・・。

そして、これを興味を持って読んでくださっている皆様、どうもありがとうございます。
また、先日の九州での大雨における被害が少なく、さる四月における大地震からの復旧、復興作業に支障がないことを祈念しております。」

20160714 パリ祭の日に思ったこと・・理系諸学問と歴史・文化・伝統

A「本日は不図フランスの革命記念日であることを思い出しました。

私は日本人であるため、フランスの革命記念日に対し、特に大きな感動、思い入れ等はありません。

しかし、それでも近代を特徴づける、民主主義なる政体が、この革命を契機として生じ、定着し、そして全世界に広まっていったということは、やはり世界史的な視点から見て意味があることなのではないかと思います・・。

しかし、そうであるからといって、我が国の皇室が18世紀末のブルボン王朝のようになることは決して望みませんが・・。

それ以前に、我が国においては、そのようなことはないと思いますが・・。

何れにせよ、それぞれの国には各々独自の歴史的発展の型、特徴、モデル、クセのようなものがあり、また、その基層にはその国特有の文化、伝統といった、より日常的な存在があり、それらは、敢えて(世界的に見て)普遍的とされる原理、原則なるものを当て嵌め、全て対応、考察できるものではないと考えます。

さらに進んで云うと、こうしたこと(一国の長く続いた文化、伝統)を、理系学問分野の背景、基層にある普遍的とされる科学的諸概念、法則などを用い考察そして何らかの決断を為すことは、大変危険なことではないかと思われます・・。

また、その意味において社会主義、共産主義そしてその背景にある社会科学的な思想もまた、有益な要素を含むと同時に危険なそれもまた少なからずあるのであるのかもしれません・・。

とはいえ、現在の我が国の社会に関しては、全世界的に見受けられる、よくわからない方向に行ってしまった感のある資本主義、個人主義、功利主義的な思想よりも、さきのような人文社会科学思想の方が「社会を良くする」という意味においては有効な部分が多いかもしれないと思うことも度々ありますが・・(苦笑)。

とはいえ、こうしたことは、ハラを決めても断言することが困難であり、理系学問での実験結果にように(ある程度条件を限定すれば)歯切れの良い物言いが出来るというわけでもありません・・

しかし、であるからといって、手持ちの歯切れの良い理系的、科学的な発想、論理に則り、社会変革を(どこまでも)行ってゆこうとすると、さきに述べたように危険な社会状態を惹起させることが多いのではないでしょうか?

その意味において、昨今特に首都圏、都市を中心において見受けられる理系学問分野の圧倒的優位とは「果たしてこれでいいのであろうか・・?」と考えさせられます。

そして、理系諸学問の対極にあるものが、国、地域に固有なものとして存在する(ホンモノの)文化、伝統といったものではないでしょうか?

我々の国、地域固有の文化、伝統とは、西洋流にアレンジしたり、横文字で飾ったりしなければ、カッコが悪く、あるいは不味くて飲み下せないものばかりなのでしょうか・・?
そして、もし、そうであるとすれば、そこには一体どのような理由があるのでしょうか?

九州方面にて大雨が降ると聞きました。

この大雨による被害が少なく、そして四月に被災した熊本を主とする地域での復旧、復興作業に支障がないことを祈念します。

また、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。」