先日、不図、熊本県熊本市に出自を持つ木下順二が何かに記していた「その昔の熊本士族とは、川(白川?)の土手に生えている草という草の類を、各々その持ち区分を定め、それを食べ尽すという伝統があった。」という内容を想起しました。
こうした伝統とは、南隣の国に在住していた私が想像する当地(熊本)の伝統、文化、風習と合致するものであり、また、森鴎外の「阿部一族」とは、この地の出来事であることもまた、私としては同様にそれらと合致するものでした。
さらに「石光真清の手記」もまた、多く当地を舞台とした大変興味深い歴史資料ではないかと思います。
これらの書籍と併せて、ここ最近私のブログに頻出する野上彌生子著の「迷路」などを読んでみますと、熊本と大分で背景とする地域文化が異なるものの、当時の我が国社会の一側面が活き活きと脳裏に浮かんでくるのではないかと思いますが如何でしょうか?
A「これまでにある程度の期間ブログ記事の更新を継続して行ってきましたが、一般的にブログの記事とは、自明のことではありますが、その読み手を不特定多数に設定しております。
そうした事情から、ブログ記事の文章とは、ある特定の学問分野を専攻している方々を読み手として想定したような文章を書くことは望ましくないとも考えられます。
その一方において、ブログ記事を作成する場合、ある程度、その読み手、対象を想定する必要性があるともいわれます。
こうしたことには、矛盾があるのではないかとも思いつつ、記事の更新を継続して行ってきた結果、どうにか作成したブログ記事が300に近づいてきました。
これは、単純に読んでくださる方々がい続けてくださったお蔭であるといえます。
どうもありがとうございます。
まだ300記事までに20記事以上ありますが、今後も出来るだけ更新し続けようと考えておりますので、これまで興味を持って読んでくださっている皆様、今後もどうぞよろしくお願いします。
とはいえ、ここまでの記事更新により、私の書く文章、文体とは、多少なりとも向上したのでしょうか?
そして、もしもこれまでの一連のブログ記事の更新により、文章、文体の向上が認められないのであれば、それは生産的な行為と見做されず、ひいては無意味なものとされるのでしょうか?
しかし、それと同時に「人間とは様々な経験を積まねばならない。」とも広くいわれます。
このことは「人間とは本質的に経験したことしか理解、認識できない。」ということが前提にあるのではないかと考えます。
そして、その経験を通じての物事の理解、認識とは、我々の五感あるいは六感を通じてもたらされます。
その意味において、何らかの訓練、修練を必要とする学問、スポーツとは、類似、共通したものであるということができるのではないでしょうか?
また、こうしたことを具体的に考えた場合、未経験という同じ条件にて、同じ訓練、修練を積んだ場合においても、その上達の程度とは、人により随分異なってくることが多いのではないかと思われます。
では、こうした現象とは、何故生じるのでしょうか?
おそらくそれは、当人の「やる気」それに伴う「努力」などといった精神的な要素に大きく依存しているのではないかと思います。
そして、さらに具体的に、それ(精神的な要素)とは、現今において経験しつつある訓練、修練に対し結節し易い、あるいは動機付けともなる「過去において何かしら類似した経験を持つ」ということが大変重要なのではないかと考えられます・・。
このことは、自身の経験から、ある程度妥当性を持った意見ではないかと考えます。
さらに、こうしたことは、巨視的に見て、様々な文化、文明の発展の仕方などにおいても同様なことがいえることではないかと考えられますが、如何でしょうか?」
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。