2017年6月8日木曜日

20170608 『思考モデルの援用』『本歌取り』創造のために必要なものとは・・?

先日6月2日投稿分記事の『ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで・・M2病の妄想?』は、どうしたわけか投稿後数日を経た現在に至るまで読まれ続けております。

これには何か深い意味があるかは分かりませんが、それでも自身からしますと、書籍からの抜粋引用およびその援用ではなく、まあ『本歌取り』のようなカタチではあり、また、これまでとは多少趣向を変えて作成した文章が比較的多くの方々に読まれていることには、何かしらの『意味』はあるのかもしれません・・。

これは、今後引き続きある程度記事作成を行うことによって、あるいは、その『意味』といったものを明瞭化、言語化することが出来るようになるのかもしれません・・(笑)。

また、そのようなことを書いておりますと、つい先日5日の投稿記事『文章を作成する際のフィラー(充填材)とマトリックス(母材)帰納と演繹?』において『思考モデルの援用』について書きましたが、多少大雑把に考えてみますと、さきの『本歌取り』と、この『思考モデルの援用』とは意味合い的に類似しているのではないかと思われたのですが如何でしょうか・・?

そして、そのように考えてみますと、さきのブログ記事に書いたように、こうした文章であれ、何かしらの作品であっても、それが形式、内容の全てにおいてオリジナルというものを創造することは困難であり、また同様に創造されたもののどこからがコピーであり、どこからがオリジナルであるのかとは、その明瞭な判断もまた困難ではないかと思われるのです・・。

また、我々の現実的な経済活動、競争とは、さきに述べた『思考モデルの援用』『本歌取り』さらに平たく云えば『真似』そして、それに加えた幾ばくかの改善の連鎖、応酬により為されていると云っても良く、こうしたことはさまざまな研究においても同様ではないかと思われます・・。

また、漸進的な進化発展とは、概ねそのような感じで為されていくのが通例ではないでしょうか?

しかしながら、昨今においては、さまざまな事物の作成・製作技術の進化発展により、以前に比べかなり容易に『新たな』事物を作成することが出来るようになりました・・。

そして、そうした事情により経済活動・研究などでの競争(連鎖、応酬)も激化し、どうにも収拾がつかないことから、著作権・知的財産などが声高に叫ばれるようになってきたのかもしれません・・。

とはいえ、そうした規制的な傾向が強まっても、我々の創造活動全般が鈍化しなければ良いのですが、果たして、その先には如何なる展開が待ち受けているのでしょうか・・?

ともあれ、何れにせよ、それを制御することが出来るのは、おそらく技術あるいは法律的な規制などではなく『生きた思想・哲学あるいは固有の歴史・文化』といったものではないかと思われるのですが、さて、如何でしょうか・・?

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。









20170607 本日久しぶりに野球観戦をして思ったこと・・

A「本日は仕事も兼ねて朝から神宮球場に行き、野球を観戦しました・・。

野球観戦はかなり久しぶりではありましたが、途中、野球部のOBでもあり文系院時代の知人に、これまたかなり久しぶりにお目に掛かり、しばらくお話をすることが出来ました・・。

それは、あまり強くなかった野球部がどのような経緯を経て強くなってきたかという内容であり、説明する彼は至って冷静な様子で話されてはいましたが、それを聞いていた私は途中、先日読んだ柔道を題材とした小説と何かしらリンクする、重なるものを見出しました・・。

ちなみにその説明してくださった方は、院生時代より『文武両道』というコトバを重視されていたと記憶していますが、大変面白いことに、この傾向とは、歯科理工学の師匠においても類似したものが見出され、そのことから師匠自らが先頭になり、弟子共を引き連れ山登りをされることが多々あったのではないかと思われます・・。

また師匠の方は高校時代サッカー部に所属されていたとのことであり、あるいは後年の山登りにおける健脚ぶりとは、この当時に培われたものであるのかもしれません・・。

さて、昨今の御時世においては、さまざまな面においてそうであるのかもしれませんが、運動もしくは勉強といった、どちらかに特化し練習、強化する方が、その特性、才能を効率よく伸ばすことが出来るという考えが一般論になりつつあるのではないかと思われます。

そしてその一方で、さきに挙げた文武両道的なハナシを聞いたり、また思い出したりしますと、果たして我々人間とは、何かに特化して効率よく才能を伸ばす方が良いのであろうか、あるいは幸せなのであろうか?とも考えさせられるのです・・。

とはいえ、こうしたことは、おそらく欧米においては、かねてより議論され続けたことであり、先日抜粋引用したミルの著した文章もまた、その背景には、こうした大きな疑問があったのではないかと思われるのです・・。

そして、欧米においては、こうした議論の際に多く出てくるのが『一般教養の重要さ』であるのですが、近代以降の我が国の場合、後発工業国という事情もあってか、どうも一般教養の重要さといった議論が出てくること自体が少なく、またそれ以前に『その一般教養とは何であるか?』といったことにおいても、実はコンセンサスはないのかもしれません・・(これも近代以降に欧米化を遂げた我が国としては難しい問題であるのかもしれませんが・・)。

ともあれ、では『一般教養』と、さきの『文武両道』がどこで結節するのかと考えてみますと、それは根源における『能動性』ではないかと思われます・・。

またそれを異言しますと『自らの内からの力によって、元からのセンスの良し悪しはともかく、何を選び、そしてどのようなことを行ってきたか』ということではないでしょうか・・?

そして、それを自らの内からの力によって行うその根源には、何かしら思想、哲学(思い込みかもしれないが・・)といったものがなければ疲弊、枯渇してしまうのではないでしょうか・・?
(その意味では、現在の社会とは過度に科学的ともいえ、思想、哲学あるいは思い込みを抱き難い社会であるのかもしれません・・)。

無論、こうしたことは自身のブログについても同様であり、ある意味これを継続して作成していることとは、そうしたことの自問自答の一形態であるとも云えるのです・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被害を受けた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」