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2018年5月24日木曜日

20180524 人文社会科学系学問の価値について (インターネットおよび端末機器の普及から)

本質的には自然科学系であろうと人文社会科学系であろうと各学問領域間には上下関係、ヒエラルキーはないと云えます。しかし一方、世間一般においては、こうしたものは厳然と存在し、現在であれば医学部医学科がこのヒエラルキーの頂点にあると云えます。

また、そうした状況から波及してか、近年においては特に医療領域学部・学科の人気も高まり、これが以前に述べた今世紀以降顕著になった四年制看護学部・学科の新設・増設の背景にある潮流と云えます。

その一方で、もう一つ顕著なことは、人文社会科学系領域の衰退であり、無論、その背景には現在進行中の少子化もありますが、それと同時に特に実学的要素が少ないとされる思想・哲学、文学、歴史などといった原理的な人文社会科学系領域の衰退とは、おそらく今後数年の後、何らかのカタチでツケが来ることが予測されます。

とはいえ、近年のインターネットの普及、端末機器の進化発展により、以前と比べ、我々は膨大な知識・情報量を即座に検索し知ることが出来るようになりました。この一連の出来事は15世紀欧州における活版印刷技術の発明にひけを取らないものであると云え、おそらく、こうした環境の形成が為されていなければ、現今我々が関心を寄せている、さまざまな社会での出来事に対しあまり関心を持つこともなく、またそれだけに、社会はある意味において平穏であり続けたのではないかと思われます・・。

このように即座に運用可能な知識・情報量が膨大なものとなれば、精神もしくは頭脳に知識・情報をインプット(内在化)する作業としての学習に価値を見出すことが困難になるのかもしれませんが、人文社会科学系学問の価値の神髄は、おそらく運用可能な内在化された知識・情報量を増やし、社会的有用性の高い人間を育成することだけではなく、知識・情報のインプット・アウトプットを能動的に継続して行うことが出来る人間を育成することが主であると考え、本来動物でもある我々人間は、この過程によってのみ、より不可逆性の強い進化(変化)をすることが出来るのではないかと考えるのです・・。

あるいはこのことを言い換えますと、インターネット検索により簡便に知り得た知識・情報は、おそらくその後の定着率が低く、もしくは精神に埋入される深さが浅いことから、その後の活動に寄与・関与することは乏しく、他方、能動的に知識・情報のインプット・アウトプットを継続していますと、そこで知り得た知識・情報はより精神の深いところに埋入され、そして同時にその後の持続可能性もまた担保され得るのではないかと思われるのですが、さて如何でしょう・・? 

そのように考えてみますと、将来安定して貨幣を得やすい学問領域に人が集中するのは仕方がないことであるのかもしれませんが、一方で社会全体がそうした考え方を肯定するようになってしまいますと、その後の社会全体の劣化が著しくなり、持続可能性や創造性もまた損なわれていくように思われるのです・・(あるいは現在がまさしく、そうした時代であるのかもしれません・・。)。

そしてまた、こうしたことを考える際に有効と思われるものは頭脳・精神に定着、深く埋入され、さらに血肉化し、自在に用いて考えることが出来るにまで至った思想・哲学、文学、歴史などの知識・情報であると考えます(これはおそらく付け焼刃は出来ません、自然科学系のそれと同様に・・)。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前から現在に至るまで日本列島において発生した、現在も継続している大規模自然災害によって被害を被った、諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


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ISBN978-4-263-46420-5













2018年5月12日土曜日

20180511 新たな種類の高等教育機関の出現により・・昨日の続き

おかげさまで昨日投稿分記事もまた、多くの方々に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。専門職大学につきましては、今後、少なくとも、これまで以上には一般化すると思われますので、既存の諸大学と如何なるカタチにて併存していくのかが興味を持たれるところです。

あるいは既存のある程度伝統・知名度を有する大学が、これまでの学部・学科編成に加えて専門職大学をも擁するといった事態が生じる可能性もまた、あるのではないかとも思われます。

くわえて、現在のところ来年度新設予定の専門職大学の運営母体は私立のみですが、今後、こうした流れに国公立大学も何らかのカタチにて参入してくるといった事態が生じるのではないかとも思われます。

思うに『少子化が進行しているこのご時勢において、何故、新たな種類の高等教育機関が設立されるのか?』と考えてみますと、それは産業・実業界側からの要請もあるとは思われますが、それと同時に、これまであまり競争に曝されてこなかった、ある程度の伝統・知名度を有する大学に対しての強力な競争相手として、この新たな高等教育機関の創設が企図されたようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

おそらく、この新たなタイプの大学の出現により、少なからずの大学は、その学部・学科編成から運営方針に至るまで、変革を余儀なくされることになると思われますが、それは旧弊墨守とも云える状態から抜け出し、新たな段階への発展のために有意義且つ不可欠な経験にもなるとも考えられます(これも既成事実への屈服ではありますが、否定ばかりもしていらません・・)。

しかし一方で、専門職大学の出現により、就職後に焦点を当てた教育を施す一方で、保持した方が良いと思うことは、各学生が能動的に興味を持ち学び続けることが出来るような教養系学問を大事にすることであると考えます。

このことは(本当に)一見無駄であるように思われますが、この時に掴むことが出来た能動的な駆動力は10年、20年後になって効いてくると思われるのです・・。おそらく我が国の徹底した此岸性への志向は、このことをどうしても軽んじてしまうのかもしれません・・。また、これまた以前に述べたことではありますが、それは、近代以降の我が国政体の耐用年数がおよそ70~80年程度であることとも何かしらの関連性があるようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

ここ数年間、現在までに日本列島において発生した、現在も継続して発生している、さまざまな大規模自然災害によって被害を被った、あるいは今現在も被害を被っている地域の諸インフラの回復そしてその後の復興を祈念します。


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2018年5月11日金曜日

20180510 新たに創設される専門職大学について思ったこと

来年、平成31年度より国内各地にて専門職大学という新たな種類の高等教育機関が創設されるとのことです。
それら専門職大学のHPを見ますと、圧倒的に医療・福祉関連領域のものが多いことから、既存の同領域大学・学部・学科と比べて何処が異なるのかと思い、文科省のHPを見てみますと、以下のことが記されていました。

『従来の大学は、専門教育と教養教育や学術研究を併せて行うという機関の性格から、比較的、学問的色彩の強い教育が行われる傾向にあります。 専門職大学は、特定職種における業務遂行能力の育成に加え、特に、企業での長期実習や関連の職業分野に関する教育等を通じ、高度な「実践力」や豊かな「創造性」を培う教育に重点を置く点で特色があります。また、長期の企業内実習などを含め、教育課程の開発等を産業界と連携して行う、より実践的な教育を行う仕組みとなっています。』

つまり、専門職大学は、既存の大学におけるような、どちらかと云えば閉鎖的な学究ベースの教育とは異なり、より実業各界との連携を強めた実践的な職業ベースの教育を行う高等教育機関であると云えます。とはいえ、特に医療・福祉分野においては、これまでも概ね後者(
職業ベースの教育)に近い教育が行われていると思われ、それは多くの大学病院と医学部・歯学部・看護学部などの立地を見ても理解することが出来るのではないでしょうか?

また、こうしたことを考えてみますと、新たに創設される専門職大学が主に医療・福祉関連領域であることが自然に理解され、さらに今後、他分野の専門職大学が創設される場合、医療・福祉分野のそれがモデルとされることが予測されます(すべての分野で上手くいくとは思われませんが、いくつかの分野ではそれなりに成功するのではないかと思われます(特に自然科学系))。

さらに、ここまで書いて想起したのは、先日読了した吉見俊哉著『大学とは何か』pp.13‐14の以下の記述です。


『19世紀以降、大学は国民国家の、そして帝国の知的資源の主要な供給源に位置付けられ、人材育成と研究開発の両面で国家の支援を受けながら総合的な高等教育研究機関として華々しい再生を遂げるのである。その嚆矢がフンボルト理念に基づくプロイセンのベルリン大学であったことは余りにも有名だが、ベルリン大学誕生は、フンボルト一人の天才によるのではなく、カント、シラー、フィヒテ、シェリングといった18世紀末から19世紀初頭にかけての疾風怒濤の時代のドイツ啓蒙主義者たちの知的潮流と不可分の関係をなしていた。
この近代の大学再生の原点に位置するカントは、大学を成り立たせる主要学部のうち、神学部、法学部、医学部の三つを『上級学部』、哲学部を『下級学部』と名付け、下級学部が理性と真理だけに従い、『みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由はもたないが、すべての命令を判定する自由を持つ』ことを擁護した。カントによれば、神学や法学、医学などは大学が国家にとって有用なものであるために必要であり、哲学は理性のために、つまり真理そのもののために必要である。大学が大学であるためには、両者の間に緊張感ある対抗関係が存在しなくてはならず、どちらか一方があればいいというものではない。』


我が国は実質的に無宗教であり、欧米諸大学におけるほどの神学部の重要性は認められないと思われますが、他の上級二学部(法学部・医学部)に関しては、たしかに、その扱う領域が、半ば国家とは独立していると云えます。とりわけ医学は、それが実社会での実践・探求によって洗練され、より大きな重要性を持つに至った領域であると云えることから、(各種情報・知識の入手が容易になった)現在、この領域での実践的な職業ベースの教育を行う新たな高等教育機関が創設されることは、時宜に叶っていると思われます。

しかし一方で、抜粋引用文中にて述べられていた哲学部の役割(すべての命令を判定する自由を持つ)を我が国既存の人文社会科学系大学・学部・学科が今後も担い続けることが出来るのであろうかとは、いささか疑問に思われるところです・・。

そしてまた、そうしたことを書いていますと、これまた以前に抜粋引用した司馬遼太郎と江崎玲於奈による以下の対談が想起されます。

『江崎 試験の話に戻りますと、日本の試験制度はたしかに創造的にものを考える人間には不向きだと思います。しかし、それは日本が創造性を必要としない社会だからでしょう。考えようによっては、これで日本人がクリエイティビティをもったらとんでもないことになるし、あんまり繁栄し過ぎるんじゃないですか。(笑)

司馬 国立がみな同じ入試形態でやっているのはおかしいですね。つまり東京大学はそうだけれども、京都大学は違う方法でやる。数学が出来るやつは全部入れちゃうとか、数学ができなくても、おまえはこういう方面の才能が伸ばせるような席だけは与えてやるとかいうことがないでしょう。全部画一です。どういう民族をつくるつもりでそうするのか、よくわからない。いま、一番の秀才の集まるのは医学部だそうですね。医学進学コースは平均七〇点ぐらいとらなきゃ入れない。医者が重んぜられる社会は無目的社会といえませんか。医者になるというのは、生活の安定を望むというだけが目的の場合が多いから、それだけエネルギッシュな秀才少年たちの志としたら、どうしようもない。ところがいま優秀な少年の志がまさにそれでしょう。

江崎 全国画一の試験が実施できる国だということは、逆にいえばメリットの一つでしょう。日本は創造性をあまり必要としない国であってよいのかもしれません。金をため込むことが目的だったら、金をため込むこと自体に快感を感じればいいわけです。だけど金色夜叉みたいになってしまう・・・(笑)。

司馬 知能の限り傾けて金をためる。一種の復讐かな。(笑)

江崎 戦争に負けた復讐かもしれませんよ(笑)。日本は戦争に負けて、もうだめになるかもしれないと思われたのに、経済を復興させたうえ、経済進出を三十年かけて成し遂げた。その実績から言えば、日本人は今後もかなりの難問題でも、実行能力にものを言わせて何とか切り抜けるでしょう。しかしそのような行き方には限界がありますね。戦争という形ではカタストロフィーは起こらないでしょうけれども、抽象的な意味で日本沈没が起こる可能性はなきにしもあらずではないでしょうか。それはどういうことかといいますと、カタストロフィーに向かったときにブレーキをかける社会的な力が弱いということです。』

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

ここ数年来より現在に至るまで日本列島各地において生じた、現在も継続し生じている、さまざまな大規模自然災害によって被害を被った地域の諸インフラの復旧および復興を祈念します。
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2018年5月3日木曜日

20180503 岩波書店刊 バートランド・ラッセル著 安藤 貞雄訳 『ラッセル教育論』pp.50‐52より抜粋引用

岩波書店刊 バートランド・ラッセル著 安藤 貞雄訳
『ラッセル教育論』pp.50‐52より抜粋引用
ISBN-10: 4003364929
ISBN-13: 978-4003364925

『近代の日本は、あらゆる大国に顕著に見受けられる一つの傾向を最も明瞭に示しているーつまり、国家を偉大にすることを教育の至上目的とする傾向である。日本の教育の目的は、感情の訓練を通じて国家を熱愛し、身につけた知識を通じて国家に役立つ市民を作り出すことにある。この二重の目的を追求する際に示された見事な腕前は、いくら称賛しても足りないくらいである。

ペリー提督の小艦隊が到来して以来、日本人は、自己保存が非常に困難な状況に置かれてきた。自己保存そのものがけしからぬと考えるのでないかぎり、彼らがそれに成功した以上、その教育方法も正しかったということになる。

しかし、彼らの教育方法は、絶望的な状況にあったからこそ正しかったのであって、どんな国民であれ、差し迫った危機にさらされていない場合はけしからぬものであっただろう。
神道は、大学の教授さえも疑問をさしはさむことを許されないもので、そこには『創世記』と同じくらい疑わしい歴史が含まれている。日本の神学上の圧政に比べれば、デイトン裁判も顔色を失って、些末なものになってしまう。これに劣らぬ道徳上の圧政もある。

たとえば、国家主義、親孝行、天皇崇拝などは疑いをさしはさんではならないものであり、したがって、さまざまな進歩がおよそ不可能になる。この種のがんじがらめの制度は、唯一の進歩の方法として革命を誘発しかねないという大きな危険をはらんでいる。この危険は、いますぐというわけではないが、現実のものであり、主として教育制度に起因しているのである。

 このように、近代の日本には、古代の中国の欠点とは正反対の欠点が見いだされるのである。中国の知識階級があまりにも懐疑主義的で怠惰であったのに対して、日本の教育が生み出した人間は、あまりにも独断的で精力的になるおそれがある。

懐疑に黙従することも、独断に黙従することも、教育の生み出すべきものではない。

教育が生み出すべきものは、たとい困難ではあっても、知識はある程度獲得できるのであり、どの時代においても、知識として通用しているものは多少とも誤っている見込みがある。その誤りは注意と勤勉さによって正すことができる。という信念である。

信念に基づいて行動するにあたっては、ささいな誤りが災害を招くおそれのある場合には、きわめて慎重でなければならない。にもかかわらず、私たちは、まさに信念に基づいて行動しなければならないのである。

こういう心的態度は、かなりむずかしいものである。なぜなら感情を委縮さえることなく、高度の知的教養を持つことを要請されるからだ。しかしむずかしいとしても、不可能ではない。それは、まさに、科学的な気質というものである。知識は、他のよきものと同様、身につけるのは困難ではあっても、不可能ではない。独断論者はそのむずかしさを忘れ、懐疑論者はその可能性を否定する。両者は、ともに誤っている。そして、その誤りが世にはびこれば、社会的な災害が引き起こされる。』

2018年4月24日火曜日

20180423 主に書籍からの抜粋引用 岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学とは何か』より

先日より読み進めていた新書も去る土曜日に読了しました。その著作は岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学とは何か』であり、読んでいる際に何度か読み進むのを止めて考えさせられました・・。
これまで当ブログにて述べてきたことではありますが、自身は元来が人文社会科学系の人間であり、そこから、高等教育において教養教育を大事にした方が良いとは考えているのですが、しかしそれは、現在の我が国においては困難であるように思われるのです・・。

おそらく現在の大学が持つ一般的な傾向は、将来において役立つ専門的知識の獲得に主眼が置かれ、また、それはそれで正しいとは考えるのですが、ただ、それのみに、いくらか近視眼的にピントを合わせ過ぎているのではないかとも思われるのです・・。

しかしまた、他方で、少子化が進み、学生数全体が減少している昨今の状況においては、大学においても、市場をめぐる企業のように、何か一つの顕著な傾向・動きが生じると、それを基軸として競争のようなものが否応なく生じ、そして、その中で孤高を保つことは実質的に困難であると思われますので、仕方がないのかもしれませんが・・。

そして、そのように考えてみますと『では大学とはそもそも一体誰のものか?』といった根本的な疑問が生じてくるわけですが、それについて面白い記述がありましたので、以下に抜粋引用しようと思います。

岩波書店刊 吉見俊哉著 『大学とは何か』pp.235‐236より抜粋引用
『この半世紀に及ぶ大学改革で問われ続けたのは、「大学はだれのものか」という問題だった。かつての帝国大学では、この問いへの答えは明白だった。大学は国家のためのもので、それはすなわち天皇のためのものだった。新制大学で、当然ながらこの前提は否定された。それでは戦後、大学は「国民のため」のものになったのか。しかし、戦後の大学を特徴づけてきたのは私立大学の利益目的の大拡張であり、理工系の規模拡大であった。
その結果、大量の品質保証された「会社員」や「技術者」が養成された。つまり戦後の大学が貢献したのは、経済成長に突き進む企業社会であった。それなら大学は、「天皇」のものから「企業」のものになったのか。しかし、他方で大学は、企業が求める有用性からはずれる教養知を保持し続けた。そのような知を擁護してきたのは大学教師たちであったから、大学はその教師たちのためにあったことになるのだろうか。彼らは、国家という主人が消えた大学で、自ら主人となったのだろうか。

六〇年代末の学生の叛乱は、これらのいずれとも異なる仮説を立てた。彼らからすれば、大学は学生のもの」だった。
たしかに、バリケードのなかの「もう一つの大学」は、学生たちのものであった。しかし、四六答申も、永井の公社化構想も、大学を学生たちのものだとは考えていない。学生は大学の不可欠の担い手だが、大学は彼らだけのためにあるのではない。学生が大学の主人であるとすると、かつての「闘う学生」の時代はともかく、八〇年代の「消費する大学」の時代には、大学は移り気な消費者のためのサービス財になってしまう。

だから大学が、単に国家のものでも、産業界のものでも、教師たちのものでも、さらには学生たちのものでもないとするならば、大学はいったい誰のものなのか。

すでに見たように、カントやデリダ、あるいは南原繁など、近代的大学概念の転換点に直面した思想家たちは、この問いに一定の答えを与えてきた。彼らが主張したのは、何らかの人類的普遍性である、大学はこれまでも何度かの危機に際し、目前の関係者の利害を超える普遍的な価値を標榜してきた。そして中世から近代への境目、あるいは現在のように、この価値への信憑が失われるとき、大学は重篤な危機に直面してきた。

この普遍的な価値への志向を保持し続ける限りにおいて、大学は完全には法人になりきることができないが、しかし法人としての大学は、そのような価値を顕示し、それに支えられるのでないと、どこにでもある知識サービス産業と変わらないものになってしまう。社会に適合した法人の持続可能なマネジメントと普遍的価値への奉仕、この両面を未来の大学はいかに組み合わせていくべきだろうか。』


さて、なかなか考えさせられる文章ではないでしょうか?

ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

近年来より現在に至るまでに列島各地にて発生した、あるいは現在も継続して発生している地震・大雨・水害・火山噴火などの大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念しています。


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2018年3月16日金曜日

20180316 昨日の続き『個人の心情と、ある程度普遍的な思想の間にあるものの重要性について』マトリックス?

本日の首都圏は天気は終日雨模様でしたが、気温は以前に比べて寒くはなく、病み上がりの自身としてはそこまでひどい一日ではなかったように思われました。

とはいえ
、未だ体調が本調子ではないことから、本日も出来るだけ記事作成を早めに済ませて休もうと考えています・・(笑)。さて、昨日は体調不良の中、記事作成を行ったにも関わらず多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

また、そこで述べた『ある程度普遍性を持つ思想・哲学と、個人の心情との中間にある文章とも云える文学とは、おそらく理系・文系問わず、おそらく文字・文章を用いる全ての学問分野においてマトリックスとなり得る重要なものではないか?』ということは、あながち間違いではないものと考えますが、如何でしょうか?

そして、そのように考えてみますと、以前関与した歯科衛生士の教養科目の一つに和歌・短歌があったことは、当時は『この科目が歯科衛生士の職務の何に役立つのか?』と疑問を抱いていましが、さきのハナシより敷衍してみますと、それはそれでスジが通っているようにも思われるのです・・。

また、そう考えてみますと自身が文系院以来より読んでいる谷川健一の著作の多くに南九州・沖縄の民俗文化が記されていることにも、ある種の必然性のようなものがあったのではないかと思われてくるのです・・(笑)。

ちなみに、当ブログも含めて自身の作成する文章に対して『昔っぽい・古めかしい』といった評価を頂くことが時折ありますが、このことも、全く卑下するわけではなく、自身が南九州に在住したことに端を発するものと考えます。

そしてまた、そのように考えてみますと、日本語とは、全般的にその語彙の多くが南方アジアに求められ、それに対して文法は北東アジアにあるといった、ある程度一般的な見解にも整合性を見出すことが出来るようにも思われるのです・・。

これは今現在ではあくまでも感覚的なことではありますが、今後も何かしら書き続けることにより、もう少し明瞭に分かるのではないかと考えます。

また、それに多少関連すると思われるのですが、先日所用にて自身がかつて作成した文書を知人にお渡ししたところ『それに書いてある内容を理解出来る。』と割合強調して云われたことであり、それはかつての専門分野の実験に関するものであり、くわえて、その知人とは実験内容に関しても当時から色々と話し合っていましたので『それは、ごく自然なことでは・・』と返答しましたが、案外とハナシの要点はもう少し違うところにあったのかもしれません・・。

また他方で、子供の頃に周囲の大人達が英論文や洋書などを読んでいるのを見て『何でそんなものを読めるのか?』と不思議に思い尋ねたところ『なあに、自分の専門分野について書かれたものなら自然に読めるようになるよ・・』とごく普通に返答されていたことが思い出されます。
これは現在になってみますと、たしかにその通りであったと云えます・・(笑)。

しかし自身の場合、歯科理工学にてそうした経験を経て以来随分と(観念的にも物理的にも)流されてしまったように思われますが、それは当時の事情を考慮すれば仕方のないことであったようにも思われるのですが・・。

とはいえ、目下のところは、現在読み進めている件の国際政治学の著作を読了し、以前より読み進めて現在停滞気味であったYuval Noah Harari著『Sapiens: A Brief History of Humankind 』を再度読み始めようと思います・・。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


近年より
現在までに列島各地にて発生した、あるいは現在も継続して生じている地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模な自然災害により被災された(されている)諸地域の安全の確保そして復興を祈念しています。


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2018年3月9日金曜日

20180309 本日移動中に思い起こされた光景から『想起』のメカニズムについて

本日の首都圏は昨日に引き続きグズついた天気であり、ほぼ終日雨が降っていました。また、気温はそこまで低くはなかったことから、昨日よりは幾分過ごし易かったと云えます。

さて、本日もまた比較的長時間外出しており、移動中に渥美清が金田一耕助を演じた映画『八つ墓村』の中で金田一耕助が近畿各地を移動している光景が不図、脳裏に浮かんできました・・(笑)。

また、さきほど記事の閲覧者数を確認してみますと、一昨日投稿分記事の閲覧者数が200人を越えていました。
これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。ここ数回の投稿記事は、それ以前の記事とは若干異なり、ある程度具体的な主張であったことから、多少不安に思っていましたが、とりあえず、その点に関しては杞憂であったと判断することが出来ました・・。

しかし一方で、ここ最近の投稿記事閲覧者数もまた併せて確認してみますと、先月2月26日投稿分記事の『現時点で分からないことにも『意味』があることが多いのかもしれない・・【物語から】』は、これまでに400人近くの方々に読んで頂いており、今更ではありますがこれには多少吃驚しました・・(笑)。

また、この記事は、文学・戯曲・物語などを題材として扱ったものであるにも関わらず、これだけ多くの方々に読んで頂けたことは、基本的に人文社会科学系人間である自身としては朗報と評しても良いと考えます。

ともあれ、さきの映画『八つ墓村』もそうですが、何かしらの活動をしている最中に、これまでに経験した読書・映画などの内容の筋あるいは場面・一節などがまさに期せずして脳裏に浮かんでくるといった現象とは、その内容の多くが可視化され得る、対象化し得ることから、ある意味『即物的な現象』であるのかもしれませんが、同時にそうした我々の精神の中で生じる『想起』のメカニズムを応用し、観念的な思想あるいは数式の概念といった抽象的なものもまた、必要に応じて『想起』出来るように、いわば身体化する訓練といったものが所謂『勉強』ではないかと思われます・・。

そして、おそらく、そのはじめの段階にあるものが、可視化・対象化し得る事物に関しての『想起』であると思われるのですが、そこから発達し、思想・概念などの抽象的なものを扱う段階に至った場合においても、時には、いや日常的にそうした刺激を自身に対して与えている方が、徐々にその反応が精確且つ深い意味を帯びたものとなるのではないかと思われるのです(そこに継続の意味があるのかもしれません・・)。

また、その意味において、そうした日常的な刺激の質および量とは、なかなか重要であるようにも思われるのです・・。

あるいは本質的な意味において『教養』とは、個人におけるそうしたものの総体・活きた様相を示すコトバであるようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

しかし、であるからといって世間一般にて高尚・良い趣味とされているものを、全くの虚栄心ナシで、刺激の対象として見做し得るかとは、また、かなり込み入った様相を示すのではないかと思われます・・。昨今我が国にて聞く『反知性的傾向』とは、おそらく、少なからずこうした事情に関連があるのではないかと思われます・・。また、そこに付け込む方々も同様に少なからずいらっしゃるのではないかと思われます・・。

ともあれ、そうした社会基盤の構造があるからこそ、我が国においては、あくまでも即物的な知見の集大成とも云える自然科学系学問が重宝され、一元的に価値が見出されるのではなかかと思われます・・。

良い悪いを抜きにして、これが我々の社会といったところではないでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
近年来より現在までに列島各地にて発生した、あるいは発生している地震・大雨・水害・火山噴火(特に3月1日からの新燃岳の噴火)といった大規模自然災害によって被災された(されている)諸地域の安全そして復興を祈念しています。


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2018年3月4日日曜日

20180304 幾つかの種類の知の蓄積・・書籍の読解から思ったこと

本日の首都圏も昨日、一昨日に続き比較的気温が上昇し、日中は過ごし易い一日であったと思われます。しかし一方で花粉の飛散もまた多かったことから、花粉症気味の自身としては、ここ数日の春らしい陽気を楽しむことは難しかったと云えます・・(苦笑)。

また、ブログ記事に関しては、昨日投稿分の記事も比較的多くの方々(130人程度)に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、以前のブログにて少し触れましたが、医療機関において人文社会科学系学分野の勉強会の開催を希望される場合は、分野にもよりますが、出来る限り対応させて頂きます。
しかしながら、この分野での勉強会とは、市場経済的なものとして扱うことが困難であると思われることから敢えて、ご案内等は作成・掲示はしません。

そして、もしご興味がある場合は自身のメールアドレス:clinic@tsuruki.orgまでご連絡頂ければと思います(アットマークを半角英数に変換してください)。どうぞよろしくお願いいたします【その他ご要望などに関しても応じることが出来るものは出来るだけ対応いたします】。

さて、人文社会科学系ということで多少関連があるのかもしれませんが、現在読み進めている国際政治学の著作下巻は100頁近くにまで至り、おそらく明日には半分程度まで行くのではないかと思われます。以前にも書きましたが、こうした著作とは読み始めがかなり面倒であるのですが、ある程度まで理解しつつ読み進めますと、その後は思いのほか楽に読むことが出来る傾向があるように思われます。そして、この傾向は、いくつかの長編小説とは、また若干異なるのではないかと思われます。

感覚的な意見ではありますが、ある種の長編小説とは、こうした人文社会科学系の比較的硬質な著作よりも読み進めることが困難ではないかと思われます・・。

具体的には、かねてより当ブログにて取り上げたトーマス・マン著『魔の山』であるとか大西巨人著『神聖喜劇』といった著作は、苦労して読了にまで至りますと、その書籍を読んでいなかった当時の自身とは、わずかではあるのかもしれませんが同時に有意に違った自身になっていることに気が付くのではないかと思われます・・。

そして、こうした経験を苦労と共に与えてくれる著作が所謂名著とされるのではないかと考えます。くわえて、こうした読書経験を持つことが出来る時期とは、人により多少の偏差はあるのかもしれませんが、自身の経験に基づいて述べますと遅くとも30代半ばぐらいまでではないかと思われます・・(それ以降は感性の柔軟さが損なわれるように思われる)。

またそれは、おそらくさきの人文社会科学系、特に教養系の勉強会においても同様であると思われ、おそらく医療機関などにおいて文学・思想などをテーマとした勉強会が開催されることは、皆無とは云えないにしても、相当稀ではないかと考えます・・(特に我が国の場合)。

おそらく、こうした人文社会科学系とは、何と云いますか理系・自然科学系学問とは異なった種類あるいは手法による知の蓄積が要求されるのではないかと思われます。そして我が国社会においては多分に理系・自然科学系学問の種類・手法による知の蓄積が重視されるのではないかと思われますが、同時にこの種類・手法による知の蓄積とは、現在進行形で発展を遂げているコンピューター・人工知能とも類似・被る部分が多いのではないかと思われます・・。あるいは、それは合理的(普遍性を目指した)な思考回路であるのかもしれません・・。そして、そのように考えてみますと、先日来のブログ記事にて述べました絶対矛盾的自己同一やアンビバレントなどといった考えとも、多少は関連があるのではないかとも思われてくるのですが、さて如何でしょうか?
【それでも、合理性・普遍性とは、かなり重要であるとは考えますが・・おそらく、それだけではダメであるのかもしれません・・。】

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨今、
列島各地にて生じた、あるいは生じている地震・大雨・水害・火山噴火などの大規模自然災害により被災された諸地域の復興を祈念しています。


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ISBN978-4-263-46420-5












2018年2月13日火曜日

20180213 継続的に読まれている記事について 其の2 個人主義と集団主義:欧米と日本?【教養は強要出来ない・・】

 昨日と同様、継続的に読んで頂いている記事に関してですが、ほかのそうした記事として、以前よりたびたび抜粋引用したトーマス・マン著『魔の山』内の記述、およびそれを題材として作成した記事が挙げられます。

それらがどのようにして読まれているかは分かりませんが、何れにせよ継続的に読んで頂けているという事実は大変に興味深く、そして読み手の方々がそこから何かしら得るものがあれば、記事として作成・投稿した自身としては、まさに僥倖と云えます・・。

そして、そこから多少調子に乗って言葉を継がせて頂きますと『どうです、最近の小説も面白いかもしれませんが、こうした近現代西欧文化を濃縮したようなコッテリとした小説もまた、なかなか面白いのではないでしょうか?』といった感じにもなります(笑)【また、こうした著作を和訳して読んで楽しむことが出来る我が国の文字文化とは、やはり捨てたモノではないと思われます。つまりは扱う側の問題ということでしょうか・・(苦笑)】。

また、さらにそこから思う、いや願うことは、こうしたことがわずかではあれ一つの契機となり、それぞれの内発的、能動的な興味を持ち得る分野の大学院(修士・博士問わず)への進学を希望される方々が増えることです・・。

くわえて、それはこれまでのような純粋培養・単線的な経路によるものばかりでなく、学部・学科横断的ないわば学際的な知見を備えた方々が今後一層増えていき、そしてそれぞれのフィールドで活躍されることにより、世の中とは賑やかになり面白くなっていくのではないかと思われるのです・・(笑)。

つまり、本質的に学問や研究に関しては、もちろん苦しいことも多々あるでしょうが、あくまでも『興味本位』もしくは『嬉戯』といったスタンスを保持し続けることが重要であるように思われるのです・・。

そして、そこから敷衍して考えますと、さきのトーマス・マンも然りですが、総じて教養と称されるものが持つ価値を理解することが出来るのではないかと思われます・・。

その意味において、現在の我が国における『何でもマンガにすれば良いといった風潮』は、やはりどこかオカシイのではないかと思われるのです・・(マンガそのものを批判しているのではありませんが・・)。

しかし、こうした意見とは、これまでに当ブログにて述べてきた『人文社会科学系分野の人員(学生数)を削減してでも医療・介護系職種の養成機関を四年制大学化して拡充すべき』といった意見と矛盾するのではないかと考えられる方々もおられるかもしれませんが、ここで極めて重要であると思われることは、冗談ではありませんが『教養とは強要出来るものではない』ということです・・。

おそらく19世紀後半には西欧的な近代化、そしてその後の20世紀半ばには米国的な社会への復興を目指した我が国には、この感覚はそれぞれの導入・実施の段階においては、ある程度所与のものであったのでしょうが、所与であったが故にその後、この部分からどうも大きな誤差が生じるのではないかと思われるのです・・。

それは西欧文化そしてそこから派生した米国文化が共に個人主義を基調としたものであり、対して我が国においては個人主義といったものが広汎に社会において確立した時代とは、現在も含めてないことが、何かしら有意な影響を与えているのではないかと思われます。

つまり、我が国においては、とりあえず集団主義的な社会に適応出来るような実用的な学問体系を身に着けた後、さらに興味があれば、そうした教養的なものを深めれば良いのではないかということであり、そして、そうした方々が社会にて増えることにより社会が一層面白くなるのではないかということであり、特に矛盾らしきものはないと考えますが、さて如何でしょうか?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

近年、列島各地にて発生した地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模な自然災害によって被害を被った諸地域の復興を祈念しています。

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2018年2月8日木曜日

20180208 昨日投稿分記事の続き、教養系学問を学ぶ意味・前提?

昨日投稿分の記事はおかげさまで投稿翌日にして150人以上の方々に読んで頂きました。
読んで頂いたみなさま、どうもありがとうございます。

こうしたことは、あまり議論されることはありませんが、思いのほか重要であると考えます。一方で、これまでに何回な述べたことではありますが、高等教育において教養に資するような学問も重要であると個人的には考えるのですが、同時に、その前提には『社会において文化の同一性、継続性が保持されていること』であると考えます。

そのように考えてみますと、それは現代の覇者と云える欧米社会においては、教養に分類されるような文化、文明全般について深い知見を得ることにより、現代に為されている最先端の文系・理系学問に関連付けることも比較的容易に為されるのかもしれません。

しかしながら、我が国を含む非欧米諸国においては、事情が異なり、実生活においては欧米由来の事物・諸制度の中で囲まれて生活していると云えます。そうしますと、実生活に関連する事物・諸制度への関心を深めるほどに、それは自らとは異なった起源・由来を持つ欧米社会の何かに対する興味・関心へと集約されていくことが多いと云えます。そして、そこでの深い知見を得るに至っても、それは自己の奥深くにある何かと共鳴する要素は欧米オリジンの同様の興味・関心を持つ方々と比較すると、少なくとも同様とは云えないことから、そこには何らかの断層・溝らしきものがあるのではないかと思われるのです。

しかし、であるからといって、我が国にて、そうした教養を積む、持つことは全くの無意味であると主張したいのではなく、そうした教養を比較的広汎な方々が高等教育にて学ぶ必要性を所与とする状態をもう少し考え直しても良いのではないかということです・・。

また、医学・工学をはじめとする理系学問全般とは再現可能性・普遍性が、その根幹にあり、人類全般において共有し得ることが前提とされているのですが、さきに述べた教養とは、そうした性質を根幹とするものではないと云えます。

あるいは、高等教育課程において学ぶ順番を再現可能性・普遍性を持つ実学的とも云える学問を先に学んだ後、教養系の学問を学ぶ方が、我が国においては有効であるようにも思われます。

おそらく、こうした教育カリキュラムの多くもまた、おそらく欧米由来であると思われるのですが、他方、我々の文化とは、初期(おそらく16世紀)の西欧文化からの観察者によりますと『さまざまなことが(自らの文化と比べ)さかさまになっている』と書かれていたことから、こうした視点にて自らの文化の性質を再考してみても良いのではないかと思われますが、あるいは、それもまた一種の『教養』であるのかもしれませんが・・。

とはいえ、さきに述べた実学、教養系学問の学ぶ順番とは、その必要性と併せて、もう少し考えてみますと、現在と比べて少しは良い社会の近未来予想図を描くことが出来るのではないかとも思われますが、さて、如何でしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
近年
、日本列島各地において生じた地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模自然災害により被災された諸地域の復興を祈念しています。

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2018年2月7日水曜日

20180207 昨今の大学事情について思ったこと・・

本日の首都圏もまた日中は多少暖かくなりましたが、夕方から急激に温度が下がったのではないかと思われます。
また一方で、以前に比べて日照時間も少しずつ延びているように感じますので、もうしばらくしますと、春一番、そして三寒四温といった感じになっていくのではないでしょうか・・。とはいうものの、今しばらくは寒い時期が続くようですので、引き続き風邪や寒さ対策には気を付けていきたいと思います。

そういえば、昨今新設される大学およびその学部、学科などは看護・薬学・臨床心理といった医療系の範疇に含まれるものが多いように思われます。

こうしたところにも、現今社会の趨勢が表れてくるのでしょうが、たしかに少子高齢化が今後さらに進展する我が国の社会において、それは自然な流れと云えるのでしょう。

そしてまた、今後生じるのではないかと思われることは、ある程度の規模を持つ大学が医療・介護系資格の専門学校を吸収すること、あるいは大規模な医療・介護系資格の専門学校もしくは医療法人が大学と合併することではないかと思われます。

個人的な意見としては、あまり実益には直接的に供さないであろう教養、文系学問が今後さらに盛んになって欲しいと願うところではあるのですが、その一方で、こうした学問とは、本質的に義務・処理的に取り組んでみても有為なものは十年後にはあまり残らず、あるいは悪くすると『よく分からないことをやらされた・・』といった恨みのようなものが残ることすらあるのではないかとも思われます・・。

その点において、さきの医療系の学問とは、その知識とは普遍的であり、とりあえず生きて行く上においては有益に作用するであろうし、さらに大学での学問(教養科目がある)として学ぶことにより、さきの教養、文系学問に対する興味をそこで持ち得る可能性もまた、少なからずあるのではないかと思われるのです・・。

それ故、今後の社会においては、たとえば四年制の看護学科もしくは歯科衛生学科などを卒業されて数年の臨床経験の後、文学部・法学部などの院に進み、そこから更に別の道に進むといったことが、珍しくなくなれば、それは面白い・創造的とも云える反応が生じ易くなる社会になってないくのではないかと思われるのです・・(笑)。

そして、それもまた一つの穏便なる、そして良心的とも云える革命・社会変革ではないかと思われます・・。

さらに、いささか大風呂敷気味ではありますが、自身がこれまで、こうした珍妙、奇天烈とも云えるブログを継続することが出来た理由とは、その創造性(記事内容)の質は横に置いておいて(笑)、自身のようなキワモノが、こうしたことが出来るようになるということを示したかったからではないかとも思われるのです・・。

もっとも、その更なる根源について考えてみますと、それは自身の辿ってきた学問上の経路に依存するものであるよりも、むしろ、それぞれの学んだ地域における民俗文化といった土俗的なもののが大きく作用しているのではないかと思われるのですが・・(笑)。

我が国においては近代以降、一般的に都会的な合理性こそがものごとをスマート且つ多く成し遂げる要因であると考えられがちであるように思われますが、さきに述べた地域における土俗的なものによる力・作用のようなものこそが、まさしくホンモノの歴史・伝統に則った意味において、我が国を我が国たらしめている大きな要素であったのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

近年
、列島各地において生じた地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模自然災害により被害を被った諸地域の復興を祈念しています。

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2017年10月1日日曜日

20171001 昨日投稿記事がかなり多くの方々に読んで頂けました・・(それについて)

 つい先日、総投稿記事数が750に到達したばかりの感がありますが、そこから現在まで既に10記事程度の投稿を行ってきたようです・・。

おそらくこの調子にて記事を作成し続けることが出来るならば、来月11月の半ば頃に目標とする800記事まで到達することも出来るかもしれません・・。

もとより、今後も出来るだけ毎日記事を作成・投稿するつもりですので、これまで読んでくださっている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。

さて、どうしたわけか、昨日投稿した記事は投稿翌日にしてはかなり多くの方々(69)に読んで頂けました。

投稿翌日にて、直近に投稿した記事がこれほど多くの方々に読んで頂けることは、これまでに(おそらく)ありませんでしたので、これについては現在においても『さて、一体何がどうしたのだろうか・・?』と多少狐につままれた状態であるといえます・・(笑)。

あるいは、ここで扱った主題とは思いのほかに興味をひくものがあるのでしょうか・・?

はたまた、ここ最近に幾つか主題として書いてきた(我が国の)文系学問に関してのこととも関連させ考えてみますと、多少は深みがあったのかもしれません・・。

昨今の更なるAIの進化発展により、この先の未来において存在するであろう職種は大きく変化するのではないかと考えられておりますが、おそらく医療介護分野の人材に関しては、今後少なくとも数十年程度は、その実質的な担い手は人間であり続ける分野ではないかと思われます。

また、現今我が国社会において、あまり大きな価値を見出されることがない(実務系ではない)文系学問分野に関しては、それは決して文系学問に価値がないということではなく、どちらかというと我々学ぶ側の責任であったのでしょうが、何れにしましても、現在のそうした文系学問を取り巻く状況こそが、戦後から現在まで行ってきた我が国文系学問高等教育の総括ということであると思われます。

あるいはもう少し文系学問の種子が我が国の文化的土壌に根を張り、生育するのに適した環境であれば良かったのかもしれませんが、大変残念ながら、我が国とは、そうした学問に対しては、古来より本質的に不向きな、根強い何かがあるのではないかと思われるのです・・。

それ故、以上の状況に対する改良・代替案として、これまで文系学問に割いてきた学部・学科人員・施設のうちのいくらか(これが重要)を既存・新設の医療介護系の学部・学科に振り分け、また文系教員の方々は、これまで通りの文系学部・学科に加え、さきの医療介護学部・学科での教養科目あるいは御自身の研究と合致する専門科目があれば、その研究指導を行うようにすれば良いと思われるのですが如何でしょうか・・?

また、この改良・代替案には長期にわたる展望が乏しいと考えられるかもしれません。しかし、医療もしくは人体に関しての知識とは、世界各国おそらく大体は普遍的であり、それを通じて実地にて物事(言語をも)を学び、そしてそれが何らかの職務において役に立つ可能性があるならば、将来、医療介護専門職に就くことがなくとも、少なからず有益であり、さらには文系学問分野における知識・知見よりも社会において有益・役に立つ蓋然性が高くなるのではないかと思われるのです・・・(あるいはまた新たな文理融合の学問としても・・)

このことは自分なりに苦労して学んだことであると認識しており、それ故、このことは現在文系学問分野の研究者となっている方々からはあまり良くは思われないであろうことは重々承知していますが、それと同時に少なくともある程度は事実であるものと考えます。

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂きまして、どうもありがとうございます。

昨年より現在までに列島各地にて生じた一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復およびその後の復興を祈念しています。






















2017年7月11日火曜日

20170711 観察された事実・知識の集積からより大きな思想へ至る方法とは・・?【書籍からの抜粋引用あり】

当たり前のことであるのかもしれませんが、我々日本人と欧米あるいは中東などの所謂一神教を奉じる人々との間の『宗教』あるいは『神』に対しての概念とは大きく異なるといえます。

我々日本人は古来より草木から川、山、動物、人間に至るまで、何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物に対して『迦微・神』(カミ)の字をあててきました。

地方に行きますと御神体が山であったり瀧であったりすることは割合一般的であることは周知のことと思います。

そして、現代の我々もまた、あまりそうした状況を不思議に思うことなく受け入れて過ごしていると云えます。

こうした神に対する考え方とは『汎霊説』(Animism)と称されるものであり、平たく云えば『すべてのものは神(霊)である』といったものであり、さらにこれを我が国特有の言い回しにしますと『八百万の神』となります。

そして、この『八百万の神』とは、冒頭に書いた『何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物』とも結び付くのですが、こうした神々に対する観念とは、欧米人に云わせると『原始的な宗教ともいえる自然崇拝に近い』となるのでしょうが、原始的であるかどうかはさておき(原始的なものが同時に(時代を通じ)普遍的であれば、それは決して原始的ばかりとはいえない)たしかに自然崇拝に近い感情を我々日本人は今なお保持しているといえます。

そして、そうした感情に基づいた思想とは決して閉鎖的ではなく、外来の事物の摂取に対して積極的でさえあるといえます。

また、おそらく我々はそうした(外来の事物の摂取)対象の一環として12月25日の神の御子の生誕祭もまた、ほぼ無意識ながら受け取っているのではないかとも思われます。

それが、起源の地でのそれとは異なる思想背景となっても、それはあまり考慮すべきことではなく、大事なことは、ただ『その神の御子の生誕を祝っている』といった『感情』あるいは『行い』そのものといったことになるのではないでしょうか・・?

しかし、であるからといって、それは決して否定されるべきものではなく、良い悪いを抜きにして、単に『そうした性質も持っている』ということであると考えます。

また、そうした文化土壌において培った性質とは(極めて)高度な観察力を要する視覚的・即物的な学問・研究においては有効であり、それが『理系立国としての我が国の近現代の基礎となる性質』であると云えるのではないでしょうか・・?

そして、そうしたことを念頭に置きつつ、あるいは応用しつつ、観察現象に対して精確にコトバを当て嵌めていき、何かしら普遍的な思想・考えといったものの構築を試みれば価値があるのではないかと考えるところなのですが、自身も含めて我々日本人とは、この段階がどうも苦手なのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。

そして、ここまで書いていて不図思い起こされた書籍の記述を以下に抜粋引用しようと思います・・。

岩波書店刊 J.S ミル著 竹内一誠訳 『大学教育について』ISBN-10: 4003910117
ISBN-13: 978-4003910115

『科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのです。

事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具です。

そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、すでに知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するよりずっと簡単なのです。

一生を通じて人間の知性がもっとも活発に働き続けるのは、真理を探究するときです。

われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。

われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。

しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでしょう。

とにかく、われわれすべては、重要な真理として提示されていて相対立する見解について正しい判断を下せる能力を身につけなければなりません。』

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震、大雨といった自然災害によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。











2017年6月24日土曜日

20170623 其2 岩波書店刊 トーマス・マン著『魔の山』上巻pp.268-270より抜粋引用

岩波書店刊 トーマス・マン著『魔の山』上巻pp.268-270より抜粋引用
ISBN-10: 4003243366
ISBN-13: 978-4003243367
『ハンス・カストルプはそのときあいにく頭がぼんやりとしていたし、「ベルクホーフ」の六品の昼食で有機体がてんやわんやであったが、セテムブリーニが法の一般原理を「自由と進歩の源泉」と呼んだ意味を理解しようとつとめた。

ハンス・カストルプはそれまで進歩を十九世紀における起重装置の進歩というようなものに理解してきた。

それにまた、彼はセテムブリーニ氏がそういうものを軽蔑しないこと、祖父のセテムブリーニもまた軽蔑しなかったことを感じた。
イタリア人は二人の祖国であるドイツにたいして、封建制度の甲冑をがらくたに一変させた火薬、そして印刷術がその国で発明されたという理由から、ふかい尊敬を表明した。印刷術は思想の民主的普及、いいかえると、民主的思想の普及を可能にしたからであった。

そういう点で、そして過去の問題にするかぎり、イタリア人はドイツをたたえたが、しかし、ほかの民族が迷信と奴隷状態に沈淪しているときに、まっさきに啓蒙、教養、自由の旗をひるがえした彼の祖国イタリアに、栄冠が当然あたえられるべきであるとした。

従兄弟が彼と山腹のベンチのそばで初めて出会ったときにわかったとおり、彼はハンス・カストルプの専門である工学と交運を重要視していたが、それは工学と交運そのものを重要視していたというよりも、この二つが人間の倫理的完成にたいして持つ意義を重要視していたのであった。

―彼は二つにそういう意義をみとめることをためらわないと言明した。

彼によると、工学は自然をつぎつぎと征服し、連絡をつけ、道路網と電信網を完成し、それによって風土的差別を克服し、諸民族を相互に接近させ相互の親睦を促進させ、相互の人間的協調の道をひらき、諸民族の偏見を打破し、最後には人類全体の融合統一を実現させる上に、もっとも信頼できる手段であった、人類は暗黒、恐怖、憎悪から出発して、光輝ある道を前進し向上して、融和、内面的光明、親善、幸福という最後の目標に向かうのであって、この途上で工学はもっとも有効な推進力であるそうであった。

セテムブリーニ氏はそう話しながら、ハンス・カストルプがこれまではなれあっているものとのみ考えていた二つのカテゴリーを一息に一括して、工学と倫理性!といった。

それから彼はほんとうにキリスト教の救世主についてしゃべりはじめ、キリストが最初に平等と融合の原理を啓示し、つづいて印刷術がその原理の普及をいちじるしく押し進め、ついにフランス革命がそれを法律へ高めたのだといった。

セテムブリーニはそれをたいへん明快なぴちぴちした言葉で話したが、ハンス・カストルプは漠然とした理由からではあったが、その話をひどく混乱した話のように感じた。』

2017年6月8日木曜日

20170607 本日久しぶりに野球観戦をして思ったこと・・

A「本日は仕事も兼ねて朝から神宮球場に行き、野球を観戦しました・・。

野球観戦はかなり久しぶりではありましたが、途中、野球部のOBでもあり文系院時代の知人に、これまたかなり久しぶりにお目に掛かり、しばらくお話をすることが出来ました・・。

それは、あまり強くなかった野球部がどのような経緯を経て強くなってきたかという内容であり、説明する彼は至って冷静な様子で話されてはいましたが、それを聞いていた私は途中、先日読んだ柔道を題材とした小説と何かしらリンクする、重なるものを見出しました・・。

ちなみにその説明してくださった方は、院生時代より『文武両道』というコトバを重視されていたと記憶していますが、大変面白いことに、この傾向とは、歯科理工学の師匠においても類似したものが見出され、そのことから師匠自らが先頭になり、弟子共を引き連れ山登りをされることが多々あったのではないかと思われます・・。

また師匠の方は高校時代サッカー部に所属されていたとのことであり、あるいは後年の山登りにおける健脚ぶりとは、この当時に培われたものであるのかもしれません・・。

さて、昨今の御時世においては、さまざまな面においてそうであるのかもしれませんが、運動もしくは勉強といった、どちらかに特化し練習、強化する方が、その特性、才能を効率よく伸ばすことが出来るという考えが一般論になりつつあるのではないかと思われます。

そしてその一方で、さきに挙げた文武両道的なハナシを聞いたり、また思い出したりしますと、果たして我々人間とは、何かに特化して効率よく才能を伸ばす方が良いのであろうか、あるいは幸せなのであろうか?とも考えさせられるのです・・。

とはいえ、こうしたことは、おそらく欧米においては、かねてより議論され続けたことであり、先日抜粋引用したミルの著した文章もまた、その背景には、こうした大きな疑問があったのではないかと思われるのです・・。

そして、欧米においては、こうした議論の際に多く出てくるのが『一般教養の重要さ』であるのですが、近代以降の我が国の場合、後発工業国という事情もあってか、どうも一般教養の重要さといった議論が出てくること自体が少なく、またそれ以前に『その一般教養とは何であるか?』といったことにおいても、実はコンセンサスはないのかもしれません・・(これも近代以降に欧米化を遂げた我が国としては難しい問題であるのかもしれませんが・・)。

ともあれ、では『一般教養』と、さきの『文武両道』がどこで結節するのかと考えてみますと、それは根源における『能動性』ではないかと思われます・・。

またそれを異言しますと『自らの内からの力によって、元からのセンスの良し悪しはともかく、何を選び、そしてどのようなことを行ってきたか』ということではないでしょうか・・?

そして、それを自らの内からの力によって行うその根源には、何かしら思想、哲学(思い込みかもしれないが・・)といったものがなければ疲弊、枯渇してしまうのではないでしょうか・・?
(その意味では、現在の社会とは過度に科学的ともいえ、思想、哲学あるいは思い込みを抱き難い社会であるのかもしれません・・)。

無論、こうしたことは自身のブログについても同様であり、ある意味これを継続して作成していることとは、そうしたことの自問自答の一形態であるとも云えるのです・・(笑)。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年に熊本、山陰東部、福島県周辺を襲った地震によって被害を受けた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しております。」






2017年5月5日金曜日

20170505 再び荷物の整理をしていて思ったこと【書籍からの抜粋引用あり】

本日の首都圏は気温も上がり、日中は暑いといってもいい程の陽気でした。そのような中、本日もまた、ほぼ一日を通し荷物の整理をしておりました・・(苦笑)。
いや、今現在もさまざまな荷物に囲まれ、本日投稿分の記事を作成しています・・。

つい先日投稿したブログ記事にても書きましたが、引越しなどの際の荷物の選別などは、以前の方が素早く出来ていたと記憶しております。これは年齢のために動きが鈍くなったからでしょうか?あるいは以前よりも思慮深くなったからでしょうか・・(笑)?

ともあれ、こうしたことを考えておりますと、また時間のみが経過してしまい、目下必要とされる荷物の整理、片付けが遅れてしまう次第ですが、しかし、今現在はブログ記事作成の時間としましたので、あまりそういったことは考えないことにします・・(苦笑)。

とはいえ、こうしたことは少なくともブログ記事の題材にはなりますので、もう少しこのことについて書いてみようと思います・・。

さて、只今行っている荷物の整理、片付けにおいて、現在日常的に使用しているものは、最後の方にまとめておき、主にこれまでに使い、所蔵してあるものについての整理、片付けについてですが、それらの中で最も分量的に多いのが書籍であり、それらも、これまでの整理によって、大分減り、まとめられましたが、それでも今現在ブログ記事を作成している自身の周囲にいくつかの島を成して積まれているものは書籍であり、また、それらの題名を一巡し眺めると、さまざまな想念やら、読んでみたいといった欲求が湧いてくるのですが、あくまでも現在はブログ記事作成の時間と決めたことから、そうした思いを封印し、先を続けます・・(笑)。

そして、次に多いのが生活道具、衣類などですが、これらに関しても整理、片付けを行っていますと、一つ一つの品々に何かしらの思い出、思い入れといったものが想起され、そう簡単にはコトは運んでくれません・・(苦笑)。

しかし、ここで立ち止まってしまっても、整理、片付けは進みませんので、とりあえず『現在の自身に必要かそうでないか』を基準とすれば、こうした作業とは、より一層スムーズに進むのかもしれませんが・・(苦笑)。

また、書籍に関してですが、大分前に購入して途中まで読み、置いておき、ここ最近、不図思い浮かぶ書籍が、現在のこうした機会にてフイッと現れることは、なかなか嬉しいものであり、こうした書籍は転居先(すぐ近くですが)にてすぐ読めるように、別に置き、そして、そうしたジャンルに分類した一群の書籍が、さきに述べた自身の周囲にある、いくつかの(平積みにされた)書籍の島の一つとなっております・・(苦笑)。

加えて、大変面白いことに、今現在においても自身が明日から転居するといった実感がまったくなく、そして、明日もまた記事作成を行うのであろうか?とも考えておりませんでした・・(笑)。

果たして、こうした自身の心的傾向とは良いものなのであろうか・・(苦笑)?

とはいえ、もしも明日、ブログ記事の更新が為されなければ、転居先での作業、あるいは何らかの事情により、作成することが出来なかったものとしてください・・(笑)。

さて、さきほど述べた転居後に読みたい書籍として分類された一冊として岩波文庫刊J.S.ミルの「大学教育について」があります。

この著作は、大変読み易く、それ以上に面白いことが書かれていると思いますので、興味のある方々は是非読んでみてください。
また、それは特に医療をはじめとするいわゆる理系学問分野の方々にとって、なかなか興味深いことがらが述べられているのではないかと思われます・・。

そして、ここまで書きましたので、いささか前言を翻すようではありますが、せっかくですので、以下に少し同著冒頭部から抜粋引用を試みます。

岩波書店刊 J.S.ミル著 竹内一誠訳 『大学教育について』pp.12-14より抜粋引用

ISBN-10: 4003910117

ISBN-13: 978-4003910115

『大学が国民教育のなかで果たすべき役割については、十分に説明されていると思われます。

少なくとも大学がこうあってはならないということについては、ほとんどの人々の間で意見の一致がみられます。


大学は職業教育の場ではありません。


大学は、生計を得るためのある特定の手段に人々を適応させるのに必要な知識を教えることを目的とはしていないのです。


大学の目的は、熟練した法律家、医師、または技術者を養成することではなく、有能で教養ある人間を育成することにあります。


専門職の養成のための公的機関があるのは至極当然であり、したがって、法律学校、医学校があるのは結構なことです。


そしてさらに、工科学校や産業技術を学ぶ学校があれば、なおさら結構なことでしょう。


このような学校制度を持つ国々は、その制度をもつことによって一層発展することでしょう。


しかも、これら学校をいわゆる本来の意味での教育のために設立された施設としての大学と同一の場所に、そして同一の監督下に置くことには多少の利点もあるにはあるでしょう。


しかし、技術を伝えるということは、各世代が次の世代に手渡すべき義務を担っているもの、つまり各世代の文明の価値を支えているもののなかには入りません。 (ここが少し疑問です。)


そのような技術は、自らの努力でそれを獲得したいという強い個人的動機を持つ比較的少数の人々にのみ必要とされるものであり、そしてその少数の人々ですら、正規の教育課程が修了するまでは、その技術を有効には使用できないのです。



専門技術をもとうとする人々が、その技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植えつけたかによって決定されるのです。

人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのです。


有能で賢明な人間に育てれば、後は自分自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。


専門職に就こうとする人々が大学から学び取るべきものは専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く一般教養(general culture)の光明をもたらす類のものです。


確かに、人間は一般教養教育を受けなくても有能な弁護士となることはできますが、しかし、哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。


このことは、機械工学を含むほかの有用な専門分野すべてについても言えることです。


靴づくりを職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは教育であって、靴の製造法の伝達ではないのです。


言い換えますと、教育によって与えられる知的訓練と、それによって刻み込まれた思考習慣とによってであります。』

ここまで興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部、福島県周辺において発生した地震によって被害を被った諸地域の出来るだけ早期のインフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。




2017年2月26日日曜日

20170225 『計画性』『創造性』『散文』『手作業』『季節毎の仕事』について・・551記事

つい先日に総投稿記事数が550に到達することができましたので、本日も含め以降数日間、記事作成を休もうと思いましたが、以前に作成した記事を眺めておりますと、どうしたわけかまた何か書かなくては・・と思うに至り、現在このように記事作成を行っている次第です・・(苦笑)。

とはいえ、本日もまた特に記事の題材は決まっているわけではなく、漫然と『何か』が頭に思い浮かぶまで、その都度脳裏に浮かんだことを記していこうと思います・・(笑)。

「果たしてこのような感じで良いのであろうか? 文章を書くのであれば、もう少し構想を練って、ある程度のハナシの構成が出来上がってから書くべきではないか・・?」
とも思うところではありますが、しかし実際の多くの文章とは、そのような計画的なものではなく、いや、少なくとも、散文などの場合は『書いてみないと分からない・・』といった感じではないかと思われるのです・・。

そして、こうした態度を『計画性がない』として非難する傾向のある社会とは、おそらく少なからず『創造性』を犠牲にしているのではないかと思います。

一方『計画性』がないこともまた、それは問題であり、それにより社会全体が危ない方向に行ってしまうことも、さきと同程度にあるのではないかとも思われます・・。

しかし、こうしたブログなどにおいては、計画性云々よりも、とりあえず現段階においては、わずかでも創造的行為(書くこと)を継続することが重視されるべきであると考えますので、本日のような適当な着想が得られない場合であれば、このような文体で書くこともまた、それなりに有意義であるものと考えます・・(笑)。

そして、実際にそのように書くことにより、さきの『創造性と計画性』についての着想を得ることができました。

さらにここまで書いており、不図思ったことは、本日ある偶然により大変久しぶりに印象材、硬石膏の練和およびそれを採得された印象に注ぐといった作業を行うことになりました・・。

久しぶりであったわりには、特に問題なく一連の作業を行うことが出来たことは、自身としても安心するところであり、また同時にこれまでにそれなりの数を行ってきた作業、手技とは、そうすぐには身体が忘れるものではないことを実感しました・・。

加えて、それを行った場所が技工室等でなく、一般のご家庭の流し付近であったにも関わらず、その作業を滞りなくできたことに対し、わずかながら満足した次第です・・(笑)。

そして、ここまで書いて、さらに思い出されたことは、つい先日頂いた師匠(歯科理工学)からのお手紙の中に『やはり手を用いて作業をしていることは楽しい』と綴られていたことです。

そこから、今後しばらくしたら、再度そうした公募職種への応募を再度開始した方が良いのではないか?と思うところですが、さて、そうした職種とは上手いこと見つかるものでしょうか・・(笑)?

ともあれ、自身の希望する職種内容を考えてみますと、それは学部、学科は問いませんが、『季節毎』に
1):さまざまな試料作製・分析といった研究支援
2):導入部・教養課程での実習指導
3):求職活動の支援
などを担当する職種であればベストですが、これはいささか欲張りすぎであるかもしれません・・(笑)。

本日もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。



2017年2月13日月曜日

20170212 今後の希望について・・

本日は休日ということもあり、ブログ記事の更新は止めておこう・・と考えておりましたが、閲覧者数が思いのほか増加していたことから、記事作成をはじめた次第です・・(苦笑)。

また、その原因、理由は分かりませんが記事閲覧者数が顕著に増加しております。

興味を持って読んで頂いている皆様、それらの中に一つでも「面白い!」「有益であった!」「考えさせられた!」という記事があれば、それは作成者にとって『幸い』です。

今後も少なくとも600記事程度までは更新する予定ですので、どうぞよろしくお願いします(笑)。

さて、昨年秋より現在に至るまで大学職種求人への応募は行っておらず、また公募サイトも閲覧しておりません・・。

これには幾つか理由がありますが、その主たるものとは「とりあえず1年以上は現在就いている職にてある程度は頑張らなければ・・」と考えるからです・・。

たとえ胃粘膜の炎症程度が生じたとしても・・(苦笑)。

また、現在の職には不満もありますが、同時にそれなりにやりがい、意義もあり、そして今後大学職種に就いた場合において何かしら役に立つ部分も少なからずあると思われるのです・・。

時折、周囲の方々から「今から大学の教授になることはまずあり得ないから、現在の仕事を継続した方が良いのでは・・?」といった助言を頂くことがありますが、たしかに私は今後大学の教授になることはもとより望んでおらず、また、それに向いているとも考えておりません・・(笑)。

私もさまざまな学問分野での本当に優秀、スゴイ人々を見てきたという実感はありますので・・(苦笑)。

しかし一方、さまざまな学問の面白さを関連させながら伝える導入部での教養系学問あるいは研究支援専門職については、職務に就いた後、更なる努力が必要ではありましょうが、どうにか務めることができるのではないかと考えます・・。

また、それが幾つかの学問分野を横断してきた私の「強み」ではないかとも思われるのです・・。

そして、それに加え、先程述べたとおり、現在の職務での経験もまた何かしら補強・強化する要素となるのではないかと考えるのです・・。

当然といえば当然ですが、私は優秀、頭脳明晰でもなく、時には改良・改変を試みながらも基本的には愚直に何かを継続することにより、いくつかの分野において幾ばくかの知識を積重ねてきたと自覚しております。

また、その際において、さまざまな種類の読書の習慣を持っていたことは、かなり大きな意味を持っていたと考えます。

とはいえ、これはどちらかというと本能に近い習性といったものであり、またこの習性のため、何か他の大事なものを犠牲にしてきたのかもしれません・・(苦笑)。

いずれにせよ、今しばらく現在の職務を継続し、その後になり機を見て大学職種の公募サイトの閲覧そして応募を再度開始しようと考えております・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

昨2016年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震によって被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。





2017年2月5日日曜日

20170204 どの程度の深さからの反応であるのか・・

昨日の記事投稿によって総投稿記事数が530に到達しました。そして今後はとりあえず今月中あるいは来月初旬までに550記事への到達を目標とします・・。

それにしても、これまで作成投稿してきた記事によって少しは何かが変わってきているのでしょうか・・?
まさに暗中模索ではありますが、とりあえずこれも実験と同様、作成し続けませんと分かりませんので継続しようと思います・・(笑)。

さて、昨日の投稿記事に書いた『観念的』についてですが、哲学あるいは思想などを扱う文系諸学問は実験を伴う理系諸学問と比較した場合、相対的に観念的であるといえます(当然ではありますが・・)。

また、これはあくまでも私見ではありますが、特に哲学、思想などを扱う文系学問の場合、その当初から明らかにセンスの有無がかなり重要な意味を持つと考えます。

それ故、大多数の方々は、こうした学問にどこかで接したとしても特に情熱を持つに至らず、通り過ぎて行くのではないかと思われます・・。

そして、これもまた私見ではありますが、この哲学、思想などを扱う学問のセンスとは、運動神経のように『少なくともあっても損はない』といった種類のものではなく、むしろ、そのセンスがあった方が変に悩み、そして疎外されることもまた多いのではないかと思われます・・(笑)。

また、自身はそのセンスが優れているとは考えません・・。

しかし一方、そうした学問がかねてより『好き』であり、また、そうした学問およびそうした雰囲気、環境に身を置いた経験はある程度ありますので、少なくとも他者からそうしたハナシを聞いた場合、どういった反応が適切であるかは感覚的に分かるのではないかとも考えます・・。

もとより、これはセンスではなく『慣れ』に分類されるものではありますが・・(笑)。

さて、現在書店に行きますと、昨今よりの古典、教養ブームが継続しているようであり、さまざまな関連書籍が出版され、中には大変面白そうな著作も少なからずありますが、それでも、それらの大半とは『当てを狙いに行っているのではなかろうか?』と思わせるものであり、さらにはテレビにて大々的に取り上げ宣伝している著作もあり、そうした異種連携の手腕には感心しますが、おそらく書籍とは本質的に食物と同様『本人がそれを食べたい、読みたいから食べる、読む』わけであり、そうした誘導戦術らしきものとは『どうも違うのでは・・?』と考えてしまうのです・・(苦笑)。

あるいはまた、そうしたものが時代精神を形成させる何かの力(凝集力)の要素ではあるのかもしれませんが・・。

しかしながら、ここで思うことは、そうした何処からのものであれ刺激に対する反応が、一体我々のどの程度の深さから生じている、発せられているのか?ということです・・。

このことは此処首都圏において特に強く感じ、考えさせられます・・。

また、おそらくそれは欧米諸国が我が国に対して古くから感じていることではないかとも思われます・・。

そして、そうした彼等の興味、関心に基づく実験が、我が国を何かの題材として扱ったさまざまな映画、書籍等が我が国において如何なる反応を示すか?ではないかとも考えられます・・(笑)。

先日公開された遠藤周作原作の映画「沈黙」とは、それが原作に忠実であるならば、現在の我が国において『反日』と認識されても仕方のない表現、文脈が少なからず見受けられると思われます。

それは数年前に公開されたアメリカ人女優が監督した映画作品「アンブロークン」と同程度に・・。

そして、ここまで書いており不図思い出したことは、以前実験の最中に話していた大学院生との雑談で、彼の出身地を舞台とした有名な小説があり、そのことについて尋ねてみますと、その返事とは、それまでとは変わってあまり浮かない声で
「・・いや、多分あそこに住んでいる人達のほとんどが、その作品の内容なんて実は知らない、気にしていないのだと思います・・。
実際にその作品を読み、内容を知っていたとしたら、それを観光に利用しようとは考えつかないと思うのですが・・。」

これは彼(愛郷心は強い)の考えが未だ若く、現実社会への認識が浅い、甘いのか、あるいは彼の述べる感覚が正しいのかわかりませんが、少なくとも、多少はさきに述べた内容にも関連するのではないかと思われましたが如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
おかげさまで530記事に到達しました。

昨年に熊本、山陰東部、福島周辺において発生した大地震により被災された地域のできるだけ早期の諸インフラの復旧、そして復興を祈念しております。



2017年1月30日月曜日

20170129 アメ横に久しぶりに行って思ったこと・・

A「本日の首都圏はこの時季にしては気温が上昇し、日中は多少過ごし易かったと思います・・。

また久しぶりに御徒町のアメ横に出向き、相変わらずの喧騒の中、探しものをしておりました。

とはいえ、最近はインターネットによる通販サイトが大変発達しておりますので、よく考えてみますと何もアメ横で商品を探し、購入する必要性はないのかもしれませんが・・。

しかし、それでも個人的にはアメ横や秋葉原の電気街そして神田神保町の古書店街などには何かしら捨て去ることの出来ない魅力があると思うのです・・。

また、私はいくつかの地域に住み、それぞれ大変良いところであると思っておりますが、この点、つまり、何かしらの分野における圧倒的な商品量を誇る古くから市場街といったものに関しては、やはり東京の方が幾分優れているのではないかと思います・・。

そして昨今、そうした古くからの即物的ともいえる市場街が仮想空間上のインターネット通販サイトの市場規模拡大により押されつつあるというのは、少し抽象化してみますと、同じく昨今、さまざまな場面において見受けられる現象と同根であると考えることも出来るのではないでしょうか?

これは、地域の商品購買力、経済規模などを別にして考えてみますと、地域間の格差を平均化するものであるとは云えます・・。

また、それがある面における進化であり、他面における退化、劣化ではあるのでしょうが、何れにせよ、そうしたものが時代精神といったものの一側面であるのではないでしょうか?

そして我々は、そうした時代精神からほぼ無意識のうちにさまざまな影響を受け、日々ものごとを考え、行動しているのですが、ここで大事であると思われることは、その時代に生じている現象、傾向に対し、抽象化を試み、その上で抽出される、ある程度簡素化された、さきの現象、傾向の『原理』(メカニズム、作用機序)に類似した『原理』が何時、何処の歴史の流れにおいて作用していたかを考えてみることです。

そうしますと、当然、対象となる歴史の流れを数多く且つ多面的に知っておいた方が、より深化させて現在対象とする現象、傾向を考え、そして洗練された結論を出すことが出来ると考えます・・。

これはつまり、考える時に『能動的に』引き出すことの出来る歴史の流れを、より多く持つということです。

そして、これがいわゆる『教養』といったものの一側面ではないでしょうか?

さて、現在、その進化発展が著しい人工知能であり、また、これには膨大な知識が内蔵されているのでしょうが、おそらく現今においては、あるコトバになっていない、流れ、動き、傾向といったものを感知、抽出し、それに対し能動的に見解を発し、さらにそれに関連させた知識(体系)を付加させ、考えを駆動させていくといった一連の活動に関しては未だ開発途上であり、さらに、そこに至るまでは今後も難しいのではないかと考えます・・。

しかし今後、もしそうなった場合『教養』とは、人工知能を指すことになるのかもしれません・・(苦笑)。

しかし、少なくとも現在においては『教養』とは、そういったものではなく、また本質的には、あくまでも人間に対して付与されるものであるとは考えるのですが如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございました。

また2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧および、その後の復興を祈念しております。」