2026年8月4日火曜日

20260803 「地の文章」と「修辞をした文章」と文章作成について思ったこと

 去る7月6日に目標としていた2500記事に到達してから、早くも1カ月近く経ちました。その期間で当記事を含めて、2500記事から、さらに10記事追加しましたので、およそ3日に1記事は投稿してきたことになります。この投稿頻度は、目標到達後の休息期間としては多すぎると思われますので、以降、さらに休みを多くしたいとは考えていますが、PC前に座り、当ブログを開きますと、不思議なことに『また何やら文章を作成しなくては…』といった心持ちになってくるのです…。加えて、そうした気持ちが生じると云うことは、既に充分、休息を取ったことを意味するのではないかとも考えられるため、とりあえずスムーズに作成出来るところまで作成して、その後、作成への気持が涸れていなければ、そのまま続け、困難であれば、作成文章を下書きとして保存しておけば良いと考え、作成を始めた次第ではありますが、思いのほかに文章は進み、この程度まで進みました。そういえば、冒頭で述べた2500記事到達直後、何を思ったかまた、ノートを購入し、そこに何かしら文章を書くようにしていますが、紙のノートに筆記具で文章を書くと云う行為は、かつては頻繁に行っていましたが、昨今では、そこまでの頻度ではないため、何やら新鮮に感じられ、しかも、紙に文章を書いていますと、こうしてPC前に座り、キーボードで文章を入力するよりも、かなりスムーズに文章が出てくるのです…。これは当初、それなりの驚きがあったことから現在も続いていますが、今後出来る限り続けてみたいと考えています。そして、ここまで作成していた、その様相を検証するために、また筆記具を持ちノートを開きますと、やはりスムーズに何やら文章を書くことが出来るのです。そこで、それぞれの文章の違いは何であるかと検討するため、過日、記したノートの文章を読んでみますと、そこでも、このことに言及しており、ノートに書く文章を「地の文章」として、PCに入力する文章の方は「少し修辞をした文章」と記していました。これはたしかに事実に近いのではないかと云えます。また、こうしたことを書いていますと、以前にも当ブログにて述べました、言語についての考えが想起されます。それは、初期ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の「言語が意味を持つのは、それが実際の世界の構造に接地されて、その構造を写像出来る場合に限られる。そして、この写像の可能性こそが、言語で語り得ることと、語り得ないことの境界を定める。」と云った考えです。これを、さきのノートへの手書きと、PCでの入力に当て嵌めて考えてみますと、手書きの方は「地の文章」であると同時に、言語の重要な要素である「写像」については、あまり考慮していない文章であり、また、そうであるからこそ、スムーズに作成することが出来るのではないかとも思われます。そして、それは文章が湧いてくる身体と、手に持った筆記具との「近さ」に因ると考えます。他方のPC入力での文章は、作成するために、その文章の内容を予め自覚しておかないと作成することが困難であることから、ある程度、文章として読まれることを意識して「写像」つまり現実世界と言語との対応関係、あるいは読み手からの文章としての理解のし易さを考慮して、修辞をした文章を作成することから、手書きほどにはスムーズな文章作成が困難であると思われるのです。そして、こうしたことは、おそらく今回はじめて感じられたことではないと思われますが、何度かそうした経験をすることにより、修辞を施し、ある程度、他者からの理解を得られるような文章を作成することが出来るようになるのではないかと考えますが、そのように認識を新たにしてみますと、ここしばらくは、目標到達後の休息期間ではありますが、時々は、このように新たなブログ記事を作成することは良いことであるように思われました。そして、今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

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