2026年7月23日木曜日

20260722 2500記事到達後しばらく経ち、いくつかの記事の閲覧数の急増があって思ったこと

 7月も既に半ばを過ぎ、首都圏は、うだるような暑さの日が続いておりますが、当ブログは、今月6日投稿の引用記事により2500記事に到達しました。そして、その後も自らの文章による記事、引用記事を織り交ぜて投稿を継続しており、現在までの総投稿記事数は2507となりました。
 私としては、一旦、当ブログやSNSから離れたいと考えていますが、こうしたアウトプットは、半ば習癖となっているようで、そのため、今回もまた、このように新たな記事を作成しているのだといえます…(苦笑)。
 また、当記事につきましては、その作成に至った理由があります。その理由とは、2500記事到達後のここ2週間ほどで、どうしたわけか、以前の投稿記事である『20251104 黎明期の試作機である私について』が集中的に読まれており、その閲覧数は1500を超え、一挙に当ブログ全期間を通じて最も多く読まれた記事の上位4番目になったことです。
 当記事では、昨年11月初旬、2400記事到達を目前にして、当ブログ作成に至るまでの経緯を述べ、そのなかで、自らを、修士(経済学)を取得してから歯科技工士となり、その後、課程博士(歯学)を取得した、ごく初期、あるいは本邦初であったかもしれないと述べました。そして、今後は、そうした経験を活かし、若い医療専門職の方々が人文学に親しみ、臨床と研究を自由に行き来できる環境整備に貢献したいといった考えを述べていますが、これは2500記事に到達した現在においても変わりありません。
 とはいえ、実際問題として、そのような職種の求人は各種求人サイトなどにはありません。そのため、自ら大学さまなどに問い合わせを行い、泥縄式に営業をしていく必要があるのかもしれません…。しかし、その一方で、もしも当ブログやエックスでの私のポストなどをご覧になり、ご興味がおありでしたら、お気軽にお声掛けいただければと思います。
 以前にも何度か述べましたが、私は、未だ職業としては存在、あるいは定着していないであろう、定期的に大学を訪問し、そこでの興味深い取組みの様子や、大学付近の歴史・文化などを題材としたブログ記事を作成する、いわば大学専属のブロガー・ライターのような職種に就きたいと考えています。
 そして、先述の反応を見ますと、自らがこれまで積み重ねてきた文章作成の経験を、今後どのような形で社会に還元できるのかを、改めて考えさせられます。これまでのことを振り返ってみますと、やはり、ポンコツを基調とする私の取柄とは、こうした文章の作成であると思われますので、そのような職に就き、社会の流れをその活動のなかで見出しつつ、そしてまた、新たな文章作成へと結び付けることが出来れば良いと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 そしてまた、面白いことに、ここ数日では『20251027 目標とする2400記事まで到達出来たら…』の閲覧者数も、どうしたわけか、特異的に伸びていました。
 当記事の概要は、2025年10月末、ブログの継続期間が10年4か月となり、その間の総閲覧者数は100万人を超え、目標とする2400記事到達を目前に控え、非営利の個人運営のブログとしては、それなりに頑張ってきたとは思われるものの、その内面の状況は凪に近いものがあり、あまり記事の作成意欲が湧かず、今後の継続についても疑問視しており、それは到達後に、なおも文章や意欲が湧き出るかどうかにかかっているので、そうした内面の変化を観察したうえで、今後の当ブログの方向性を模索したいといった意味のことを述べています。
 このことは、現在の私にも同様に当て嵌まります。その意味で、11年間の継続、そして2500記事へ到達した現状もまた、凪に近いものがある一方で、前述しました当ブログへの反応がありますと、やはり、何か新しい文章を作成したくなります…。
 また、本来、当ブログは、そのようにして作成・継続してきた側面があります。そして、面白いことに、そうしたことを明晰化するために文章を作成していますと、また別のことが連鎖的に想起されることが多いのです。その意味で、現在、文章として作成してみたいと考えていることがいくつかありますが、それらにつきましては、少しずつ文章化を試みていますので、また後日、ブログ記事としてご提示したいと考えています。ともあれ、今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

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2026年7月17日金曜日

20260716 大きな物語と社会のゆくえについて…

 おかげさまで、昨日の投稿記事は、投稿翌日としては多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そうしたこともあり、本日もブログ記事の作成を始めた次第ですが、昨日の投稿記事後半では、出来るだけ、記号接地させた言語を用いて自問自答をすることにより、参照し得る記憶が増大し、それに伴い、新たな記憶の発見とも思えるような出来事が生じると云った意味のことを述べましたが、こうしたことはたしかにあり、そうした当初は、いわば個人的なものであった感覚が、対話や議論を通じて、より明晰なものとなり、そして共有化されることにより、社会全体での知的水準やリテラシーが徐々に向上してゆくのではないかと思われるのですが、近年のインターネットを軸とした情報化社会では、当初のごく個人的であった感覚から、共有され広がっていく過程が、ある程度可視化されてしまうことからか、逆に、当初の感覚から広がってゆくことが少なくなり、そこから、共有され得る大きな物語も生じ難くなり、それ(大きな物語の生成)は、他の文化部門の「業務」となっていったのが近年の我が国ではないかと思われます...。しかしながら、こうした実際の出来事や歴史に基づく大きな物語の検討・策定が、おそらく、情報化社会以前の、近代以降の我が国が極めて苦手としてきたことであり、それが一つの要因となり、結果的に(1945年の)政体の変化にまで至ったのではないかとも思われますが、このことは、昨今のさまざまな国内ニュースの報道などを目にしますと、あらためて考えさせられます。また、こうしたことを述べますと「現代社会においては、むしろ大きな物語が氾濫しているではないか?」といった批判もあると思われますが、たしかに、インターネット空間では、政治、経済、外交、安全保障、科学技術、歴史など、陰謀論も含め、多くの大きな物語が日々消費されており、また、それらを主張する各々共同体の内部においては、その大きな物語は、しばしば絶対的な権威を持っているかのように見受けられます。しかしながら、こうした状況は、現代においては、どれほど壮大な思想や理念を掲げる物語であったとしても、それが社会全体を統合する唯一の原理として受け入れられることはなく、あくまで無数の選択肢のひとつとして流通していることを示しているのではないかと考えます。それは、換言しますと「大きな物語」の消滅ではなく「大きな物語として名乗ることができなくなった社会」と云えるのかもしれません。しかしながら、こうした状況をインターネットや情報技術の発達だけに帰することは、おそらく適切ではないと考えます。むしろ、この問題の根底には、近代以降の我が国が抱えてきた、ある種の性質があるようにも思われます。太平洋戦争中の1942年、和辻哲郎は、「挙国一致」を掲げながらも、実際には各分野が縄張り争いを続け、国家全体の方向性を見失っていることに強い危機感を抱いていました。それに対して長谷川如是閑は、日本とは元来、そのような多様な意見や立場が併存し、互いに妥協しながら進んでいく国なのだ、と応じています。この議論から考えてみますと、そこには、現代にも通じる大きな問題が潜んでいるように思われます。すなわち、我が国は、古くから多様な価値観や共同体を包摂する能力を持っていた一方で、それらを貫く明確な理念や思想を形成することは、必ずしも得意ではなかったのではないか、ということです。戦前社会においては、天皇制という我が国全体を包括する象徴体系が、そのような多様な集団を、いわば「千成瓢箪」あるいは「ササラ」のように、どうにか束ねていました。しかし、敗戦により、その象徴体系は大きく変質しました。そして、その後の高度経済成長や消費社会の時代を経て、現在では、それぞれの共同体や専門分野が独自の論理によって動きつつも、それらを最終的に接続する原理が弱まりつつあるように見えます。かつては、官庁、陸海軍、大学、財界、地方共同体などが、それぞれ独立した価値論理を持ちながらも、なお全体を参照しようとする意識がありました。しかし、現代の社会では、政治は政治、経済は経済、学術は学術、趣味は趣味、インターネット上の共同体は共同体として、互いに交わることなく、独自の正当性を主張するようになっているようにも見えます。これは単なるセクショナリズムではなく、むしろ「セクショナリズムの絶対主義化」とでも呼ぶべき現象であるのかもしれません…。もっとも、興味深いことに、多くの人びとは、その絶対性を本気で信じているわけではありません。誰もが、自らの属する共同体や価値観が、数ある選択肢のひとつに過ぎないことを、どこかで理解しています。その意味では、現代社会は、確固たる信念に基づいて対立しているというよりも、互いに相対化された無数の物語が、相争いながらも、曖昧な均衡を保ちながら共存している状態であると云えるのかもしれません。そして、そうした状況のなかで、我々は、どのようにして、再び現実の出来事や歴史と向き合い、それを他者と共有し得る言葉を考えることが出来るのでしょうか?冒頭で述べたように、記号接地した言語での自問自答は、意識化されていなかった記憶を呼び覚まし、新たな観念の連合を生じさせます。しかし、それは決して個人の内面だけで収束される営みではありません。本来、それらは、対話や議論を経て、より大きな文脈へと接続され、社会全体の知的基盤を形成するものであると考えます。しかし、現代のインターネットに基づく情報化社会では、その過程そのものが可視化され、断片化され、そして即座に消費されてしまいます…。その結果、個人的な感覚が共同体へ、共同体の経験が歴史へ、そして歴史は社会全体の物語へと包摂される機会を失いつつあるのかもしれません。そして、もしも、そうであるのならば、我が国が直面している問題は、単なる政治・経済の混乱や停滞、人口減少だけではなく、むしろ、我々は今、個々の経験や記憶を、再び社会全体の言葉へと接続すること、そのものを問われているのではないかとも思われるのですが、如何でしょうか?また、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。

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2026年7月16日木曜日

20260715 2500記事到達後のこと:自問自答の源流…

 去る7月9日の記事投稿により、総投稿記事数が2503となり、またそれは、当ブログを開始した2015年6月22日から4036日目となります。そうしますと、ブログ開始当初から、5日のうち3日以上は、ブログ記事を作成・投稿してきたことになります。そのように考えてみますと、我が事ながら「多少はやったな…。」と思うことが出来る半面、感慨や感動などは全くありません…。しかし、2500記事に到達してから徐々に、ブログ記事作成への義務感そして、そこから生じる圧迫感などは減衰し、むしろ「とりあえず、目標に到達することが出来たのだから、ブログやSNSから一旦離れて休んだ方が良いのではないか?」と考えるようになりました。そのため、冒頭、7月9日から、新規でのブログ記事の投稿は行っていません、他方、これまでのブログ継続期間に因る習癖であるのか、文章自体は複数作成しました。また同時にここでも徐々に「ブログやSNSから離れても良いのでは…」と考えるようになり、あらためて離れてみますと、何と云いますか、これまで、あまり意識することがなかった感覚が、以前よりも強く感じられるようになりました。その感覚は端的に「内面で自問自答をしている感覚」です。思い返してみますと、この感覚が当初からあったために、当ブログ開始当初に、対話形式での記事を作成することが可能となり、続いて、独白形式の記事も作成出来るようになりました。そして、それらの源泉となったのは「内面での自問自答」でした。この今なお続く「自問自答」は、私の場合、おそらく、さまざまな分野の書籍を読み続けることにより、維持されているのではないかとも思われます。くわえて面白いことは、この自問自答は、自らの記憶を対象とするものであり、そこで、これまでに殆ど意識したことがない記憶が甦ることがあるのです。そうすると「それは記憶の捏造では…?」と、不審に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは違うのです。何と云いますか、出来るだけ記号接地させた言語の用い方で自分の記憶を対象として自問自答をしていますと、そうしたことが度々生じるのです。あるいはまた、それは、共通する記憶を持たれる方との会話においても、同様に度々生じると云えます。たとえば、二人が会話で、過去に二人が共に経験した、ある出来事について話し合っていて、一方が、その出来事のある場面での具体的な様相について自らの記憶に基づいて述べると、他方が、その出来事についての、また別の具体的様相が即座に思い出されて、話が広がっていくといったことであると云えます。またそれは、内面化された一人での自問自答においても生じるのだと考えます。そして、この自問自答の駆動を維持しているのが、さきにも述べましたが読書であると思われます。そこから、つい先日、ある記憶が思い出されたのですが、その具体的な内容は、また近い別の機会に述べたいと思います。そして、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。

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2026年7月9日木曜日

20260709 11年の継続、2500記事の到達から思ったこと

 おかげさまで、先月6月22日に、当ブログ開始から丸11年となりました。また、去る7月6日の記事投稿により、総投稿記事数が当面の目標としていた2500に到達しました。とはいえ、これまでと同様、目標到達の達成感や感激、感慨は全くなく、そのため今回も、ごく当り前のように、こうしてブログ記事の作成をしています……(苦笑)。
 しかし、振返ってみますと、ここ最近は、自らの文章による記事よりも、主に引用記事を作成・投稿してきました。これは、自らの文章での記事作成と比べ、緊張や逡巡などの心理的負担が少なく、そのため、2500記事に到達しても、先述しましたように感慨が乏しかったのではないかと思われます。
 また、2500記事到達後の現在、こうして自らの文章によるブログ記事を作成していても、不思議なことに、目標到達前の緊張感はありません。その意味で、引用記事の作成は、私にとって、ある局面においては有効な手段ではあったと云えます。
 もっとも、これまで、引用記事ではなく、自らの文章での記事作成が主であった頃、ある程度の目標へ到達した時も、やはり感慨などは乏しかったため、そこから考えますと、引用記事であるか、自らの文章であるかの相違は、実のところ、さほど大きなものではないのかもしれません…。おそらく11年間程度継続していますと、自らの文章であれ、引用による文章であれ「ブログ記事を作成する」という行為そのものが日常化され、達成感や感慨などをあまり意識出来なくなるのではないかとも思われます…。
 それでも継続していますと、時折は面白いことも起きます。去る6月29日投稿分の『インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について』を投稿した後、ほどなくして、文系師匠と鹿児島在住時にお世話になった研究室の先輩から相次いでご連絡を頂き、近況などを知らせてくださいました。しかし、お二人とも私のブログについては、特に触れられませんでした。そのため、これらのご連絡とブログ記事の投稿とは関係がないのかもしれませんが、タイミングを考えてみますと、何らかの関連があったのではないかとも思われます。実際のところは分かりませんが……。
 また、こうしたことは今回だけではありません。たとえば、ある記事を投稿した直後に、それと内容的に関連がある既投稿記事が読まれていたり、あるいは記事で述べた出来事に実際に立ち会っていなければ結び付かないような別の既投稿記事が閲覧されていたりするのを見ますと、何とも不思議な感じを受けます。そして、こうした出来事は決して少なくありません。
 こうしたことを考えますと、たとえ、このような小さなブログであっても、そこで述べた内容が、誰かの記憶を呼び起こしていることもあるのではないかと思われます。そして、もしもそうであるのならば、当ブログのような発信にも、何らかの意味があり、また、私自身としても、それは興味深いものがあると云えます。
 そのため、2500記事は、引用記事の投稿を中心として、どうにか達成しましたが、今後も、あまり変わらないペースで、出来るだけ自らの文章での記事作成を継続したいと考えています。それでも、引用記事がある程度続きますと、自らの文章による記事も比較的スムーズに書けるようで、今回の記事もまた、その流れで作成出来ているのではないかと思われます…。以前のように、自らの文章による記事を連日投稿できるようになりたいものですが、願っていれば、いずれまた、出来るようになると思われます。これまで、何とか当ブログを継続することが出来ていますので…。
 くわえて、ともかく目標としていた2500記事には到達しましたので、今後しばらくは、アウトプットたる当ブログよりも、インプットである読書の方に、もう少し注力したいとも考えています。そして、その背景には、ここ数年の世界情勢の大きな変化があります。
 2020年からの新型コロナ禍、2022年2月からのロシアによるウクライナ侵攻、翌2023年10月のイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃を契機として再燃したパレスチナ・イスラエル紛争など、現在に至るまで世界情勢は混迷を続けています。そのなかで、我が国も必ずしも賢明に処しているようには思われず、他方、国内においても元首相の暗殺をはじめ、さまざまな不祥事やスキャンダルが続き、それ以前の社会とは、様相が大きく異なるように思われます。それは、何と云いますか、社会全体で価値観が揺らいでいることを示しているのではないかと思われます。
 そして、新しい情報が次々と現れては消費されていく現在であるからこそ、ある程度長く読み継がれてきた著作を読む、あるいは改めて読み直すことに意味があるのではないかと思われます。
 具体的な著作を挙げますと、まずは夏目漱石による『現代日本の開化』です。人工知能が比較的広汎に実装されつつある現在に当著作を読みますと、改めて考えさせられるものがあると考えます。こちらは100年以上前に和歌山で行われた講演を基にしたものであり、明治維新以降、急速に西洋文明を受容し、近代化を推し進め、日清・日露の戦役を終えて一段落した頃の我が国で不可避であったであろう事態を「神経衰弱」と述べています。その内容は、人工知能がさらに高度化し、そして広汎に社会実装されるであろう今後の我が国社会を考える上でも、少なからず参考になるのではないかと考えます。
 漱石は当著作で、西洋の開化が概ね内発的であったのに対し、我が国の開化は外発的であったと指摘しています。換言しますと、我が国は、西洋化の波に抗う術はなく、急激に表面だけでも取り繕う必要があったことから、内実が伴わない「表層のみの開化」となり、それが後々、我が国に「神経衰弱」を齎したと述べています。そして、それが避け難い状況であったとしても、西洋文化崇拝一辺倒になることなく、主体性(自己本位)を保つことが重要であるとも述べています。こうした指摘は、人工知能が急速に進化し、普及しつつある現在であるからこそ、新たな技術をどのように受容し、そして活用していくべきかを検討する上で参考になり、その意味で『現代日本の開化』は多くの示唆を与えてくれる著作であると考えます。
 そして、次に挙げたいのは竹山道雄による諸著作です。竹山道雄は、戦間期から戦中・戦後の我が国をはじめ欧州の社会の様相を、さまざまな著作で述べていますが、戦争に向かう1930年代の社会の空気や、時代精神の変化、イデオロギーの対立、そして自由や教養などの意味についての考察は、単に当時の歴史の流れを知るためだけではなく、ふたたび分断や不安が広がる現代の国際社会や我が国の状況を考える上においても多くの示唆があると考えます。歴史は全く同じ形で繰り返されるものではありません。しかし、人間社会の構造や、人々の心理には、時代や国境を超えて共通する部分が少なからずあります。であるからこそ、こうした時代変化の様相を冷静に述べた著作は、現代においても参照され、そして来たるべき時代においても意味を持ち続けるのではないかと考えます。しかしまた、竹山道雄による、この時代(戦間・戦中・戦後)を描いた文章は、総じて比較的冷静な筆致ながらも、いや、それだからこそであるのか、そこから、現在の我が国社会とあまり変わらない要素が看取されて、徐々に気が滅入ってくると云った特徴があります。そして、それは司馬遼太郎が「昭和戦前期の日本には精神衛生に悪いものがある...。」と述べていたことと、おそらく通底すると思われますが、しかし、そうであるからこそ、やはり読んで知っておいた方が良いのではないかと思われるのです…。たとえ、読んでいるさ中に気が滅入って来ても、この場合は、それこそが歴史の持つ他に代替出来ない、大きな価値や意味ではないかと思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?
 ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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2026年7月5日日曜日

20260705 株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」 pp.92-95より抜粋

株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」
pp.92-95より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4065436508
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065436509

幸福寿命を短くする社会側の要因とは
 社会生活が幸福寿命と大きく関連しているのは皆さん納得していると思います。ある程度の年齢になると、大きく人生を転換するのはなかなか難しいです。となるとこれからを考えるうえで大事なのは社会生活の中でいかにプチシフトしていくかではないでしょうか。
 現在の日本社会には、個人の幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。社会の現状を知ったうえで、個人が能動的にプチシフトすることを心がけないと、今の日本では幸福寿命をのばすことは難しいです。
 社会側の要因をまとめると、人間関係とコミュニティの希薄化、個人の多様性を否定する価値観、完璧を求める過剰なプレッシャー、経済的・社会的な不安定性の4つに分類できます。
 人間関係とコミュニティの希薄化には、つながりの貧困化や、無機質な都市開発があります。昔の日本社会では、良くも悪くも血縁 (家族や親族との関係)、地縁(地域コミュニティとの関係)、社縁(会社組織との関係)によるつながりが強かったです。個人が受動的に生きていても、さまざまなしがらみが存在していました。
 現在でも地方では一部、血縁や地縁が色濃く残っていますが、都市ではかなり消失しました。そのため、都市では個人が能動的に生きないと、人とのつながりが少なく孤立しやすい無縁社会の影響を受けます。
 都市開発による環境破壊で自然や公園が減り、無機質なビルが多くなり、マンションのオートロック、スーパーなどでの買い物がすべてオンラインで行えるようになったりするなど、コミュニティが育まれにくい都市構造が増えています。そのため、環境面でも受動的な生き方では、人との深い関係を築くことが難しくなりました。
 個人の多様性を否定する価値観には、非寛容性と同調圧力、男尊女卑と性別規範、外国人・ 障害者などへの排他主義があります。ただしこれらは、現在の日本社会に限らず以前から存在するものです。みんなと同じであることを求め、少しでも違う生き方や考え方をする人を受け入れず、出る杭は打たれるという非寛容性と同調圧力が、日本では強めです。
 世界経済フォーラムが、経済、教育、健康、政治参画の分野毎にデータを重み付けしたジェンダー・ギャップ指数を毎年発表しています。2025年の日本の順位は、148ヵ国 中118位であり、2024年と同じでした。昔の日本社会よりはまだましかもしれま せんが、今でも男尊女卑と性別規範が強く、都市よりも地方でより目立ちます。日本で都市より地方の人口減少のほうがより多い要因の一つは、地方での男尊女卑と性別規範の強さだと私は思います。
 完璧を求める過剰なプレッシャーには、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義、高すぎる要求水準、労働能力と生産性の至上主義、効率性至上主義、知識社会化、グローバル化があります。
 新自由主義とは、規制を緩和して市場で自由な活動をさせることが最も効率的であり、個人の成功も失敗も自己責任で、弱者救済のための公的福祉には消極的な考え方です。現在の日本社会では、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義の影響が強く、失敗は社会の責任ではなく個人の責任として厳しく追及されます。そのため、人に助けや援助を求めることに心理的な抵抗を感じる方が増えている印象です。
 経済的・社会的な不安定性には、格差社会の進行、少子高齢化、政治的な不安定性があります。新自由主義、知識社会化、グローバル化などの影響で、日本でも格差社会が進行しています。少子高齢化は、社会保障制度の財政を圧迫し、国民の将来への不安を増大させます。この不安を解消できない政治への不信感が、さらに社会の不安定性を高めています。
 高齢者へのエイジズム(年齢差別)もあります。年金や医療といった社会保障制度の今後への不安は、政治的な不安定性や政治家や役人に対する信頼の低さが一因です。政治家と役人が、すべての国民の幸福を最優先に取り組んでいれば、今とは異なる社会になっていたはずです。
 このように、現在の日本には幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。
 一方、スマートフォンやAIなどテクノロジー面の発展、個人の自由や多様性が以前よりは尊重されるようになったこと、人とのつきあいの選択肢の増加、障害者差別解消法など法律の整備、医療や公衆衛生の進歩、美味しい食品やお酒の増加、犯罪率の低下など、幸福寿命をのばす社会側の要因もあります。
 そのため、昔の日本社会のほうが今より幸福になりやすかったわけではないと私は考えています。昔の日本には受動的に得られるつながりがありましたが、それはしがらみでもありました。一方、現在の日本には、能動的に自らの意思で、より多様で豊かな幸福を迫 求できる機会が増えました。ただし、幸福寿命を短くする社会側の要因が多いので、社会が変わるのを待つのではなく、個人が社会生活を能動的にプチシフトすることが幸福寿命をのばす道となります。