2026年7月21日火曜日

20260721 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.124-127より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.124-127より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

 それで、あなたの占領時代についての考えを聞きたいと思うんだ。年はいくつだった? 

野坂:戦争が終わったときは十四でした。そのときは、ごく卑俗な意味でいって、価値が全部ひっくりかえってしまった。それをまざまざとみてきたんです。だいたい僕は満州事変のころに生まれて、ずっと戦争のなかで育ってきたんです。新聞の第一面はいつも戦争の記事だったし、戦争は日常茶飯事のことだったわけです。戦争がなくなるという状態は、まず考えられなかった。それが突如、昭和二十年になくなっちゃった。そして進駐軍が日本にやってきて、最初にかちんときたのは、キューキューと日米親善。 ーサンキューとエクスキューズ・ミーで親善だというんで、そんな新聞記事をみて、こんなばかばかしいことがあるか。この前まで鬼畜米英といってたのが、すっかりがっかりしちゃって、それが僕の原体験に近いようなものになった。それからあとは、一切何も信じない、自分自身さえうまく生きてゆけばいいんで、他人を裏切っても、嘘をついても、首吊りの足を引っ張ることをやってもかまわないという気持でしたね。それに、戦争で全部ひっくりかえったところでも、大人のようにはなりきれなくて、やっぱりアメリカ人には強い憎しみをもっていた。パリなんかで、自分の目の前で親父がナチスに銃殺されたとかいう実際的な感じではなくて、僕らの場合には、空襲で雲の上から爆弾、焼夷弾がどこかまわず落ちてきた、相手がさっぱりわからない。そこでは具体的にちっとも憎しみを感じなかったけど、実際問題として進駐軍がやってきて、ホッペタの赤い奴が町を歩いてるのをみると、こんなでかい、強そうなやつと、なんで喧嘩をしたんだろうという気持はあった。ただ、こいつたちがおれたちをひどい目にあわせたんだ、この野郎という気持だった。だから横浜の裏通りで、五、六人でアメリカ兵をぶんなぐって溜飲を下げていた。そして昭和二十七、八年までは、アメリカ人をみると、なんとかうまくごまかして生きてやろうという気持がずいぶんありましたね。 

三島:それは政治家だって、あの時代はそうだと思う。吉田茂がそうでしょう。僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以後の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞をうまく成功させたのは、あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、イギリスですね。 日本の政治家は少なくとも正義、真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかった のに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に味方をした。あんなにアメリカ人をもてあ そんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることができたのは、イギリス的な教養が彼 にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。 いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の標識、不決断の象徴であった。ところが吉田茂は、そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。あんなに日本人のなかで、 欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。政治家がどんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代はもうこないでしょう。 今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民だれもが味方をしていない。あなたも、そして僕も怒っているのは、それですよ。欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。

野坂:あまり心配じゃないんです。今まで一所懸命、日本はもっとりっぱに、男らしくな らなければいけないと思ってきたけど、考えてみると、むしろ日本の男はもっとフニャフニ ャになった方が、そして社会全体の組織も完全に植民地化して、僕らフィリピンの男が女たらしで、ジャズばかり歌って、何もできない、とてもあいつらには戦争なんかできないと思ったけど、それと同じように日本人もなったほうがいいのかもしれない、落ちるところまで 落ちちゃってね。 

三島:学習院のころの友だちで、まだ戦争の激しかった昭和十七年ごろ、日本も早くフィリピンみたいにならないかな、と言っていた奴がいましたよ。でも、かなり今までにあったんじゃないかな、そういうことは。 

野坂:今までにあったけど、まだアメリカの日本に対するイメージは、硫黄島、サイパン とか、日本は強い国だというほうが多いでしょう。そして今の日本人は憎しみも悔いも、あまりもっていない。人種差別もないし、共産主義に対しても、たとえば小汀利得がアカはいかぬと言っても、なぜ悪いのかわからない、若い連中はとくにそうだと思う。だれに対しても憎しみをもてない。自分の生命、財産を脅かすはっきりした形をとってくれば別だけど、 それよりもむしろ妥協して、ニコニコ笑いながら話して、なんでも解っちゃうみたいでしょ う。それなら、むしろそれを助長して、いっそ完全な植民地化しちゃったほうがいいんじゃ ないかと思う。

2026年7月20日月曜日

20260720 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」 pp.501-505より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」
pp.501-505より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4163646701
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163646701

 考えてみれば、収容所とは、サント・トマスであれカランバンであれ、少々残酷な言い方だが「民族秩序発生学」を研究する実験場のような所である。帝国陸軍とはいえ、徹底的に壊滅させられた残り二割が、降伏・収容・輸送の途中で残存のかすかな指揮系統さえ払拭されてごちゃまぜにされ、さらに将官・将校・下士官兵と分断され、兵科も各部も階級も無視して機械的に五百人ずつの一組にされ、それが数組ずつ各収容所に入れられ、そこで勝手に秩序をつくらされる。これは互いに顔も知らない、米英蘭等のさまざまな人間を、サント・トマス大学に入れ、そこへ囲い込んで勝手に秩序をつくらすのと、同じような実験であろう。
 ただ彼らとわれわれとの違う点は、日本軍が秩序をつくろうとせず放置していたのに対して、米軍はその“民主主義教育癖”を発揮して、しきりと民主的秩序を作らすべく指導したことである。従って外形的には何やら“員数組織”があった。だがその内実は、帝国陸軍の内務班同様、自然発生的な別秩序に支配されていた。帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメンコ(食器)の数」と言われ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。
 兵の階級は上から兵長・上等兵・一等兵・二等兵である。私的制裁というと「兵長が一等兵をブン撲る」ようにきこえるが、実際はそうではなく、二年兵の兵長は三年兵の一等兵に絶対に頭があがらない。従って日本軍の組織は、外面的には階級だが、内実的な自然発生的秩序はあくまでも年次であって、三年兵・二年兵・初年兵という秩序であり、これが階級とまざりあい、両者が結合した独特の秩序になっていた。
 そしてこの秩序の基盤は前述の「人脈的結合」すなわち“同年兵同士の和と団結”という人脈による一枚岩的結束と、次にそれを維持する暴力である。二年兵の兵長が三年兵の一等兵にちょっとでも失礼なことをすれば、三年兵は、三年兵の兵長のもとに結束し、三年兵の兵長が二年兵の兵長を文字通りに叩きつぶしてしまう。従って二年兵の兵長は三年兵の一等兵に、はれものにさわるような態度で接する。表面的にはともかく、内実は、兵長という階級に基づく指揮などは到底できない。それが帝国陸軍の状態であった。このことは「古兵殿」という言葉の存在が明確に示している。一等兵は通常、階級名をつけずに呼びすてにする。しかし二年兵の上等兵は三年兵の一等兵を呼びすてにできず、そこで「○○古兵殿」という呼びかけの尊称が発生してしまうのである。
 考えてみればこれは、収容所に入ったあの夜「牢名主」の幕舎長から言われたことであった。そして、虚構の階級組織が消失し、収容所で自然発生的な秩序ができてきたときは、その実情がむき出しになり、人脈・金脈・暴力の秩序になった。サント・トマスの「秩序維持の法廷と陪審制度」などは、遠い夢のおとぎ話に等しい。
 小松さんは『虜人日記』で、この暴力支配の発生・経過・状態を、短く的確に記している。「暴力団といっても最初から勢力があったわけではない」のだが、自ら秩序をつくるという意識の全くない「PW各人も無自覚で」「勝手な事を言い、勝手な事をしている」うちに、暴力的人間は、食糧の横流しなどで金脈・人脈を構成し、いつしか全収容所を押えた。
 「各幕舎には一人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した…彼らの行うリンチは一人の男を夜連れ出し、これを十人以上の暴力団員を取り巻き、バットで殴る蹴る、実にむごたらしい事をする、痛さに耐え兼ね悲鳴をあげるのだが、毎晩の様にこの悲鳴とも唸りとも分らん声が聞こえて、気を失えば水を頭から浴せて蘇生させてからまた撲る、このため骨折したり喀血したりして入院する者も出て来た。彼らに抵抗したり口答えをすれば、このリンチは更にむごいものとなった。ある者はこれが原因で内出血で死んだ。彼らの行動を止めに入ればその者もやられるので、同じ幕舎の者でもどうすることもできなかった。暴力団は完全にこの収容所を支配してしまった。一般人は暗黒感にかられ、発狂する者さえ出てきた」。そして米軍が介入して暴力団が一掃される。するととたんに秩序がくずれる。「何んと日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」。これが、この現実を見たときの小松さんの嘆きである。
 そしてこの嘆きを裏返したような、私的制裁を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない。そしてその人たちの密かなる主張は、もしそれを全廃すれば、軍紀すなわち秩序の維持も教育訓練もできなくなると言うのである。それを堂々と主張する下士官もいた。
 「いいか。私的制裁を受けた者は手をあげろと言われたら、手をあげてかまわないぞ。オレは堂々と営倉に入ってやる。これをやらにゃ精兵に鍛え上げることはできないし、軍紀も維持できない。オレはお国のためにやってんだ。やましい点は全然ないからな。いいか、あげたいやつは手をあげろ」
 そしてこの暴力支配は将校にもあり、部下の将校を平気で撲り倒し、気にくわねば自決の強要を乱発し、それをしつつ私的制裁撲滅を兵に訓示していた隊長もいる。石田徳氏は『ルソンの霧』(朝日新聞社)で自決強要の恐怖すべき現場をそのままに記しておられるが、こういった例は決して少なくない。
 収容所は、それらがただ赤裸々に出てきたにすぎない。そしてここまで行かなくとも、暴力一瞬前の状態に相手を置き、攻撃的暴言の連発で非合理的服従を強要するのは、だれ一人不思議と思わぬ日常のことであった。そして戦後にもこれがあり、多数の集中的暴言で一人間に沈黙を強いることを、だれも不思議に思っていない。
 なぜか。なぜそうなるのか。軍隊にはいろいろの人がいる。動物学を学んでいたYさんは、これを「動物的攻撃性に基づく」秩序だと言い、収容所とは鶏舎で、その秩序はちょうど「トマリ木の秩序」と同じだと言った。雄鶏は、最も攻撃性の強いものがトマリ木の一番上にとまり、その強さの序列が上から順々に下がりトマリ木の序列になる、と。
 帝国陸軍は、「攻撃精神旺盛ナル軍隊」だけを目指したから、動物的攻撃性だけが主導権を持ち、野牛の大群が汽車に突撃するような攻撃をし、同時にそれを行うための秩序が、暴力という動物的攻撃性だけの「トマリ木の秩序」になった、と。そう言われれば「戦後的ケロリ」は、攻撃が頓挫した野牛群が、ケロリとして草をくっているのと同じことなのか?
 また軍事史の教官だったというA大佐は、日本軍創設時に原因があると言った。そのころは、血縁・地縁を基礎とする自然発生的な村落共同体が厳存していたところで、その中の若衆制度という、青年期の年次制「組」制度が輸入の軍隊組織と結合し、若衆三年兵組、二年兵組、初年兵組という形になり、その実質には結局が手つけられなかった。そのうえ陸軍は自然発生的な村の秩序しか知らず、組織をつくって秩序を立てるという意識がない。これはヨーロッパの、アレキサンダー大王のマケドニア方陣以来の、幾何学的な組織という考え方とそれを生み出す哲学が皆無なため、そういう組織的発想に基づく軍隊組織とは、内実は全く別ものになった、と。
 従って軍人勅諭には組織論はもとより組織という概念そのものがなく、「礼儀を正しくすべし」の「礼」だけが秩序の基本だった。だから外面的な礼儀の秩序が虚礼となって宙に浮くと、暴力とそれに基づく心理的圧迫だけの秩序になってしまった。一人への公開リンチによるによる全員への脅迫が全収容所を統制し得たのと非常によく似た形、すなわち一人の将校を自殺させることによって、全将校とその部下を統制し、同時に私的制裁が未端の秩序を維持するという形になってしまった、と。

いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。

2026年7月17日金曜日

20260716 大きな物語と社会のゆくえについて…

 おかげさまで、昨日の投稿記事は、投稿翌日としては多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そうしたこともあり、本日もブログ記事の作成を始めた次第ですが、昨日の投稿記事後半では、出来るだけ、記号接地させた言語を用いて自問自答をすることにより、参照し得る記憶が増大し、それに伴い、新たな記憶の発見とも思えるような出来事が生じると云った意味のことを述べましたが、こうしたことはたしかにあり、そうした当初は、いわば個人的なものであった感覚が、対話や議論を通じて、より明晰なものとなり、そして共有化されることにより、社会全体での知的水準やリテラシーが徐々に向上してゆくのではないかと思われるのですが、近年のインターネットを軸とした情報化社会では、当初のごく個人的であった感覚から、共有され広がっていく過程が、ある程度可視化されてしまうことからか、逆に、当初の感覚から広がってゆくことが少なくなり、そこから、共有され得る大きな物語も生じ難くなり、それ(大きな物語の生成)は、他の文化部門の「業務」となっていったのが近年の我が国ではないかと思われます...。しかしながら、こうした実際の出来事や歴史に基づく大きな物語の検討・策定が、おそらく、情報化社会以前の、近代以降の我が国が極めて苦手としてきたことであり、それが一つの要因となり、結果的に(1945年の)政体の変化にまで至ったのではないかとも思われますが、このことは、昨今のさまざまな国内ニュースの報道などを目にしますと、あらためて考えさせられます。また、こうしたことを述べますと「現代社会においては、むしろ大きな物語が氾濫しているではないか?」といった批判もあると思われますが、たしかに、インターネット空間では、政治、経済、外交、安全保障、科学技術、歴史など、陰謀論も含め、多くの大きな物語が日々消費されており、また、それらを主張する各々共同体の内部においては、その大きな物語は、しばしば絶対的な権威を持っているかのように見受けられます。しかしながら、こうした状況は、現代においては、どれほど壮大な思想や理念を掲げる物語であったとしても、それが社会全体を統合する唯一の原理として受け入れられることはなく、あくまで無数の選択肢のひとつとして流通していることを示しているのではないかと考えます。それは、換言しますと「大きな物語」の消滅ではなく「大きな物語として名乗ることができなくなった社会」と云えるのかもしれません。しかしながら、こうした状況をインターネットや情報技術の発達だけに帰することは、おそらく適切ではないと考えます。むしろ、この問題の根底には、近代以降の我が国が抱えてきた、ある種の性質があるようにも思われます。太平洋戦争中の1942年、和辻哲郎は、「挙国一致」を掲げながらも、実際には各分野が縄張り争いを続け、国家全体の方向性を見失っていることに強い危機感を抱いていました。それに対して長谷川如是閑は、日本とは元来、そのような多様な意見や立場が併存し、互いに妥協しながら進んでいく国なのだ、と応じています。この議論から考えてみますと、そこには、現代にも通じる大きな問題が潜んでいるように思われます。すなわち、我が国は、古くから多様な価値観や共同体を包摂する能力を持っていた一方で、それらを貫く明確な理念や思想を形成することは、必ずしも得意ではなかったのではないか、ということです。戦前社会においては、天皇制という我が国全体を包括する象徴体系が、そのような多様な集団を、いわば「千成瓢箪」あるいは「ササラ」のように、どうにか束ねていました。しかし、敗戦により、その象徴体系は大きく変質しました。そして、その後の高度経済成長や消費社会の時代を経て、現在では、それぞれの共同体や専門分野が独自の論理によって動きつつも、それらを最終的に接続する原理が弱まりつつあるように見えます。かつては、官庁、陸海軍、大学、財界、地方共同体などが、それぞれ独立した価値論理を持ちながらも、なお全体を参照しようとする意識がありました。しかし、現代の社会では、政治は政治、経済は経済、学術は学術、趣味は趣味、インターネット上の共同体は共同体として、互いに交わることなく、独自の正当性を主張するようになっているようにも見えます。これは単なるセクショナリズムではなく、むしろ「セクショナリズムの絶対主義化」とでも呼ぶべき現象であるのかもしれません…。もっとも、興味深いことに、多くの人びとは、その絶対性を本気で信じているわけではありません。誰もが、自らの属する共同体や価値観が、数ある選択肢のひとつに過ぎないことを、どこかで理解しています。その意味では、現代社会は、確固たる信念に基づいて対立しているというよりも、互いに相対化された無数の物語が、相争いながらも、曖昧な均衡を保ちながら共存している状態であると云えるのかもしれません。そして、そうした状況のなかで、我々は、どのようにして、再び現実の出来事や歴史と向き合い、それを他者と共有し得る言葉を考えることが出来るのでしょうか?冒頭で述べたように、記号接地した言語での自問自答は、意識化されていなかった記憶を呼び覚まし、新たな観念の連合を生じさせます。しかし、それは決して個人の内面だけで収束される営みではありません。本来、それらは、対話や議論を経て、より大きな文脈へと接続され、社会全体の知的基盤を形成するものであると考えます。しかし、現代のインターネットに基づく情報化社会では、その過程そのものが可視化され、断片化され、そして即座に消費されてしまいます…。その結果、個人的な感覚が共同体へ、共同体の経験が歴史へ、そして歴史は社会全体の物語へと包摂される機会を失いつつあるのかもしれません。そして、もしも、そうであるのならば、我が国が直面している問題は、単なる政治・経済の混乱や停滞、人口減少だけではなく、むしろ、我々は今、個々の経験や記憶を、再び社会全体の言葉へと接続すること、そのものを問われているのではないかとも思われるのですが、如何でしょうか?また、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。

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2026年7月16日木曜日

20260715 2500記事到達後のこと:自問自答の源流…

 去る7月9日の記事投稿により、総投稿記事数が2503となり、またそれは、当ブログを開始した2015年6月22日から4036日目となります。そうしますと、ブログ開始当初から、5日のうち3日以上は、ブログ記事を作成・投稿してきたことになります。そのように考えてみますと、我が事ながら「多少はやったな…。」と思うことが出来る半面、感慨や感動などは全くありません…。しかし、2500記事に到達してから徐々に、ブログ記事作成への義務感そして、そこから生じる圧迫感などは減衰し、むしろ「とりあえず、目標に到達することが出来たのだから、ブログやSNSから一旦離れて休んだ方が良いのではないか?」と考えるようになりました。そのため、冒頭、7月9日から、新規でのブログ記事の投稿は行っていません、他方、これまでのブログ継続期間に因る習癖であるのか、文章自体は複数作成しました。また同時にここでも徐々に「ブログやSNSから離れても良いのでは…」と考えるようになり、あらためて離れてみますと、何と云いますか、これまで、あまり意識することがなかった感覚が、以前よりも強く感じられるようになりました。その感覚は端的に「内面で自問自答をしている感覚」です。思い返してみますと、この感覚が当初からあったために、当ブログ開始当初に、対話形式での記事を作成することが可能となり、続いて、独白形式の記事も作成出来るようになりました。そして、それらの源泉となったのは「内面での自問自答」でした。この今なお続く「自問自答」は、私の場合、おそらく、さまざまな分野の書籍を読み続けることにより、維持されているのではないかとも思われます。くわえて面白いことは、この自問自答は、自らの記憶を対象とするものであり、そこで、これまでに殆ど意識したことがない記憶が甦ることがあるのです。そうすると「それは記憶の捏造では…?」と、不審に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは違うのです。何と云いますか、出来るだけ記号接地させた言語の用い方で自分の記憶を対象として自問自答をしていますと、そうしたことが度々生じるのです。あるいはまた、それは、共通する記憶を持たれる方との会話においても、同様に度々生じると云えます。たとえば、二人が会話で、過去に二人が共に経験した、ある出来事について話し合っていて、一方が、その出来事のある場面での具体的な様相について自らの記憶に基づいて述べると、他方が、その出来事についての、また別の具体的様相が即座に思い出されて、話が広がっていくといったことであると云えます。またそれは、内面化された一人での自問自答においても生じるのだと考えます。そして、この自問自答の駆動を維持しているのが、さきにも述べましたが読書であると思われます。そこから、つい先日、ある記憶が思い出されたのですが、その具体的な内容は、また近い別の機会に述べたいと思います。そして、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。

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2026年7月9日木曜日

20260709 11年の継続、2500記事の到達から思ったこと

 おかげさまで、先月6月22日に、当ブログ開始から丸11年となりました。また、去る7月6日の記事投稿により、総投稿記事数が当面の目標としていた2500に到達しました。とはいえ、これまでと同様、目標到達の達成感や感激、感慨は全くなく、そのため今回も、ごく当り前のように、こうしてブログ記事の作成をしています……(苦笑)。
 しかし、振返ってみますと、ここ最近は、自らの文章による記事よりも、主に引用記事を作成・投稿してきました。これは、自らの文章での記事作成と比べ、緊張や逡巡などの心理的負担が少なく、そのため、2500記事に到達しても、先述しましたように感慨が乏しかったのではないかと思われます。
 また、2500記事到達後の現在、こうして自らの文章によるブログ記事を作成していても、不思議なことに、目標到達前の緊張感はありません。その意味で、引用記事の作成は、私にとって、ある局面においては有効な手段ではあったと云えます。
 もっとも、これまで、引用記事ではなく、自らの文章での記事作成が主であった頃、ある程度の目標へ到達した時も、やはり感慨などは乏しかったため、そこから考えますと、引用記事であるか、自らの文章であるかの相違は、実のところ、さほど大きなものではないのかもしれません…。おそらく11年間程度継続していますと、自らの文章であれ、引用による文章であれ「ブログ記事を作成する」という行為そのものが日常化され、達成感や感慨などをあまり意識出来なくなるのではないかとも思われます…。
 それでも継続していますと、時折は面白いことも起きます。去る6月29日投稿分の『インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について』を投稿した後、ほどなくして、文系師匠と鹿児島在住時にお世話になった研究室の先輩から相次いでご連絡を頂き、近況などを知らせてくださいました。しかし、お二人とも私のブログについては、特に触れられませんでした。そのため、これらのご連絡とブログ記事の投稿とは関係がないのかもしれませんが、タイミングを考えてみますと、何らかの関連があったのではないかとも思われます。実際のところは分かりませんが……。
 また、こうしたことは今回だけではありません。たとえば、ある記事を投稿した直後に、それと内容的に関連がある既投稿記事が読まれていたり、あるいは記事で述べた出来事に実際に立ち会っていなければ結び付かないような別の既投稿記事が閲覧されていたりするのを見ますと、何とも不思議な感じを受けます。そして、こうした出来事は決して少なくありません。
 こうしたことを考えますと、たとえ、このような小さなブログであっても、そこで述べた内容が、誰かの記憶を呼び起こしていることもあるのではないかと思われます。そして、もしもそうであるのならば、当ブログのような発信にも、何らかの意味があり、また、私自身としても、それは興味深いものがあると云えます。
 そのため、2500記事は、引用記事の投稿を中心として、どうにか達成しましたが、今後も、あまり変わらないペースで、出来るだけ自らの文章での記事作成を継続したいと考えています。それでも、引用記事がある程度続きますと、自らの文章による記事も比較的スムーズに書けるようで、今回の記事もまた、その流れで作成出来ているのではないかと思われます…。以前のように、自らの文章による記事を連日投稿できるようになりたいものですが、願っていれば、いずれまた、出来るようになると思われます。これまで、何とか当ブログを継続することが出来ていますので…。
 くわえて、ともかく目標としていた2500記事には到達しましたので、今後しばらくは、アウトプットたる当ブログよりも、インプットである読書の方に、もう少し注力したいとも考えています。そして、その背景には、ここ数年の世界情勢の大きな変化があります。
 2020年からの新型コロナ禍、2022年2月からのロシアによるウクライナ侵攻、翌2023年10月のイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃を契機として再燃したパレスチナ・イスラエル紛争など、現在に至るまで世界情勢は混迷を続けています。そのなかで、我が国も必ずしも賢明に処しているようには思われず、他方、国内においても元首相の暗殺をはじめ、さまざまな不祥事やスキャンダルが続き、それ以前の社会とは、様相が大きく異なるように思われます。それは、何と云いますか、社会全体で価値観が揺らいでいることを示しているのではないかと思われます。
 そして、新しい情報が次々と現れては消費されていく現在であるからこそ、ある程度長く読み継がれてきた著作を読む、あるいは改めて読み直すことに意味があるのではないかと思われます。
 具体的な著作を挙げますと、まずは夏目漱石による『現代日本の開化』です。人工知能が比較的広汎に実装されつつある現在に当著作を読みますと、改めて考えさせられるものがあると考えます。こちらは100年以上前に和歌山で行われた講演を基にしたものであり、明治維新以降、急速に西洋文明を受容し、近代化を推し進め、日清・日露の戦役を終えて一段落した頃の我が国で不可避であったであろう事態を「神経衰弱」と述べています。その内容は、人工知能がさらに高度化し、そして広汎に社会実装されるであろう今後の我が国社会を考える上でも、少なからず参考になるのではないかと考えます。
 漱石は当著作で、西洋の開化が概ね内発的であったのに対し、我が国の開化は外発的であったと指摘しています。換言しますと、我が国は、西洋化の波に抗う術はなく、急激に表面だけでも取り繕う必要があったことから、内実が伴わない「表層のみの開化」となり、それが後々、我が国に「神経衰弱」を齎したと述べています。そして、それが避け難い状況であったとしても、西洋文化崇拝一辺倒になることなく、主体性(自己本位)を保つことが重要であるとも述べています。こうした指摘は、人工知能が急速に進化し、普及しつつある現在であるからこそ、新たな技術をどのように受容し、そして活用していくべきかを検討する上で参考になり、その意味で『現代日本の開化』は多くの示唆を与えてくれる著作であると考えます。
 そして、次に挙げたいのは竹山道雄による諸著作です。竹山道雄は、戦間期から戦中・戦後の我が国をはじめ欧州の社会の様相を、さまざまな著作で述べていますが、戦争に向かう1930年代の社会の空気や、時代精神の変化、イデオロギーの対立、そして自由や教養などの意味についての考察は、単に当時の歴史の流れを知るためだけではなく、ふたたび分断や不安が広がる現代の国際社会や我が国の状況を考える上においても多くの示唆があると考えます。歴史は全く同じ形で繰り返されるものではありません。しかし、人間社会の構造や、人々の心理には、時代や国境を超えて共通する部分が少なからずあります。であるからこそ、こうした時代変化の様相を冷静に述べた著作は、現代においても参照され、そして来たるべき時代においても意味を持ち続けるのではないかと考えます。しかしまた、竹山道雄による、この時代(戦間・戦中・戦後)を描いた文章は、総じて比較的冷静な筆致ながらも、いや、それだからこそであるのか、そこから、現在の我が国社会とあまり変わらない要素が看取されて、徐々に気が滅入ってくると云った特徴があります。そして、それは司馬遼太郎が「昭和戦前期の日本には精神衛生に悪いものがある...。」と述べていたことと、おそらく通底すると思われますが、しかし、そうであるからこそ、やはり読んで知っておいた方が良いのではないかと思われるのです…。たとえ、読んでいるさ中に気が滅入って来ても、この場合は、それこそが歴史の持つ他に代替出来ない、大きな価値や意味ではないかと思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?
 ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


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2026年7月8日水曜日

20260707 株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」 pp.16-20より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.16-20より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498835
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498839

 前著の『動物化するポストモダン』は、タイトルに示されているように、ポストモダンとオタクの関係を中心とした社会分析の書物である。「ポストモダン」あるいは「ポストモダン化」は、一九七〇年代以降の先進諸国で生じた社会的変化を意味し、「オタク」とは、同時期の日本で成長した、マンガやアニメ、ゲームなどを中核とした趣味の共同体を意味している。
 ポストモダンもオタクも、日本では流行語になってしまったため、いまでは多様な意味を抱えている。そのためにかえって見えにくくなっているが、ポストモダン化の進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。したがって、オタクについてポストモダンの概念を使って、また逆にポストモダンについてオタクの経験を参照して考えることには意味がある。そして、その視点からは、いままでの日本社会論ではなかなか語られなかった、戦後日本のある側面が見えてくる。筆者は前著で、このような立場のもとでオタクの歩みに注目し、一九九五年以降、若いオタクが急速に物語に関心を失っているように見えること(「萌え」「データベース消費」の台頭)、そしてその変化が、短期的な流行ではなく、むしろポストモダンの徹底化、すなわち「大きな物語の衰退」の反映として分析できることを指摘した。本書の議論は、まずはそのような状況認識を前提としている。
 私たちはポストモダンと呼ばれる時代に生きている。ポストモダンでは物語の力が社会的にも文化的にも衰える。そして、現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。

ポストモダンと物語

 つぎに確認しておきたいのは、いままでの文章でもすでに問題となっていた、「ポストモダン」と「物語」の関係である。筆者は本書では、前著との重複を避けるために、ポストモダンの概念についてあらためて説明を行わない。本書の議論では、この言葉については、「大きな物語の衰退」ていどの理解でも文意を追えるようになっている。しかし、誤解を避けるため、あることだけ補足しておきたい。
 ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち「大きな物語」の衰退で特徴づけられる。一八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして日本でも、一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。これが、前著と本書の前提にある時代認識である。
 ところが、このような時代認識を提示すると反論が寄せられることが多い。それは、ポストモダンでは大きな物語は衰退すると言うが、現実には大きな物語はさまざまな局面で復活し、増殖しているのではないか、という反論である。
 二一世紀はポストモダンだという。しかし、実際には世界的には、大きな物語の衰退どころか、文明の衝突や原理主義の復活こそが問題となっている。国内を見ても、ナショナリズムや伝統の復活を願う声はますます高まっている。映画や小説を見ても、緻密な設定と重厚な世界観をもつ長大な物語は、以前と変わらず求められ続けている。話題を『動物化するポストモダン』が対象としたオタクの市場に限定したとしても、そこでも萌えの流行は一段落し、逆に物語が復活しつつあるように見える。そもそも、いまやインターネットは、政治分析からカルトや陰謀論、内部告発まで、世界中の人々が投稿した無数の大きな物語で満ちている。つまりは、マクロな水準でもミクロな水準でも、現在の状況は、大きな物語の衰退というよりも、むしろ物語の過剰や氾濫と捉えたほうが適切なのではないか。
 「大きな物語の衰退」という表現を常識的に理解するならば、このような疑問が生じるのはもっともかもしれない。しかし、その反論は実は誤解に基づいている。というのも、ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。
 ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。たとえば、もしかりにあなたが特定の宗教の熱心な信者だったとして、現代社会はその信仰は認めるが、あなたがすべてのひとがあなたの神に帰依するべきだと考え、ほかの神への寛容を侵害することは、たとえそれこそが信仰の表れだったとしても決して許さない。言いかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」としてのみ流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である)。ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。
 したがって、現代社会が物語に満たされていることは、「大きな物語の衰退」論への反証にはならない。オタクたちの物語が、たとえ内容的には気宇壮大な奇想に満たされていたとしても、多様な消費者の好みに合わせて調整され、「カスタマイズ」され、それゆえにほかの物語を想像させる寛容さを抱えて作られているかぎりにおいて、それは「データベース消費」のもとにある「小さな物語」として捉えるべきだと筆者は考える。この「ほかの物語を想像させる寛容さ」は、本論でのち論じていくように、現代の文学を考えるうえで鍵となる概念である。

2026年7月7日火曜日

20260707 中央公論新社刊 宮崎市定著「科挙: 中国の試験地獄」pp.2-7より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「科挙: 中国の試験地獄」
pp.2-7より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4121000153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121000156

序論
 中国の政治思想によると天子なるものは天から委任をうけて、天下の人民を統治する義務を負わされたものである。
 しかし天下は広く人民は多いから、とうてい一人で統治することはできない。いきおい人民のなかから助手を求めて、その仕事の一部を分担させざるをえない。それがすなわち官吏であり、官吏の良し悪しは政治上に影響すること重大であるから、人民のなかの最も賢明なものを登用しなければならない。それがためには万人のなかから公平に人物を採用する試験制度こそ最良の手段だ。こうして科挙が始まったのである。
 これは実にすぐれたアイディアである。そしてこの科挙制度の成立したのが、いまから一四〇〇年ほど前の五八七年だということは、驚くべき事実である。
 なぜなら第六世紀はヨーロッパでいえばゲルマン民族移動の大混乱がようやくおさまりかけた頃で、中世的な封建諸侯の割拠、その花形である騎士道の黄金時代はこのあと長い時代をかけて展開されるからである。ところが中国では、封建諸侯にも比すべき特権貴族の黄金時代はこの頃すでに終わりを告げて、それに代わる新しい社会の胎動がきざしていた。科挙の制度も、単なる儒教の理念から形成されたものでなく、実際政治の必要に促されて、歴史の動きのなかから生まれ出たものなのである。
 それまでの中国は貴族主義全盛の時代といわれ、地方に有力な貴族群が根をはってはびこり、帝王権力もこれには一目おかないわけにはいかった。彼らは地方の州を単位として、そこにいわば貴族連合政権ともいうべき地方政府を形成した。その要職はすべて土着の貴族によって独占され、ただ長官だけが中央政府から任命されるので、かろうじて全体的に統一国家らしい体面を保っているだけである。
 この貴族群は地方政府を足場として、もし風向きがよければ中央政府へ進出して重く用いられるが、具合が悪くなれば地方へ引きこもって蟄伏しながら、おもむろに再起を計ろうとする。中央政府はこうした貴族たちの鼻息をうかがわなければ、円滑にその政治を行なうことができない。そこで貴族はますます図にのって、自分たちの家柄は天子のそれよりも古いと自慢しあい、天子の権利をないがしろにすることさえもしばしばであった。
 このような貴族のわがままにがまんしきれなくなったのが隋の文帝である。彼は地方政府に対する世襲的な貴族の優先権をいっさい認めず、地方官衙の高等官はすべて中央政府から任命派遣することに改めた。このためには中央政府が常に多量の官吏予備軍を握っていなければならないが、この官吏有資格者を製造するために科挙制を樹立したのである。すなわち年々中央政府が全国から希望者を集めて試験を行ない、種々の科目に及第した者に、秀才・明経・進士などの肩書をあたえて有資格者と定め、必要に応じて各地の官吏に任用するのである。
 中国では官吏登用のことを選挙というが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代になって成立した。その後、宋代に入ってから科目は進士の一科だけに絞られたが、依然として科挙という言葉を使って清朝の末年に及んでいる。
 このように科挙なるものは、がんらいは天子が貴族と戦うための武器として突出されたものであったが、その任務はおおよそ次の唐代三百年ほどの間にほぼ果たされたと見てよい。次の宋代になるともはや世上には天子に刃向かうほど強力な貴族はいなくなり、科挙の全盛時代に入る。天子は自分が思うまま自由にこき使える官吏を、科挙によって十分に補給することができたのである。宋一代、科挙出身の政治家が自由に手腕を揮うことができ、中国史上はじめて見られる文治派の政治が完成されたのであった。
 しかし同時にこの頃から、官吏登用ははたして科挙のような試験制度にばかり頼っていてよいかという反省が生じた。北宋中期に出た有名な政治家王安石は科挙出身であったが、もっと進んだ考えを出して学校制度をはじめ、官吏は試験で採用するばかりでなく、あらかじめこれを学校で教育しておかなければならぬと考えたのである。いまから考えてみると、科挙制度はこの時代に、学校制度にその地位を譲っておくべきだったのである。
 宋を亡ぼしたモンゴル人の元王朝は、はじめは武力一点ばりで、学校にも科挙にも少しも興味をもたなかった。しかし征服された中国人の間には、科挙への郷愁のやみがたいものがあった。そのうち元王朝も少しずつ中国化してくると、中国人の切なる希望もあって、四十年ほど中絶していた科挙が小規模ながら再興されて、元の滅亡する直前まで続いた。
 モンゴル人を北へ追い払って中国人の中国を回復した明の太祖は、学校と科挙とを併用する政策をたてた。全国に学校をたて教官を任命し、そこで十分に教育した上で、生徒のなかから優秀な者を科挙の試験によって抜擢しようというのである。ところが不幸にしてこの政策は時間がたつ間に骨抜きにされてしまった。金のかかる学校教育が有名無実になってしまい、学校における試験が、しだいに科挙の試験の踏み台にされるようになると、それは始めから終わりまで試験だけの連続という、きわめて好ましからざる制度に変形してしまったのである。
 清朝は明代の科挙制度をそのまま踏襲した。ただし科挙も過去に長い歴史をもつようになると、しだいに弊害が積み重なってきたので、清朝はなるべくその弊害を矯正しようと努力した。しかし、単に試験に不正をなくして公平を図ることのみを目指したので、その結果は試験の上にさらに試験を重ねることになり、ますます試験の負担を増すだけであまり効果をあげることができなかった。そして清朝も末年になると、弊害の方がいよいよ募るばかりで、ついには世間からも愛想をつかされるようになった。
 そこへ押しよせたのがヨーロッパの新文明の波である。ヨーロッパの文明は学校でなければとうてい教育できない自然科学、実験、工作の要素を含んでいる。そこで清朝政府もついに兜をぬいで、一九〇四年を最後の年として、以後は科挙を行なわぬことに定めた。
 ただし科挙通過者の称号たる進士の名は、なお引き続いてこれを用い、大学卒業者、あるいは海外留学からの帰朝者に対し、その学歴に応じてあたえることにした。奇抜なのは、日本の服部宇之吉博士が清朝に招かれて京師大学堂の師範教習に任じられ、一九〇九年帰国の際に、進士の称号を贈られたことである。朝鮮には、中国へ入って実際に科挙を受けて進士となった者があるが、日本では唐代に阿倍仲麻呂がはたして進士になったか疑わしいのを除き、ただ服部博士だけが科挙制崩壊直後に進士となったのである。ただしこれは余談。
 以上は主として天子の側から科挙制を眺めたのであるが、これを人民の側から、受ける人の立場として見ると、また異なったニュアンスが出てくる。科挙は天子がせっかくこのように広く一般人民に門戸を開いて人才を求めるのだから、これに応じて存分の才能を伸ばしてみるのは男子生涯の壮挙といってよい。ただしこれも立派に言おうとすればそうなるのであるが、実際は何よりも就職の便利のためである。旧中国において何がもうかるといって、官吏となるほど得な職業は外にない。しかもそれが名誉とあわせて実益をつかむのだからたまらない。
 科挙の始まった六、七世紀の頃からのち数百年間は、官吏となる以外に利殖の道が少なく、下って明代頃から商売に身をいれれば、らくに暮らせるような世のなかになったが、しかし商人では肩身がせまい。その上、大商売をしようとすればどうしても身を卑下しつつ官辺と連絡をとらねば不便なので、そんな屈辱をしのんで金をもうけるよりも、官吏そのものになって堂々と好運をつかむのが一番賢いやり方なのである。
 そこで世人が争って科挙の門をめがけて殺到するから、広い門もだんだん狭くなる。競争が激しくなればなるほど、それに打ちかつには単なる個人の才能よりも、個人をとりまく環境が大いに物をいうことになる。もし同程度の才能に生まれついていれば、貧乏人よりは金持が有利、無学な親をもつよりは知識階級の家に生まれた方が有利、片田舎よりも文化の進んだ大都会に育った方が有利だということになる。その結果として文化が地域的にいよいよ偏在し、富もまたいよいよ不公平に分配されるようになる。
 中国は土地が広く人口も多い。そのなかから、最も環境に恵まれ、才能に富んだ人たちが集まって必死の競争を展開するのだから、科挙はますますむつかしい試験になる。試験地獄がもし起こらなかったら、その方が不思議であろう。

2026年7月6日月曜日

20260706 株式会社blueprint刊 宮台真司著「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」 pp.183-186より抜粋

株式会社blueprint刊 宮台真司著「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」
pp.183-186より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4909852093
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4909852090

『冷たい熱帯魚』:〈システム〉からの自立自体が孕む依存の喝破

『冷たい熱帯魚』には園子温定番の「ダメな父親」(ゆえのダメな家族)が描かれる。ダメぶりが引き起こす悲劇の激烈さにおいては『紀子の食卓』(2006年)に連なる。ダメな父親への否定の身振りの激しさは『冷たい〜』ではもはや尋常の域を遥かに超えている。
 園監督はかつて私的に語った。『紀子の食卓』に描かれた父親は彼自身の父親だ。大学教授である父親は、構造的貧困がもたらす飢餓の激烈さを語った直後なのに激昂すると食卓をひっくり返すような偽善者だったという。父親への反発から家出して、カルトやセクトにも入った。『紀子〜』では父親のダメぶりが、あるべき家族についての勘違いのパターナリズムとして描かれる。ところで、「またお父さんったら」的な赦し合いのコミュニケーションを可能にする感情的共通前提の、空洞化に対処するには、近親姦による秘密の共有か、究極の演技しかない。
 近親姦による秘密の共有を描いたのが『Strange Circus 奇妙なサーカス』(2005年)で、究極の演技を描いたのが『紀子〜』だ。どちらの場合も子供たちを犠牲にした自己満足に帰結する。だから園作品は、親たちの自己満足に資するAC的振る舞いからの解放を謳って終わる。
 『冷たい〜』では更に先に進んだ。子供が親のパターナリズムに偽善を見出すのは何故かを問う。答えはシステムへの過剰依存だ。親が親みたいな顔をしていられるのはシステムに依存するからに過ぎない。システムの外に出てしまえば親らしさなど一挙に吹き飛ぶという訳だ。
 映画のラストにやっと判明するが主人公は娘の美津子だ。映画は、美津子から見た父・社本信行のダメさの話だ。小さな熱帯魚店を経営する社本は、大規模な熱帯魚店を経営する村田に感染して仕事に協力するが、実は村田は、システムの外を生きる「モンスター」だった。
 人を毒殺しては妻と一緒に解体処分する村田だが、常軌を逸した振る舞いを示すにも拘わらず、のべつ幕なしの多弁さで社本のダメさを際立たせ、説教し続ける。「ふん、どっちみちバレたら死刑だ。だがな、俺はシロウト紛いのオロオロ小僧とは違う」云々。
 村田の辣腕経営者ぶりに感染した社本が、やがて二度目の感染をする。システムの外を出を生きるモンスターぶりに感染するのだ。オロオロ小僧・社本が「屹立する父」へと翻身する。その翻身を「眼鏡をかけた男」から「眼鏡を外した男」への変貌ぶりが示す。
 少女漫画に定番の「眼鏡を外したら、あら美人」ならざる、「眼鏡をとったら、あら父親(真の男)」。それだけであれば所謂「成長もの」ー離陸して混沌を経験した後に離陸面とは異なる着地面に着地するーの、よく出来た作品ということで終わろう。
 だが、少なくとも二点で意外な印象を与える。第一に、村田は「脱社会的存在」ではない。真のモンスターではない。村田が魚を捌くかのように「人を捌く」のは、村田自身が「父に裁かれ」、その身勝手な自意識によって激烈な罰を受けてきたからだと示されるのだ。
 浦沢直樹の連載漫画『MONSTER』(1994年~2001年)に登場する悪魔の如き少年ヨハン如く、元々は誰よりも感情的な存在だったがゆえに大人たちによる虐待に苦しみ、やがて感情的存在としては理解不能な「モンスター」に変貌する、という「摂理」が暗示される。虫の息となった村田の、少年時代に繰り返したのだろう父の許しを請う呟きが、それまでと一転して観客の同情を誘う。観客は、父(村田の父)から父(村田)へ、その父(村田)から父(社本)へという連鎖に、「世界は確かにそうなっている」という寓意を見出す。
 父による抑圧からの解放が、父が登録されたシステムから離脱して生きる「脱社会的」な振舞いでしかあり得なかった、という負の連鎖。だが、この摂理に深く打たれる間もなく第二の意外な展開が待っている。社本が自らの首を切り、娘に哄笑されながら死ぬのだ。
 抑圧からの解放という成長物語を生きる者が、成長物語の完遂のために新たな抑圧をもたらすという負の連鎖。それを突きつけられた観客は我に返るだろう。『紀子〜』のラストの娘が「家族からの卒業」を暗示したとすれば、『冷たい〜』も実は卒業を暗示している。
 この卒業は、″「父親による抑圧(によるシステム依存)から(システムの外に出ることで)解放される」というシステム依存をめぐる実存の物語ー解放の物語ーが、それ自体システムに(ゆえにシステムに登録された父親に)依存する″、という逆説からの、解放である。

20260705 株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』 pp.50-55より抜粋

株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』
pp.50-55より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4569860788
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4569860787

日本の宗教・根源感情は何か
森本:これからの世界は、外交も軍事も経済も多極化ないしブロック化に向かっているようです。さて、日本ははたしてどこに入るのでしょうか。これまでは西側世界の一員として数えられてきましたが、従来のリベラル・デモクラシーという価値だけでは上手く回らないことは、現在の世界の混迷を見れば明白です。

佐伯:まさにそれが大問題で、冷戦後はグローバル化が進んで、諸文明が収斂する世界が訪れると考えられましたが、実際には、むしろそれぞれの国や地域の文明が露わになりぶつかりあう時代が到来しています。これからは各国ともに、まずは自分たちの領域を守ることを優先するはずで、そのためには国民的な団結が求められます。そこで必要になるのが国民のあいだで共有される価値なのですが、冒頭の議論に戻るなら、日本人はそれが何なのか自覚できていない。自分たちの根源感情を言語化できていないのです。

森本:佐伯先生は『正論』2025年3月号に寄せられた論考で(「戦後80年 神なき時代に」)、1969年の三島由紀夫と石原慎太郎の対談に触れながら、折口信夫と柳田國男の思想を紹介しておられましたが、日本の根源感情を考えるうえで重要な内容だと感じました。

佐伯:どうやら日本の思想史の流れのなかでは特異らしいのですが、私には柳田の考えが馴染みますね。家があって先祖がいて、われわれが死んだら先祖と同じ一つの魂になる。そして、日本の宗教的な情熱の原点であり源泉が何かと言えば、自然でしょう。四季があり、山や川などのなかで人間が暮らしていて、自然には恵みを与えてくれる面もあれば害をもたらすものもある。昔の日本人はそれを「カミ信仰」と表現しました。
 柳田もまた、明治時代からの国家神道は本来の日本人の信仰心とは馴染まないと考えたのでしょう。私もやはり、自然のなかに見出せる神を土台とした宗教観や氏神信仰こそが日本の根源感情ではないかと思います。
 折口はそんな柳田の祖先崇拝を批判しましたが、彼の思想は結局のところ、異郷からやってくる神あるいは神的な存在である「まれびと」という考え方に集約されます。それはおそらく、先の大戦で非常に大切に思っていた養子が戦死したという悲劇もあり、彷徨える彼らの魂が一体どこへゆくのかという関心を排除できなかったからでしょう。そして、具体的には何者かはわからないけれども、異界からくる神のような存在があると考えたのだと思います。
 日本とヨーロッパの根源感情の決定的な違いは、ヨーロッパが一神教の神というものを生み出した一方で、日本はそれをつくらなかった点に求められるでしょう。日本人は、われわれの隣にはいつも神がいると考えましたが、それは決して目には見えないけれども、感じることができる。言うなれば、いつもそこにいる霊的な存在であると表現できるでしょう。

森本:日本の神は内在的ですが、ユダヤ・キリスト教の神は「世界の外」に存在する神で、その意味では折口の「まれびと」に近い。この世界の秩序に属さないところに存在しているので、この世の枠組みで考えてはいけない、という基本的な感覚があります。
 ただ日常の宗教性表現は、じつは日本のように神を身近に感じるのとさほど変わりません。街角にお地蔵さんのようなマリア様が祀られているのを見ると、先に触れた「文化」化した宗教は似通っているな、と思います。

自然への畏怖を抱く日本人
佐伯:もう一つ言えば、自然に対する考え方も大きく違うでしょう。日本人は、人間もまた自然のなかに存在していると考え、同時にその自然が、一方では人間に恵みを与え、他方では台風や津波、地震など、自然のなかには人間には理解しがたい「奇しき力」が存在しているとも考える。この両方の力によってわれわれが動かされているとしたのでしょう。だからそれを神と呼んで雷神や風神なども考え出したし、その神を畏怖して祀ることで生活の秩序をつくり出してきた。一方、ヨーロッパは自然現象については、少なくとも近代になれば、人間が理性の力でそれを解明できると考えている。
 さらに言うと、日本人は、われわれには理解できない奇しき力が存在するのであれば、それによってつねに世界は移り変わるし、その移り変わりにとくに意味はない、と考えます。だからこそ、この世に永続的なものはないという「無常」の観念に接近するように思います。

森本:自然に対する態度の違いは誠におっしゃるとおりです。日本的な感覚には、自然の力への畏怖があって、身近だけれど理解することも手なずけることもできない相手として、恭しくともに暮らしてゆく、というところがあります。
 それに対して近代西洋の自然理解は、神秘を理性の力で無理やりこじ開けて解明し、自分の用に奉仕させる、という感覚でしょうか。本来の聖書的な理解では、自然も人間も神の被造物であることに変わりはないのに、いつの間にか神を消し去って、自分が自然世界の王者であるかのように振る舞っているのです。これも神が世界の外に存在するからですね。だから、無神論ってじつは聖書的な世界観からしか生まれないんです。
 それと、その超越的であるはずの神が内在化すると、「自国の神」になってとても危険です。これが現代のアメリカやイスラエルに起こっていることで、それは日本の国家神道が辿った道でもあります。終戦直後の折口はそのことを批判した数少ない一人でもあります。 いずれにしても、すべての文化は宗教的だというのが私の考えです。現世的な組織立てを超越する何かの深みがなければ、その文化を一つの塊としてまとめることはできないからです。文化の核が必要なのです。それを言語化することは難しいですが、世界が多極化していく時代、日本に住むわれわれがどのような自己理解をもつかは、世界から向けられた問いでもあると思います。

佐伯:おっしゃるとおりです。日本は戦後、アメリカからもちこんだリベラル・デモクラシーや近代主義の実現をめざしてきましたが、それによってどのような国にしようかとは考えてこなかったし、また現に手本としてきたアメリカ自身が大きく変質し始めています。歴史の大きな転換点にいると同時に、われわれが歴史のなか置き去りにしてきた価値観や宗教意識を思い起こすことがきわめて大事になってきました。
 世界の向かう方向がどうであれ、ずっと先送りしてきた「日本とは何か」という宿題をあらためて突き付けられているように感じますし、そのためにはわれわれの根源感情は何かをあらためて議論しなければなりませんね。

2026年7月5日日曜日

20260705 株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」 pp.92-95より抜粋

株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」
pp.92-95より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4065436508
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065436509

幸福寿命を短くする社会側の要因とは
 社会生活が幸福寿命と大きく関連しているのは皆さん納得していると思います。ある程度の年齢になると、大きく人生を転換するのはなかなか難しいです。となるとこれからを考えるうえで大事なのは社会生活の中でいかにプチシフトしていくかではないでしょうか。
 現在の日本社会には、個人の幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。社会の現状を知ったうえで、個人が能動的にプチシフトすることを心がけないと、今の日本では幸福寿命をのばすことは難しいです。
 社会側の要因をまとめると、人間関係とコミュニティの希薄化、個人の多様性を否定する価値観、完璧を求める過剰なプレッシャー、経済的・社会的な不安定性の4つに分類できます。
 人間関係とコミュニティの希薄化には、つながりの貧困化や、無機質な都市開発があります。昔の日本社会では、良くも悪くも血縁 (家族や親族との関係)、地縁(地域コミュニティとの関係)、社縁(会社組織との関係)によるつながりが強かったです。個人が受動的に生きていても、さまざまなしがらみが存在していました。
 現在でも地方では一部、血縁や地縁が色濃く残っていますが、都市ではかなり消失しました。そのため、都市では個人が能動的に生きないと、人とのつながりが少なく孤立しやすい無縁社会の影響を受けます。
 都市開発による環境破壊で自然や公園が減り、無機質なビルが多くなり、マンションのオートロック、スーパーなどでの買い物がすべてオンラインで行えるようになったりするなど、コミュニティが育まれにくい都市構造が増えています。そのため、環境面でも受動的な生き方では、人との深い関係を築くことが難しくなりました。
 個人の多様性を否定する価値観には、非寛容性と同調圧力、男尊女卑と性別規範、外国人・ 障害者などへの排他主義があります。ただしこれらは、現在の日本社会に限らず以前から存在するものです。みんなと同じであることを求め、少しでも違う生き方や考え方をする人を受け入れず、出る杭は打たれるという非寛容性と同調圧力が、日本では強めです。
 世界経済フォーラムが、経済、教育、健康、政治参画の分野毎にデータを重み付けしたジェンダー・ギャップ指数を毎年発表しています。2025年の日本の順位は、148ヵ国 中118位であり、2024年と同じでした。昔の日本社会よりはまだましかもしれま せんが、今でも男尊女卑と性別規範が強く、都市よりも地方でより目立ちます。日本で都市より地方の人口減少のほうがより多い要因の一つは、地方での男尊女卑と性別規範の強さだと私は思います。
 完璧を求める過剰なプレッシャーには、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義、高すぎる要求水準、労働能力と生産性の至上主義、効率性至上主義、知識社会化、グローバル化があります。
 新自由主義とは、規制を緩和して市場で自由な活動をさせることが最も効率的であり、個人の成功も失敗も自己責任で、弱者救済のための公的福祉には消極的な考え方です。現在の日本社会では、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義の影響が強く、失敗は社会の責任ではなく個人の責任として厳しく追及されます。そのため、人に助けや援助を求めることに心理的な抵抗を感じる方が増えている印象です。
 経済的・社会的な不安定性には、格差社会の進行、少子高齢化、政治的な不安定性があります。新自由主義、知識社会化、グローバル化などの影響で、日本でも格差社会が進行しています。少子高齢化は、社会保障制度の財政を圧迫し、国民の将来への不安を増大させます。この不安を解消できない政治への不信感が、さらに社会の不安定性を高めています。
 高齢者へのエイジズム(年齢差別)もあります。年金や医療といった社会保障制度の今後への不安は、政治的な不安定性や政治家や役人に対する信頼の低さが一因です。政治家と役人が、すべての国民の幸福を最優先に取り組んでいれば、今とは異なる社会になっていたはずです。
 このように、現在の日本には幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。
 一方、スマートフォンやAIなどテクノロジー面の発展、個人の自由や多様性が以前よりは尊重されるようになったこと、人とのつきあいの選択肢の増加、障害者差別解消法など法律の整備、医療や公衆衛生の進歩、美味しい食品やお酒の増加、犯罪率の低下など、幸福寿命をのばす社会側の要因もあります。
 そのため、昔の日本社会のほうが今より幸福になりやすかったわけではないと私は考えています。昔の日本には受動的に得られるつながりがありましたが、それはしがらみでもありました。一方、現在の日本には、能動的に自らの意思で、より多様で豊かな幸福を迫 求できる機会が増えました。ただし、幸福寿命を短くする社会側の要因が多いので、社会が変わるのを待つのではなく、個人が社会生活を能動的にプチシフトすることが幸福寿命をのばす道となります。

2026年7月2日木曜日

20260702 株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」 pp.72-76より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」
pp.72-76より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4044007632
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4044007638

九州から畿内へ、そして関東へ
 古墳の出現、すなわち弥生時代から古墳時代への移行にかならずつきまとうもうひとつの問題は、日本列島社会の空間構造の激変が、そこで生じているということである。すなわち、弥生時代の、少なくともある段階までは、九州北部に文化的な先進性と政治的な中心性があったのに対し、古墳時代は畿内を核とする時代へと変わったということだ。九州から畿内へという中心の移動がいつ、どのように生じたのかという問題は、邪馬台国の所在論や、神話の歴史学的評価と、きわめて密接に関連している。
 この、社会の中心が西から東へ移っていくという動きは、農耕社会成立以降三〇〇〇年の日本列島史の底流をなすメカニズムだった。弥生時代には九州北部にあった中心が、古墳時代に移り変わるころに畿内へと移動し、畿内を政治と文化の中心とする社会のかたちは、少なくとも平安時代までは続いた。その後の鎌倉時代と室町時代とは、いずれに比重を置くかは見方しだいのところはあるが、畿内と関東という、社会的役割を異にする二つの中心をもった時代だったといえる。これが、戦国から安土桃山にいたる動乱期をへて近世の江戸時代になると、中心としての関東の比重がかなり明確になる。ただし、経済や文化の限られた局面で畿内の中心性がまったくなくなったわけではない。さらに明治以降の近代から現代にかけては、関東に公式の首都が置かれ、その中心性はさらに増した。
 このように、弥生時代から現代にかけて、列島社会の中心は、九州北部(博多湾沿岸)から畿内(大和・河内・山城=京)、そして関東(鎌倉・江戸)へと、大きくみれば三遷している。空間構造の変化という視点から日本列島史のメカニズムを分析する目的で、それぞれが中心となった時代を、一般的な時代区分とは別に、かりに、「ツクシ時代」「ヤマト時代」「アズマ時代」とよんでみよう。
 ただ、各時代の境界はかならずしも画然としたものではなく、文字記録のうえではっきりと歩みがたどれるヤマト時代とアズマ時代のあいだには、新旧両中心が並び立つ鎌倉・室町という長い移行期がはさまっている。また、アズマ時代になってからも、旧中心の畿内が、京あるいは大坂(大阪)というかたちで、新中心の江戸(東京)に対して、文化あるいは経済のうえで独自の比重を保ちつづけた。
 これと同じように、ツクシ時代からヤマト時代への移行のときにも、新旧両中心の博多湾沿岸と奈良盆地とが役割を異にして並び立ったり、政治的中心が奈良盆地に移ってからも博多湾沿岸が文化や経済のうえで独自の地歩を占めつづけるような複雑な状況が生じていたにちがいない。したがって、いつ、どのような局面での中心の移動が、いかなる段階を踏んでおこなわれたのかを正しくつかむことが、弥生時代から古墳時代への移行の歴史的意義を明らかにし、ひいては、古墳とは何かという問題の答えを導くだろう。文字記録が貧しいこの時代にあっては、考古学が、そのための随一の手段となる。

前方後円墳の成立年代
 宗教、政治、経済、文化、そして人口。一口に中心といっても、さまざまな種類や局面での中心があり、それらはかならずしも一か所に合致するわけではない。弥生時代から古墳時代にかけて、すなわちツクシ時代からヤマト時代への移行期に、どのような中心がどこに生じ、それらがどう推移したのだろうか。考古資料をもとに復元してみよう。
 まず、本書のテーマである前方後円墳。さきに述べたように、これは、長を葬って神格化する装置であり、その背後には長どうしによる政治的な連合組織が想定できる。したがって、前方後円墳の規模や分布の焦点は、そういった祭政組織の総本山の所在、すなわち、古代においては分かちがたく結びついた宗教と政治という局面での、中心のありかをしめす可能性が高い。
 最初期の前方後円墳の中心が、まず、奈良盆地東南部の纏向遺跡付近に形成されたことも先述した。これは、いつの出来事なのだろうか。纏向付近の前方後円墳群のなかで、築造年代を絞りこむための情報がもっともよくわかっているのはホケノ山である。ホケノ山の埋葬施設の上に安置されていたとみられる壺は、「庄内式」とよばれる型式で、ともに出土する木材資料の年輪年代や、同じ庄内式の土器にこびりついた炭化物の放射性炭素年代などの複数のデータから、三世紀前半の所産とする説が有力だ。ただし、ホケノ山の土器は、庄内式のうちでも新しい特徴をもっている。また、埋葬施設から出た鏡のうちもっとも新しいのは画文帯神獣鏡といわれる型式で、それ自体には年代幅があるが、上野祥史氏によると、文様の種類や配置から、ホケノ山の例は三世紀中ごろにつくられたものらしい。これらの検討から、ホケノ山の年代は三世紀中ごろにほぼ絞られるだろう。
 いっぽう、纏向の盟主であり、列島最初の巨大前方後円墳とみられる箸墓の壺は、庄内式よりも一段階新しい「布留式」だが、そのなかではもっとも古い特徴をもつ。したがって、ホケノ山の直後のものだとみてよい。さらに箸墓には、特殊器台という、埴輪の元祖となった大形の土器も立てられていた。特殊器台はもともと吉備地域で発達したもので、箸墓の例はそのうちもっとも新しい「宮山型」である。宮山型の特殊器台は、吉備の土器でいえば、畿内の庄内式から布留式への過渡期に併行する「下田所式」段階の所産とみられる。こういった考古学特有の年代決定手続きの話は、ともすれば微に入り細をうがって複雑になってしまうが、ようするに、さまざまな材料から、箸墓は、ホケノ山の直後にあたる三世紀中ごろから後半にかかろうとする時期には完成していた可能性が高いということだ。
 そのほかの纏向の前方後円墳群のうち、墳丘長約一一五メートルの勝山古墳では、古墳の完成後に掘られた穴に、古墳の構築に使ったと考えられるヒノキ材が投げこまれていて、これは二〇〇年前後という年輪年代の測定結果が出ている。今後、同じようなデータが積み重なれば、三世紀に入るころには纏向の前方後円墳群の造営がはじまっていたことが明らかになるだろう。
 このように、鏡や土器の型式の検討、年輪年代、放射性炭素といった複数の手続きから、纏向の前方後円墳群は三世紀の前半には出現し、半ばごろには箸墓が完成して、前方後円墳の総本山たる威容を整えるにいたったことが明らかだ。箸墓以前の造営と考えられるホケノ山や勝山も、すでに長さ八〇〜一〇〇メートルという、ほかの地域にはない大形の墳丘や入念な埋葬施設をもっている。前方後円墳を主要な装置として、その後三〇〇年ほども続いた宗教と政治の中心は、三世紀前半には畿内の奈良盆地にあらわれていた。

2026年7月1日水曜日

20260630 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」 pp.40-42より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」
pp.40-42より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

二つのアウトサイダー ー日本とロシア
 十六世紀には、ほかに二つの国家がー国力の点で明やオスマン・トルコやムガル帝国とはくらべるべくもなかったがー政治的統一と経済成長を実現しかけていた。極東では日本が、隣の巨大な中国が衰えかけていたまさにそのとき、大きく一歩を踏み出していた。地理的な位置が(イギリスと同じよう に)、日本にとっては第一の戦略的資産だった。孤立した島国であるおかげで、日本は陸路による侵略を 免れることができたが、中国のほうはそうはいかなかったからだ。だが、島国日本とアジア大陸とのあいだに広がる海は両者をまったく隔てているわけではなく、日本の文化や宗教の大部分は、古い歴史をもつ大陸の文明から取り入れられたものだった。しかし、中国が統一的な官僚機構によって動かされていたのにたいし、日本の権力は氏族に基盤をおく多くの封建領主の手に分散されていて、天皇の権威はほんのかたちばかりでしかなかった。十四世紀には中央集権的な支配体制が存在したが、その後は領主がおたがいに争う時代がつづいた。このころの日本の状況は、同時代のスコットランドに似ている。これは貿易や商業にとって理想的な環境とはいえないが、そのために経済活動が大幅に阻害されることもなかった。海でも陸でも、企業家は戦国領主や成り上がりの権力者たちと競いあっていた。いずれも東アジアの海上貿易からあがる利益に目をつけていたからである。日本の海賊は中国や朝鮮の沿岸を荒らしまわり、同時に日本人は機会をとらえて、西欧のポルトガルやオランダから訪れた商人たちと喜んで商品を交換した。キリスト教の布教者や西欧の物資は、外国にたいして冷ややかで自己満足的な姿勢を崩さなかった明帝国を相手にした場合よりもずっと容易に日本の社会に浸透していった。
 この活気に満ちた動乱の時代のすぐあとにつづくのが、西欧から輸入された武器が活用される時代である。世界のどこでも同じだが、大量のマスケット銃やさらに決め手となる大砲を手に入れることのできた個人や集団が、当然権力を握ることになる。日本では、この結果、偉大な戦国領主である豊臣秀吉が全国統一をはたし、さらに野望を燃やして二度にわたって朝鮮征服を試みた。だが、朝鮮出兵は失敗に終わり、一五九八年に秀吉が死ぬと、内戦の危機が再び日本を襲う。しかし、数年もしないうちに、家康とその後継者である歴代の徳川将軍が政権を掌握し、その後はこの中央軍事支配がゆるぎようもなくなった。
 多くの点で、日本の徳川幕府は、その前の世紀に西欧で起こった「新しい絶対君主」と同じ性格をもっていた。だが、いちばん大きなちがいは、将軍に率いられた幕府が海外での領土拡張を避けていたことだった。それどころか、文字どおり外部の世界との接触をすべて絶ってしまったのである。一六三六年に遠洋航海用の船の建造が中止され、日本人は外洋への航海を禁じられた。ヨーロッパ人との貿易は、許可を受けて長崎の出島を訪れるオランダ船相手のものだけに限られ、それ以外との交易は行なわれなくなった。それより以前に、(外国人であろうと日本人であろうと)すべてのキリスト教徒が、将軍の命令で無残に殺害されている。徳川幕府がこうした極端な政策をとった動機が、絶対的な支配権を確立することにあっ たのは明らかだ。外国人やキリスト教徒は、支配者に背く可能性があると見なされたのである。もちろん、他の封建領主もまた幕府に反抗する可能性がある。だからこそ、領主たちは一年のうち半分を首都で過ごすことを義務づけられ、あとの半年は領地で暮らすことを許されたものの、そのあいだ家族は江戸(東京)に事実上の人質としてとどまっていなければならなかった。
 だが、上から強制されたこの統一支配も、それ自体は経済発展を阻害するものではなく、またさかんな芸術活動を阻むものでもなかった。全国が平和であれば商売に都合がよく、都市をはじめとして全国の人口は増加し、現金の使用が増えるにつれて商人や銀行家の重要性が高まった。しかし、銀行家はイタリアやオランダやイギリスの同業者が享受していたような社会的・政治的地位を獲得することはできなかった。また、日本人が世界の他の地域で発展していた技術や産業の成果を学んだり、取り入れたりすることができなかったのも確かである。明王朝と同じく、徳川幕府は、多少の例外はあれ、意図的に他の世界から隔絶することを選んだ。このために日本国内の経済活動が停滞することはなかったかもしれないが、他と比較しての日本の国力が損なわれることにはなった。貿易を嫌い、旅行を禁じられ、また儀式以外には武器を誇示することも禁じられて、領主に仕える武士は堅苦しい退屈な生活をおくっていた。軍事組織は二世紀のあいだに硬直化してしまい、一八五三年にベリー提督の有名な「黒船」がやってきたとき、仰天した幕府はなすすべもなくアメリカの要求に従って、石炭などの補給品を提供するしかなかったのである。