2026年7月9日木曜日

20260709 11年の継続、2500記事の到達から思ったこと

 おかげさまで、先月6月22日に、当ブログ開始から丸11年となりました。また、去る7月6日の記事投稿により、総投稿記事数が当面の目標としていた2500に到達しました。とはいえ、これまでと同様、目標到達の達成感や感激、感慨は全くなく、そのため今回も、ごく当り前のように、こうしてブログ記事の作成をしています……(苦笑)。
 振返ってみますと、ここ最近は、自らの文章による記事よりも、主に引用記事を作成・投稿してきました。これは、自らの文章での記事作成と比べ、緊張や逡巡などの心理的負担が少なく、そのため、2500記事に到達しても、先述しましたように感慨が乏しかったのではないかと思われます。
 2500記事到達後の現在、こうして自らの文章によるブログ記事を作成していても、不思議なことに、目標到達前のような緊張感はありません。その意味で、引用記事の作成は、私にとって、ある局面においては有効な手段ではあったと云えます。
 もっとも、これまで、引用記事ではなく、自らの文章での記事作成が主であった頃、ある程度の目標へ到達した時も、やはり感慨などは乏しいものでした。そこから考えますと、引用記事であるか、自らの文章であるかの相違は、実のところ、さほど大きなものではないのかもしれません…。おそらく11年間程度継続していますと、自らの文章であれ、引用による文章であれ「ブログ記事を作成する」という行為そのものが日常化され、達成感や感慨などをあまり意識出来なくなるのではないかと思われます…。
 それでも、ブログを継続していますと、時折は面白いことも起きます。去る6月29日投稿分の『インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について』を投稿した後、ほどなくして、文系師匠と鹿児島在住時にお世話になった研究室の先輩から相次いでご連絡を頂き、近況などを知らせてくださいました。しかし、お二人とも私のブログについては、特に触れられませんでした。そのため、これらのご連絡とブログの投稿とは関係がないのかもしれませんが、タイミングを考えてみますと、何らかの関連があったのではないかとも思われます。実際のところは分かりませんが……。
 また、こうしたことは今回だけではありません。たとえば、ある記事を投稿した直後に、それと内容的に関連がある既投稿記事が読まれていたり、あるいは記事で述べた出来事に実際に立ち会っていなければ結び付かないような別の既投稿記事が閲覧されていたりするのを見ますと、何とも不思議な感じを受けます。そして、こうした出来事は決して少なくありません。
 こうしたことを考えますと、たとえ、このような小さなブログであっても、そこで述べた内容が、誰かの記憶を呼び起こしていることもあるのではないかと思われます。そして、もしもそうであるのならば、当ブログのような発信にも、何らかの意味があり、また、私自身としても、それは興味深いものがあると云えます。
 そのため、2500記事は、引用記事の投稿を中心として、どうにか達成しましたが、今後も、あまり変わらないペースで、出来るだけ自らの文章での記事作成を継続したいと考えています。それでも、引用記事がある程度続きますと、自らの文章による記事も比較的スムーズに書けるようで、今回の記事もまた、その流れで作成出来ているのではないかと思われます…。以前のように、自らの文章による記事を連日投稿できるようになりたいものですが、願っていれば、いずれまた、出来るようになると思われます。これまで、何とか当ブログを継続することが出来ていますので…。
 くわえて、ともかく目標としていた2500記事には到達しましたので、今後しばらくは、アウトプットたる当ブログよりも、インプットである読書の方に、もう少し注力したいとも考えています。そして、その背景には、ここ数年の世界情勢の大きな変化があります。
 2020年からの新型コロナ禍、2022年2月からのロシアによるウクライナ侵攻、翌2023年10月のイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃を契機として再燃したパレスチナ・イスラエル戦争など、現在に至るまで世界情勢は混迷を続けています。そのなかで、我が国も必ずしも賢明に処しているようには思われず、他方、国内においても元首相の暗殺をはじめ、さまざまな不祥事やスキャンダルが続き、それ以前の社会とは様相が大きく異なるように思われます。それは、何と云いますか、社会全体で価値観が揺らいでいることを示しているのではないかと思われます。
 そして、そうした中で、新しい情報が次々と現れては消費されていく現在であるからこそ、ある程度長く読み継がれてきた著作を読む、あるいは改めて読み直すことに意味があるのではないかと思われるのです。
 具体的な著作を挙げますと、まずは夏目漱石による『現代日本の開化』です。人工知能が比較的広汎に実装されつつある現在に当著作を読みますと、改めて考えさせられるものがあるのではないかと思われます。こちらは100年以上前に和歌山で行われた講演を基にしたものであり、明治維新以降、急速に西洋文明を受容し、近代化を推し進め、日清・日露の戦役を終えて一段落した頃の我が国において、不可避であったであろう精神的葛藤について述べています。その内容は、人工知能がさらに高度化し、広汎に社会実装されるであろう今後の我が国社会を考える上でも、少なからず参考になるのではないかと考えます。
 漱石は当著作で、西洋の開化が概ね内発的であったのに対し、我が国の開化は外発的であったと指摘しています。換言しますと、我が国は西洋化の波に抗う術はなく、急激に表面だけでも取り繕う必要があったことから、内実が伴わない「表層のみの開化」となり、それが後々、我が国に神経衰弱を齎したと述べています。そして、それが避け難い状況であったとしても、西洋文化崇拝一辺倒になることなく、主体性(自己本位)を保つことが重要であるとも述べています。こうした指摘は、人工知能が急速に進化し、社会へ普及しつつある現在だからこそ、新たな技術をどのように受容し、そして活用していくべきかを検討する上で参考になるのではないかと考えます。その意味で、『現代日本の開化』は、AI時代を考える上でも多くの示唆を与えてくれる著作であると云えます。
 そして、次に挙げたいのは竹山道雄による諸著作です。竹山道雄は、戦間期から戦中・戦後の我が国をはじめ欧州の社会の様相を、さまざまな著作で述べていますが、戦争へ向かう1920・1930年代の社会の空気、時代精神の変化、イデオロギーの対立、そして自由や教養などの意味についての考察は、単に当時の歴史を知るためだけではなく、ふたたび分断や不安が広がる現代の国際社会や我が国の状況を考える上においても多くの示唆があるのではないかと考えます。歴史は全く同じ形で繰り返されるものではありません。しかし、人間社会の構造や、人々の心理には、時代や国境を超えて共通する部分が少なからずあります。であるからこそ、こうした時代変化の様相を冷静に述べた著作は、現代においても参照され、そして来たるべき新たな時代においても意味を持ち続けるのではないかと考えます。しかしまた、竹山道雄による、この時代(戦間・戦中・戦後)を描いた文章は、総じて比較的冷静な筆致ながらも、いや、それだからこそであるのか、読んでいて、現在の我が国社会とあまり変わらない要素が看取されて、徐々に気が滅入ってくると云った特徴があります。そして、それは司馬遼太郎が「昭和には精神衛生に悪いものがある。」と述べていたことと、おそらく通底するのではないかと思われますが、しかし、そうであるからこそ、やはり読んで知っておいた方が良いのではないかと思われるのです…。たとえ、読んでいるさ中に気が滅入って来ても、この場合は、それこそが歴史の持つ他に代替出来ない、大きな価値や意味ではないかと思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?
 ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


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