2026年6月20日土曜日

20260620 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」 pp.151‐156より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」
pp.151‐156より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061586629
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061586628

万葉集とゲーテは似ている?
 ドイツ文学を読んでいる者が万葉集について何か書けといわれると、その感想は、万葉集とゲーテの詩にはどこか共通点があるような気がする、ということである。
 たしかに、あるような気はする。ことにゲーテの若いころの作品を読んでいると、ときどきそんな感じがする。若いゲーテには素朴な上古人みたいなところがあって、技巧のない直截な表現をした。そして、万葉集は日本文学の中ではもっとも「感傷的」でなく「素朴」なもので、新鮮で健康なものである。われわれは、万葉集はほかの日本文学とちがって自然児の感情をあからさまに流露したもののような気がしている。それで、たとえば

燈のかげにかがよふうつせみの妹がゑまひし面影に見ゆ

といったような歌を読むと、これは、ゲーテだと思う。


うるはしと思ふ吾妹を夢に見て起きて探るに無きがさぶしさ

を読むと、『若きウェルテルの悩み』の中には、これをそのまま散文にしたような章がある、と思う。
 上代の日本と十八世紀末のライン地方とでは、舞台も道具立てもまるでちがうが、もし大伴家持がロココ風の服装をして葡萄酒を飲んでバタをなめていたら、あるいはつぎのような詩を作ったかもしれないような気がする。

やがてわたしは葡萄園の
秋の房を分けて入ろう。 めぐりに生命は充ちあふれ
新らしい酒は噴き溢れていよう。
なれど荒れた「亭」で
おもう心はーああおまえがここにいたら、
この房の実をおくろうに…

ひびきがおおらかで、線が太くて、コスミッシュな感じがただよっているような自然の詩は、ゲーテにも万葉にもある。それでー「ゲーテは万葉集である、万葉集はゲーテである」という説を立てたくなる。

あしひきの山川の瀬の鳴るな並に弓月が岳に雲たちわたる

 これこそは、自然を直観してその中にとけ入ろうとした、ゲーテのあこがれた境地ではなかったか!
 
 というわけで、私はゲーテ万葉説がなりたつかと思って、万葉集をすこしばかり読んでみた。ところが、読むにしたがって、これまで漠然といだいていた先入見が壊れていった。万葉集とゲーテは大ちがいである。似ているところ、近づいているところも、ないではない。ゲーテの中のすぐれた作品と万葉集の中のすぐれた作品とは、どこか通じている。これはおそらく、すべての立派な芸術に共通の香気とか格調とかいうものらしい。しかし、両者の多数の凡作はたいへん違っている。そして、稟資の基調は、かえって凡作の方に感じられることが多い。
 ゲーテを頭におきながら万葉集を読みかえしたときの感想は、矢代幸雄先生がヨーロッパから帰って法隆寺の壁画を見られたときの感想に、そっくりである。(ここでその原文を引用しようと思ったところが、生憎『世界に於ける日本美術の位置』も『日本美術の特質』も、手もとに見つからない。矢代先生におゆるしねがって、私が記憶しているところを記すと、おおよそ次のような趣旨だった)
 ー法隆寺の壁画は日本の絵画の中の最大作で、われわれはこれをスケールの大きな、荘重森厳なものだと思っている。ところがイタリアの壁画を見なれた眼には、それは意外な印象をあたえた。それは清楚で淡泊で流麗で、味のこまかいものである。日本人好みの仕上げの丁寧な、品のいい、やさしくしみじみとしたものである。日本美術の中ではもっとも雄渾と思われるものも、世界の標準から見るとむしろ甘美な感性のこまやかさによって人の胸をうつものである。
 あの法隆寺の異国風の壁画をえがいたものと同じ感性が、万葉集の中にもはたらいているような気がする。くらべればくらべるほど、ゲーテの方は強烈で逞ましくマッシヴではげしく迸っているし、万葉集の方は、「繊細」で、野性といったようなものはすっかりふりすてて洗練されている。短かい形の中に、はや技巧をつくしているにはおどろかれる。大陸伝来の正倉院の御物もそうだが、まったく日本で成立した詩歌にも、大まかな荒削りのところはすこしもない。
 ゲーテの傑作の「五月の歌」の、冒頭は直訳するとつぎのようである。

何とすばらしく
自然はてらしていることだろう!
何と太陽はかがやいていることだろう!
何と野は笑っていることだろう!

これにくらべると、万葉人の発想や言葉づかいは、その庶民の歌でも彫琢をきわめている。
 ゲーテは明るくてしばしば歓喜にあふれているが、日本人はおおらかないにしえにもしきりに歎いた。万葉集には、意外に悲哀の歌が多い。死の歌、別離の歌が、非常に多い。恋の歌にも、ほとんどつねにやさしい人情のなげきが基調になっている。なげくということは日本文学の大きな主題で、今でも日本人は映画の中でも涙をしぼるものが好きだが、こういう気持は歴史のはじめからあったのだろうか? ゲーテはドイツでこそ「素朴な」「古典的」な詩人とされているが、外国ではむしろ感傷的なロマンチックな作家としてうけたられた。それろ同じように、われわれにとってはおおどかな万葉人も、じつはやはりしめやかな情緒の人だったたしい。
 そのほか対比はかぎりないが、もっとも根本的と思われるのは自然に対する態度である。
 ドイツ人のおい自然とわれわれの考える自然とでは、たいへんちがっている。ドイツ人にとっては、自然・生命・神は三位一体なので、かれらは自然の中に自己の生命力を投影し、神の創造したもうた、宇宙の神的秩序を賛美した。所詮は一神教の展開である。ところが、日本人の自然観はあべこべに汎神論的といえるだろうか、ありのままの具体的な事物に端的に没入して、自然の中に呼吸する。