pp.134‐136より抜粋
ISBN-10 : 4907188501
ISBN-13 : 978-4907188504
2023年のいま、日本では人文学の評判は落ちるところまで落ちている。言論人や批評家にかつての存在感はない。有名な学者もほとんどいない。世に出てくる文系学者といえば、活動家まがいの極端な政治的主張を投げつける目立ちたがりの人々ばかりだ。SNSを開けば、文系はバカだ、非科学的だ、役に立たない、他人の仕事にケチをつけているだけだといった罵詈雑言が溢れている。ばくは文系学部の出身だが、もしいま10代の高校生だったら進学先に文系を選ぶことはありえなかっただろうと、そのような言葉に接するたびに真剣に思う。
人文学は信頼を回復しなければならない。人文学には自然科学や社会科学とは異なった役割があることを、きちんと論理的に伝えなければならない。じつは本論はそのよう意図でも書かれてる。
前述のように、人文学は過去のアイデアの組合せで思考を展開する。自然科学のように実験で仮説を検証するわけではない。社会科学のように統計調査を活用するわけでもない。プラトンはこう言った、ヘーゲルはこう言った、ハイデガーはこう言った、ハイデガーはこう言った・・・といった蓄積を活用し、過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。すべての人文学がそうではないと反論されるかもしれないが、少なくともその中心を担ってきた大陸系哲学はそのようなスタイルを採る。
人文学のこのようなスタイルは、現在では否定的に評価されることが多い。それは非化学的で権威主義的で、ときにカルト的にすらみえるからだ。そのとおりのこともある。
けれどもぼくの考えでは、人間はけっしてそんな怪しげな営みを破棄できない。なぜならば、その「カルト的」なスタイルは、じつは人間が言語を用いて思考するかぎり避けることができない、ある条件を凝縮して反映したものにすぎないからである。その条件が、まさに本論で「訂正可能性」と呼んできたものである。
ぼくたちは単純な加法ですら完全には定義できない。クリプキの懐疑論者を排除できない。だとすれば、真理や善や正義といった厄介で繊細な概念について、同じようにすべてをひっくり返す懐疑論者の出現をどのようにして排除することができるだろうか。人文学者はそのことをよく知っている。それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。それは結果的に、先行者の業績を無批判に尊重する、非科学的で権威主義的なふるまいにみえる。しかしけっしてそれが目的なわけではない。
だからぼくは本論で、訂正可能性について理論的に語るとともに、またその訂正の行為を「実践」しなければならないと考えた。ぼくはこの第一部で、家族や訂正可能性について「正しい」理解を提案したのではない。ぼくが行ったのは、ウィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正する・・・といった訂正の連鎖の実践である。だから本論の結論も、いつかまた読者のみなさんによって訂正されるかもしれない。その可能性は排除できない。むしろその排除の不可能性こそが人文学の持続性を保証するのだ。
人文学がこのようなスタイルをとるのは、けっして人文学者が愚かだからではない。人間はそもそもそのようにしてしか思考できないのだ。人文学が消滅するときがあるとすれば、それは人間が人間でなくなり、ウィトゲンシュタインとクリプキの指摘が無効化されるときなのではないかと思う。
ISBN-13 : 978-4907188504
2023年のいま、日本では人文学の評判は落ちるところまで落ちている。言論人や批評家にかつての存在感はない。有名な学者もほとんどいない。世に出てくる文系学者といえば、活動家まがいの極端な政治的主張を投げつける目立ちたがりの人々ばかりだ。SNSを開けば、文系はバカだ、非科学的だ、役に立たない、他人の仕事にケチをつけているだけだといった罵詈雑言が溢れている。ばくは文系学部の出身だが、もしいま10代の高校生だったら進学先に文系を選ぶことはありえなかっただろうと、そのような言葉に接するたびに真剣に思う。
人文学は信頼を回復しなければならない。人文学には自然科学や社会科学とは異なった役割があることを、きちんと論理的に伝えなければならない。じつは本論はそのよう意図でも書かれてる。
前述のように、人文学は過去のアイデアの組合せで思考を展開する。自然科学のように実験で仮説を検証するわけではない。社会科学のように統計調査を活用するわけでもない。プラトンはこう言った、ヘーゲルはこう言った、ハイデガーはこう言った、ハイデガーはこう言った・・・といった蓄積を活用し、過去のテクストを読み替えることで思想を表現する。すべての人文学がそうではないと反論されるかもしれないが、少なくともその中心を担ってきた大陸系哲学はそのようなスタイルを採る。
人文学のこのようなスタイルは、現在では否定的に評価されることが多い。それは非化学的で権威主義的で、ときにカルト的にすらみえるからだ。そのとおりのこともある。
けれどもぼくの考えでは、人間はけっしてそんな怪しげな営みを破棄できない。なぜならば、その「カルト的」なスタイルは、じつは人間が言語を用いて思考するかぎり避けることができない、ある条件を凝縮して反映したものにすぎないからである。その条件が、まさに本論で「訂正可能性」と呼んできたものである。
ぼくたちは単純な加法ですら完全には定義できない。クリプキの懐疑論者を排除できない。だとすれば、真理や善や正義といった厄介で繊細な概念について、同じようにすべてをひっくり返す懐疑論者の出現をどのようにして排除することができるだろうか。人文学者はそのことをよく知っている。それゆえ人文学は、すべての重要な概念について、歴史や固有名なしの定義など最初から諦めて、先行するテクストの読み替えによって、すなわち「訂正」によって、再定義を繰り返して進むことを選んでいるのである。それは結果的に、先行者の業績を無批判に尊重する、非科学的で権威主義的なふるまいにみえる。しかしけっしてそれが目的なわけではない。
だからぼくは本論で、訂正可能性について理論的に語るとともに、またその訂正の行為を「実践」しなければならないと考えた。ぼくはこの第一部で、家族や訂正可能性について「正しい」理解を提案したのではない。ぼくが行ったのは、ウィトゲンシュタインの哲学を訂正し、ローティの連帯論を訂正し、アーレントの公共性論を訂正する・・・といった訂正の連鎖の実践である。だから本論の結論も、いつかまた読者のみなさんによって訂正されるかもしれない。その可能性は排除できない。むしろその排除の不可能性こそが人文学の持続性を保証するのだ。
人文学がこのようなスタイルをとるのは、けっして人文学者が愚かだからではない。人間はそもそもそのようにしてしか思考できないのだ。人文学が消滅するときがあるとすれば、それは人間が人間でなくなり、ウィトゲンシュタインとクリプキの指摘が無効化されるときなのではないかと思う。