そもそも、科学と情念とは、脳の異なった部分の機能であり、すなわち大脳の新皮質の機能である。
情念は同じ皮質でも、大脳辺縁系の機能であろう。
辺縁系は、動物でも、それなりにきちんと発達している。
ネコが怒れば、我々はそれを、「ネコが怒った」として、ただちに理解する。それは、ネコの脳にも、我々の脳にも、同じ機能が存在するからである。この機能は、主として辺縁系に位置している。
それなら、宗教と科学が行ったように情念と理性を分割すればいい。
そうはいかないところが脳の困った面である。
なぜなら新皮質といい、辺縁系といっても脳は結局は一つだからである。
両者を分割するなら、脳を分割しなければならない。宗教は情念を扱い、科学は理性を扱う、それがうまく機能すればいい。
しかし、その間の分割は、まさに「便宜的」ならざるを得ない。なぜなら、両者は解剖学的、生理学的に、脳の中では連結するからである。
孔子様は「怪力乱神を語らず」だったそうだが、これが孔子の利口なところであろう。
怪力乱神は、ほめても毒づいても、いずれにしても祟るものであり、だから「触らぬ神にたたりなし」なのである。「日本霊異記」には、仏様や坊さんを粗略に扱ったため、祟りを受けた話がたくさん載っている。
たとえば上巻の第十九は、「法華経を読む人をあざけって、現世で口が曲がり、悪い報いを受けた話」である。法華経を読んで物乞いに来た乞食の口真似をし、その乞食を馬鹿にした僧が、口が曲ってしまうのである。
そうすると、まさしく「口が曲る」のである。
他人の悪口を言ったあと、ベルの麻痺にかかる確率は、決してゼロとはいえまい。「鳥の卵をいつも煮て食べたために、現世で悪い死に方をした若者の話」というのもある。今の人間が多くガンで死ぬのは、このせいかもしれない。
江戸時代の儒者たちが、こうした仏教の教えを馬鹿にしたのは、今の科学者と同じであろう。
ただ、人間の情念というのは、馬鹿にしたのでは片づかないところが、面倒なのである。状況によっては、それが知らず知らず、怪力乱神と結びつく。
マンガや若者だけではない。最近では、科学自体もまた、魑魅魍魎を発生させる役割を演じ始めているようである。
五月(1991年)下旬に読売新聞が、最近の宇宙論について、特集を行った。
この流行は、「飽き飽きしたこの世にはない、あの世の神々しい法則への憧れと言ったらいいのだろうか」と。しかし、「なんとなく気になることがある」。
氏はそう続ける。「最近の研究の前進は、まったく(この世)の物理、つまり実験室で確かめられた物理を用いて宇宙を研究した成果である。
ところが宇宙には、地上のようなつまらない物理ではなく、何か妙なる深遠で有難い法則があるらしい、というように受け取っている人が案外多いのである」。ビッグバン、真空、虚時間、無などという言葉についても、「最近のブームにはこうした隠語がかもしだす空想、妄想が多分に横行している」。
しかし、「宇宙は空を見なくても石ころを見ればわかる」。物理学者の佐藤氏は、そう結論する。物理は石ころから始まるのである。この世の石ころを見て出た結論が、やがて宇宙に浮かび、さらには魑魅魍魎となって、世間を徘徊する。これが世の中の不気味なところであろう。
この宇宙論シリーズで最初に登場したのは、作家の池澤夏樹氏である。池澤氏はいう。
「ビッグバン、超新星、ブラックホール、インフレーション宇宙、ゲージ理論、等々、ここ数年の間に我々はどれだけ新しい言葉を覚えたことか。
その背後には相対論があり、量子論があり、ひたすら発展し続ける素粒子論がある。
物理学的世界像はにぎやかになり、ダイナミックになり、その前では人間の歴史など実に卑小なものにしか見えない」。そして結論する。「今、我々の課題は、この奔放な宇宙論に対して、新しい自由な人間論を作ってゆくことではないだろうか」。
ここですでに、物理の生み出した魑魅魍魎の片鱗が見えるような気がする。佐藤氏によれば、いまの宇宙論、「目の前の石ころ」なのだが、その石ころが、「新しい自由な人間論」を生み出しそうな勢いなのである。
モノはどこまでいってもモノ、石は石かと思ったら、そうはいかない。脳の中では、人間と石がつながっているからである。それをつなげるのが、人間の情念である。
竹田晃著「四字熟語・成句辞典」講談社刊 p.51より抜粋
一塵法界(いちじんほっかい)
意味 わずか一つの小さな塵の中にも、真理を含む世界がある、最高の真理は、どんなものにも、どんな場合にも見出すことができるということ。「法界」は、仏道、仏法の大本。
用例 僕は小さな町工場で地味な仕事に従事しているが、一塵法界の教えを胸に刻んで、一日一日を有意義に過ごしている。
四字熟語・成句辞典 (講談社学術文庫)
四字熟語・成句辞典 (講談社学術文庫)
竹田晃