先日来から読み進めている、我が国古代史を主題とした著作は、その後も移動時や就寝前の読書にて頁が進みましたが、当著作においても、当初から4世紀代までと、5世紀代以降の古墳では、副葬品の性質・傾向が異なるといった見解であり、概ねこれまで通りの見解であったと云えますが、他方で、そうした副葬品の性質や傾向が変化した、さまざまな要因の見解については、今しばらく読み進めてつつ検討してみようと思います。
時代や地域の相違による、同目的と思しき、各種道具や祭器における形状や意匠の相異と同様、古墳などの墳墓においても、そうした時代性や地域性などのようなものは明らかに存在し、以前、在住していた和歌山県においては、古墳の造営様式に際立って特徴的な傾向があったと云えます。
その造営様式においては、紀ノ川流域あるいは、さらにその下を走る中央構造線沿いの地域において多く産出される青石と呼ばれる緑泥片岩を板状に加工したものを積層して壁状と為して玄室や羨道を造営し、また、玄室については、上方に向かうに伴い、積層板石が中央に向かい徐々に持送りされて、いわばドーム状となっており、この玄室内様相と、同じく壁面の積層された板状青石の様子・意匠を組み合わせて、しばし眺めて意識化することにより、紀州北部地域、紀ノ川下流域における特徴的な古墳造営様式の概要は、理解出来るのではないかと思われます。
さらに、この紀ノ川下流南岸地域において特徴的な玄室の内部には、壁面の積層にも用いられた板状の青石が、まるで棚か梁のように玄室内に懸架されているものが少なからずあり、この意匠(石棚、石梁)もまた、当地域における後期古墳を特徴付けるものであると云えます。
ともあれ、こうした古墳造営様式や、それに用いる材料が概ね定型化されてきますと、それは、いわば、可視化された文化様式のパッケージとも云えるものとなり、そしてまた、これと類似する意匠、造営様式を持つ古墳が、さきの地域外にて発見されますと、その地には、古代ヤマト朝廷の海運事業の一翼を担っていた紀ノ国の豪族紀氏との、何らかの繋がりがある人物が埋葬されていたのではないかと推理されるところですが、これについては、実際のそうした類似した造営様式古墳の分布から考えてみますと、また興味深い仮説が出て来るのでしょうが、ここまで来ますと、それは古墳造営様式に留まらず、以前にも述べた銅鐸、そしてさまざまな日常道具に至るまでが、そうした仮説を生み出す材料となると云えるのですが、しかし、ここにきて最近よく思うことは、こうした時に、仮説があまり思いつかなくなったということです・・。
これは、まだ若く、馬力があった頃では、あまり意識することはなかったのかもしれませんが、こうした「仮の物語」を生み出すところで、我々は少なからずエネルギーを費やしているのではないかと思われます。
ともあれ、また、我が国の古代史が面白く感じられてくるようになってきますと、身体の方も活性化され、そうした仮説も以前と比べて、いくらか滑らかに思い付くようになっていくのではないかとも思われるのですが、さて、実際のところは如何でしょうか・・?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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