2025年6月13日金曜日

20250612 KKベストセラーズ刊 宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」 pp.277-278より抜粋

KKベストセラーズ刊 宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」
pp.277-278より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4584140006
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4584140000

 93年に「ブルセラ論戦」をはじめたとき、わたしは、数おおくのルポライターや社会学者がこの問題の調査や分析に乗り出すものと期待していた。しかし実際に一年がたってみると、たんなる「面白がり」を別にすれば、この問題について持続的に調べ、まとまった発言をしてきたのは、藤井良樹とわたしの二人だけだった。これだけ身近で、かつ耳目をひく事態がもちあがっているとき、どれだけ適切な記述をあたえられるかということは、「社会問題をあつかう」ことを表看板にするライターにとっても、「社会のしくみを分析する」ことを表看板にする社会学者にとっても、実力が試されるチャンスだったはずだ。

 このような「言説の枯渇」が何を意味しているのかは、それはそれで機会をあらためて論じられるべき重大な問題だ。ただ、ひとつだけ言っておきたいのは、わたしたちはどうもいままで、自分たち自身ーそれを「戦後の日本」といってもいいかもしれないーについて、適切な自己把握をしてこなかったということだ。簡単にいえば、わたしたちがどのような社会に生きているののかが、それを否定したり肯定したりする以前にすこしも理解されていない。そこにあるのは、あいも変わらぬ「外部帰属化による他責化と他罰化」、すなわち低コストの因果帰属による負担免除と感情浄化(カタルシス)ばかりだ。この手の輩を、わたしは「頓馬」と呼んでいる。

 「ブルセラ女子高生」や「テレクラ中学生」をあたかも異人種であるかのごとくあつかう「切断操作」Cutting out Operationも、じつにひんぱんに見受けられる作法である。これは、まえがきで述べた「外部帰属化」や、「わたしの専門ではないもので」といった類の「自己無関連化」(だいたい「ブルセラ女子高生」なんていう専門分野があるわけがない)と同じように、自分と世界とのかかわりを抹消するーすなわち自己把握を放棄することにほかならない。わたしの考えでは、いまのところ彼女たちは、わたしたち自身とそうちがわないコミュニケーションの資質をもっていて、いわば「生きる場」の条件が変ったためにその適応行動が「外見上」突飛なものにみえるようになっただけのことだ。

 いずれにせよ、社会学や教育学をふくめ、かつて社会にかかわるものとされていた言説(の制度)のおおくが、いまや実効性を欠いたものーあってもなくてもよいものーとなり、「穴ごもりのための穴」や「ありそうもない別世界」を提示することでその言説にかかわる者だけを癒すものにー何とでも取り替えられる癒しやツールにー変じつつある。それは社会を記述する自己把握であるというより、たんなる自意識の相関物にすぎない。自己把握は自意識と同じではない。自己把握はおおくの場合自意識を脅かすからだ。こうした差異にますます鈍感になっていくこと自体、社会システムの大がかりな変容を告げ知らせているという意味で、それはそれで社会システム理論の考察材料にはなるがー。