『オーウェル評論集』pp.264-267より抜粋
ISBN-10 : 4003226216
ISBN-13 : 978-4003226216
だがここで、前にふれた点にもどってみたいーすなわち世間一般にユダヤ人差別があることは誰もが認めるくせに、自分もその一人だということは認めたがらないという事実である。教養のある人びとは、ユダヤ人差別は許すべからざる罪であり、ほかの人種差別とは別格のものだと考えている。自分がユダヤ人を差別していないことを証明するためなら、誰もが広告をふるう。というわけで1943年には、ポーランドのユダヤ人のために神の救いを祈る礼拝式が、セント・ジョンズ・ウッドのシナゴーグで催されたのだった。ロンドン市当局はぜひ出席したいという意向を明らかにして、当日は官服に鎖をさげたロンドン市長、各地区の教会代表、英国空軍、国防市民軍、看護婦、ボーイスカウトなどの代表が出席した。表面だけ見れば、これは不幸なユダヤ人との連帯をしめす感動的な催しであった。
だが本質的には、これは正しいことをしようという意識的な努力だったのであって、出席者それぞれの本音は、まずほとんどが別物だったのである。この地区はロンドン市内でもなかばユダヤ人地区であって、ユダヤ人差別のつよい所である。シナゴーグでわたしのまわりにいた人びとの中にも、この傾向のある人があきらかにまじっていた。それどころか、国防市民軍でわたしの小隊の隊長だった人物など、集会の前から「りっぱに成功させねば」ととくに熱心だったけれども、この人物は以前はオズワルド・モズリー(357頁の訳者注参照)の黒シャツ隊の一員だったのである。こういう感情的矛盾があるかぎり、英国でユダヤ人に対する集団的暴行が容認されたり、ユダヤ人差別が立法化されるといった、さらに重大な結果になることはありえない。それどころか、今のところでは、ユダヤ人差別が世の中の眉をひそめさせないようになることさえ考えられない。だが、これは大いに安心してよいことのようでいて、実はあまり頼りにならないのである。
ドイツのユダヤ人迫害は、むしろユダヤ人差別の問題が真剣に検討されなくなるという弊害を生んだ。英国では1、2年前に世論調査機関が短期間の不充分な調査をおこなっているが、ほかにもこの問題に関する調査はおこなわれていると考えられるのに、その結果は極秘のままで公表されていない。
ドイツのユダヤ人迫害は、むしろユダヤ人差別の問題が真剣に検討されなくなるという弊害を生んだ。英国では1、2年前に世論調査機関が短期間の不充分な調査をおこなっているが、ほかにもこの問題に関する調査はおこなわれていると考えられるのに、その結果は極秘のままで公表されていない。
また思慮のある人びとも、ユダヤ人がうさんくさいようなことは意識して言わないようにしている。1934年以後は、絵葉書からも、新聞雑誌からも、ミュージック・ホールからも、「ユダヤ人を種としたジョーク」はまるで魔法のように消えてしまったし、小説などにかんばしからぬユダヤ人を登場させたりするのも、ユダヤ人差別だと見なされるにいたった。パレスチナ問題のときにも、進歩的文化人のあいだでは、ユダヤ人の主張が当然だとして、アラブ側の主張にはいっさい耳を貸さないことが当然の礼儀だった。この態度は、それなりに理由の正しいものだったかもしれない。だが問題はその態度の根本が、ユダヤ人は苦しんでいるいるのだから彼らを批判してはならないという感情だった点にある。つまりヒットラーのおかげで、ジャーナリズムはいっさいユダヤ人を批判しないという事実上の自己規制に入り、反面個人の心にひそむユダヤ人差別は上向きとなって、感受性も知性もある人びとのあいだにさえ、かなりひろまるという不幸な状況に陥ったのである。この現象は、1940年に亡命者たちが拘留されたときにとくに目についた。当然のこととして、心ある人びとはすべて、不幸な外国人を見境なく留置したりすることには抗議しなければならないと思ったのだ。こうした外国人の大部分は、ヒットラーに反対だから英国へ来たにすぎない人びとなのである。だが個人的な話になると、その感想はまるで違っていた。亡命者のなかには少数ながらきわめて無分別なまねをするものもいて反感を買ったのだが、この反感の底には、彼らの多くがユダヤ人だというので、やはりユダヤ人差別の意識がひそんでいたのだった。労働党のある大立者ー名前はあげないが、英国ではもっとも尊敬されている人物の一人であるーが、わたしに向かってきわめて乱暴に言ったことがある。「あの連中にはこっちから頼んで来てもらったわけじゃないんだからね。英国へ来たいんなら、その責任は自分でとってもらおうじゃないか」。だがこの人物といえども、外国人の拘留に反対する請願や声明を出すとなれば、むろん参加するにちがいない。こういう、ユダヤ人差別というのは罪悪であり恥辱であって文明人ならそんなことは考えないという気持、それがこの問題をふかく追求するのがこわいという人さえいくらでもいるのだ。つまり世間にユダヤ人差別があるというだけではすまず、自分も同じ意識をもっていることを認識するのがこわいのである。