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2024年10月13日日曜日

20241012 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

 共産主義を理解する上で忘れてはならないのは、それが近代合理主義的な楽観論の極致であることです。しかも、その裏には終末論的楽観論があります。キリスト教の黙示録に典型的に現われていますが、既存の体制が瓦解した後、素晴らしい世の中がやってくるという終末論の世界観は、段階的に経済や社会が改善されていくという普通の楽観論とは異なります。

 その萌芽はマルクスの著書にあります。「経済学・哲学草稿」「経済学批判」「資本論」などの著作があり、近代経済学を批判的に捉え直したマルクスの思想を簡単に紹介するのは不可能ですが、骨子はこれから申し上げるようなことになります。

 資本主義生産の元では、労働者が過剰になり失業が増える。その原因は機械制生産であるのが第一点。次に、失業が生じる状況下では、労働力は買い手市場となり、労働者はますます貧しくなっていく。この「絶対窮乏化」理論がマルクスの思想の根底にあります。そして、生産力は伸びているので、少数の資本家がますます豊かになり、生産力は彼らの経営するところに集中していくと指摘します。

 ところが、労働者は貧しくなっているのですから、購買力は増えず、商品は過剰気味になる。また生産力は向上するが、労働者に対して十分な賃金が払われないので、資本も過剰気味になる。この矛盾を解決するため、具体的には、余剰商品と余剰資本を売り捌くために、列強は帝国主義的に海外進出しますが、問題の解決にはならず、やがて過剰商品により恐慌が起こり資本主義が崩壊する。簡単に言えば、こういうことです。

 先ほどの「終末論的楽観論」がこの図式に存在することを皆さんお気づきでしょう。人間の矛盾した二つの気持ちを満足させる説明のし方がそこにあるのです。一方では、文明が進歩し生産力が上昇する。他方、都市においては貧困がなくならないどころか一層、悲惨さを増している。マルクスが生きた十九世紀はまさにそんな時代でした。

 産業革命後、なぜ都市労働者は苛酷さを強いられたのか、その理由はわかりませんが、一方で、我々が農村労働を長閑なものだと偶像化しがちであるという面はあろうかと思います。実際にやったことがないから、漠然と、自然の中で働くのは楽やろなという気持ちがあるのでしょう。しかし、実際のところ、それを値引きしても、産業革命初期の労働が田園における農業労働よりも苛酷であったことは間違いないでしょう。中世の農業は天気が悪いと休みになりますし、他にもやたらと休日がある。ヨーロッパであれば、キリスト教関連の祝日は一年中ありました。それに比べて、都市では労働時間が増え、工場の劣悪な環境で汚染された空気を吸って働かなければならなかった。当時の記録をみると、一八五〇年代のロンドンなどは言葉で言い表すことができないくらいすごかったようです。十軒長屋がずらっと並び、便所は一つ。衛生状態が悪いので、結核、コレラ、チフスなどの伝染病が時々流行したのもわかります。

 ところが十九世紀のイギリス人も何もしなかったわけではなく、人道主義的にいろいろな工場法を制定しています。それでも、一八七〇年に至るまで平均寿命は五〇歳以下で、ほとんど延びてない。人びとはひどい環境の中で生きていたことがわかります。しかし、そういう状況でも、近代人の頭には「進歩」という理念があり、彼らは「人間は進歩するはずだ」と思っているわけです。

 生産力も伸びているが、世の中に悲惨さも溢れている。それを見たとき、二、三〇〇年前なら、「人間の生活には悲惨さがつきものだ」「しかたがない」と自分を納得させたのだと思います。しかし、近代人は「しかたがない」とは言えない、そう考えられない頭の構造になっていまっている。そうすると、人間がもっと幸せになれるはずだし、世の中が進歩するはずなのに、この現状はなんだという暗澹たる気分になり、それなら、現状の体制を潰して伸びつつある生産力を使い、理想的な社会を作ればいいと考えるのは当然の帰結でしょう。

 マルクス主義者が「科学」と呼んでいる「人間は進歩するはずだ」、「こうすれば世の中は変えることができる」という信念に普通の人間的な共感が結びつくと、それが共産主義になるわけです。そして、そのブロセスの青写真を描くことができる少数者が社会を指導すべきなのだという思考回路を、レイモン・アロンは「終末論的楽観論の極致である」と指摘しています。

 世の中は複雑かつ不思議なもので、いいことが悪くなったり、悪いものがよくなったりすると柔軟に物事を考える立場だと、なかなかこういう発想にはなりません。しかし(人間は進歩すべきで、必ずその方法はある。その青写真は共産主義になる」という固い信念がある人間は、他人の意見には聞く耳を持たず、強引な形で政治を進めることになります。周囲もまた彼の批判ができなくなり、処刑する人も処刑される人も、正しい主義主張と一体のまま死にたいと思うでしょう。

2024年10月11日金曜日

20241010 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.232-234より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 十九世紀の世界の力関係の変化をみると、「西側の人間のもたらした衝撃」がありとあらゆる面に影を落としていることがわかる。この衝撃は、多くの経済関係ー沿岸貿易業者への「非公式な影響」から海運業者、植民者を直接に管理する総督、鉄道建設業者、鉱山会社などーを通じてあらわれたばかりでなく、開拓者、冒険家、宣教師の侵出にも、西側の疾病の伝染にも、西側社会の思想の伝播にもみられるのである。西側の衝撃はーミズーリから西へ、アラル海から南へー大陸の中心部にまで波及し、さらにはアフリカの河口から上流へさかのぼり、太平洋の島づたいに広がっていった。この衝撃の置き土産の一つが、(たとえば)イギリスがインドに残した道路や鉄道網、電信、港湾、都市建築などがあるとするなら、この時代の植民地戦争につきものの流血、暴行、掠奪といった悲劇もその一面である。事実、力と征服にはコルテスの昔からつねにこうした両面があったが、それに拍車がかかったのがこの時代だった。一八〇〇年にヨーロッパが占領し、あるいは支配していた地域は世界の陸地の三五パーセントだったが、一八七八年にはそれが六七パーセントに増え、一九一四年には八四パーセントを超える。

 蒸気エンジンと機械でつくられた道具に代表されるテクノロジーの発達によって、ヨーロッパは経済的にも軍事的にも圧倒的な優位をかちえた。先込め式の銃が銃(撃発雷管、銃身の施条など)の改善は、まさに不吉な前兆であり、元込め式の銃が出現して発射速度が大幅に高まったことは大きな前進となる。そして、ガトリング機関銃、マキシム銃、軽量の野砲が最後の仕上げとなって新たな「火器革命」が完成し、旧式の兵器に頼っている原住民は抵抗しようにも、まったくそのすべがなくなってしまった。そのうえ、蒸気エンジンを搭載した砲艦が登場し、すでに公海を支配していたヨーロッパの海軍は、ニジェールやインダス、揚子江などの大きな河川づたいに内陸部にまで入り込むようになる。こうして、移動性と火力とすぐれた甲鉄艦「ネメシス」は一八四一年と四二年のアヘン戦争で活躍し、中国防衛軍を惨憺たる目にあわせて、蹴散らしてしまった。もちろん、物理的に進出の難しい地域(たとえばアフガニスタン)では、西側の軍事帝国主義の侵略が阻まれるし、非ヨーロッパ軍のなかにもーシーク教徒や一八四〇年代のアルジェリア人などのように―新しい兵器や戦術を採用して戦い、激しく抵抗したものもあった。だが、ひらけた地形の国で戦闘が行われれば、西側は機関銃や重火器を配備することができるから、結果は考えるまでもなかった。この戦力の差を最も如実にみせつけることになったのは、十九世紀のオムドゥルマンの戦いだったろう。この戦争ではマキシム銃とリーエンフィールド・ライフル銃を装備したキッチナー軍が、夜が明けてわずか数時間のうちに一万一〇〇〇人のデルウィーシュを倒し、味方はわずか四八人の損害しか出さなかった。この戦力の差と産業の生産性の格差とがあいまって、先進国は最も遅れた国々にくらべて五〇倍から一〇〇倍の力を手に入れたことになる。西側諸国の世界支配は、ヴァスコ・ダ・ガマの時代以来の趨勢ではあったが、ここにいたって、その前に立ちふさがるものはほとんどなくなったのである。

2024年7月6日土曜日

20240706 株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 下巻 pp.133-137より抜粋

株式会社筑摩書房刊 J.G.フレイザー著 吉川信訳「初版 金枝篇 下巻 pp.133-137より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480087389
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480087386

 アイヌ民族が行っている熊の生贄の意味についてもまた、不確かなものがある。これは日本列島の島、エゾとサハリン、および千島列島の南部にも住む未開民族である。アイヌの熊に対する態度は、容易には理解しがたい。彼らは熊を「カムイ」という、「神」を意味する名で呼ぶが、一方で同じ語は外来者に対しても用いられるので、おそらく、超人的な力を備えているとみなされる存在以外の何者をも指してはいないだろう。またつぎのようにも言われている。「熊は彼らの主要な神である」。「アイヌの宗教において、熊は主要な役割を果たしている」。「動物の中で、とりわけ偶像として崇拝されているのが熊である」。「彼らは熊を独自の方法で崇拝する。…この野生の動物が、自然の非動物界の力よりも強力に、人に崇拝の念を呼び起こすものであることは疑いを容れない。アイヌ民族は、熊崇拝者と分類してよいだろう」。だが一方で彼らは、殺せるときはいつでも熊を殺す。「男たちは、秋と冬と春には、鹿と熊を狩って過ごす。貢物や税はその毛皮で支払われ、その乾燥肉を食べて暮らす」。実際熊の肉は彼らの主食のひとつである。生のまま食べることもあれば、塩漬けにして食べることもある。また熊の毛皮は彼らの衣服となる。事実、この主題について述べている著述家によれば、その「崇拝」は、もっぱら死んだ動物に対してのみ行われるものと見える。つまり、彼らは殺せるときはいつでも熊を殺すが、その死体を解体する過程で、入念に敬意を表し、謝罪のことばを述べながら、この神性を宥めようと努める。彼らが殺したのはその神の表象なのである」。「熊が罠にかかったり矢で射抜かれたりすると、猟師たちは謝罪の儀式ないし贖いの儀式を執り行う」。殺された熊の頭蓋は、小屋の中野栄誉ある場所に置かれるか、小屋の外の神聖な場所に置かれ、大変敬意をもって扱われる。これには「サケ」という名の神酒が捧げられる。キツネの頭蓋もまた小屋の外の神聖が場所に固定され、悪霊に対する護符とみなされ、また神託を求められる。だがつぎの点ははっきりと述べられている。「生きているキツネは生きている熊と同様、崇められることはほとんどない。人々はむしろこれを、できる限り避けようとする。ずる賢い動物と考えているのだ」。したがって熊は、アイヌによって神聖な動物として語られることはない。また明らかにトーテムではない。というのも、人々は自らを熊と称することはないし、自分たちが熊の子孫であるという伝説を持っていないように見える。彼らはこの動物を好きなように殺し、食するのである。

 だがここでわれわれに関係があるのは、アイヌの熊の祭り(いわゆる「イオマンテ」、「熊送り」を指す)である。冬の終わりになると、彼らは幼い熊を捕らえて村に連れてくる。最初はアイヌの女が乳を与え、その後は魚が与えられる。強い大人の熊に育ち、入れられている木の檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。しかし「とりわけ驚かされるのは、幼い熊が単に上質の食べ物を与えられるのみならず、呪物として、あるいはむしろ、一種の高次の存在として扱われ、崇められている事実である」。祭りは一般に九月か十月に行われる。その前にアイヌたちは神々に謝罪し、これまでこの熊を可能な限り大切に扱ってきたが、もはやこれ以上食事を与えることはできず、殺さざるを得ない、と申し立てる。熊の祭りを行う男は親戚や友人を招き、小さな村ではほとんど村人全員がこの祭りに加わることになる。このような祭りのひとつについては、ショイベ博士が目撃し、記録している。博士が小屋に入ると、およそ三十人のアイヌたちがいた。男も女も子どもも、皆盛装している。この家の主人はまず、炉で火の神に神酒を捧げ、他の客たちもこれに倣う。つぎに神酒はこの小屋の聖所で家の神にも捧げられる。その間、これまで熊を育ててきた家の主婦は、ひとり悲しみに沈んで静かに座り、ときおり涙を溢れさす。彼女の悲しみに偽りがないことは明らかであり、それは祭りの進行とともに深まるばかりである。つぎに、家の主人と何人かの客が小屋から出て、熊の檻の前で神酒を捧げる。数滴は皿に入れて熊に与えられるが、熊はすぐにこれをひっくり返す。そして主婦たちと娘たちが、檻の前で踊る。熊の檻に顔を向け、膝をわずかに曲げ、起き上がっては爪先で飛び上がるという踊りである。踊りながら女たちは手拍子を打ち単調な歌を歌う。家の主婦と、これまで多くの熊を育ててきた少数の老婆たちも、涙を流しながら踊る。熊に向かって両腕を差し出し、愛情のこもったことばで呼びかける。若者たちはほとんど悲しみとは無縁の様子で、笑いながら歌を歌う。騒がしさに心乱された熊は檻の中で激しく動き回り、悲しげな遠吠えを上げる。つぎに、アイヌの小屋の外に立てられている、イナウ(著者はinabosと記しているが、複数のイナウの意であろう。幣同様、神事に用いられる木製の幣束)という名の神聖な細枝の束に、神酒が捧げられる。この枝は二フィートほどの長さで、先端は削られ、螺旋状の鉋屑のようになっている。この祭りでは、笹の葉を付けた五本の新しいイナウが立てられた。これは熊が殺されるときにはかならず立てられるものである。笹の葉には、熊が甦るようにという願いが込められている。熊が檻から出されると、首に縄が掛けられ、小屋の周りを引き回される。この間、男たちは、ひとりの長に先導され、先端に丸い木の付いた矢を放つ。ショイベ博士もこれに加わらなければならなかった。つぎに熊はイナウの前に連れてこられ、一本の棒が口に入れられる。九人の男が膝で抑えつけ、柱に首を押しつける。五分後には熊は声も上げずに息絶える。一方主婦たちと娘たちは男たちの後ろに立ち、歎きながら踊り、熊を殺した男たちを打つ。つぎに熊の遺体は、イナウの前に敷かれた筵の上に置かれ、イナウの中から取り出された剣と箙が熊の首に下げられる。熊が雄の場合、首飾りと耳輪もつけられる。そして雑穀の煮汁と雑穀の塊、および鉢一杯の酒が、食べ物ととして熊に捧げられる。死んだ熊を前にして筵の上に座っている男たちは、これに神酒を捧げ、大酒を飲む。一方主婦たちと娘たちは、悲しみの跡をすっかり消し去り、陽気に踊り、老婆たちもまただれにも劣らず陽気に踊る。宴たけなわとなった頃、熊を檻から出した二人の若者が、小屋の屋根に上り雑穀の塊を皆に投げる。皆は老若男女の区別なく、これを奪い合う。つぎには熊は皮を剥がれ、はらわたを抜かれ、胴から首が切り落とされるが、このとき、皮は首のほうに残るようにする。血は椀に受けられ、これを男たちが大いにありがたがって飲む。禁じられてはいないものの、女と子どもは飲まないようである。肝臓は細かく切り刻まれて生のまま塩をつけて食されるが、これは女も子どもも食べる。肉とその他の内臓は家に持ち帰られ、翌々日まで保管されるが、その日には、宴に参加した者たち全員がこれを分け合う。血と肝臓はショイベ博士にも配られた。熊がはらわたを抜かれている間、主婦たちと娘たちは最初と同じ踊りを踊る。だが今回は檻の周りではなく、イナウの周りを踊る。この踊りで、先ほどまで陽気だった老婆たちは、再びさんざん涙を流す。熊の頭から脳が取り出され、これが塩とともに飲み干されると、頭蓋は皮から切り離され、イナウの傍の竿に吊るされる。熊の轡となっていた棒もまた、竿に括り付けられ、遺体に下げられていた剣と箙も同様に竿に付けられる。後者は一時間ほどで外されるが、他はその後もそこに立てられたままになる。人々は皆、男も女もこの竿の前で騒々しく踊り、今度は女たちも加わって酒宴が始まり、これが終わると祭りも終わる。


Chatgptを用いて作成した要旨
アイヌ民族が行う熊の生贄の意味は明確には理解されていない。アイヌは日本列島のエゾ、サハリン、千島列島南部に住む民族であり、熊に対して「カムイ」という「神」を意味する名を用いる。しかし、この言葉は外来者にも使用され、超人的な力を持つ存在を指している可能性が高い。熊はアイヌの主要な神であり、特別な崇拝の対象であるとされる一方で、彼らは熊を頻繁に狩り、肉や毛皮を利用する。熊の肉はアイヌの主食のひとつであり、熊の毛皮は衣服として使われる。この矛盾した態度は、彼らが熊を殺す際に入念に敬意を払い、謝罪の言葉を述べながら解体することに現れている。殺された熊の頭蓋は神聖な場所に置かれ、神酒が捧げられる。キツネの頭蓋も同様に扱われるが、生きているキツネは熊ほど崇拝されない。アイヌは熊をトーテムとは見なしておらず、自らを熊の子孫と称する伝説も持たない。

特に重要なのはアイヌの熊の祭り「イオマンテ」だ。冬の終わりに幼い熊を捕まえ、アイヌの女が乳を与え、後には魚を与える。熊が成長し、檻を壊す恐れがあるほどになると、祭りが催される。祭りは九月か十月に行われ、熊に対する謝罪の言葉と共に熊を殺すことが申し立てられる。祭りには親戚や友人、村人全員が参加し、神酒が捧げられ、踊りが行われる。熊が檻から出され、首に縄を掛けられ、小屋の周りを引き回され、矢を放たれる。熊が殺されると、その遺体は神聖な場所に置かれ、剣と箙が首に下げられ、雑穀の煮汁と酒が捧げられる。死んだ熊の前で神酒を捧げ、大酒を飲む一方、女たちは悲しみから陽気に変わり、踊り続ける。熊が皮を剥がれ、はらわたを抜かれた後、その肉は保管され、参加者全員で分け合う。熊の頭蓋は皮から切り離され、神聖な竿に吊るされ、祭りが終わると共に、皆で酒宴が始まる。

このように、アイヌの熊の生贄の儀式は単なる食料確保や毛皮利用以上の宗教的、社会的意味を持つものであり、熊は崇拝される対象でありながら、生活の一部として狩猟される存在である。アイヌの熊に対する態度は、自然との共生や霊的な関係を示すものであり、彼らの文化や信仰の深層に根ざしている。

2024年7月3日水曜日

20240702 株式会社筑摩書房刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「呪われた部分ー全般経済学試論・蕩尽」 pp.74‐76より抜粋

株式会社筑摩書房刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「呪われた部分ー全般経済学試論・蕩尽」
pp.74‐76より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480098402
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480098405

我々は、メキシコ先住民の人身御供を、それ以前の人身御供よりも、完全に、そして生々しく知っているのだが、このメキシコの人身御供ときたら、宗教儀式の残酷史を頂点へ至らしめているのである。

 神官たちはピラミッドの高みで生け贄を殺害した。彼らは生け贄を石の祭壇の上に横たえて、その胸を黒曜石の刃物で突き刺すのだ。それから、まだ脈打つ心臓を取り出して、太陽へ掲げるのである。大多数の生け贄は戦争の捕虜だった。それゆえ、太陽の生命に必要な戦争という考えは正当化された。戦争は、征服ではなく、蕩尽という意味を持っていたのだ。戦争がなくなると、太陽が地上を明るく照らすこともなくなるとメキシコ先住の人々は考えていた。

 「復活祭のころに」一人の若くて、非の打ちどころのない美しい男が、生け贄に投じられた。この男は、すでに一年前に捕虜のなかから選ばれていたのだ。以後彼は大貴族のように暮らしていた。「手に花を持って、お供の人々に囲まれて町の中を練り歩いた。会う人みなに優雅に挨拶すると、挨拶された方も、彼をテズカトリポカ(最も偉大な神の一柱)の化身とみなし、彼の前に跪いて敬意を表するのだった。」ときどきカウチクシカルコのピラミッドの上の神殿で彼の姿が見受けられた。「彼は、昼でも夜でも気が向くと、その頂きに行って、横笛を吹き、それが終わると、世界の様々な所へむけてお香を焚き、自分の住まいへ帰るのだった。」彼の生活の優雅さや貴公子然とした気品のために人々はありとあらゆる気配りをした。「彼が太りだしたときには、細身の体型を維持できるようにと、人々は彼に塩入りの水を飲むように促した。」供儀の祭に先立つ二〇日間、この若い男は四人の成熟した娘をあてがわれ、彼女たちと肉体関係を結んだ。この四人の娘はこの目的のためにとても大切に育てられてきたのである。娘たちはそれぞれ女神の名前を与えられていた。(・・・)生け贄にされる祭の五日前には神として尊ばれた。王は宮殿のなかにいたが、宮廷の人々はこの若い男に付き従った。彼のために涼しくて快適な場所で様々な宴が催された(・・・)。彼の死の日が近づくと、彼はオトラコシュカルコと呼ばれる礼拝所へ連れて行かれた。しかしそこに行き着く前にトラピトザナヤンという名の地点に達すると、お付きの女たちは彼から離れ、彼を捨て去った。殺害される場に着くと、彼は神殿の階段を自分で登るのだが、その一段一段で、一年の間、音楽を奏でるのに用いてきた横笛の一つ一つを壊していくのだった。ピラミッドの頂きに達すると、彼を殺害する準備を整えた権力者たち(神官たち)が彼の身体を取り押さえて石の台の上に投げ置く。仰向けに寝かされると、彼は、手と足と頭をしっかり固定される。黒曜石の刀を持った神官が一撃でその刃物を彼の胸に突き刺す。刀を引き抜くと、今度は、その切り開いたばかりの開口部へ手を入れて心臓を抜き取り、すぐに太陽へ奉納するのである」・

 この若い男の遺体は大切に扱われる。神殿の中庭へゆっくり降ろされるのだ。並の生け贄の場合は、ピラミッドの階段の下まで投げ捨てられる。最も激しい暴力が常態なのである。たとえば遺体から皮をはがしたりする。そして神官がすぐにこの血みどろの皮をまとうのだ。何人かの人間を一個のゆで釜のなかへ入れておくこともある。そこからかぎ針で吊るし出して、生きたまま石の台の上に乗せるのだ。多くの場合、生け贄に供された人体の肉は食された。祭りは休みなく次から次に行われ、毎年、神事のための生け贄は途方もない数にのぼった。二万という数まで出されている。生け贄のなかで神の化身となった者は、まさに神のように列席者に囲まれたまま、供儀の場へ登っていき死の局面へ至るのである。

2024年6月26日水曜日

20240625 中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.253-256より抜粋

中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.253-256より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121507150
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121507150

 欧米は感染拡大を抑えるために罰則を伴う外出制限など日本より厳しい措置を講じました。しかし被害は日本よりも甚大です。

 感染状況を人口一〇〇万人あたりの死者数で見ると日本は一二人、米国は六二三人。欧州で際立った取り組みをしたドイツは一一四人。日本との差は桁違いです。

 日本の被害の「少なさ」を巡り、日本人の清潔好きを理由に挙げる向きもありますが、疑わしい。アジアを見れば、中国は三人強、韓国は八人弱、台湾は〇.三人で日本より少ない。いずれも日本以上に清潔好きだとは思えません。

 人種の違いも説明にならない。米国でアジア系住民の死亡率は白人と同程度です。

 世界はこの疾病にかかりやすい群とかかりにくい群に大別できる。その差は経済や社会、文化や思想の観点では説明できない。単に運不運に左右されたとした言いようがない。それが私の感想です。

 米国の人類生態学者ジャレド・ダイアモンド氏の著書「銃・病原菌・鉄」を想起します。欧州人が米大陸の先住民を容易に征服できたのは、非常に広大なユーラシア大陸にいたからだと主張している。同大陸には多種多様な家畜がいて、人間は家畜由来の多くの感染症に対する免疫を備えるに至った。家畜の種類の少ない米大陸の先住民は免疫が乏しく、欧州から持ち込まれた疫病お犠牲になったー。地理の差が免疫の強弱に結びつき、世界史を大きく変えたのです。

 中国人はいろいろな野生動物を食し、薬として服用している。今回も発生源は野生動物と見られています。日本は地理的に中国に近い。その結果、日本人は中国発の疫病に対し、免疫を備えていたのかもしれません。あるいは交差免疫を作るBCGを接種していたからかもしれません。

 ただ運の良い群の中では日本の対策は遅れ、被害は相対的に大きかったことは確かです。

 米中対立の時代です。私はコロナ禍を通じて歴史的と言える意識の変化が起きていると見ます。

 まず米ソ対立の二〇世紀を振り返ります。一九一七年のロシア革命を経て社会主義・全体主義のソ連が出現した。一方で米国は第二次大戦後、資本主義・自由主義陣営の盟主に。米ソは冷戦に突入し、二つのイデオロギー、二つの政治経済体制が優劣を競い合った。

 米ソは共に人間の可能性を希求する国家でした。二つの希望の星でもあった。二〇世紀は二つのユートピア(理想郷)の争いでした。

 八九年にベルリンの壁が崩壊し、九一年にソ連が解体して、社会主義は敗北します。米国の政治哲学者フランシス・フクヤマ氏は有名な著書「歴史の終わり」でイデオロギーの争いとしての歴史は終わり、世界は自由民主主義体制に収束すると予想したものです。

 冷戦後、米国流の市場任せの資本主義が世界標準になり、日本もその圧力をかなり受けました。

 人間の利己心の追求を放任すれば市場がうまく調整を果たして経済成長をもたらし、貧困層にも恩恵が波及するという思想です。

 しかし米国流は二〇〇〇年のITバブル崩壊の頃から怪しくなり、〇八年の米国発のリーマン・ショックは金融危機を招きます。フランスの経済学者トマ・ピケてぃ氏が著書「21世紀の資本」で指摘したように、米国は〇〇年時点っで人口の一%の高所得者層が全国民所得の二〇%近くを得る、世界で群を抜いた不平等国になっていたのです。

 さて目下の米中対立です。

 中国は発展途上国にとり成長モデルを提示する希望の星でした。コロナ禍で当初は発生源として非難を浴びましたが、強権的な仕組みを発動して感染を抑え込むと成功物語の主人公になる。しかし混乱に乗じて地政学的拡張や香港の締め付けなどの動きをとるに及んで、ディストピア(反理想郷)と見られるようになりました。

 一方の米国は疫病にかかりやすい群に属したことに加えて、対処を誤り、感染者数も死者数も世界最多になってしまった。しかもトランプ大統領の下で国が南北戦争時代のように分断されてしまいました。米国もディストピアとして見られるようになったのです。


2024年6月24日月曜日

20240624 株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」 pp.116-120より抜粋

株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」
pp.116-120より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490209924
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490209921

 スズという金属をごぞんじだろうか。漢字では「錫」、金属元素記号ではSnで示される。原子番号というのは何のことかは知らないが、50と表示されている。

 銀色、あるいは水銀色といわれるのにあたるが、よく見ると、ほんの少し青みがかかって色合いに深みがある。性質はよくのびるので、箔にしたりチューブにもできる。使いやすいので金ヘンに容易の「易」があてられたのだろうか。ドイツ語ではZinn、英語のtinと対応している。

 現在ではマレーシアやボリヴィアが主な産地だが、かつてはドイツとチェコの国境の山地でも産出した。そのためドイツでは早くから知られていた。性質が鉛と似ているので、両者を区別して、錫を「白い鉛」、本来の鉛を「黒い鉛」と言ったりした。箔にもチューブにもできるので、鉄や鉛にかぶせられる。黒かったものが、とたんに神々しい白銀色になる。

 そんなところから宗教の儀式のための用具に好んで錫が使われた。聖遺物入れ、水差し、燭台、儀式皿、ロザリオ、メダル・・・。金銀のように注目はひかないが、優れた錫の工芸品が数多く残されている。

 おのずとこの道の名工といわれた人がいた。ドイツ工芸の歴史を述べた本には、十六世紀のころのN・ホルヒハイマーやA・プレイセンジンといった名があげてある。「ドイツ・バロック美術展」などには、きっとまとめて代表作が並んでいるはずだが、その辺りはおおかたの人が素通りして、たいていひとけがない。

 マイセン市のフーゴー・レーマン氏は現代の名工である。つつましい人だから当人はそんなふうには言わないが、マイセンの錫工レーマンといえば、この世界でひろく知られている。レーマン工房の創業は1792年、現当主は七代目。共産党政権下にあっては安価な大量生産が原理であって、一つ一つ丹念につくる手仕事は白い目で見られた。それでもねばり強く工房をつづけてきた。

 創業200年とドイツ統一が、ほぼ一致したのは、我慢してきたゴホービかもしれない。以来、レーマン工房のガラス窓を、晴れやかな「マイセン錫200年」の銀色の文字が飾っている。

 わざわざ「マイセン錫」と断っているのは、知られるようにご当地マイセンは焼き物で有名だからだ。交叉した細い剣がマイセン磁器のマークであって、白く、なめらかな硬質の肌に青で染めつけてある。その世界中に知られたマイセン窯の本場で、200年にわたり錫工芸の伝統を守ってきたわけである。フーゴー・レーマンの先祖たちが、とびきりのガンコ者たちだったことがわかるだろう。

 この分野の名工が十六世紀以後あまり伝わらないのは、錫の効用が変化したからである。技術が進み、宗教や儀式用だけではなく生活具にも使われてきた。錫の性質からして利用しやすく、錆びないし、品のいい銀色をしている。安くつくれるとなると、ひっぱりだこだ。生活に余裕ができてくると、人々はそれまでの鉄器や銅器を錫製品に買い代える。

 古書ではたいてい甲冑師や蹄鉄師のあと、鉢づくりや鈴づくりにまじって錫工が出てくる。手前にズラリと並べてあるのは仕上がりの品だろう。錫の鉢や瓶や水差しや壺は、版画ではわからないが、壺からの明かりを受け、仄かな銀色の輝きを見せていたにちがいない。

火入れして鋳型をつくる

錫職人とはわしがことよ

ビール、ブドー酒には

瓶とコップがつきもの

鉢、盆、皿なんでもござれ

銚子、壺台、水差しときて

燭台、皿受け、ほかにも色々

家庭の入り用、何でもつくる

 名工による工芸品ではなく、職人仕事による生活用具がつくられていたことがわかるのだ。さぞかし注文がひきも切らない状態だったのだろう。こころなしか図に見る三人の職人は、とびきり忙しげだ。並べられた仕上がり品も、すぐさまとぶようにはけていったのではなかろうか。

 錫工の景気のよさを見込んでだろう、十八世紀末に、初代レーマンがマイセンの小山の麓に工房を開いた。町はエルベ川に面しており、船運が通っていた。チェコ国境の山地は同じザクセン王国の領土であって採掘された錫が船で運ばれてくる。たしかにいいところに目をつけた。ただ一つの不運は、同じ小山の上で、べつの技術の開発が進んでいたことである。

 マイセン磁器の誕生は、「剛胆王」とよばれるザクセン国王アウグストが、力づくで錬金術師ヨハーン・ベトガーを山上の工房に閉じこの、磁器の発明を命じたことにはじまる。十八世紀の初め、最初の赤い磁器、つまり赤器が陽の目をみた。ついで白磁に成功。

ベトガーの死後、J・ヘロルトやヨハーン・与アヒム・ケンドラーといった陶工があとを継ぎ、マイセン磁器の声価を高めた。フーゴー・レーマン氏の工房のすぐわきに小山へ登る石段があり、登りつめたところの建物に記念の銘板がつけられていて、そこがかつて名工ケンドラーの住居であったことがわかるのだ。

「どうして磁器のお膝元で錫の仕事場を開いたのでしょう?」

当主にたずねたことがある。マイセンといえば焼き物の町と同義語だ。錫の仕事は場所をずらして初めてもよかったのではなるまいか。

 フーゴー・レーマンさんの意見は明快だった。磁器と錫とは用途がちがう。買い手がかさなることがない。とりわけマイセン磁器は国王の肝入りでつくられ、とびきりの高級品とされてきた、金器銀器と同じく宮殿や邸宅に飾られ、貴族やブルジョアに求められてきた。一方、錫の産物は生活用具であって、人々の暮らしに欠かせない。宮殿の壁よりも居酒屋の棚に合っている。ブルジョアの宴よりも、庶民のお祝いごとに似つかわしい。だからこそ「マイセン錫200年」は、なおのこと意義があるー。

 現フーゴー・レーマンがこんなふうに述べ立てたわけではない。奥の椅子にすわり、風格のある鼻ひげの下にパイプをくわえ、ほんのふたこと、みこと口にしただけである。言外を私が捕捉したまでのこと。

 

2024年5月28日火曜日

20240528 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」pp.129‐131より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」pp.129‐131より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

野坂 昔の戦争はえらくロマンチックで、弾丸が飛んでも、敵はだれかわかるわけだけど、今のベトナムのナパーム弾もそうだろうけど、僕ら空襲のとき、雲の上から何か落ちてくる、どこからくるかわからない。どうにもならない。現代の戦争というのは、そういうものでしょう。それに入ってゆくためには、気違いになるための要素がないとだめでしょう。それが今の日本にはないと思う。剣道部のいかに先鋭的な人間だって、雲の上から何発もやられたら、とてもやりけれるものじゃないと思う。自分の恋人、女房、子供を守ろうという気持も、あの人たちにはないんじゃないですか。

三島 僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだね。なぜ日本刀だけで負けると解って戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャだったからだと思う。インテリゲンチャというのは、そういうものなんだね。つまり計算して、こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは大問題だと思う。生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという生活者の知恵でみるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるかという分かれ目にぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。今のあなたの書いているものを読んで感じるのは、やっぱり片足はまだ生活者に突っ込んで、生活者の知恵と身体で体得したものを基礎にしているから、生活者のバイタリティと新鮮さがあると思う。あなたがもし、もう一つ芸術家の立場を完全にもたなければならないということになったら、生活者の知恵だけでは足りない何かが出てくる。そのときにはバカなことでも、絶対に敗北するとわかってる戦いでもやらなければならなくなってくる。

野坂 敗北すると解ってる戦争をこっちから仕掛けるかどうかわからないけど、雲の上からB29が焼夷弾を落としていたとき、僕はなぜ逃げなければならないかを考えた。僕は鉄砲一挺もってたら、ただ逃げ回るんじゃなくて、雲の上めがけて撃ったと思う。そして相手が三島さんだったら、どんなにこっちが未熟でも、棒きれをもってたち向かうと思う。負けるとわかってもやる。しかし敵は飛行機で、こっちは無一物で、つまり一方的に被害者の立場でしょう。こっちから仕掛けるなら別だけど、あの場合は逃げるしかなかった。ほんとに鉄砲でもあったら、岩かげにひそんで、B29のガソリン・タンクめがけて引金を引いたと思う。それがたとえ、どんなに実際上無意味な行為でもね。

三島 僕もあのときは高座の海軍の工場にいたけど、艦載機が飛んできて機銃掃射をやられて、こっちは何ももっていないしね、あの時代の恐怖感ていうものは、今も残ってる。残ってるから、抵抗したいという気持もある。淋しい話だね。



20240527 景文館書店刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「魔法使いの弟子」pp.29‐32より抜粋

景文館書店刊 ジョルジュ・バタイユ著 酒井健訳「魔法使いの弟子」pp.29‐32より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907105053
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907105051

神話は、芸術、学問、政治に満足することのできなかった人の意のままに今なおなっている。愛はそれだけで一つの世界を作りあげるのだが、この世界の周囲に対しては何も影響を与えずにいる。逆に、愛の体験のおかげで周囲の世界に対する明晰さと苦しみが増しさえする。つまり愛の体験のおかげで、腐敗した社会に触れて生じる不快感がどんどん高じていき、むなしい印象も疲れるほどに大きくなっていく。次々試練にあって心を打ち砕かれてしまった人に、唯一神話だけが、豊かな生を送り返す。人々が集う共同体へと広がっていく豊かな生をイメージしてこの人に送り返すのだ。唯一神話だけが、肉体にまで入って人々を結合させ、彼らに同じ期待を抱くように要求する。神話とは、どの踊りにもある、あの勢いのことだ。神話は実在をその〈沸騰店〉へ高める。悲劇的な情動によって、実存は自分の聖なる内奥に近づけるようになるのだが、神話はまさにそのような悲劇的な情動を実存に伝達する。というのも神話は、ただ単に、運命の神々しい形象であるばかりでなく、この形象が移される世界、つまり共同体のことでもあるのだから、神話は、共同体から切り離すことができない。神話は共同体の一部になっている。儀式の場において、共同体は神話の王国を所有ことになるのだ。民衆は祝祭の騒ぎのなかで神話への合意を表明し、その合意は神話を生の人間的現実にしている。だからこそ神話はただのフィクションとは違うのだ。神話はたしかに寓意ではある。しかし、もしも人が、この寓意を踊って根底から突き動かす民衆を目撃し、寓意がその民衆の生きた真実になっているのをまざまざと目にしたならば、この寓意をフィクションとは正反対の地点に位置づけるようになるはずだ。自分たちの神話を儀式においてとことん所有しようとしない共同体は、もはや暮れゆく生の真実した所有していない。逆に共同体が生き生きとしてくるのは、存在したいという共同体の意志が、その共同体の内奥の実存を形象化している神話のひとかたまりの偶然を活性化するとき、このときにほかならない。それゆえ、一個の神話は、ひとつの全体的存在が分裂してできたばらばらの諸断片と同じだとはどうにもみなせないのである。一個の神話は、総合的な実存と連帯している。一個の神話は、総合的な実存の感性的な表現なのだ。

 神話は、儀式の場で生きられると、真正の存在をはっきり開示するようになる。というのも、儀式として生きられた神話では、生が、ベッドの上で裸になった愛する女に劣らず恐ろしくもまた美しく現れるからである。聖なる場所の暗がりは実在の現存を抑えこんでいて、恋人たちが閉じこもる寝室よりももっと息苦しい。ただし、聖なる場所で認識に差し出されるものは、寝室の場合と同様に、実験室の学問とは無関係なのだ。人間の実存は、聖なる場所に案内されると、運命の形象に出会う。それは偶然の気まぐれによって固定化された形象だ。学問が定義する決定法則は、生を構成する幻想のこの遊びとは正反対のところに存在している。この遊びは、学問から遠ざかり、芸術の諸形象を生み出す錯乱と重なりあう。しかし、芸術は、人間を抑圧する真なる世界の優越性、究極的現実性を認めているのに対して、神話の方は人間の実存の中へ、ある力のようになって入っていく。力自身が王国となって、下位の現実に従属を求めている、そんあ力のようになって人間の実存の中へ入っていく。

2024年5月19日日曜日

20240519 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.37-39より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」
pp.37-39より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

ロシアは自由民主主義の代替モデルを現に提示しているが、このモデルは首尾一貫した政治的イデオロギーではない。むしろそれは、少数の寡頭制支配者が国の富と権力の大半を独占し、それからマスメディアを統制して自らの活動を隠し、支配を強固にする政治的慣行だ。民主主義は、「すべての人を一時、一部の人をつねに騙すことはできるが、すべての人をつねに騙すことはできない」というエイブラハム・リンカーンの原理に基づいている。もし政府が腐敗していて、人々の生活を向上させられなければ、いずれ多くの国民がそれに気づいて、政権を交代させる。だが政府がマスメディアを統制すれば、リンカーンの論理を崩れる。国民が真実に気づけなくなるからだ。寡頭制政権はマスメディアの独占を通して、失態をすべて他者のせいにすることを繰り返し、外部の脅威(それが実在のものであれ架空のものであれ)へと注意を逸らすことができる。

 そのような寡頭制の下で暮らしていると、医療や汚染といった退屈な事柄に優先する、何かしらの危機が絶えず存在するかのように思いこまされる。国家が外部からの侵略や極悪非道な破壊活動に直面していたら、病院の混雑や河川の汚染を気に病む暇がある人などいるだろうか?腐敗した寡頭制政権は、次から次へと危機をでっち上げ、いつまでも支配を続けることができる。

 もっとも、この寡頭性モデルは実際に耐久性があるとはいえ、それに魅力を感じる人はいない。自らのビジョンを誇らしげに詳しく語る他のイデオロギーとは違い、寡頭制の支配者たちは自らの慣行を誇りに思っておらず、他のイデオロギーを隠れ蓑に使う傾向がある。たとえば、ロシアは民主主義国家を装い、指導部は寡頭制ではなくロシアのナショナリズムと東方正教会の価値観への忠誠を公言する。フランスとイギリスの右翼の過激派は、ロシアの支援を仰いでプーチンを礼賛してもおかしくないが、彼らを支持する有権者でさえ、実際にロシアのモデルをコピーしたような国には住みたくないだろうー腐敗が蔓延し、各種のサービスは機能せず、法の支配は絵空事で、信じられないほど不平等な国には。見方によっては、ロシアは世界でも指折りの不平等な国で、富の八七パーセントが一〇パーセントの富裕層の手に集中しているという。フランスの右派の政党「国民連合」を支持する労働者階級の人々のどれだけが、この富の分布のパターンを自国で真似たいと望むだろう?

 人間は足を使って投票する。私は世界を旅して回る間に多くの国で、アメリカやドイツ、カナダ、オーストラリアに移住したいという、おびただしい数の人に出会ってきた。中国や日本に移り住みたいという人も何人かいた。だが、ロシアへの移民を夢見ている人には、まだ一人も会ったためしがない。


20240518 株式会社国書刊行会刊 井上文則著「天を相手にする: 評伝 宮崎市定」pp.125-128より抜粋

株式会社国書刊行会刊 井上文則著「天を相手にする: 評伝 宮崎市定」pp.125-128より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4336062765
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4336062765

昭和七年一月十八日、前年に起こった満州事変を受けて、反日感情が広まる中、上海において日蓮宗の僧侶が中国人に襲われて死傷する事件が起こり、これがきっかけとなり、二十八日には日中両軍は武力衝突に至った。これが第一次上海事変である。現地駐留の日本軍は苦戦したため、二月二日に犬養内閣は、第九師団と混成第二十四旅団を派兵したが、これらの部隊も苦戦した。そのため、犬養内閣はさらに二月二十三日に第十一師団と第十四師団を増派することに決めた。そして、この十四師団こそ宮崎の属する宇都宮師団に他ならなかった。

 増派の決定がなされた翌二十四日に、宮崎には電報で召集がかかった。軍服をはじめ軍装一式の準備がなかった宮崎は、その日のうちに急ぎ調達に京都市内南部の伏見に行った。翌二十五日の早朝には、父市蔵が召集令状をもって京都に来た。宮崎は、同日午後一時には京都を出立。まだ満一歳にならない娘を残しての出征である。東京の上野駅では、飯島忠夫と、その女婿窪田潔夫妻が宮崎を見送った。

 宮崎は、深夜十二時ごろに宇都宮に着いた。雪が降っていた。翌朝、二尺ほど積もった雪の中を輜重大隊の兵営に出勤し、馬廠長に任じられた。馬廠とは、軍馬の管理をするところである。しかし、実際には、時代は既に自動車の時代となっており、物資を輸送する馬はなく、将校用の馬しかなかった。馬廠には六十名の隊員がおり、宮崎はその指揮官になった。六十名の隊員は、「多く群馬、栃木、長野県下の農民が始めて狩り出された者で、素朴で忍耐強い。この部隊を率いてなら、一戦争戦えそうという頼母しさがあった」。なお、輜重大隊は、五個中隊と馬廠からなっており、中隊は人員百二十名で、馬廠の倍であったが、馬廠は中隊と同格に扱われ、馬廠長は幹部会議に中隊長と共に出席することになっていた。三月六日、十四師団は盛大な市民の見送りの中、宇都宮を出立した。

 八日、京都駅を通過、ここで宮崎は、同僚や三高生の見送りを受けた。京大の羽田亨、矢野仁一も来ていた。この時、前章で述べたように羽田は、小川琢治から軍刀を借りて来て宮崎に手渡した。これは市上に軍刀が払底して手に入らなかったためである。小川は、古刀剣の研究でも有名で、宮崎に貸し与えられた軍刀も宗正の銘を持つ備前刀の名刀であった。軍刀には、「従軍行 送宮崎文学士応召従軍」と題する次のような漢詩も添えられていた。

江南飛雪未催春 江南雪を飛して未だ春を催さず

浪雑鼓声圧滬浜 浪は鼓声を雑えて滬浜を圧す

投筆従軍吾老矣 筆を投じて軍に従うには吾老いたり

羨君徇国我忘身 羨む君が国に徇いて身を忘れんと欲するを

なお、小川の次男は中国古代史の貝塚茂樹、三男はあのノーベル賞をとった湯川秀樹である。三高生のひとりとして、この場にいた青山光二は、この時の様子を次のように記録している。「確か昭和七年、私が三年生のとき、宮崎教授に召集令状がきた。第一次上海事変が始まった年てあり、満州事変は前年九月すでに火蓋を切っていた。宮崎教授が現役訓練をうけた陸軍将校であるのを私たちは知らなかった。というより、知って意外に思った。まったくの学者肌で、陸軍軍人といった風格はどこにもなかったからである。
 誰が云いだしたのか、宮崎教授が原隊へ向けて出発される日、生徒一同が京都駅に集まって歓送しようということになった。

 当日、京都駅ホームは、手に手に赤い旗を持った三百人を越える三高生で文字通り埋まった。赤い旗は応援団の備品で、夏の対一高戦のとき全校生による応援団が用いたもの。野球やボートレースの応援に、一高は白、三高は赤の幟や応援旗をそろえて威勢を張った。
「宮崎教授、ばんざい」
の声が、駅のホームをどよもし、下り列車のブリッジに立った軍装の宮崎教授は、挙手の礼を返している。
 宮崎教授、当時三十一歳。陸軍尉官の軍服に革長靴、革のベルトに軍刀を吊った姿はいかにも凛々しいが、平素おとなしすぎて、どことなくジジムサイ感じさえする風貌が、凛々しい軍装で一変するというわけには行かず、むしろ軍装がイタにつかぬおもむきさえ見てとれるのが気の毒、というより、こういう人物が戦場へ引っ張りだす国家というものが、そのとき理不尽に思えてならなかった。
’’紅萌ゆる’’を合唱する声が起こっている。召集されて戦場へおもむく教授の、たしか第一号ということもあったかもしれないが、やはり、学生のあいだで宮崎教授は人気があったのだろう。京都駅に三百人もの生徒が集まって見送るというのは、かなり異常なことだった。レジスタンスというほどの気分はなかったが、集まった学生のあいだに、
ー宮崎さん、むだ死にせずに、生きて帰ってきてください。
という、声にならない声がわだかまっていたのは、たぶん事実だった。そんなことを宮崎教授にじっさいに云った学生もいたような気がする。
発車のベルが鳴り、学生たちは旗を振って、’’紅萌ゆる’’を合唱していた。

2024年4月13日土曜日

20240412 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

紀氏の朝鮮出兵
応神天皇の三年ー

 この年、ヤマト国家から百済の辰斯王の無礼を糾弾するため、四人の将軍がつかわされた。その四人は、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰で、いずれも武内宿禰の子である。

 将軍たちは、百済の国びとは辰斯王を殺して謝罪したので、枕流王の子、阿花をたてて王とし帰国の途についた(「日本書紀」)。

紀角宿禰(紀臣系の始祖)は、のちに仁徳天皇の四十一年春三月、ふたたび百済に赴いている。このときも、王の一族である酒君の非礼を詰問するためであったが、百済はおそれて鉄の鎖で酒君を縛して差しだした。

紀氏の朝鮮での記録は、まだある。

雄略天皇の九年(四六四)春三月、新羅征伐をくわだてた雄略は、みずから兵をひきいて朝鮮に渡ろうとしたが、神の告げによって断念した。そのかわり紀角宿禰の孫にあたる紀小弓宿禰をはじめ、小弓の子の小鹿火宿禰や蘇我韓子宿禰、大伴談連の四人を大将軍に任じ新羅征討を命じている。

 これを命じられたときの小弓の返辞が、ひどく人間くさくておもしろい。小弓は大伴室屋大連を介して天皇に、

〈臣は敬みて勅をうけたまわります〉

そういっておいてから小弓は「ただし」と声をかさねている。

〈ただし今、ヤツガレが婦みまかり(死)たるときである。能く臣を視養う者なし、公、ねがわくばこのことをもて具に天皇に陳せ〉

小弓の訴えを耳にした天皇は、

〈天皇、聞し召して悲しび頽歎き給いて〉

と「日本書紀」にあるから、天皇も小弓の心境に大いに同情したらしい。吉備上道采女大海を小弓に与えたという。

 さて、話を新羅征伐のうえにもどすと、天皇から采女の大海をたまわった小弓は、喜色をみなぎらせて海を越え、各地で新羅軍と戦いこれを撃破し、ついに喙の国(大邱付近)を平定させた。

 が、なおも服従しないで抵抗する地域がある。小弓はこれを掃滅すべく攻撃した。ところがこの地方の新羅軍は頑強で、手ひどく反撃した。

激戦になった。

 この烈しい戦闘で討伐軍は、大伴談連と紀崗前来目連(和歌山市岡崎)の二将軍を失っている。

 乱戦のさなかで、あるじの大伴談連の姿を見失った従者、大伴津麻呂が戦場をたずねまわっていると、誰かが大伴談連の戦死を告げた。倒れている主の屍をみた津麻呂は、大地を踏みつけて叫びをあげた。

「主、すでに死にたり、なにをもって独り全けらむや」

そういうと津麻呂は、敵軍のなかへ突撃して死んでしまった。

討伐軍の悲運はそれだけではない。

大将軍の小弓が、にわかに病いを発して陣中で没したのである。

雄略天皇の九年、夏五月。

陣没した小弓にかわって、子の紀大磐宿禰が新羅に渡ってきた。

大磐は武将らしい剽悍さを泛べて、鷲のような鋭い目をしていた。大磐は、小鹿火(大磐とは異母兄弟)が今まで掌握していた兵馬、船官といった小官を自分の思いのままに動かした。

 異母兄弟でありながら大磐と小鹿火は、ふだんから仲がよくなかった。まして大磐に兵馬軍船の指揮権を奪われて小鹿火は憤懣やるからない。肚裡にふかく恨みを抱いていた。小鹿火は同僚の将軍、蘇我韓子宿禰に大磐のことを中傷した。

「気をつけろよ。大磐がおまえの兵馬をとりあげるといっていたぞ」

そんなある日

百済の王から将軍たりに招きがあった。大磐をはじめ諸将たちは馬首をならべて出かけていった。途中に河がある。

大磐はその河のほとりで馬からおり、水を飲ませた。そのとき、韓子の胸中に殺意が湧いた。韓子は大磐の背後から矢を放った。が、狙いははずれた。韓子の矢は大磐の馬の鞍瓦の後橋に突き刺さった。

 おどろいて振り返った大磐は、弓をとるより迅く韓子を射殺した。

 このような将軍間の内紛に、新羅討伐軍は動揺した。大磐をおそれた小鹿火は、父の小弓の喪に服するという口実をもうけて帰国し、大伴大連を介して、

「やつがれ、紀卿(大磐)と共に天朝に仕えたてまつることに堪えず」

と奏上し、角国(周防国都農郡)にひっこんでしまった。

神聖王、紀大磐

 しかし、紀一族の朝鮮半島への進出はまだつづいている。

紀大磐宿禰である。

ときに、顕宗天皇の三年(四八七)。この年、紀大磐宿禰の率いる軍団が、ふたたび海を越えて任那日本府に着いた。

 大磐は日本を離れたときに、心にきめていた。韓子を射殺したあの事件いらい、大磐は人を信じるのが恐ろしくなっていた。欝々とした日がつづいていた。いっそ、日本を捨ててやろう。そして、武人としての力のかぎりを異境の修羅にぶちこんでやろう。大磐はそう思っていた。

『日本書紀』によれば‘‘大磐の軍団は任那を跨よりて高麗に行き・・・とある。アトゴエとは跨ぐことで、任那から高麗の地を股にかけて・・ということなのであろう。そして大磐は宣言した。

〈三韓(百済、新羅、任那)の王たらんとし、官府をととのえ、みずから神聖と称り・・〉

というのだ。壮大な野望である。 

 そしてそのコトバのように神聖王(紀大磐)の指揮する軍団は、百済のチャクマニゲを爾林(高麗の地)に討ち殺し、帯山城を築いて百済軍の粮道を断つために、街道を遮り、港をおさえた。

 狼狽した百済王は、将軍コニゲ、ナイトウマクコゲらに軍兵を与え、帯山城に総攻撃をかけた。が、惨憺たる結果であった。大磐の軍は、一をもって百にあたるといわれたくらい勇猛で、百済王の軍兵はたちまち撃ち破られて四散する。

ーだが、神聖王、紀大磐宿禰の足跡がわかっているのはこの頃までで、それ以後の消息はない。

『日本書紀』では、大磐は任那から帰った(日本へ)と記されているが、飯田武郷の『日本書紀通訳』(七十巻本)ではそれらに反論して‘‘朝廷にてはこの(大磐の)謀をしろしめし給わずや、いと不審‘‘と述べている。

 当然であろう、紀大磐宿禰はヤマト政権に一種の叛をくわだてたのである。それが日本に帰ろう筈はない。

とすれば、大磐はいったい何処へ消えてしまったのか、すべてがナゾである。もちろん、このとき以後の大磐の日本での記録はない。

 ただ、この時から更にくだった欽明天皇の頃の百済国の歴史書『百済本記』によると、〈紀臣の奈卒(百済の官位)彌麻沙〉という人物がいたという。この彌麻沙のことを、〈けだしこれ紀臣、韓の女をめとりて生ませたり。よりて百済にとどまりて奈卒となれる者なり。未だその父(の名)を詳らかにせず〉と記している。

 もし、大磐の行方に推測の橋を架けるとするならば、この彌麻沙の父に繋いでみたいものである。 

 もちろん、これとても単なる推測にすぎない。それはあたっていないかもしれない。けれど反面、あたっていないといえる資料もまたないのだ。



2024年1月29日月曜日

20240128 岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋

岩波書店刊 岡義武著 「国際政治史」pp.64-67より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299

歴史的にはナポレオンはヨーロッパにおける民族意識の発達を促進する役割を荷った。さらに、復古(レストレーション)の時代のヨーロッパには18世紀啓蒙主義に対する反動としてロマンティシズム(romanticism)の思想が現れたが、それは個性的・非合理的存在としての民族を価値づけた点において、民族主義(principle of nationality; nationalism)理論の発展に貢献したのであった。なお、政治的意味において民族主義という言葉が用いられる場合には、それは民族がその文化的個性の自由な発展をとげるためには他民族の政治的支配から解放されなければならないという主張を指す。

 そこで以上のような事情の下に、ウィーン会議後のヨーロッパにおいては諸国の被支配階級および被支配民族の間には、全面的または部分的に復興された絶対主義的政治体制、民族主義の原則に反する国境に対する不満が次第に蓄積され、それにともなって、政治的自由獲得の運動、民族的解放の運動が徐々に発展することになった。この点に関しては、諸国における資本主義の進展とともにその経済的実力を高めてくるブルジョア階級が、一般的には、これら現状変革の運動の主たる担い手となったことを考え合さねばならない。彼らはその経済的実力の上昇にともなって政治に対する発言権を次第に強く要求するようになり、そのことは彼らをして政治的自由獲得の運動の推進勢力たらしめることになった。また彼らが被支配民族に属する場合においては、民族的独立によって形成される国家はその経済的基盤を強固ならしめるために民族資本の育成をはかることが当然に予想されたがゆえに、彼らは民族的解放運動の主動力となったのであった。

 なお、経済的に更新的な国家または地方において行われることになった現状変革の運動については、その推進勢力を一義的に規定することは困難である。それは、ある場合には、政治的自由・民族的解放の理想に烈しく憧憬する有識者層であった。また農民階級が重要な役割を荷った例も見出すことができる。

 さて、ヨーロッパ諸国における政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動はウィーン体制の変革を意図するものであったから、これらの運動は当然に五国同盟の重大な関心の対象となった。そして、これらの運動が諸国において革命の形をとって進展するにいたった場合には、五国同盟はその定期的会議において事態を審議、国際的武力干渉によってこれを鎮圧することを試みたのである。すなわち、一八二〇年両シチリア王国に起った民主主義革命は、ライバッハ(Laibach)会議(一八二一年)の結果オーストリア軍の武力干渉によって鎮定された。また一八二〇年スペインに勃発した同様の革命も、一八二二年のヴェローナ(Verona)会議の結果フランスの出兵によって弾圧せられた。なお、一八二一年サルディニア(Sardinia)に勃発した民主主義革命は、オーストリアが五国同盟と別に武力干渉を行い、それを失敗に終わらせた。

 しかし、五国同盟の形におけるヨーロッパ協調は、本来的に決して強固なものとはいいがたく、内に破綻の契機を宿していた。この同盟の重要な支柱の一つともいうべきオーストリアは終始、諸国の政治的自由獲得の運動・民族的解放の運動に対して五国同盟としてあくまで抑圧方針をもって臨むべきことを強硬に主張した。オーストリアとしては、文化的にきわめて雑多な人口構成をもち、それらの集団の中に民族意識が成長しつつあった関係から、他国における民族的解放運動の成功が帝国内のこれらの集団を刺戟し、彼らの中における民族的解放への意欲を高揚させ、その結果帝国の存立自体が危うくされるにいたることを惧れたのであった。また、他国における政治的自由獲得の運動の成功も帝国内におけるこの種の運動を鼓舞し活発化させ、その結果以上のような人口構成をもつ帝国が分裂、瓦解へ導かれることを惧れたのであった。このような事情こそ、この時代のオーストリア宰相メッテルニッヒ(K.Metternich)をして、「もし何人か余にむかって、革命はやがて全ヨーロッパに氾濫するにいたるのではないであろうかと問うならば、余はそのようなことはないといって賭けをしようとは思わない。けれども、余は余の呼吸のつづく限りこれ(革命)と闘うっことを堅く決意している」といわしめたのであった。これに対し、五国同盟内においてこのオーストリアと対蹠的ともいうべき立場に立ったのは、イギリスであった。

 イギリスは同盟の定期的会議においては、同盟が他国の事態に対して国際干渉を試みることに常に強硬に反対しつづけた。それは一つには、他国との比較において自国に存在している立憲的自由に「自由の身に生まれたブリトン人」(freeborn Briton)としての誇りを抱いていたイギリスとしては、他国における革命が自国の被支配階級に及ぼす影響について他の四国のごとくには惧れていなかったためである。また一つには、イギリスは五国同盟による国際干渉を通じてとくにオーストリアまたはロシアの勢力が大陸において優勢となることを惧れ、そうなることは大陸諸国間に勢力の均衡を保たせようというイギリスの伝統的方針からみて好ましくないと考えたのであった。さらにまた、イギリスは他国における政治的自由または民族的解放の運動に対して好意的態度を示すことにより、それらの地方を大陸諸国に先だって発展しつつあったイギリス産業資本のよき市場たらしめようと考えたのであった。

2023年12月24日日曜日

20231223 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.49-53より抜粋

株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.49-53より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106039044
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106039041

当時、西欧で流行った社会的ダーウィン主義について触れておく必要があります。ダーウィンの「種の起源」が1859年に刊行されて以来、それが実際の社会現象を説明するとき、人々の間で「適者生存」の法則として流布します。告白すると私は「種の起源」を読んだことはありません。皆さんも読んだことがない人がほとんどではないでしょうか。問題はまさにそこにあります。ダーウィンの難解な自然選択説は、あらゆる種はだんだんと進化して今に至っているというシンプルな趣旨にまとめられ、それが様々な事例に当て嵌められました。

 19世紀後半、誰もが本を読めるようになり、新聞や雑誌が大量に発行されるようになります。それは大変結構なことですが、「種の起源」を読まなくても、それについての記事の中で辻褄の合わないところ、矛盾点も意識しつつ「自然選択」という仮説を導きました。しかし、そんな考察は全部はしょって、俗流ダーウィニズム的考え方が欧米だけでなく日本でも取り上げられるようになりました。なぜなら、大衆が社会の主役となり始めた19世紀末、「生存競争」と「適者生存」の二つは人々の間で生じる葛藤や軋轢、貧富の拡大をうまく説明しているように感じられる。便利な言葉だったからです。

 当然のことながら、それは国家間の関係にも適用されます。国と国との間の競争も「線存競争」だから、みんな頑張れ、というものですが、国民を一つにまもめるのに都合がいい話です。戦争は、国家間の「適者生存」が行われる究極の「生存競争」ということになります。19世紀末から20世紀初めにイギリスで出版された。「ナィンティーン・センチュリー」という季刊誌がありました。それを紐解くと、100年前の人間が戦争をどのようなイメージで捉えていたかがわかります。

「戦争における勝利は、道徳的美徳を持った者に与えられる王冠である。」

「戦争とは、一国が他国と戦争して、最も物理的に優れた者が生き残る場である」

「現代においては、最も効率を高める者が生き残る」

「戦争は、何か神の意思にかなっているかということを決める、裁きの場である」

最近ではまずお目にかかれない、力みまくった言葉が並んでいます。

フランスやドイツも、似たようなものだったでしょう。こういうのもあります。

「もちろん戦争は犠牲を必要とする。しかし、人間は犠牲を好んでする動物だから、自然界で生き残ってきた。ある世代の人間がどのように犠牲を払うかによって、次世代の運命が決まってくるのだ」

読んでいると、私も子供時分に同じような話を聞きましたから、三分の一くらいそうかもしれないという気分になってきます。それでもさすがにひどいと思うのは、たとえば、1898年にアメリカがフィリピンで戦争したとき、

「殺せ、殺せ、もっと殺せ、そうしたら、もっと良い世の中が現れるだろう。」

「戦争は、その国家の線存競争として、優秀な者が生き残るテストの場所である」

とあります。こういう雰囲気だと、軍人でなくても、戦争に勝たないといけない。という気分になります。ダーウィンに罪がある訳ではありませんが、彼の理論は曲解され、国家側の「適者生存」と「生存競争」に勝ち抜くのが戦争だ、ということになって、結果的に見なひどい目にあったのが、第一次世界大戦なのです。

冷徹な第二次大戦の指導者

 第一次大戦前のかわいらしい政治家の時代から様変わりして、四半世紀後、第二次大戦では権力意志の強い政治家が自ら戦争を指導しました。唯一の例外は日本です。チャーチル、ルーズベルト、スターリンはみな立派な政治家ですが、冷徹な打算で動いているようなタイプの人間です。

 彼らは、戦争を軍人たちにまかせませんでした。その点で、第一次大戦のドイツのように、軍事作成が政治に優越してしまうことはなかった。

 ルーズベルトなんて相当に人が悪い。日本が攻めてくるのを知っていながら、先に手を出させたようなところがあります。それくらい度胸が据わっていないと、世界戦争などできないのかもしれません。チャーチルも軍部を掌握するため、正しい戦略を主張してくる軍人のアドバイスには従うのですが、作成が成功したらあっさり首を切ります、そんなドライで冷淡な感覚が政治をやる上で必要ですが、お友達にはなりたくない。

 第一次大戦と比較して、第二次大戦では防禦能力より、攻撃能力で決着がつきました。簡単に言うと、軍事力に優っていた方が力ずくで相手をねじ伏せたようなところがあります。しかしながら、第二次世界大戦が終わる頃から、それと矛盾するような動きもでてくる。たとえば、ルーズベルトは、政治家として軍事作戦を指導したにもかかわらず、ソ連に対して甘すぎるのです。ソ連がポーランドを支配下に置くのを認めてしまう。あるいは、無条件降伏を求めなければ、日独も態度を軟化したかもしれませんでしたが、最後までそれで押し通した。イギリスはバルカン半島から東ヨーロッパに攻め上がろうと提案しますが、ともかくドイツを負かす方が先だとそれを却下しました。その結果、冷戦期、東欧はソ連の影響下に置かれてしまいますが、このような非合理的な判断の事例をみると、ルーズベルトが、戦後どんな国際秩序を形作るべきか考えていたとは、思えないのです。

 合理性を欠いていたのには、いくつかの理由があります。一つは大衆の時代に大戦争という妙なことをするためには、人々の頭を狂わさなければいけない。ビスマルクのように勢力均衡ばかりしていたら、誰も熱狂しません。「侵略的な黄色い猿は、叩き潰さなければいけない」というような、日本に対する人種的偏見に満ちたアメリカの宣伝を読み返すと、震えがきます。そんな奴らには、無条件降伏でも突きつけるしかないということなのでしょうが、これくらい激しい口調でないと、大衆社会の主役である国民は付いてこなかったのです。

 このように、大衆社会においては戦争を合理的に指導することは不可能になりました。さらに、世界全体を相手にするので、どんなに冷静沈着な指導者でも作戦が立てられません。そして、極め付けが最後に現れた原子爆弾でした。これは人類がコントロールしようがない兵器が誕生したことを示しました。そこから遡ってみると、第一次世界大戦の政治家や軍人の誤りも、やむを得なかったと思わないわけでもない。軍事力が増大する中、政治家が弱気に、軍人が強気になったとしても、人間の過ちとしては十分ありうることではないでしょうか。

 

 



2023年12月21日木曜日

20231221 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.167-170より抜粋

中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」
pp.167-170より抜粋
ISBN-10 : 4121601017
ISBN-13 : 978-4121601018

たしかに、国際政治において発言力を持つためには国力を持つことが必要である。しかし、いまやその国力の内容が変りつつあるのだ。それは経済力と知的能力を中心としたものに変化しつつある。何故なら、この二つの能力こそ、世界の人々の基本的欲求を満たすものだからである。力とは結局、人間の基本的欲求を満たす能力なのだ。

 軍事力もかつては人々の基本的欲求を満たす重要な手段であった。戦争はどこからともなく起ったから、それに対して安全を保障することはもっとも基本的な欲求であった。より重要でさえあることは、それは自己主張のためのもっとも有効な手段であった。しかし、軍事力が過度に発展した結果、軍事力のこの二つの機能は、きわめて疑わしいものとなってきたのである。

 ただ、われわれは軍事力を抜き去った場合、国際関係をいかにして処理するかをまだ知っていない。われわれは他の力を推進力として外交をおこない、国家利益を守り、自己を主張する方法をまだ十分に発展させていないのだ。しかし、経済力が今後の二十年間において、人間の欲望を満たす基本的な手段である以上、力の核心がそちらの方向に移って行くことは、必然的ということができるであろう。

 そしてこの場合、経済力の核心を構成するものは知的能力という言葉で総称されうるものであることが忘れられてはならない。何故なら、現在われわれが直面しつつある問題はこの知的能力にかかわる問題だからである。知的能力とは、たんに科学技術や基礎科学だけでなく、それを社会のなかで生かすために必要な社会工学を含む複合物であるが、それは現在二重の挑戦を受けているのだ。第一は先進国がすでに持っている知的能力をいかにして低開発諸国に伝えるかということであり、第二は、先進国自身が、高度工業国家に必要な新しい知的能力を発展させることである。現在先進工業国は、第三の産業革命と呼ばれるオートメーションの出現による変化の時代に入りつつあるのだ。

 第一の問題、すなわち低開発諸国開発問題の核心が、いかにして知的能力という伝えがたいものを伝えるかにあるかということは、ようやく最近になって、理解されてきた。資本を投下し、工場を建てるだけでは低開発国の経済は少しも良くならない。しかし、知的能力を他人に押しつけることもできないのである。それはこの仕事にたずさわる人間の献身的態度と、根気のいる説得とを必要とする。ケネディが平和部隊を考えたのは、まさにこの点に注目したからであった。

 第二の問題の重要性は、いまや先進工業国においてより明白に認められている。

 この意味で、もっともしずかな事件であった英国労働党の勝利は、もっとも重要な意味を持っている。ウィルソンはイギリスが世界において次第に発言力を失いつつあることを指摘し、その理由を保守党の科学技術政策の失敗に求めた。保守党はイギリスの伝統的な大学制度にとらわれて科学技術教育をおろそかにしてきた。科学者は優遇されず、アメリカに流出している。ここにこそイギリスが世界政治のおいて発言力を失いつつある基本的な理由がある、とウィルソンは主張した。彼のこの発言がイギリス人の心を捉えたからこそ、労働党は保守党を破って政権を取ることができたのである。

 実際、ウィルソンとケネディは、国民の知的能力を生かすことの重要性を認め、そしてその手がかりを知識人に求めたことにおいていちじるしい共通性を示している。ケネディは大学に集められた知的能力がいかに重要な点火剤となるかを知って、これを尊重した。彼は大学教授の協力を求めるとともに、平和部隊を創設した。それは先進国が受けつつある二重の試練に対するひとつの回答であった。ウィルソンはいま、同じ番組に取り組もうとしている。

 この二重の挑戦に立ち向うことができたとき、そこには大きな変化が起るだろう。異なった国家が生まれ、異なった力が出現し、異なった国際関係が生れるだろう。われわれは今からその変化のすべてを知ることはできないが、この変化に対処するために要求されるのが知的能力であることは疑いない。

 だから、日本の政治家に見られる知的な問題に対する関心の欠如は、実に由々しいことなのである。かれらは、これから起ろうとしている、知的能力を推進力とした変化に対処する用意を持っていないように思われる。われわれは経済復興と建設にめざましい成功を示した。しかし、つねに成功は失敗と同じくらいおそろしい。われわれはこれまでと同じ努力をくり返しておこなうことによって、より豊かな社会を作ることができると思いがちである。しかし、実は要求される努力の質が変化しつつあるのだ。われわれはこの新しい仕事に正面から取り組まなくてはならない。ひとつの時代が終り、新しい時代が始まらなくてはならないのだ。

2023年12月17日日曜日

20231216 サイマル出版会刊 村上兵衛著「国家なき日本―戦争と平和の検証」pp.217-220より抜粋

サイマル出版会刊 村上兵衛著「国家なき日本―戦争と平和の検証」pp.217-220より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4377310712
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4377310719


日本海軍の中枢は、むろん陸軍のそれも、この十中十死の攻撃方法を、当然のことながら長くためらっていた。

 そして航空戦の圧倒的な不利に焦燥を感じた大本営(陸軍省・参謀本部)の作戦中枢にあった人びとが、航空総監部を訪ね、「必殺体当たり戦法」の採用についての最初の諮問を行ったのは昭和十九年の春(三月二十四日)とされている。後宮淳航空総監をはじめ、お偉方は何も発言しなかった。末席にいた内藤進少佐は堪りかねて、戦果が挙がらないのは第一線がだらしないのではなく装備と用兵の問題、と激しく反対論を述べた。つづいて同期の石川泰知少佐が立ち「全然同意」と言った。会議は白け「この会議はなかったことにせよ。他言無用」で流れた、という。

 しかし戦局はいっそう悪化し、サイパンが陥落するころ(昭和十九年七月)になると、大本営の中枢では「特攻戦法やむなし」は一般の空気となっていた。それをチェックしていたのは「天皇」であった。むろん天皇じしんの意見というのではなく、大元帥の名による必死必殺の戦法は、天皇の御威徳を汚す、というためらいであった。

 しかし、そこが「官僚の智慧」というものだろう。特攻作戦は、天皇の裁可を得た「大陸令」あるいは参謀総長の指示「大陸指」よりも下のランクの「陸亜密」という、日常業務の通達のような形で出ている。「特殊任務人員」(資材)を第一線兵団に増加配属(装備)の件達」が唯一の根拠となった。

 あの十中十死の特攻命令が、どこできめられ、いかに編成されたかーそれは特攻の生き残りを含めて、私たちが無限の痛恨を懐きつつ疑問としてきたところだが、つい最近になって私は、陸軍における以上の経緯を最近まとめられた「陸士五七期航空誌」によって知った。

 航空士官学校における私たちの同期生は、同校の課程がようやく仕上り、さらに操縦学校や教導隊にいた昭和十九年秋から翌年春にかけて、特攻戦法の説明と志願の意志を問われている。そのアンケートは「①熱烈志願、②志願、③志願せず」の三段階だった、という。

 個人的回想の中には「熱烈志願はしたくないが、さりとて志願せずも恥ずかしい。それで②とした」という記述もまじるが、右の記録の編集者の総括では、陸士出身者の場合は、多くが①であったろう、としている。関大尉が、海軍兵学校出身者の名において、上官の「相談」を断り切れなかったように、陸軍航空士官学校の名誉が、重く彼らを捉えたであろうということは、私にも容易に想像できる。そしてこの志願の「熱意」の厚簿と実際の「編成」の間には、まったく関連が見られない、という

 一度そのタブーが破られると、日本軍のアメリカ艦隊に対する航空攻撃は、急速にカミカゼを主たるものに変化した。第一線の航空部隊でも、随時、特攻隊を編成、突入を命ずるようになった。そしてそれは沖縄に迫った米艦隊に対するものへと連なっていく。

 たしかに日本軍のパイロットの一般的な伎倆はベテランのあいつぐ損耗によって(海軍ではマリアナ海戦における完敗以後)急速に落ちていた。いたずらに海上に撃墜されるより、未熟なパイロットたちに対しても、名誉ある死処を与えるーという「思想」が、大西中将の発想のなかに含まれていたともされる。

 そして、たしかに特別攻撃隊の効果も現実にはなかったわけではない。レイテ沖に現れた最初のカミカゼの三機のうち二機は護衛空母サンティおよびスワニーの甲板に命中し(二時間後、火災は鎮火)、つづく五機のうち関大尉の一番機は、同じく護衛空母セント・ローに命中、大爆発とともに空母は二つに折れて沈没した。護衛空母カリニン・ベイにも二機が命中、しかし素早い消火活動によって沈没を免れている。

 米軍によるレイテ上陸が行われて間もない十月三十日、大型空母ワスプで健康診断が行われた記録が残っているが、そのほとんど全員がカミカゼ・ノイローゼに陥り、三十名を除いて「過労のため休養を要す」と診断された、という。

 明治以後において日本人の創りあげた「文化」として海外、とりわけ西洋社会に広まったものは、何ひとつなかった。禅、茶道、華道、浮世絵、柔道、その他もろもろの武道ーそれらはすべて江戸期以前の日本人が、歴史の中で創りあげてきた文化であった。とりわけ「倫理」に関する文化としては、岡倉天心の「茶の本」、新渡戸稲造の「武士道」を除いて、何があったと世界にむかって言えるだろうか。現代の日本人は、精神世界における「日本人らしさ」として、何を紡ぎ出しただろうか。

 幸か不幸か、あの戦争中の日本人が、精神世界の出来事として世界を驚かせ、今日なお合理主義からくる一種の軽蔑と、そして同時に古代からの人間存在としてのある種の畏怖とをもって、彼らに語られているのは、カミカゼしかないのである。それは武士道ーサムライの末裔が、民族の興亡に遭遇し、あるいは遭遇したと信じて発揮した自己犠牲の極致であった(その「精神」が、ベトナム戦争におけるベトナムの人びとに伝わったことは、すでに触れた)。

 

2023年11月29日水曜日

20231128 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.169-172より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.169-172より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

こうして、不確定な将来のうちに、少なくとも確かなことが一つある。ここでは国民(という有機体)の生命を問題にしているから(時間の単位が長い。その単位で考えれば)わりあい近い時期に、イギリス系アメリカ人は、彼らだけで北極の氷原と熱帯との間の広大な空間をおおうであろう。大西洋の砂浜から南の海辺までひろがるであろう。イギリス系アメリカ人の人種がひろがっていく地域は、ヨーロッパの四分の三に等しくなると思う。連邦の気候は、全体として、ヨーロッパよりよく、天然の利に多く恵まれている点では同等えある。人口の比率も、その時には、われわれと明らかに均衡するにちがいない。ヨーロッパは数多くの国民に分かれ、絶えず起り来る戦争と中世の暗黒とを経て。今日一平方マイル四一〇人の密度をもつに至っている。

 幾世紀もたてば、アメリカのイギリス人の子孫が種々に分かれて、共通の相貌を示さなくなるであろう。しかし、新世界に諸階層の恒久的な不平等が樹立される時期を予見することはできない。平和か戦争か、自由か圧制か、繁栄か貧困かによって、イギリス系アメリカ人という大家族の種々の末裔がの運命にいかなる相違が生じようと、少なくとも、現在に似た社会状態が維持され、そこから流れ出る慣行と理念とを共有するであろう。

 宗教という絆だけで、中世においてヨーロッパにいた諸種族を同一の文明に結び合わせるに足りた。新世界のイギリス人はその他に数多くの紐帯をもっており、すべての人が人間の平等を求める世紀に生きている。中世は分裂の時代であった。各国民、各地方、各都市は強く個別化する傾向になった。今日、反対の動きが感じられ、諸国民は統一に向かって進むように見える。知的な紐帯は最も遠隔の地方をも結ぶ。人々は、一日たりとも、お互いが見ず知らずではありえないし、世界のどんな片隅に起こる事件も知らずにはいられない。また、今日、ヨーロッパの人々と新世界にいる彼らの子孫との間には、たとえ大洋によって隔てられていようとも、川でした隔てられていなかった十八世紀の都市の間(の相違)よりも差が見られない。この同化の連動が国を異にする人々ろ近づけるとすれば、まして同じ国民の末裔がお互い見ず知らずになることがあろうか。

 ゆえに、北アメリカの人口が一億五千万人を数える日が来、そのすべてが相互に平等で、同一の家族に属するごとく、起点を同じくし、同一の文明、言語、宗教、慣習、習俗をもっているという状態が現出するだろう。またそのとき思想は同一の形式で流布し、同一の色彩に彩られるであろう。他のことはすべて疑わしいとしても、これだけは確実である。そして、これこそ世界の全く新しい事実である。想像をいかにはたらかせても、その意義を把握するlことはできないであろう。

 今日、地(球)上に二大国民があり、出発点を異にしながら、同一の目的に向かって進んでいる。それはロシア人とイギリス系アメリカ人とである。二国民とも知らぬ間に大きくなった。人々の眼がよそにひかれている間に、突如として諸国民の頂きに位し、世界がその生誕と強大さとを知ったのは、ほとんど同時であった。

 他のすべての国民は、自然の定めた限界にほとんど到達し、もはや現状を維持するほかないと見えるが、この両者は成長の途上にある。他のすべては成長がとまるか、力をふりしぼってしか前進できないのに、彼らだけがやすやすと、しかも急速に、その途を進む。この途の限界は誰の眼にもいまだわからないであろう。

 アメリカ人は自然の課した障碍と闘い、ロシア人は人間と争っている。一つは広野と未開と闘い、他はすべての武器を身につけた文明と闘う。また、アメリカ人の征服は働くものの鍬によって行われるが、ロシア人は兵士の剣で征服する。その目的を達するのに、前者は個人利益にもとづく、個人の力と理性とを自由に活動させ、これを統制はしない。後者はすべての権力を、いわば一人に集中する。一つは自由を行為の主要な手段とし、他は隷従をとる。その起点は異なり、とる途は違うが、それでも、おのおの、秘められた天意により、いつの日かその手に世界の半分の運命を握るべく召されているかに見える。

2023年11月28日火曜日

20231127 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈下巻〉」pp.136-140より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈下巻〉」pp.136-140より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204922
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204929

ドイツに侵攻したソ連軍は「占領地帯」に入ると、可動資産、工場設備、線路などを根こそぎ奪い取ろうとしたうえ、東ヨーロッパにある他のドイツ領からも代償(ルーマニアの石油、フィンランドの木材、ポーランドの石炭)を提供するよう要求した。

 たしかに、ソ連は戦線でも軍需生産でもドイツを打ち負かした。だが、それは信じられないほど軍需生産だけに力を注ぎ、他の部門をないがしろにしてきたおかげであった。そのため消費財、小売り商品、農産物などの供給は大幅に低下した(もっとも、食料生産の低下はドイツ軍による掠奪が大きな原因であった)。とどのつまり、1945年のソ連は軍事大国ではあったが、経済的には貧しく、アンバランスだったのである。1945年に武器貸与法が廃止さて、さらにその後の政治情勢が変ってアメリカの資金の流入を排除するようになったため、ソ連は1928年の第一次五カ年計画に立ち返り、自国の資源だけで経済成長を達成しようとしたー当時と同じく、生産財(重工業、石炭、電気、セメント)と輸送に重点をおいて消費財や農業生産を軽視し、また軍事支出は戦時より自然に減少するにまかせる政策をとったのである。その結果、当初は難航したものの、重工業に関するかぎり「ささやかながら奇跡的成長」(M・マコーリー)をとげ、1945年から50年にかけて生産高が倍増した。スターリン政権は、国力の屋台骨を立直さなければならないという使命感に燃えていたので、その本来の目的を遂行するには、あるいは国民の生活水準が革命前より下がったままでも、さしたる抵抗を受けなかったし。ただし、ここで指摘しておきたいのは、1922年以降の経済成長と同じく、この工業生産の「回復」の大半は、戦前の生産高に戻ったにすぎないという点である。ウクライナを例にとると、冶金と電力の生産高が1940年の数字に達したのは1950年前後のことである。重ねていうが、この大戦のせいで、ソ連の経済成長は10年ほど前で止まったままだったのだ。長期的にみてそれより深刻だったのは、必要欠くべからざる農業部門がひきつづき不振だったことである。戦時緊急奨励措置が棚上げになり、投資が全面的に不充分だった(しかも投資先を誤った)ため、農業が沈滞し、食糧生産が落ち込んだのである。スターリンは農家が私有農地の耕作を優先することに、死ぬまで激しい反感をもちつづけた。そのためにソ連の農業はいつまでたっても生産性が低く、効率が非常に悪かった。

 その反面、スターリンは戦後社会の軍事的安全保障を高度に維持することには心をくだいた。経済の立て直しが必要だったとすれば驚くまでもないが、あの巨大な赤軍が1945年以降、三分の一に減った。それでも全部で175個師団を擁し、25000台の戦車と19000機の航空機を保有していた。したがって、世界最大の防衛戦力だったわけであるーそれを正当化していたのが(少なくとも、ソ連の立場からすれば)、将来の侵略者を思いとどまらせる必要であり、もっとあけすけにいえば、極東で手に入れた領土はもちろん、ヨーロッパで新たに獲得した衛星国をも抑えつける必要があるという考えだった。だが、たしかに巨大な軍隊ではあったが、師団の多くは基幹要員だけで構成されており、実質的には駐屯部隊であった。さらに1815年以降の厖大なロシア軍と同じ危機に瀕していたー軍事技術の新たな進歩を目前にして、装備の老朽化が進んでいたことである。これに対抗するため、師団を大幅に編成しなおして近代化を進めるだけでなく、国家の経済資源と科学資源が新兵器の開発に向けられるようになった。1947年から48年にかけては強力なジェット戦闘機ミグ15が配備され、アメリカやイギリスを見習って遠距離航空部隊が創設された。また、捕虜にしたドイツの科学者や技術者を使ってさまざまな誘導ミサイルが開発された。さらに、大戦中から原子爆弾の開発を進められていた。そして、ドイツとの戦いでは補助的な役割しかはたさなかった海軍も、新型重巡洋艦や外洋潜水艦が加わって変貌しつつあった。だが、こうした兵器類の大半は二番煎じのもので、ヨーロッパの基準からすれば高性能とはいえなかった。しかし、ソ連が決意の点で遅れをとっていないことには疑いをはさむ余地がなかった。

 ソ連の力を支えるうえで大きな役割をはたした第三の要因は、スターリンが1930年代後半の国内の秩序維持と絶対服従主義にあらためて重点をおいたことである。これをスターリンのパラノイアが昂じたせいとみるか、独裁を強化するための計算しつくされた動きとみるかーあるいは、その両方があいまった結果とみるかーは、判断の難しいところだった。だが、起った出来事をみれば歴然としている。外国人とつきあいのある者は要注意人物と見なされた。帰還した捕虜は銃殺された。イスラエル国家が建設され、ユダヤ人にとって愛国心の対象ができたために、あらためてユダヤ人排斥の措置がとられるようになった。尊敬を集めていたジューコフ元帥が1946年に陸軍総司令官を解任されるとともに、軍の指導部も規模が縮小された。共産党内部でも規律が強化された。入党も難しくなった。1948年にレニングラードの共産党指導部(スターリンはいつも嫌っていた)が粛清された。文学や芸術ばかりでなく、自然科学、生物学、言語学にいたるまで検閲が厳しくなった。こうした全面的な「絞めつけ」は、当然、前述のように農業の集産化をうながし、冷戦の緊張を高めた。また、自然のなりゆきとして、ソ連の影響が強い東欧諸国でも、同じようにイデオロギーの硬直化と全体主義者による統制が進んだ。対立政党の排除、人民裁判、個人の権利や財産にたいする攻撃などが日常茶飯事となった。こうした国内の状況に加えて、とりわけポーランドと(1948年の)チェコスロヴァキアで民主主義が排斥されたこともまって、ソ連の体制にたいする西側諸国の熱意がどんどん薄らいでいったのである。スターリンが充分に計算したうえでそうした措置をとっていたのかーソ連の指導部は粗雑な論理によって自国民はもとより衛星諸国の国民も西側の思想や富から隔離したいと思っていたーあるいは自らの死を前にしてパラノイアが昂じたせいにすぎないのかは、これまた判断の難しいところである。いずれにせよ「アメリカの支配による平和(パックス・アメリカーナ)」の影響力がまったくおよばないどころか、それに代わる別の道があることを示す広大な地域が存在することになったのである。

 そのソヴィエト帝国の成長は、マッキンダーをはじめとする地政学者の予想を裏づけるものと思われた。すなわち、軍事大国がユーラシア大陸の「中核地域」の資源を支配するようになり、またその国家がさらに「周辺地域」にまで拡大しようとしても、グローバルな勢力の均衡を保とうとする大海洋国家がそれを阻もうとするという予想である。それから二、三年して、アメリカ政府は朝鮮戦争の失敗による動揺もあって、「一つの世界」というかつての理想を完全に捨ててしまった。その代わり、世界を舞台に超大陸が仮借ない戦いを繰り広げるという幻想を抱いた。だが、これはすでに、終戦当時の状況が暗に物語っていたことである。トクヴィルがかつていったように、世界の半分の運命をゆるがす力をもつ国は、アメリカとソ連だけであった。そして、両国ともいわゆる「グローバリズム」という考えにとらわれていた。1946年に、モロトフは「ソ連は世界最強の国の一つである。いまや国際関係をめぐる重大問題はソ連を抜きにしてはなにも決定できない・・・」とまでいったが、これはその前にアメリカがソ連政府を意識してほのめかした言葉にたいするお返しであった。チャーチルとスターリンが東欧諸国をめぐって非公式な協定を結ぶのではないかと思われたとき、アメリカはこういったのである。「この世界戦争では、政治的にも軍事的にも。わが国にとって関心のない問題は文字どおり皆無である」(H・フェイスの引用による)。深刻な利害の衝突は避けられない運命にあったのだ。

2023年11月25日土曜日

20231125 株式会社文藝春秋刊 山本七平著「山本七平ライブラリー11 これからの日本人」 pp.346‐349より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著「山本七平ライブラリー11 これからの日本人」
pp.346‐349より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163647104
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163647104

「キリスト教はイエス・キリストに始まる」は一種の常識だが、「キリスト教はアレクサンドロス大王に始まる」という妙な言葉もあるといえば、驚く人もいるであろう。この言葉は字義どおりには正しくないが、キリスト教の母体となった新約聖書、その新約聖書へと結実した一つの時代の起点をアレクサンドロス大王とその時代に置くことは、むしろ通説といってよい。

 アレクサンドロスの東征とその文化政策はヘレニズム圏を拡大したが、このことは同時に、彼と彼の後継者の広大な支配地における東方文化が、逆にギリシャ語圏に浸透して行くルートを開拓することにもなった。さらに彼の帝国の主要部分がローマの勢力圏にはいると、地中海周辺の全文化圏を統合する広大な「コイネー・ギリシャ語圏」ができ上った。ローマ人はギリシャを征服したが、文化的には逆にギリシャに従属したため、この世界は一つの共通言語で総括できる文化圏になったわけである。コイネーは「共通」の意味、そして新約聖書の言語は基礎をこのコイネー・ギリシャ語に置いており、その基礎を置いたのがアレクサンドロス大王だったわけであるーといっても新約聖書は、各書によって非常に差はあるが、しかしもしこれがアレクサンドロス東征以前の共通語「アラム語」で記されていたら、ローマ圏への浸透は考えにくく、現代のようなキリスト教文化の成立はあり得なかったであろう。当時のローマ圏では新約聖書成立期にもそれ以後にも、著作はギリシャ語で行うのが普通であり、有名なローマ人プルタルコスの記した「英雄伝」もユダヤ人のヨセフスやフィローンの著作も、また初代キリスト教の多くの文書もみなローマ圏の国際語ギリシャ語で書かれ、その結果、広大な全地中海圏への浸透が可能だったわけである。

「七十人訳」の影響

ギリシャ語がイエスの時代にすでに深くパレスチナに浸透していたことは、その弟子に純然たるギリシャ名の者がおり、それを少しも不思議としなかったことでも明らかだが、同時にこのことは逆方向への浸透もすでに始まっていたことを物語っている。新約聖書がギリシャ語圏に浸透する前に、まず旧約聖書が浸透していなければ、旧・新約聖書を一体としてこれを正典としたキリスト教は成立し得ない。従って西欧におけるキリスト教文化の成立の基礎を提供したものは、イエスの生まれる200年以上前になされた旧約聖書のギリシャ語への翻訳であった。ヘブル語から訳されたこの旧約聖書のことを通常「七十人訳聖書」と言い、これまたアレクサンドロス大王に起因する西欧キリスト教文化発生の最も大きな出来事の一つである。

 この聖書が七十人訳と言われるのは、この翻訳がエジプトでプトレマイオス二世(アレクサンドロスの部将であったプトレマイオス・ソーテールの後継者。在位前283―前247年)のとき、王命によりイスラエル十二部族からそれぞれ六名ずつ選ばれた計七十二人の「最高の名声を持つへブル人」によってなされたと記す「アリステアスの手紙」という文書に基づく。だがこれは伝説の集録を基にした権威づけのための創作と思われ、現実には、アレクサンドリアに住むユダヤ人二世、三世のために、相当長期間にわたって徐々に訳されていったものと思われる。そしてこの翻訳が必要だったのは、当時すでに多くのユダヤ人が海外、特にエジプトに移住し、へブル語聖書が読めないユダヤ人二世、三世が生じてきたからであった。というのは、これの翻訳が始まったと思われる前三世紀より三百年も昔、すなわちエルサレムが陥落し、上層の人びとがバビロニアへ強制移住させられた、あの「バビロン捕囚」のときにも、多くのユダヤ人がエジプトの地にのがれたことが記されているからである。それらに関する記述は決して少なくないが、直接的な史料としては、ナイルのエレファンティン島のユダヤ人武装植民者―いわば一種の屯田兵として、川上からのスダン人の侵入を警戒し、同時にその地に植民者として住む―のアラム語の手紙「エレファンティネ・パピリ」が残っている。またある時期のアレクサンドリアは人口の半分以上がユダヤ人であったとも記されている。

 七十人訳は「人類最初の正典の翻訳」と言われ、文化史的には大きな意義をもつが、その目的はいわば「同胞のため」であり、決して他民族への伝道もしくは浸透を目的としたものでなく、またパレスチナでの使用を目的としたものでもなかった。とはいえ、ユダヤ人のローマ圏への移住が進むとともに七十人訳の伝播も広がり、同時にパレスチナの地の一般民衆の通常用語がアラム語になり、へブル語が「敷衍訳的解説つき」でないとわからなくなると、七十人訳が逆に「ギリシャ語化したパレスチナ」にまで影響を与えても不思議ではなかった。新約聖書の旧約聖書からの引用の多くが七十人訳によっていることを、学者は指摘している。
 移住したユダヤ人は会堂(シナゴーグ)を中心に生活していたが、彼らはこれを非ユダヤ人にも開放した。ギリシャ人からの改宗者も少なくなく、その人たちは改宗者として新約聖書にも登場するし、ルカ福音書を記した医者ルカはギリシャ人だと思われる。そしてこの人たちが正典としたのがこの七十人訳であった。いわば旧約聖書は、広いローマ圏のどこでも、そのローマ圏の共通語で読まれ、かつ説かれたわけである。そしてローマの帝政時代には、外来の新宗教へのローマ人、ギリシャ人の改宗は決して珍しくなく、ある時期のローマは、今の日本の新興宗教のようにあらゆる外来宗教が、それぞれ隆盛をきわめ、その中には後にキリスト教と宗教的覇権を争ったミトラス教もある。以上のような状態を背景として、パレスチナからローマ圏内の諸会堂へと巡回して講演・伝道旅行をする師(ラビ)たちも決して少なくなく、これも亦新約聖書に登場するし、イエス時代にはダマスクスの女性の半分がユダヤ教徒になったという記録もある。以上のように西欧への聖書の浸透は長い期間を経て徐々に行われたわけで、七十人訳からテオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教にするまでには、六百年以上の歳月が流れている。

2023年11月24日金曜日

20231123 株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.233‐236より抜粋

株式会社講談社刊 養老孟司・茂木健一郎・東浩紀著「日本の歪み」pp.233‐236より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065314054
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065314050

茂木 核の脅威といえば、キューバ危機(1962年)は覚えていますか。

養老 覚えていますよ。新聞が大きく書いているなっていう。

東 ネットがない時代の感覚ですね。いまならば毎日ニュースが出てSNSが大騒ぎになるはずです。

茂木 米ソの核戦争を描いたキューブリックの映画「博士の異常な愛情」は、翌年の63年に公開されているんですね。やっぱり天才だなあ。あのようなコメディが、日本のお笑いの文化からは全く欠けています。人類の存亡の危機こそを、笑いによってメタ認知しなければならない。そうしないと、いざというときにまともな判断ができません。日本のお笑いは、自分たちで重要なことを判断しなくてもいいと思いこんでいる人たちの文化だとおもうのです。それから時代が流れて、ベトナム戦争はどんな感じだったんですか。

養老 ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)がうるさかったという印象です。

茂木 三島由紀夫の割腹自殺事件(1970年)はどうご覧になりましたか。

養老 司馬遼太郎が、あの演説を見ていた自衛隊の反応に対して、日本の社会は健全と書いていましたが、同じような反応でした。僕も含め、いわゆる普通の人は「変な人だな」くらいに見ていたように思います。あれを大きな問題と捉えて騒いだのはインテリ層だけだったのではないでしょうか。

東 三島由紀夫は日本近代の歪みを正そうとした作家だと言われます。しかし所詮はインテリのあいだのゲームでしかなかったと。

養老 そう思います。だから冷めていた。

茂木 前にも述べたように、僕は生物学的年齢に基づく世代論にはあまり与しませんが、何歳でそれを経験したかというのは大きいと思っていて、三島事件のとき養老さんは33歳で、僕は小学校2年生で8歳でした。東さんは生まれていないですね。

東 僕は71年生まれですから、生まれていません。

養老 三島事件より、むしろ連合赤軍のほうがひしひしと感じました。

茂木 あさま山荘事件が1972年ですね。テレビで立て籠もりの中継を見ていたのを覚えています。鉄球がんがんぶつかっているところを学校から帰ってきて見ていたなあ。養老先生は大学の医学部で教員をされていた頃ですよね。

養老 そうです。行くところまで行ったな、という感じでした。

茂木 テルアビブ空港乱射事件も1972年です。

養老 まだやっているのかという感じでしたが、医学部では教授会に入ってきて机をひっくり返すような赤軍派のやつが現にいましたから、それどころではなかった。

茂木 あの頃はよど号ハイジャック事件(1970年)も三菱重工ビル爆破事件(1974年)もあったし、いまから考えるとすごい時代ですよね。

東 丸の内で爆破事件が起こるなんて、いまではなかなか想像ができない。

養老 この国は暴力手段を持つと絶対にそれをコントロールできないで振り回しますから。今回の防衛費増額の話も大丈夫かよと思います。

茂木 本当にそうですよね。文官が軍人をコントロールできるとは思えない。

東 ウクライナ戦争以降、「平和が大切」と言うとバカ扱いされる空気が出来てしまいました。軍事評論家や国際政治学者の発言がリアリズムがあり、平和などと言うのはオールド左翼だという対決の構図が作られてしまいましたが、本当はいまこそみなで平和について考えるべきですよね。

養老 僕は「平和」ではなく「日常」と言っていますが、いちばん重要なのは日常だということが、この国では昔から通じていない気がします。

2023年11月23日木曜日

20231122 株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置から ー「現代政治の思想と行動」追補ー pp.120‐123より抜粋

株式会社未來社刊 丸山眞男著 『後衛の位置からー「現代政治の思想と行動」追補」ー pp.120‐123より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 462430036X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4624300364

これに関連して戦後に造語され、今日まで流通している「進歩的文化人」という言葉について注釈しておく必要があるのかもしれません。というのは、革命的知識人という言葉は世界中にありますが、「進歩的文化人」という呼称は日本独特だからです。本稿のはじめに「文化人」という範疇の登場にことに触れましたが、「進歩的」という形容詞は「文化人」のなかの小分けを示すものではないのです。その証拠に、「反動的文化人」とか「中道的文化人」という表現は一般に流通しないで、「進歩的文化人」という単一の呼称だけが存在するからです。「進歩的文化人」はもっぱら他称であり、しかも必ず罵倒や嘲笑の調子と結びついております。そこで対象とされているのは、主として護憲運動・反戦平和運動・アメリカ軍の基地問題・被差別部落問題、そうして最近は企業公害問題などで活潑に発言し、歴代の保守党政府を批判する論調を展開している知識人たちです。けれどもそれほどはっきりした特定グループを指示する言葉ではなくて、むしろヨリ大きく、彼等を攻撃する側のイメージの問題のように思われます。ここではただ、そうした「進歩的文化人」なるものへの攻撃ーそれはほとんどステロタイプ化しているのですがーにまつわる皮肉に言及するにとどめます。

 第一に進歩的文化人は、事実上そうであると否とにかかわりなく、社会党・共産党・総評等の現実の政治勢力と結びつき、こうした政府反対勢力をイデオロギー的に支援している者とみなされています。ところが現実の日本は、とくに1955年の保守合同の成立以来、引き続いて保守的(その一部は明確に反動的な)勢力が、政界・実業界・官界、そうして教育界にまで支配的位置を占め、その政治配置はほとんど固定しております。にもかかわらず、進歩的文化人は「時代の支配的潮流」に調子を合せ阿っている、といって告発されてきました。これは現実の政治的社会的な支配勢力が時代に逆行しているのか、そうでなければ、その告発がまったく実状から遊離しているか、どちらかでなければ辻褄の合わぬ論理です。

 第二の皮肉は、進歩的文化人に対する嘲弄が、ほとんどの場合、彼等の民主主義・平和主義についての言説が空虚な観念を弄んでいるだけで、現実を動かすのにまったく無力だということに向けられている点です。滑稽なことは、そうした嘲弄業者ー実際にそれはある種のテレビ番組や新聞雑誌で「職業化」しておりますーは、革新的知識人がヨリ有力になり、ヨリ現実への影響力を増すことを何より恐れているにもかかわらず、まさにその無力性と空虚性をあざけっているのです。それほど「進歩的文化人」に言説が無力なら放置しておいたらよさそうなものなのに、これら批判業者はまるで日本社会にはほかに批判の対象がないかのように、飽きもしないで今日まで「進歩的文化人」の攻撃をつづけております。ですから「進歩的文化人」の側はそうした攻撃をあまり気にせず、むしろ攻撃のヒステリックな激しさ自体が、攻撃者の論拠と反対のことーつまり自分たちが現実の状況になにがしかの影響を与えていることの証拠と受けとってもよいでしょう。

 第三に、「進歩的文化人」への非難は、戦時中は軍部・右翼勢力に迎合し、敗戦後にわかに「民主主義者」に鞍がえした、信用のおけないオポチュニストだというイメージと多かれ少かれ結びついております。もし「悔恨」をいうのなら、彼等の悔恨はにせものであり、自分の時局便乗を隠蔽するジェスチュアだ、ということになります。こういう非難や告発に値する知識人が、社会主義者やリベラルのなかに実際に存在することは、到底否定できません。私がここにも皮肉がある、というのは次の理由なのです。果してそういう思想的一貫性について非難されるに値するのは、いわゆる「進歩的文化人」だけでしょうか。そうでないことは、戦時中の記録を一べつしただけで分ります。戦後アメリカや「自由陣営」を守護神と仰ぐ政治家・実業家はいうに及ばず、反共主義者や保守的知識人のなかには、かつて大東亜共栄圏を祝福し、「鬼畜米英」を呼号した顔触れを見出すのに事欠きません。また現在「進歩的文化人」攻撃の斉唱に和している自称民主社会主義者のなかにも、かつてナチズムの組織力に讃嘆し、アングロサクソン的自由主義から訣別して全体主義への途を歩むのが、世界史的な必然を代表する我我の道程だとーいくらかマルクス主義的口調でー力説した知識人もおります。それなのに、どうして反戦平和運動や護憲運動に熱心な知識人だけが戦中の経歴を暴露されるのでしょうか。この点でも「進歩的文化人」たちは、自分たちへの非難の不正なことをこぼすよりむしろ、「中道的文化人」や「反動的文化人」―現実存在があるのにそういう言葉がないこと自体が象徴的なのですがーの場合よりは、自分たちに、思想的知的な整合性について、ヨリ道徳的に高い基準が適用さてていることを誇って然るべきではないでしょうか。

 イデオロギーの一貫性についての議論は、「一貫性」と「馬鹿の一つ覚え」との間に明瞭なけじめをつけることが困難であるかぎり、不毛な論争に堕しやすい。それよりは敗戦直後の悔恨や自己批判の原点を精神の内部に持続させている人々と、それを見事に忘却して変貌する今日の状況に適応している人々とを区別した方が、知識人の生き方の分岐としては、一層リアルな認識に導くように思われます。もちろん、まったく敗戦経験を持たない純粋に戦後派の知識人の場合は、また別の問題として論ずべき事柄です。