2024年4月13日土曜日

20240412 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp40‐46より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

紀氏の朝鮮出兵
応神天皇の三年ー

 この年、ヤマト国家から百済の辰斯王の無礼を糾弾するため、四人の将軍がつかわされた。その四人は、紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟宿禰で、いずれも武内宿禰の子である。

 将軍たちは、百済の国びとは辰斯王を殺して謝罪したので、枕流王の子、阿花をたてて王とし帰国の途についた(「日本書紀」)。

紀角宿禰(紀臣系の始祖)は、のちに仁徳天皇の四十一年春三月、ふたたび百済に赴いている。このときも、王の一族である酒君の非礼を詰問するためであったが、百済はおそれて鉄の鎖で酒君を縛して差しだした。

紀氏の朝鮮での記録は、まだある。

雄略天皇の九年(四六四)春三月、新羅征伐をくわだてた雄略は、みずから兵をひきいて朝鮮に渡ろうとしたが、神の告げによって断念した。そのかわり紀角宿禰の孫にあたる紀小弓宿禰をはじめ、小弓の子の小鹿火宿禰や蘇我韓子宿禰、大伴談連の四人を大将軍に任じ新羅征討を命じている。

 これを命じられたときの小弓の返辞が、ひどく人間くさくておもしろい。小弓は大伴室屋大連を介して天皇に、

〈臣は敬みて勅をうけたまわります〉

そういっておいてから小弓は「ただし」と声をかさねている。

〈ただし今、ヤツガレが婦みまかり(死)たるときである。能く臣を視養う者なし、公、ねがわくばこのことをもて具に天皇に陳せ〉

小弓の訴えを耳にした天皇は、

〈天皇、聞し召して悲しび頽歎き給いて〉

と「日本書紀」にあるから、天皇も小弓の心境に大いに同情したらしい。吉備上道采女大海を小弓に与えたという。

 さて、話を新羅征伐のうえにもどすと、天皇から采女の大海をたまわった小弓は、喜色をみなぎらせて海を越え、各地で新羅軍と戦いこれを撃破し、ついに喙の国(大邱付近)を平定させた。

 が、なおも服従しないで抵抗する地域がある。小弓はこれを掃滅すべく攻撃した。ところがこの地方の新羅軍は頑強で、手ひどく反撃した。

激戦になった。

 この烈しい戦闘で討伐軍は、大伴談連と紀崗前来目連(和歌山市岡崎)の二将軍を失っている。

 乱戦のさなかで、あるじの大伴談連の姿を見失った従者、大伴津麻呂が戦場をたずねまわっていると、誰かが大伴談連の戦死を告げた。倒れている主の屍をみた津麻呂は、大地を踏みつけて叫びをあげた。

「主、すでに死にたり、なにをもって独り全けらむや」

そういうと津麻呂は、敵軍のなかへ突撃して死んでしまった。

討伐軍の悲運はそれだけではない。

大将軍の小弓が、にわかに病いを発して陣中で没したのである。

雄略天皇の九年、夏五月。

陣没した小弓にかわって、子の紀大磐宿禰が新羅に渡ってきた。

大磐は武将らしい剽悍さを泛べて、鷲のような鋭い目をしていた。大磐は、小鹿火(大磐とは異母兄弟)が今まで掌握していた兵馬、船官といった小官を自分の思いのままに動かした。

 異母兄弟でありながら大磐と小鹿火は、ふだんから仲がよくなかった。まして大磐に兵馬軍船の指揮権を奪われて小鹿火は憤懣やるからない。肚裡にふかく恨みを抱いていた。小鹿火は同僚の将軍、蘇我韓子宿禰に大磐のことを中傷した。

「気をつけろよ。大磐がおまえの兵馬をとりあげるといっていたぞ」

そんなある日

百済の王から将軍たりに招きがあった。大磐をはじめ諸将たちは馬首をならべて出かけていった。途中に河がある。

大磐はその河のほとりで馬からおり、水を飲ませた。そのとき、韓子の胸中に殺意が湧いた。韓子は大磐の背後から矢を放った。が、狙いははずれた。韓子の矢は大磐の馬の鞍瓦の後橋に突き刺さった。

 おどろいて振り返った大磐は、弓をとるより迅く韓子を射殺した。

 このような将軍間の内紛に、新羅討伐軍は動揺した。大磐をおそれた小鹿火は、父の小弓の喪に服するという口実をもうけて帰国し、大伴大連を介して、

「やつがれ、紀卿(大磐)と共に天朝に仕えたてまつることに堪えず」

と奏上し、角国(周防国都農郡)にひっこんでしまった。

神聖王、紀大磐

 しかし、紀一族の朝鮮半島への進出はまだつづいている。

紀大磐宿禰である。

ときに、顕宗天皇の三年(四八七)。この年、紀大磐宿禰の率いる軍団が、ふたたび海を越えて任那日本府に着いた。

 大磐は日本を離れたときに、心にきめていた。韓子を射殺したあの事件いらい、大磐は人を信じるのが恐ろしくなっていた。欝々とした日がつづいていた。いっそ、日本を捨ててやろう。そして、武人としての力のかぎりを異境の修羅にぶちこんでやろう。大磐はそう思っていた。

『日本書紀』によれば‘‘大磐の軍団は任那を跨よりて高麗に行き・・・とある。アトゴエとは跨ぐことで、任那から高麗の地を股にかけて・・ということなのであろう。そして大磐は宣言した。

〈三韓(百済、新羅、任那)の王たらんとし、官府をととのえ、みずから神聖と称り・・〉

というのだ。壮大な野望である。 

 そしてそのコトバのように神聖王(紀大磐)の指揮する軍団は、百済のチャクマニゲを爾林(高麗の地)に討ち殺し、帯山城を築いて百済軍の粮道を断つために、街道を遮り、港をおさえた。

 狼狽した百済王は、将軍コニゲ、ナイトウマクコゲらに軍兵を与え、帯山城に総攻撃をかけた。が、惨憺たる結果であった。大磐の軍は、一をもって百にあたるといわれたくらい勇猛で、百済王の軍兵はたちまち撃ち破られて四散する。

ーだが、神聖王、紀大磐宿禰の足跡がわかっているのはこの頃までで、それ以後の消息はない。

『日本書紀』では、大磐は任那から帰った(日本へ)と記されているが、飯田武郷の『日本書紀通訳』(七十巻本)ではそれらに反論して‘‘朝廷にてはこの(大磐の)謀をしろしめし給わずや、いと不審‘‘と述べている。

 当然であろう、紀大磐宿禰はヤマト政権に一種の叛をくわだてたのである。それが日本に帰ろう筈はない。

とすれば、大磐はいったい何処へ消えてしまったのか、すべてがナゾである。もちろん、このとき以後の大磐の日本での記録はない。

 ただ、この時から更にくだった欽明天皇の頃の百済国の歴史書『百済本記』によると、〈紀臣の奈卒(百済の官位)彌麻沙〉という人物がいたという。この彌麻沙のことを、〈けだしこれ紀臣、韓の女をめとりて生ませたり。よりて百済にとどまりて奈卒となれる者なり。未だその父(の名)を詳らかにせず〉と記している。

 もし、大磐の行方に推測の橋を架けるとするならば、この彌麻沙の父に繋いでみたいものである。 

 もちろん、これとても単なる推測にすぎない。それはあたっていないかもしれない。けれど反面、あたっていないといえる資料もまたないのだ。



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