中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」
pp.226-228より抜粋
ISBN-10 : 4121600274
ISBN-13 : 978-4121600271
東洋の絵画は、紙或いは絹という光沢のある滑らかな書写材料の発明により、早く壁画から脱却して机上の鑑賞物となり得たが、西洋においては長く後世まで壁画的用途から抜け出すことが出来なかった。そのために油絵具のように強い色彩で比較的大きな絵を描かなければならなかったのである。幸いルネッサンス以来の力強い科学文明が背景となって、芸術を推進したから、道具に圧倒されない独自の境地を保ちながら、絵画芸術が以後引続いて発展して来た。これに反し、東洋画はあまりに早く適当な書写材料を入手し得たために、むしろ緻密な小品画に傾いて、大作といってもせいぜい襖絵か屏風の程度に止まったのは遺憾なことであった。しかしながらそういう枠の中においてはまた独特の発達を遂げたことも見のがしてはなるまい。殊に画巻、絵巻物の発達はヨーロッパにおいては遂に見るを得なかった特殊なものである。
西洋画を見るには西洋画を見る見方があるように、東洋画にはまた東洋画に対する見方がある。例えば東洋画の山水には遠近法がないという非難は屡々聞くところであるが、実はやはり一種の遠近法がある。西洋画の遠近法は全景が例えばカメラの暗箱の中に映るように、焦点を固定したまま、無限大の距離から眺めた遠近法に従っている。ところがわれわれは突然に肉眼をもって焦点を移動させながら見るのである。画巻を捲く際に特によくこのことが分かるので、われわれは目を活動写真機械のように絶えず前方へ移動させてゆかねばならない。掛軸は多く縦に長いので、この場合はわれわれは飛行機に乗って景色を俯瞰するように、焦点を連続的に前方へ推進するのである。だから遠方の山や人物が近景のそれと殆ど変わらなくても別に差支えない。ただ遠景も近景も同一画面に写されているから、心持それを小さく描けばそれで十分な場合もあり、逆に遠方を片側ずつ見た二つの面としてそれを合わせれば、遠くへ行くほど幅が広がる場合もあり得ることになる。山水を観る人ならば自ら画中の人となって、小径を伝わって麓から峰まで、悠々風景を鑑賞しながら彷徨して行かなければならないのです。東洋画の山水はいわば一種の立体的遠近法によって描かれているのである。
東洋画に西洋画のような戦争画や裸体画が発達しなかったのは確かに手落ちであるが、一方、山水画が他の世界に魁て発達した点は誇るに足るものがある。東洋においても山水は元来人物の背景として出現したのであるが、そこから山水だけが独立して単独に賞玩されるようになることは、一般文化がある水準に達して初めて起る現象である。
唐代の山水にはなお宮殿楼閣の付属物としての意味が多かったと思われるが、王維の綱川雪景図は純然たる山水画であり、それが宋以後になってむしろ絵画の主流を形成することになった。
人事を離れた自然そのものの面白さを発見して、絵の題材とするのは、人類が作為的な人事現象に深い反省を加えてから後に初めて行われるものである。西洋においても風景画は、宗教画や人物画をあらゆる角度から見つくした揚句に現れ始め、それが一般化されたのは、東洋と直接交通を開いた十七世紀のオランダにおいてである。
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